アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
先日、2014年11月16日(日)のネリ神父様霊的講話でお話しされていた、シュナイダー司教様のインタビューの日本語訳を作って下さった方がいらっしゃいます。参考資料として愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。日本からも、このような司教様が現れますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
アタナシウス・シュナイダー補佐司教のインタビュー「ファリザイ人たちへの反論」
Against Pharisees
ファリザイ人たちへの反論 二〇一四年十一月五日
教会と世界は天主の掟と天主のご意志の完全な真理、結婚に関するキリストのみことばの完全な真理の、勇敢かつ率直な証人たちを緊急に必要としている。現代のファリザイ人的、律法学士的聖職者たち、つまり、性の平等思想と同棲という新異教的偶像に、ひとふりの香を撒く司教たち及び枢機卿たちは、キリストを信じる人々も、キリストのために人生を捧げようとする人々のどちらも納得させるつもりはないのだ──カザフスタンのアスタナにある、セントメリー大司教区のアタナシウス・シュナイダー補佐司教は、Izabella Parowiczのインタビューに対しこう述べた。
司教様、今回のシノドに関するあなたのご意見はどんなものでしょうか? 家庭を持つ人々に対するメッセージに対してどう思われますか?
シノドの期間中、一部の聖職者たちの側による明らかな人為的操作の瞬間がいくつもありました。一部の聖職者たちとはシノドの編集と運営組織において、鍵を握る立場にあった人々のことです。中間報告(Relatio post disceptationem 議論後の報告)は、明らかに作成済文書であり、シノドの教父たちが実際に発言したことには何一つ触れられていませんでした。この文書における同性愛、男女間の性と、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」が秘跡にあずかることを認める項目では、急進的な新異教的イデオロギーを示しています。このような異端文書が、教皇の指導のもと、カトリック司教たちの公式会議の文書として現実に公布されたということ、これは、その文書が単に予備的性質を持つにすぎないとしても、教会史上初めてのことです。主義主張が一貫している何人ものシノドの教父たちが、このようなアジェンダ(議題)を決然と拒否したことを天主に感謝し、そして世界中の信者たちの祈りのおかげであると感謝します。このアジェンダは現代の腐敗と異教的主流となっている道徳観を反映しています。異教的道徳観は、世界的な性の平等思想の原則に忠実な政治圧力によって、そしてほぼすべての権力を握っているといっても過言ではない公式マスメディアを通して、世界規模で強いられています。このようなシノドの文書は予備的なものにすぎないとしても恥辱であり、反キリスト教的精神がすでに教会の生命に関する重要な段階に浸透してしまった範囲を示唆しています。この文書は次世代にとって、そして歴史家たちにとって、使徒座の不名誉という汚点となって残ることでしょう。幸いなことに、シノドの教父たちのメッセージはまことのカトリック文書であり、数々の問題のより深い根源について沈黙することなく、家族に関する天主の真理の要点,例えば、罪の現実について述べています。このメッセージは真実の勇気と慰めをカトリック家庭に与えてくれています。一部を引用します。「我々は障害や重篤な病を持つ子どもたち、老齢による衰え、あるいは愛する者の死から生じ得る苦しみの生によって負わされる重荷について思いを致す。我々はこのような試練を、勇気、信仰、そして愛をもって耐え抜く多くの家庭の忠実さを称える。彼らは自らに課せられた重荷としてではなく、肉体の弱さのうちに苦しまれるキリストを眺めつつ、それらを自らに与えられたものとみなす……。夫婦の愛は唯一かつ永続的であり、多くの困難にも関わらず持ちこたえる。これは、あらゆる奇跡の中でも最も美しいものの一つであり、最も一般的なものだ。この愛は、子孫を残し、次世代を育てることで広まっていく。次世代を生み育てるとは、子女の出産のみならず、洗礼による天主の生命という贈り物、要理教育、そして教育をも含む……。質素な家に住むイエズス、マリア、ヨゼフの家庭の存在は、あなたたちの周囲に常に存在している」
道徳問題に関する教会の教えが変化すること(例えば、離婚したのち再婚した信者たちに聖体拝領を許可する、あるいは同性愛の結びつきをいかなる形式であれ承認を与える)を期待していたグループの人々は、最終「報告」の内容に十中八九落胆したことでしょう。とはいえ、一つの危険があるのではないでしょうか? つまり、教会の教えにとって基本的なものである問題に疑問を投げかけ、それについて議論をすること自体、将来に向けて重大な悪用を招き、この教えを転覆させようという似たような試みへとドアを開いているかも知れないという危険ですが。
事実、天主の掟が意味するもの──この場合は第六戒ですが──秘跡による結婚の絶対的不変性、天主の定めた掟が意味するものは、大罪の状態にある人々は聖体拝領が認められないということです。これは、聖パウロが聖霊による照らしを受けて書いたコリント人への第一の手紙の第十一章二十七節から三十節で教えられていることです。これは投票で決められることではありません。ちょうどキリストの天主性が決して投票で決められるものではないようにです。不変的な秘跡的結婚の絆につながれている人が、にも関わらず別の人間と夫婦のように同居しているならば、天主の法によって聖体拝領は認められません。もし聖体拝領を認めるならば、キリスト者の結婚の不変性の否定ということを、教会が悪辣にも合法化するという公式声明になり、同時に、天主の第六戒「なんじ、姦淫するなかれ」を撤回する事になるでしょう。人間の組織には、天主の十戒やキリストのみことば「神がお合わせになったものを離してはならない(マテオ19:6)」を、ほんのわずかでも、あるいは歪めたやり方で無効にする権威や資格はありはしないのです。それが教皇、あるいはエキュメニカル公会議であってもです。教会の教導職が全世紀を通じて現代に至るまで、例えばヨハネ・パウロ二世の「ファミリアリス・コンソルツィオ」で、「カトリック教会のカテキズム」で、そしてベネディクト十六世によって、絶えず変わることなく──変えることはできないので──教えられてきたこの明快な真理にも関わらず、いわゆる「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の聖体拝領を承認するという争点が、シノドにおいて是か否かを問われたのです。この事実そのものが最悪であり、天主のみことばの神的真理に対する聖職者たちの傲慢なふるまいを表しています。天主の真理と天主のみことばを決議にかけるという試みは、教導職の代表者として、善い忠実な家令として(マテオ24:45参照)、天主の遺産を熱烈な心で手渡さなければならない人々にふさわしいふるまいではありません。「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の聖体拝領を認めることで、これらの司教たちは、彼ら自身による独自の新しい聖伝を打ち立て、その結果、天主の掟に違反しています。かつてキリストがファリザイ人と律法学士たちをとがめたと同じことです(マテオ15:3参照)。そして、さらに状況を悪化させているのは、このような司教たちがキリストのみことばに対する不忠実を「司牧上の必要性」「慈悲」「聖霊に心を開く」といった話し合いの手段をもって、正当化しようとしている事実です。その上、彼らは自分たちに反対し、人の手で作り上げられたものではない、厳格で綿密なまことの聖伝を擁護する人々、あるいは聖伝派の人々にレッテル貼りをすると同時に、これらのみことばのまことの意味をグノーシス主義的やり方で貶めることに、なんの恐れもためらいもありません。四世紀、アリウス派の異端が主流を極めていた時、天主のおん子の天主性を擁護する人々は、「非妥協的」だの「聖伝主義者」だのと、同じようにレッテル貼りをされました。聖アタナジオは教皇リベリオに破門すらされてしまい、アタナジオはほとんどが異端的あるいは半異端的であった東方の司教たちと完全な交わりのうちにいないという議論をもって、教皇はこの破門を正当化しました。聖大バジリオはこの状況にあって次のように述べました。「現在、ただ一つの罪だけが厳しく罰せられている。すなわち、教父たちの聖伝を注意深く順守すること、これである。この理由のために、善き人々は追放され、砂漠へと連れて来られた」(Ep. 243)
実際のところ「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の聖体拝領を支援する司教たちは、新たなファリザイ人、新たな律法学士たちです。なぜなら彼らは天主の掟を軽視し、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」が、体と心を使って「姦淫を犯し続ける」(マテオ15:19)という事実に貢献しているからです。なぜなら彼らは外面的には「無傷の」解決策を望み、権力を持つ人々(社会的メディア、世論)の眼に、同じように「無傷に」見えることを望んでいるからです。しかしながら、彼らがいずれキリストの審判の法廷に出廷する時、間違いなく次のようなキリストのみことばが、狼狽する彼らの耳に響くはずです。「なぜ僭越にも私のおきてをのべ、私の契約を口にするのか。私の教えを憎み、私のことばをうしろに投げすてる者……おまえは姦通者と交わっている」(詩編50(49):16~18)
シノドの最終「報告」もまた、残念なことに「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」への聖体拝領の議題に関する票決についてのパラグラフが入っています。たとえ可決のために必要な三分の二票には達しなかったとはいえ、誰の眼にも明らかなほど、現職の司教たちの大多数が「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」への聖体拝領に賛成票を投じたという憂慮すべき、驚愕の事実がなおも残っています。現代のカトリック司教職の霊的資質を、嘆かわしくも反映しています。さらに嘆かわしいことは、過半数の必要な承認を得なかったこのパラグラフは最終報告書に残ってしまい、さらなる議論のために全教区に送付されることでしょう。それは司祭たちと信者たちの間に間違いなく教義的混乱を増大させることにしかならないでしょう。宙ぶらりんの状態のまま、天主の掟とキリストの天主的みことば、そして使徒パウロの言葉は、人間による決定をするグループによって自由に置き換えられるのです。「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の議題を隠し立てすることなく強硬に支援した一枢機卿は、「同性愛の夫婦たち」に関する恥ずべき声明さえも支援しましたが、「最終報告」に満足せず、厚かましくも「コップの中は半分満たされている」と宣言しました。そして似たような言葉として、来年のシノドにはコップの中身が満杯になるよううまくやらなければならないと述べました。この不誠実で不忠実で裏切りの計画を、天主が蹴散らしてくださると私たちは堅く信じなければなりません。キリストはこのような大嵐のただ中で、ご自分の教会である舟の舵取りを間違いなくしてくださいます。私たちは教会のまさしく支配者であり、真理であるお方、私たちの主イエズス・キリストを信じ、信頼しています。
私たちは現在、家族に対する攻撃が最高潮に達したことを経験しています。この攻撃は、人間と人間のアイデンティティに関する科学の領域にすさまじい混乱を同時に起こしています。遺憾なことに、この問題を議論する一方で、聖主の教えに矛盾する意見を表明するメンバーが教会のヒエラルキーに数名存在します。この混乱の犠牲となっている人々の信仰を強め、救霊へと手助けするために、彼らとどう話し合うべきでしょうか?
この史上稀に見る困難な時代に、キリストはこの試練を通して、教会がさらに明るく輝き、味気ない新異教的世界のまことの世の光、地の塩となることができるよう、私たちのカトリック信仰を清めてくださいます。それは、なによりもまず平信者たちの、教会の小さな群れの、現代では「ecclesia docens(教え導く教会、教導教会)」を強めるであろう「ecclesia docta(聴き従う教会、聴従教会)」の忠実で、純粋で、素朴な信仰のおかげです。四世紀に大いなる信仰の危機が起きた時と同じやり方で、福者ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿が次のように述べたようにです。「これは異例の事実ではあるが、この中に教訓が存在する。賢明さでも力強さでもなく、むしろ不透明さと無知、そして脆弱さが教会の現実的な強固な部分を構成する、ということが恐らく許されたのだ。教会自身の口から迫害の言葉が出た時代に、すぐれた福音的教訓を教会に印象づけるためにである。主な教訓は、平信者たちによって異教主義が屈服させられたことである。アタナジオとエジプト人司教たちの指導のもと、そして一部の場所ではその地の司教たち、司祭たちの支援によって、最悪の異端は平信者たちによってはねのけられ、至聖所より根絶させられた……。かの大混乱の時代、聖主の天主性という天主的ドグマが宣言され、強く主張され、維持され、そして(人間的言い方では)保たれた──「Ecclesia docta 教え導く教会」によるよりも遥かに「Ecclesia docens 聴き従う教会」の力によって。平信者たちの肉体は彼らの洗礼の約束に忠実だった一方で、司教たちの肉体はその職務に不忠実だった。かつては教皇が、別の時代には総大司教が、首都大司教が、あるいは別の管区が、さらに別の時代には公会議が、言うべきでない言葉を発し、啓示された真理を覆い隠し、妥協させた。その一方で、アタナジオ、ヒラリオ、ヴェルチェリのエウゼビオの聖職者としての力強さ、そしてその他の偉大な隠遁者たちこそがキリスト者であり、彼らの存在なくしては失敗に終わったかも知れなかった」(四世紀のアリウス派たち、pp 446, 466)
私たちは、市井のカトリック信者たちが、彼らが学んだ公教要理、福音書のキリストの明白なみことば、彼らが自分たちの父親から、そのまた父親から受け継いできた信仰に忠実であれと励まさなければなりません。特に若者たちや結婚した夫婦たちを招いて、結婚と貞潔に関する教会の永続的教えについての勉強会や講話会を組織しなければなりません。貞潔を守る人生がいかに美しいか、キリスト者の結婚と家庭がいかに素晴らしいものか、人生における十字架と犠牲にはいかにすぐれた価値があるかを示さなければなりません。聖人たちの模範や模範的な人々が実際に示してみせたこと、すなわち、彼らも同じ肉欲の試み、同じ異教的世界の敵意や嘲笑を耐え忍んだこと、それにも関わらず、彼らはキリストの恩寵をもって貞潔を守る幸福な人生、キリスト者の結婚や家庭の幸福な人生を歩んだことを、今まで以上に教えなければなりません。信仰、清らかさ、そして完全無欠のカトリックの使徒継承の信仰は、世に打ち克つでしょう(ヨハネの第一の手紙 5:4)。
私たちは、貞潔な心の若者たちのグループ、家族のグループ、結婚の誓いにみずからを忠実に捧げたカトリックの夫婦たちのグループを作り、発展させなければなりません。道徳的にも実質的にも崩壊してしまった家庭や、シングルマザーたちを支援するグループ、祈りと善きアドバイスとともに別居中の夫婦たちを支援するグループ、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」に、例えば、彼らの罪深い状態、天主の掟や秘跡による結婚の神聖さを踏みにじっている罪を天主の恩寵とともに放棄し、謙遜とともに理解させるため、真面目な回心の一歩を歩み出せるよう支援するグループを組織しなければなりません。同性愛的傾向を持つ人々がキリスト教的回心の道、貞潔の人生へと続く幸福ですばらしい道へと入って行くため、また少しずつ彼らの一人一人にあった心理的治療を提案するため、注意深く手助けする人々のグループを作り出さなければなりません。この異教的世界で、今生きている同じ時代の人々に、キリストの教えという解放の善き知らせ(福音)、天主の掟、第六戒でさえも賢明で、すばらしいものであるということを示し、説かなければなりません。「主の律法は完全で、人の魂を慰め、主の証明は真実で、単純な人に知恵を与える。主の定めは正しく、人の心の喜びとなり、主の命は純粋で、人の目を開ける。」(詩編19(18):7~8)
シノドの期間中、ボズナン(Poznań)出身のGądecki大司教及び一部の著名な高位聖職者たちが、教会の永続的教えから逸脱した議論の結果に対する不賛成を表明しました。この混乱のさなかにあって、これは一つの希望──聖主の教えを土台から崩す人々がまさに教会内部に存在するという事実にまったく気づかずにいた聖職者たち、平信者たちの目を覚ますきっかけになるのではないでしょうか?
これは間違いなくボーランドのカトリシズムの名誉です。カトリック司教団の議長、Gądecki大司教様が、結婚と人間の性に関するキリストの真理を明確かつ勇気をもって擁護し、その結果、司教様自身がヨハネ・パウロ二世のまことの霊的息子であることを明らかにしました。George Pell枢機卿はシノドの期間中、リベラルな性についてのアジェンダと、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」に対するいわゆる慈悲的な司牧的支援を「これは氷山の一角に過ぎず、教会内におけるトロイの木馬のごときもの」だと述べて、適切に描写してみせました。
教会内部における事実、聖主の教えの土台を崩す人々が存在し、インターネット、そして一部のカトリック記者たち──自分たちがキリストの宝であると考えるカトリック信仰に降りかかっていることに無関心ではない人々──の働きのおかげで、彼らの存在が明らかな事実であることを全世界に対して目撃させてくれました。一部のカトリック記者たち、インターネットのブロガーたちがキリストの善き兵士としてふるまい、聖主の変わらぬ教えを弱らせる聖職者たちによるこのアジェンダへと注意を引いてくれたことを見て、私は嬉しく思いました。枢機卿たち、司教たち、司祭たち、カトリック家庭の人々、カトリックの若者たちは、みずからにこう言い聞かせなければなりません。「私はこの世界の異教的精神に同調することを拒否する、たとえこの精神が、一部の司教たち、枢機卿たちによって広められている時であってさえも。私は彼らが天主の聖なるおんあわれみと「新しい聖霊降臨」を、人を惑わし、邪悪な方法で利用することを受け入れない。私は性の平等思想、二度目の婚姻、同棲という偶像に、ひとふりの香を撒くことを拒否する、たとえ司教がそうするとしても、私はそうしない。天主の恩寵を武器に、私は人間の性と結婚に関するキリストの完全な真理を裏切るよりも、苦しむことを選ぶ」と。
教師たちではなく、この証人たちが世を納得させるだろうと「エヴァンジェリ・ヌンツィアンディ」でパウロ六世は述べました。教会と世界は天主の掟と天主のご意志の完全な真理、結婚に関するキリストのみことばの完全な真理の、勇敢かつ率直な証人たちを緊急に必要としています。現代のファリザイ人的、律法学士的聖職者たち、つまり、性の平等思想と同棲という新異教的偶像にひとふりの香を撒く司教たち及び枢機卿たちは、キリストを信じる人々も、キリストのために人生を捧げようとする人々のどちらも納得させるつもりはないのです。事実「veritas Domini manet in aeternum(詩編116:2 主の真実は永遠にのこる」であり「イエズス・キリストは昨日も今日も代々に同じ」(ヘブライ人への手紙 13:8)であり、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)のです。この最後のフレーズは、家庭の教皇であった教皇ヨハネ・パウロ二世のお気に入りの聖書の一節でした。この言葉にこう付け加えましょう。「人間の性と結婚に関して啓示され、そして変わることなく受け継がれた天主の真理は、教会の中にいる霊魂たち、外にいる霊魂たちにもまことの自由をもたらすだろう」教会の危機のただ中にあって、聖アウグスチノはその時代の一部の司教たちがまちがったふるまいと教義に関する例を示した時、このような言葉に単純に一致していました。「私たち司教が何者であれ、天主を父に持ち、教会を母に持つあなたは安全である」 (Contra litteras Petiliani III, 9, 10).
+ Athanasius Schneider, Auxiliary Bishop of the Archdiocese of Saint Mary in Astana, Kazakhstan.
カザフスタン、アスタナのセントメリー大司教区補佐司教、+ アタナシウス・シュナイダー
このインタビューは「Polonia Christiana」誌の最新号に掲載された。
●聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!
●ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)
この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。
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사랑하올 형제 자매 여러분,
한국성비오10세회(SSPX)
웹 사이트를 소개합니다.
SSPX KOREA
毎年恒例の聖ピオ十世会公式秋田巡礼にご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。
先日、シュテーリン神父様から日本語の良い公教要理のウェブ・サイトのリンク先を尋ねられましたので、次をご紹介しました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介します。
公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解
ローマ公教要理 【使徒信経の部】
序文 教会における司牧者の必要性と権威および役務について またキリスト教のおもな教義について
信仰と信経について
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます(続き)
第二条 われらの主、イエズス・キリストを信じます
第三条 聖霊によりて宿り、おとめマリアから生まれた
第四条 ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け十字架に付けられ、死んで葬られる
第五条 古聖所 ( Inferi ) に下り、三日目に死者の中から復活された
第六条 天に昇り全能の父なる神の右に座し
第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる
第八条 聖霊を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その2)
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その3)
第十条 罪のゆるし
第十一条 体の復活
愛する兄弟姉妹の皆様、
先日、2014年11月16日(日)のネリ神父様霊的講話でお話しされていた、シュナイダー司教様のインタビューの日本語訳を作って下さった方がいらっしゃいます。参考資料として愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。日本からも、このような司教様が現れますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
アタナシウス・シュナイダー補佐司教のインタビュー「ファリザイ人たちへの反論」
Against Pharisees
ファリザイ人たちへの反論 二〇一四年十一月五日
教会と世界は天主の掟と天主のご意志の完全な真理、結婚に関するキリストのみことばの完全な真理の、勇敢かつ率直な証人たちを緊急に必要としている。現代のファリザイ人的、律法学士的聖職者たち、つまり、性の平等思想と同棲という新異教的偶像に、ひとふりの香を撒く司教たち及び枢機卿たちは、キリストを信じる人々も、キリストのために人生を捧げようとする人々のどちらも納得させるつもりはないのだ──カザフスタンのアスタナにある、セントメリー大司教区のアタナシウス・シュナイダー補佐司教は、Izabella Parowiczのインタビューに対しこう述べた。
司教様、今回のシノドに関するあなたのご意見はどんなものでしょうか? 家庭を持つ人々に対するメッセージに対してどう思われますか?
シノドの期間中、一部の聖職者たちの側による明らかな人為的操作の瞬間がいくつもありました。一部の聖職者たちとはシノドの編集と運営組織において、鍵を握る立場にあった人々のことです。中間報告(Relatio post disceptationem 議論後の報告)は、明らかに作成済文書であり、シノドの教父たちが実際に発言したことには何一つ触れられていませんでした。この文書における同性愛、男女間の性と、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」が秘跡にあずかることを認める項目では、急進的な新異教的イデオロギーを示しています。このような異端文書が、教皇の指導のもと、カトリック司教たちの公式会議の文書として現実に公布されたということ、これは、その文書が単に予備的性質を持つにすぎないとしても、教会史上初めてのことです。主義主張が一貫している何人ものシノドの教父たちが、このようなアジェンダ(議題)を決然と拒否したことを天主に感謝し、そして世界中の信者たちの祈りのおかげであると感謝します。このアジェンダは現代の腐敗と異教的主流となっている道徳観を反映しています。異教的道徳観は、世界的な性の平等思想の原則に忠実な政治圧力によって、そしてほぼすべての権力を握っているといっても過言ではない公式マスメディアを通して、世界規模で強いられています。このようなシノドの文書は予備的なものにすぎないとしても恥辱であり、反キリスト教的精神がすでに教会の生命に関する重要な段階に浸透してしまった範囲を示唆しています。この文書は次世代にとって、そして歴史家たちにとって、使徒座の不名誉という汚点となって残ることでしょう。幸いなことに、シノドの教父たちのメッセージはまことのカトリック文書であり、数々の問題のより深い根源について沈黙することなく、家族に関する天主の真理の要点,例えば、罪の現実について述べています。このメッセージは真実の勇気と慰めをカトリック家庭に与えてくれています。一部を引用します。「我々は障害や重篤な病を持つ子どもたち、老齢による衰え、あるいは愛する者の死から生じ得る苦しみの生によって負わされる重荷について思いを致す。我々はこのような試練を、勇気、信仰、そして愛をもって耐え抜く多くの家庭の忠実さを称える。彼らは自らに課せられた重荷としてではなく、肉体の弱さのうちに苦しまれるキリストを眺めつつ、それらを自らに与えられたものとみなす……。夫婦の愛は唯一かつ永続的であり、多くの困難にも関わらず持ちこたえる。これは、あらゆる奇跡の中でも最も美しいものの一つであり、最も一般的なものだ。この愛は、子孫を残し、次世代を育てることで広まっていく。次世代を生み育てるとは、子女の出産のみならず、洗礼による天主の生命という贈り物、要理教育、そして教育をも含む……。質素な家に住むイエズス、マリア、ヨゼフの家庭の存在は、あなたたちの周囲に常に存在している」
道徳問題に関する教会の教えが変化すること(例えば、離婚したのち再婚した信者たちに聖体拝領を許可する、あるいは同性愛の結びつきをいかなる形式であれ承認を与える)を期待していたグループの人々は、最終「報告」の内容に十中八九落胆したことでしょう。とはいえ、一つの危険があるのではないでしょうか? つまり、教会の教えにとって基本的なものである問題に疑問を投げかけ、それについて議論をすること自体、将来に向けて重大な悪用を招き、この教えを転覆させようという似たような試みへとドアを開いているかも知れないという危険ですが。
事実、天主の掟が意味するもの──この場合は第六戒ですが──秘跡による結婚の絶対的不変性、天主の定めた掟が意味するものは、大罪の状態にある人々は聖体拝領が認められないということです。これは、聖パウロが聖霊による照らしを受けて書いたコリント人への第一の手紙の第十一章二十七節から三十節で教えられていることです。これは投票で決められることではありません。ちょうどキリストの天主性が決して投票で決められるものではないようにです。不変的な秘跡的結婚の絆につながれている人が、にも関わらず別の人間と夫婦のように同居しているならば、天主の法によって聖体拝領は認められません。もし聖体拝領を認めるならば、キリスト者の結婚の不変性の否定ということを、教会が悪辣にも合法化するという公式声明になり、同時に、天主の第六戒「なんじ、姦淫するなかれ」を撤回する事になるでしょう。人間の組織には、天主の十戒やキリストのみことば「神がお合わせになったものを離してはならない(マテオ19:6)」を、ほんのわずかでも、あるいは歪めたやり方で無効にする権威や資格はありはしないのです。それが教皇、あるいはエキュメニカル公会議であってもです。教会の教導職が全世紀を通じて現代に至るまで、例えばヨハネ・パウロ二世の「ファミリアリス・コンソルツィオ」で、「カトリック教会のカテキズム」で、そしてベネディクト十六世によって、絶えず変わることなく──変えることはできないので──教えられてきたこの明快な真理にも関わらず、いわゆる「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の聖体拝領を承認するという争点が、シノドにおいて是か否かを問われたのです。この事実そのものが最悪であり、天主のみことばの神的真理に対する聖職者たちの傲慢なふるまいを表しています。天主の真理と天主のみことばを決議にかけるという試みは、教導職の代表者として、善い忠実な家令として(マテオ24:45参照)、天主の遺産を熱烈な心で手渡さなければならない人々にふさわしいふるまいではありません。「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の聖体拝領を認めることで、これらの司教たちは、彼ら自身による独自の新しい聖伝を打ち立て、その結果、天主の掟に違反しています。かつてキリストがファリザイ人と律法学士たちをとがめたと同じことです(マテオ15:3参照)。そして、さらに状況を悪化させているのは、このような司教たちがキリストのみことばに対する不忠実を「司牧上の必要性」「慈悲」「聖霊に心を開く」といった話し合いの手段をもって、正当化しようとしている事実です。その上、彼らは自分たちに反対し、人の手で作り上げられたものではない、厳格で綿密なまことの聖伝を擁護する人々、あるいは聖伝派の人々にレッテル貼りをすると同時に、これらのみことばのまことの意味をグノーシス主義的やり方で貶めることに、なんの恐れもためらいもありません。四世紀、アリウス派の異端が主流を極めていた時、天主のおん子の天主性を擁護する人々は、「非妥協的」だの「聖伝主義者」だのと、同じようにレッテル貼りをされました。聖アタナジオは教皇リベリオに破門すらされてしまい、アタナジオはほとんどが異端的あるいは半異端的であった東方の司教たちと完全な交わりのうちにいないという議論をもって、教皇はこの破門を正当化しました。聖大バジリオはこの状況にあって次のように述べました。「現在、ただ一つの罪だけが厳しく罰せられている。すなわち、教父たちの聖伝を注意深く順守すること、これである。この理由のために、善き人々は追放され、砂漠へと連れて来られた」(Ep. 243)
実際のところ「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の聖体拝領を支援する司教たちは、新たなファリザイ人、新たな律法学士たちです。なぜなら彼らは天主の掟を軽視し、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」が、体と心を使って「姦淫を犯し続ける」(マテオ15:19)という事実に貢献しているからです。なぜなら彼らは外面的には「無傷の」解決策を望み、権力を持つ人々(社会的メディア、世論)の眼に、同じように「無傷に」見えることを望んでいるからです。しかしながら、彼らがいずれキリストの審判の法廷に出廷する時、間違いなく次のようなキリストのみことばが、狼狽する彼らの耳に響くはずです。「なぜ僭越にも私のおきてをのべ、私の契約を口にするのか。私の教えを憎み、私のことばをうしろに投げすてる者……おまえは姦通者と交わっている」(詩編50(49):16~18)
シノドの最終「報告」もまた、残念なことに「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」への聖体拝領の議題に関する票決についてのパラグラフが入っています。たとえ可決のために必要な三分の二票には達しなかったとはいえ、誰の眼にも明らかなほど、現職の司教たちの大多数が「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」への聖体拝領に賛成票を投じたという憂慮すべき、驚愕の事実がなおも残っています。現代のカトリック司教職の霊的資質を、嘆かわしくも反映しています。さらに嘆かわしいことは、過半数の必要な承認を得なかったこのパラグラフは最終報告書に残ってしまい、さらなる議論のために全教区に送付されることでしょう。それは司祭たちと信者たちの間に間違いなく教義的混乱を増大させることにしかならないでしょう。宙ぶらりんの状態のまま、天主の掟とキリストの天主的みことば、そして使徒パウロの言葉は、人間による決定をするグループによって自由に置き換えられるのです。「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」の議題を隠し立てすることなく強硬に支援した一枢機卿は、「同性愛の夫婦たち」に関する恥ずべき声明さえも支援しましたが、「最終報告」に満足せず、厚かましくも「コップの中は半分満たされている」と宣言しました。そして似たような言葉として、来年のシノドにはコップの中身が満杯になるよううまくやらなければならないと述べました。この不誠実で不忠実で裏切りの計画を、天主が蹴散らしてくださると私たちは堅く信じなければなりません。キリストはこのような大嵐のただ中で、ご自分の教会である舟の舵取りを間違いなくしてくださいます。私たちは教会のまさしく支配者であり、真理であるお方、私たちの主イエズス・キリストを信じ、信頼しています。
私たちは現在、家族に対する攻撃が最高潮に達したことを経験しています。この攻撃は、人間と人間のアイデンティティに関する科学の領域にすさまじい混乱を同時に起こしています。遺憾なことに、この問題を議論する一方で、聖主の教えに矛盾する意見を表明するメンバーが教会のヒエラルキーに数名存在します。この混乱の犠牲となっている人々の信仰を強め、救霊へと手助けするために、彼らとどう話し合うべきでしょうか?
この史上稀に見る困難な時代に、キリストはこの試練を通して、教会がさらに明るく輝き、味気ない新異教的世界のまことの世の光、地の塩となることができるよう、私たちのカトリック信仰を清めてくださいます。それは、なによりもまず平信者たちの、教会の小さな群れの、現代では「ecclesia docens(教え導く教会、教導教会)」を強めるであろう「ecclesia docta(聴き従う教会、聴従教会)」の忠実で、純粋で、素朴な信仰のおかげです。四世紀に大いなる信仰の危機が起きた時と同じやり方で、福者ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿が次のように述べたようにです。「これは異例の事実ではあるが、この中に教訓が存在する。賢明さでも力強さでもなく、むしろ不透明さと無知、そして脆弱さが教会の現実的な強固な部分を構成する、ということが恐らく許されたのだ。教会自身の口から迫害の言葉が出た時代に、すぐれた福音的教訓を教会に印象づけるためにである。主な教訓は、平信者たちによって異教主義が屈服させられたことである。アタナジオとエジプト人司教たちの指導のもと、そして一部の場所ではその地の司教たち、司祭たちの支援によって、最悪の異端は平信者たちによってはねのけられ、至聖所より根絶させられた……。かの大混乱の時代、聖主の天主性という天主的ドグマが宣言され、強く主張され、維持され、そして(人間的言い方では)保たれた──「Ecclesia docta 教え導く教会」によるよりも遥かに「Ecclesia docens 聴き従う教会」の力によって。平信者たちの肉体は彼らの洗礼の約束に忠実だった一方で、司教たちの肉体はその職務に不忠実だった。かつては教皇が、別の時代には総大司教が、首都大司教が、あるいは別の管区が、さらに別の時代には公会議が、言うべきでない言葉を発し、啓示された真理を覆い隠し、妥協させた。その一方で、アタナジオ、ヒラリオ、ヴェルチェリのエウゼビオの聖職者としての力強さ、そしてその他の偉大な隠遁者たちこそがキリスト者であり、彼らの存在なくしては失敗に終わったかも知れなかった」(四世紀のアリウス派たち、pp 446, 466)
私たちは、市井のカトリック信者たちが、彼らが学んだ公教要理、福音書のキリストの明白なみことば、彼らが自分たちの父親から、そのまた父親から受け継いできた信仰に忠実であれと励まさなければなりません。特に若者たちや結婚した夫婦たちを招いて、結婚と貞潔に関する教会の永続的教えについての勉強会や講話会を組織しなければなりません。貞潔を守る人生がいかに美しいか、キリスト者の結婚と家庭がいかに素晴らしいものか、人生における十字架と犠牲にはいかにすぐれた価値があるかを示さなければなりません。聖人たちの模範や模範的な人々が実際に示してみせたこと、すなわち、彼らも同じ肉欲の試み、同じ異教的世界の敵意や嘲笑を耐え忍んだこと、それにも関わらず、彼らはキリストの恩寵をもって貞潔を守る幸福な人生、キリスト者の結婚や家庭の幸福な人生を歩んだことを、今まで以上に教えなければなりません。信仰、清らかさ、そして完全無欠のカトリックの使徒継承の信仰は、世に打ち克つでしょう(ヨハネの第一の手紙 5:4)。
私たちは、貞潔な心の若者たちのグループ、家族のグループ、結婚の誓いにみずからを忠実に捧げたカトリックの夫婦たちのグループを作り、発展させなければなりません。道徳的にも実質的にも崩壊してしまった家庭や、シングルマザーたちを支援するグループ、祈りと善きアドバイスとともに別居中の夫婦たちを支援するグループ、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」に、例えば、彼らの罪深い状態、天主の掟や秘跡による結婚の神聖さを踏みにじっている罪を天主の恩寵とともに放棄し、謙遜とともに理解させるため、真面目な回心の一歩を歩み出せるよう支援するグループを組織しなければなりません。同性愛的傾向を持つ人々がキリスト教的回心の道、貞潔の人生へと続く幸福ですばらしい道へと入って行くため、また少しずつ彼らの一人一人にあった心理的治療を提案するため、注意深く手助けする人々のグループを作り出さなければなりません。この異教的世界で、今生きている同じ時代の人々に、キリストの教えという解放の善き知らせ(福音)、天主の掟、第六戒でさえも賢明で、すばらしいものであるということを示し、説かなければなりません。「主の律法は完全で、人の魂を慰め、主の証明は真実で、単純な人に知恵を与える。主の定めは正しく、人の心の喜びとなり、主の命は純粋で、人の目を開ける。」(詩編19(18):7~8)
シノドの期間中、ボズナン(Poznań)出身のGądecki大司教及び一部の著名な高位聖職者たちが、教会の永続的教えから逸脱した議論の結果に対する不賛成を表明しました。この混乱のさなかにあって、これは一つの希望──聖主の教えを土台から崩す人々がまさに教会内部に存在するという事実にまったく気づかずにいた聖職者たち、平信者たちの目を覚ますきっかけになるのではないでしょうか?
これは間違いなくボーランドのカトリシズムの名誉です。カトリック司教団の議長、Gądecki大司教様が、結婚と人間の性に関するキリストの真理を明確かつ勇気をもって擁護し、その結果、司教様自身がヨハネ・パウロ二世のまことの霊的息子であることを明らかにしました。George Pell枢機卿はシノドの期間中、リベラルな性についてのアジェンダと、「離婚したのち再婚したカトリック信者たち」に対するいわゆる慈悲的な司牧的支援を「これは氷山の一角に過ぎず、教会内におけるトロイの木馬のごときもの」だと述べて、適切に描写してみせました。
教会内部における事実、聖主の教えの土台を崩す人々が存在し、インターネット、そして一部のカトリック記者たち──自分たちがキリストの宝であると考えるカトリック信仰に降りかかっていることに無関心ではない人々──の働きのおかげで、彼らの存在が明らかな事実であることを全世界に対して目撃させてくれました。一部のカトリック記者たち、インターネットのブロガーたちがキリストの善き兵士としてふるまい、聖主の変わらぬ教えを弱らせる聖職者たちによるこのアジェンダへと注意を引いてくれたことを見て、私は嬉しく思いました。枢機卿たち、司教たち、司祭たち、カトリック家庭の人々、カトリックの若者たちは、みずからにこう言い聞かせなければなりません。「私はこの世界の異教的精神に同調することを拒否する、たとえこの精神が、一部の司教たち、枢機卿たちによって広められている時であってさえも。私は彼らが天主の聖なるおんあわれみと「新しい聖霊降臨」を、人を惑わし、邪悪な方法で利用することを受け入れない。私は性の平等思想、二度目の婚姻、同棲という偶像に、ひとふりの香を撒くことを拒否する、たとえ司教がそうするとしても、私はそうしない。天主の恩寵を武器に、私は人間の性と結婚に関するキリストの完全な真理を裏切るよりも、苦しむことを選ぶ」と。
教師たちではなく、この証人たちが世を納得させるだろうと「エヴァンジェリ・ヌンツィアンディ」でパウロ六世は述べました。教会と世界は天主の掟と天主のご意志の完全な真理、結婚に関するキリストのみことばの完全な真理の、勇敢かつ率直な証人たちを緊急に必要としています。現代のファリザイ人的、律法学士的聖職者たち、つまり、性の平等思想と同棲という新異教的偶像にひとふりの香を撒く司教たち及び枢機卿たちは、キリストを信じる人々も、キリストのために人生を捧げようとする人々のどちらも納得させるつもりはないのです。事実「veritas Domini manet in aeternum(詩編116:2 主の真実は永遠にのこる」であり「イエズス・キリストは昨日も今日も代々に同じ」(ヘブライ人への手紙 13:8)であり、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)のです。この最後のフレーズは、家庭の教皇であった教皇ヨハネ・パウロ二世のお気に入りの聖書の一節でした。この言葉にこう付け加えましょう。「人間の性と結婚に関して啓示され、そして変わることなく受け継がれた天主の真理は、教会の中にいる霊魂たち、外にいる霊魂たちにもまことの自由をもたらすだろう」教会の危機のただ中にあって、聖アウグスチノはその時代の一部の司教たちがまちがったふるまいと教義に関する例を示した時、このような言葉に単純に一致していました。「私たち司教が何者であれ、天主を父に持ち、教会を母に持つあなたは安全である」 (Contra litteras Petiliani III, 9, 10).
+ Athanasius Schneider, Auxiliary Bishop of the Archdiocese of Saint Mary in Astana, Kazakhstan.
カザフスタン、アスタナのセントメリー大司教区補佐司教、+ アタナシウス・シュナイダー
このインタビューは「Polonia Christiana」誌の最新号に掲載された。
●聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!
●ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)
この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。
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先日、シュテーリン神父様から日本語の良い公教要理のウェブ・サイトのリンク先を尋ねられましたので、次をご紹介しました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介します。
公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解
ローマ公教要理 【使徒信経の部】
序文 教会における司牧者の必要性と権威および役務について またキリスト教のおもな教義について
信仰と信経について
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます(続き)
第二条 われらの主、イエズス・キリストを信じます
第三条 聖霊によりて宿り、おとめマリアから生まれた
第四条 ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け十字架に付けられ、死んで葬られる
第五条 古聖所 ( Inferi ) に下り、三日目に死者の中から復活された
第六条 天に昇り全能の父なる神の右に座し
第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる
第八条 聖霊を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その2)
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その3)
第十条 罪のゆるし
第十一条 体の復活