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ピオ十一世回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス」(2)無神的共産主義について Divini Redemptoris

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

ピオ十一世回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス」-無神的共産主義について-
カトリック社会文化研究所監修 岳野慶作訳

第五章教会の社会的事業における主務者と補助者

60. 余が大綱を述べた世界的な救済の事業、および、余が手短に指示した救治策の実施のために、天主にてまします主イエズス・キリストによって任命された主務者、福音的働き手は、まず第一に司祭である。司祭は、その特別な召命により、教階制度の指導のもとに、地上におけるキリストの代理者に子心の従順によって一致しながら、世界に信仰の灯をかかげ、信徒に超自然的信頼を注入する使命を受けている。教会は、この超自然的信頼をもって、キリストの名のもとに、いくたの戦いを行なって、勝利を占めた。「世を屈服させた勝利、それは、われわれの信仰である」(ヨハネ5・4)。

61. とくに、余は、司祭たちに、余の先任者レオ十三世がしばしばくりかえした「労働者のもとに行け」という激励を想い出していただきたい。余もまた、この激励を余のものとなし、これを補って、「労働者のもとに行け。とくに貧しい労働者のもとに行け。一般的に言って、貧者のもとに行け」と言いたい。しかも、これは、イエズスとその教会との教えにもとづくのである。事実、貧者は、動乱の扇動者のわなに一番かかりやすい。なぜなら、扇動者は、貧者のみじめな境遇を利用して、かれらに富者に対する嫉妬をたたきつけ、財産によって不当にも拒絶されているように思われるものを暴力によって奪うよう刺激するからである。もしも、司祭たちが、労働者のもとにおもむいて、誤った考えや誤った理論を警戒させ、あるいは、かれらの誤りを是正しないならば、かれらは、共産主義の宣伝着たちの好餌となるにちがいない。

62. 余は、この点に関し、とくに、回勅『レールム・ノヴァルム』、『クァドラゼジモ・アンノ』が発布されてから、大きな努力が払われたことを認め、父としての喜びのうちに、多くの司教司祭のたゆまない熱誠に対して、敬意を表さずにはいられない。かれらは、絶えず適当な用心を守りながら、現代の要請にもっと適した新しい使徒的活動の方法を発見し、こころみている。しかし、現下の需要からすれば、それだけではまだあまりに不十分である。祖国が危険に頻するときは、共同の防衛にとって厳密に不可欠なもの、あるいは、直接関連していないものは、後回しにされる。そのように、現在の場合、信仰とキリスト教的文明との土台そのものを救うという生死にかかわる一大事をひかえているのであるから、その他の事業は、どんなに立派であり、どんなに善良であっても、後回しにしなければならない。であるから、司祭たちは、それぞれの小教区において(いうまでもなく信徒に対する通常の配慮を怠ってはならないが)、かれらの力と活動との最良の部分を、勤労大衆をキリストと教会とに復帰させ、キリスト教精神をもっとも縁遠い環境にも浸透させるために、保留しなければならない。人民大衆は、かれらの開拓者としての苦労に、共鳴と予想外の結果とをもってむくいるにちがいない。これは、余が、ローマと他の多くの都市において目撃したところである。これらの都市においては、郊外の町々に新しい教会を立てるとすぐ、熱誠にみちた小教区の共同体ができあがり、宗教をよく知らないためにこれに対して敵意をもっていた民衆のあいだに、奇跡的改宗が行なわれているのである。

63. しかしながら、貧しい人々や卑賎な人々に対する使徒職のもっとも効果的な手段は、余が、回勅『アド・カトリチ・サチェルドチイ』(一九三五年十二月二十日発布)のなかで描写したような司祭的諸善徳の手本である。現在の場合、とくに必要なのは、天主にてまします聖主の御生活の忠実な写しである謙遜・清貧・無私無欲の生活のかがやかしい手本である。聖主は天主的な率直さをもって、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には頭をやすめるところがない」と宣言することができた。真に福音的に貧しく無私無欲な司祭は、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ、アルスの主任司祭、コットレンゴ、ドン・ボスコ、その他多くの聖者のように、人民のあいだに、善の奇跡を行なうことができる。これに反して、金銭を愛し、私欲にくらまされている司祭は、余が上記の回勅において述べたように、たとえユダのように裏切りの深淵に身を投げないまでも、少なくとも、空しく「鳴る鐘」、無益に「ひびくにょうはち」のようになるにちがいなく、人民にとって恩恵の手段となるよりは、むしろ、善の障碍となることがあまりにも多いのである。在俗司祭あるいは修道司祭のうち、役目上、現世的財産を管理しなければならない者は、愛と正義との命ずるところを忠実に守らなければならないばかりでなく、その上、特別に、貧者の真の父として行動しなければならないことを記憶すべきである。

第一節 カトリック・アクション
64. 聖職者に対して以上のように訴えたのち、余は、余が深く心にかけている「カトリック・アクション」の隊列に加わって戦うきわめて親愛な子供である信徒たちにむかって、慈父的な招請を発したい。余は、別の機会に(一九三六年五月十二日)この「カトリック・アクション」を、きわめて困難な情況のもとにおける教会の事業に対する「特別に摂理的な援助」と呼んだ。実際、カトリック・アクションは、イエズス・キリストのみ国を、個人の間にだけではなく、家族と社会との間にもひろめることを目ざすものであるから、立派な社会的使徒職である。それゆえ、カトリック・アクションは、まず、その成員を養成して、かれらを聖主の聖なる戦いにそなえるために、特別な配慮を注がなければならない。この養成の仕事は、直接かつ有効な活動に必要な予備となるべきもので、いつになく急を要するものであるが、諸種の研究会、社会週間、系統立った講義、その他、社会問題のキリスト教的解決を知らせるために適した右に類する企てなどは、これに役立つにちがいない。

65. このように準備され、訓練された「カトリック・アクション」の闘士たちは、すぐさま同輩である労働者の最初の使徒となり、司祭の補助者となって、聖職者に対する根深い偏見、あるいは宗教に対するなげかわしい不感症におちいって天主の代務者の活動を受けいれなくなっている無数の地帯に、真理の光明をもたらし、物心両面の困苦をやわらげることができるにちがいない。こうして、特別に経験のある司祭たちの指導のもとに、労働階級に対する宗教的援助に協力することができるであろう。この労働階級に対する宗教的援助は、余が深く心にかけているものである。なぜなら、これらの親愛な子供たちが、共産主義のわなにおちいるのを防止する手段だからである。

66. この個人的使徒職は、多くの場合、人目に立たないけれども、この上もなく有益であり、有効である。しかしながら、このほかに、言論やペンをもって、キリスト教的社会秩序の建設に役立つ基本的諸原理を、教皇文献に準拠して広く流布することもまた、カトリック・アクションの役割である。

第二節 補助組織
67. カトリック・アクションの周辺には、余が以前にその補助機関として敬意を表した組織が並んでいる。これらのきわめて有益な組織にもまた、余は、父として、余が述べた偉大な事業、今日、その死活にかかわる重大性から見て、他のすべての事業より先にすべき事業に献身するよう要請する。

第三節 職能組織
68. 余はまた、労働者、農民、技師、医師、経営者、学生などの職能組織、および、同じ文化的状件のもとに生活し、自然によって結合させられている男女のつくる同類の組織に想いをはせる。社会のなかに余が回勅『クァドラゼジモ・アンノ』のなかで目ざした秩序をみちびき入れ、文化と労働との種々の領域に、キリストの王権を認めさせる任務をおびているのは、まさに、これらの団体および組織である。
69. かりに、社会経済生活に新事態が生じたため、国家が特別な立法措置によって、右に述べた諸組織を(自由と個人的発意とに対する尊重をそこなうことなく)援助し統制するまでにこれに干渉する義務があると信じた場合にも、「カトリック・アクション」は、現実に対して無関心であってはならない。むしろ、新しい問題をカトリック教義の光明にてらして研究し、賢明に思想的な貢献をなすとともに、新しい形態と制度とに対する会員の誠実で献身的な参加により、活動面においても貢献しなければならない。カトリック・アクションの成員は、いつも秩序と兄弟的な相互協力との原理であるキリスト教的精神をかたむけて、これにあたるべきである。

第四節 カトリック労働者に訴う
70. ここで、余は、親愛な青年カトリック労働者と壮年カトリック労働者とに対し、父として、特別な言葉を送りたい。かれらは、たしかに、現在のきわめて困難な時期において、時には英雄的に忠実を守ったむくいとして、きわめて高尚な、しかしまた、きわめて困難な使命を授けられている。かれらは、その司教司祭の指導のもとに、兄弟である同輩の労働者の巨大な群衆を、天主と教会のもとに連れもどさなければならない。しかもこれらの労働者は、理解されず、また当然受くべき尊敬を受けないのを見て、憤激のあまり天主から遠ざかったのである。カトリック労働者は、その手本、その言葉によって、迷えるその兄弟たちに、教会は労苦するすべての人々に対して慈愛ふかい母であり、その子供たちを防衛するという母としての神聖な義務に、決して背いたことがなかったし、今後も背くことがないにちがいないことを理解させなければならない。かれらは、この使命は、鉱山、工場、造船所、その他労働の行なわれているところではどこでも遂行されなければならないのであるが、ときどき大きな自己放棄を必要とするかもしれない。そのようなときは、世の救い主が、われわれに、労働の手本だけではなく、犠牲の手本をも示したもうたことを思いおこすべきである。

第五節 カトリック者間の一致協力
71. 最後に、余は、あらゆる階級、あらゆる国家が、教会内のあらゆる宗教団体と一般信徒団体とに対し、あらためて、一致協力を強く要請したい。余は、しばしば、かれらの諸階級のあいだに生じた不和を見て、慨嘆せざるをえなかった。これらの不和は、その原因から見れば、しばしばつまらないことであるが、その結果から見れば、いつも悲劇的である。なぜなら同一の母なる教会の子供たちの間に紛争をおこすからである。しかも、そうなると、混乱の扇動者たちは、その数からいえばさほどでもないのに、これらの不和を利用して、激情をあおり、カトリック同士を敵対させるのである。最近数ヶ月間の事件を思うならば、余の警告は無用にさえ思われるのである。しかしながら、余は、理解しなかった人々、あるいは理解しようとしなかった人々のために、もういちど繰りかえしたい。カトリック者の間に不和を増すよう策動する者は、天主と教会との前におそるべき責任を負うのである。

第六節 天主を信ずるすべての人に訴う
72. 暗黒の勢力が天主の観念それ自体に対して宣したこの戦いにおいて、余は、キリストのみ名をいただくことを光栄としている人々だけではなく、今日もなお天主を信じ天主を礼拝するすべての人々(かれらの数は世界的に見て圧倒的に多数である)が、勇敢に戦うことを希望する。それゆえ、余は、五年前、回勅『カリターテ・クリスティ』(Caritate Christi,一九三二年五月三日発布)のなかに発した招請をあらたにし、すべての信仰者が、誠実と勇気とをもって、「人類をおびやかす重大な危険からこれを防護する」よう尽力することを願うものである。なぜなら、その折述べたように、「天主に対する信仰は、地上におけるすべての社会的秩序とすべての責任とのゆるぐことのない土台であって、無政府主義と恐怖政治とを欲しない者はみな、宗教の敵たちによって公然と声明されている計画の実施を阻止するよう、強力に努力しなければならないからである」(Caritate Christi;聖座公報(A.A.S) Vol.XXIV, 1932, p.184)。

第七節 キリスト教国家の義務
73. <教会を助けよ>教会が、キリストに委託された使命の結果として引き受けている理論上、ならびに実際上の積極的任務は、キリスト教的社会を建設することであり、その上、現代においては、共産主義の努力と戦って、これを粉砕することである。そのため、余は、社会のあらゆる階級に訴えるのである。キリスト教国家は、独自の手段を依って教会の任務を助けることにより、教会のこの霊的事業に、積極的に協力しなければならない。いうまでもなく、それは外的な手段によるのである。しかし、これらの手段の目ざすところは、主として霊魂の善である。

74. それゆえ、国家は、秩序の基礎をことごとくくつがえす無神主義の宣伝が、その領土を荒らすのを全力をあげて防止しなければならない。なぜなら、天主の権威が否認されるならば、地上に権威はありえないにちがいないし、誓約は、生ける天主のみ名によって行なわなければ、空文化するにちがいないからである。余は、しばしば、とくに回勅『カリターテ・クリスティ』のなかで、口をきわめて力説したことを繰りかえしたい。「良心の保証が全く欠けている場合、どうして誓約が役に立ち、条約が価値を有しうるであろうか。また、天主に対する信仰、天主に対する恐れが全く消え去ったところに、どうして、良心の保証が考えられるであろうか。この土台が除去されるときは、道徳律全体は、それと一緒にくずれ去るのである。そして、どのような救治策をもってしても、民族、家族、国家、文明それ自体の滅亡が、徐々に、しかも間違いなくおこるのを阻止することができないのである」(CaritateCristi,一九三二年五月三日)。

75. <共同善の達成をはかれ>その上、国家は、社会の秩序が存続するために必要な物質的生活条件をつくり、とくに家族の父と若い人々とに仕事を提供するために、なにものもおろそかにしてはならない。そのためには、所有者の階級が、共同善の緊急な要求にかんがみ、人類社会とかれらの階級自体とが救われるために、どうしても必要な負担を引き受けるよう仕向けなければならない。しかしながら、この線にそって国家が講じる措置は、巨大な資本を掌中におさめて絶えず増大させ、他人をそこなってかえりみない人々を、実際にとらえるものでなければならない。

慎重に賢明に統治せよ

76. 国家自体は、天主と社会とに対する責任を考え、他のすべての人々に、慎重かつ賢明な統治の手本を示さなければならない。今日は、きわめて重大な世界的危機に見まわれていて、いつの時代よりも、幾百万の市民の労働と汗との果実である巨大な資本を所有している人々が、もっぱら共同善を眼前にうかべ、できるかぎりこれを促進するよう努力することを要求している。同時に、国家の官吏と職員とは、良心の要求するところにしたがい、その義務を忠実に、自己の利害を超越して果たさなければならない。かれらは、この点につき、祖国の善のためにたゆむことなく労苦し、一身を犠牲にした過去・現在の著名な人物のかがやかしい手本を模倣しなければならない。最後に、諸民族間の関係において、不信と憎悪との結果である故意に仕組んだ経済生活の妨害を除去するよう、極力努めなければならない。そして、地上の諸民族は、天主の唯一の家族を形づくっていることを思わなければならない。

77. <教会に自由を与えよ>しかしながら、これと同時に、国家は、教会が現在の恐るべき難局から諸民族を救うことに強力に貢献するため、その神聖で全く霊的な使命を全うすることができるように、完全な自由をこれに与えなければならない。今日、あらゆる方面から、倫理的な力、精神的な力に対する苦悩にみちた要請がわきおこっている。そして、それは、きわめてもっともなことである。なぜなら、克服しなければならない悪はなにかと言えば、その第一の源をただすならば、精神的性質をそなえた悪であり、この有毒な源から、共産主義のあらゆる悪虐が、地獄的な論理にしたがって発しているからである。さて、この倫理的、精神的力のなかで、カトリック教会は、疑いもなく特別な地位をしめている。それゆえ、人類の善そのものから見ても、カトリック教会の活動を妨害してはならないのである。

78. これを無視し、ただ経済や政治の手段だけによって目的を達成しようと考えるのは、危険な誤りの犠牲になることにほかならない。学校、教育、公共の生活などから宗教を除外し、教会の代表者と神聖な典礼とを嘲笑させるときは、唯物主義とその実である共産主義とを助成することになりはしないだろうか。この世の善の過度な尊重のなかにその根をおろしている運動は、どんなに立派に組織された力、どんなに偉大で高尚な地上的理想をもってしても、制御することができないのである。

79. 諸国民の運命をその手にゆだねられた人々が、今日諸民族をおびやかしている絶大な危険を少しでも感じるならば、教会がその使命を遂行するのを妨害しないようにしなければならないという重要な義務を、もっとよく意識するにちがいない。しかも、教会は、その使命を果たすことにより、人間の永遠の幸福を目ざしながらも、それと同時に、人間の真の地上的幸福のためにも尽力するのである。

第八節 迷える者に対するいさめ

80. 余は、この回勅を終わるにあたって、すでに共産主義の害毒に感染した者、あるいは、感染しかけている者に対して、一言申し上げたい。余は、かれらに、かれらを愛する父の声を聞くよう切にすすめる。そして余は、聖主がかれらを照らして、かれらみなを果てしないわざわいに引きずりこむあぶない道を去らせ、かれらにも、聖主イエズス・キリストこそ唯一の救い主にてましますことを認めさせたもうよう祈る。「なぜなら、人間が救いを期待することができるようにかれらに与えられた名は、天下に、このみ名以外にはないからである」(使徒行録4・12)。

第九節 われらの手本であり守護者である聖ヨゼフ

81. 余はすべての人が切望している平和、「キリストのみ国におけるキリストの平和」(回勅『ウビ・アルカノ・デイ』の主題)を促進するために、無神的・世界的な共産主義に対するカトリック教会の大活動を、教会の有力なる守護者聖ヨゼフの保護にゆだねる。聖ヨゼフは、労働階級にぞくしていた。聖人自身も、聖人がかしらとして配慮と愛とを注いだその家族も、貧しさがどんなものであるかをつぶさに体験した。聖人は、ヘロデがその刺客を放って天主の御子を狙ったとき、これを守りたてまつった。聖人は、毎日の義務を絶対的に忠実に果たしながら一生を送って、肉体労働によってパンをかせがなければならないすべての人に手本を示し、義人、すなわち、社会生活を支配すべきキリスト教的正義の生きた手本と仰がれたのであった。

82. 天を注視するわれらの信仰は、余の第一代の先任者聖ペトロのいわゆる新しい天と新しい地(ペトロ後3・13)とを見出すのである。いつわりの預言者の約束は、血と涙とのうちにこの地上から消え去るけれども、「見よ、われはすべてをあらたにする」(黙示録21・5)という世の救い主の黙示録的な大予言は、天上的な美を放ってかがやくのである。尊敬すべき兄弟たちよ、最後に、余は、父として、手をあげて、諸兄、諸兄の聖職者、諸兄の信徒をはじめ、カトリックの一大家族の上に、使徒的祝福を与える。

一九三七年三月十九日、余の教皇在位十六年、全教会の守護者聖ヨゼフの祝日にあたり、ローマ聖ペトロ大聖堂のかたわらにおいて認む。
教皇ピオ十一世

* * * * *

一九四九年七月一日に、検邪聖省が発布した共産主義に対する検邪聖省令
至高の本聖省は、次の質問を受けた。

1共産党に党員として加入すること、あるいは、なんらかの方法で、これを助けることは許されるか。
2共産主義者の理論あるいは行動を支持する書籍、雑誌、新聞、あるいはリーフレットを刊行し、流布し、読み、あるいは、これに書くことは許されるか。
3第1項および第2項に該当する行為を、知りながら自由になす信徒に、秘跡をさずけることができるか。
4共産主義者の唯物主義的・反キリスト教的理論を奉じている信徒、とくに、これを防衛し、あるいは宣伝する信徒は、カトリック信仰に対する背教者として、当然の権利により、特別に聖座に保留された破門に処せられるか。

信仰と道徳との守護に任ずるいとも偉大なる師父たち、および、いとも尊敬すべき師父たちは、顧問神学者たちの意見を聴取したのち、一九四九年六月二十九日火曜日の総会において、次のように回答すべきことを定めた。

1 いな。なぜなら、共産主義は、唯物主義的、反キリスト教的だからである。共産主義の首領(指導者)たちは、ときどき、言葉の上で、われわれは宗教を攻撃しないと宣言する。しかしながら、実際においては、あるいは、その理論により、あるいは、その行為によって、天主と真の宗教とキリスト教会とに敵対していることを示すのである。
2 いな。なぜなら、これらすべての著述は、当然の権利により、罰せられているからである(教会法第一三九九条参照)。
3 いな。適当な心情をいただいていない信徒は秘跡をさずかることができないという普通の原則によって。
4 しかり。

次の木曜日、すなわち、同じ年、同じ月の三十日、天主の摂理によって教皇であるピオ十二世聖下は、検邪聖省補佐にまわった通常謁見において、いとも偉大なる師父たちの決定を承認し、これを、使徒的聖座録の公式機関において発布することを命じた。
一九四九年七月一日ローマにおいて認む 検邪聖省書記ピエール・ヴィゴリタ

DECEETUM

Quaesitum est ab hac Suprema Sacra Congregatione :
1. utrum licitum sit partibus communistarum nomen dare vel eisdem favorem praestare ;
2. utrum licitum sit edere, propagare vel legere libros, periodica,
diaria vel folia, quae doctrinae vel actioni communistarum patrocinantur, vel in eis scribere ;
3. utrum christifideles, qui actus de quibus in nn. 1 et 2 scienter
et libere posuerint, ad Sacramenta admitti nossint ;
4. utrum christifideles, qui communistarum doctrinam materialisticam et antichristianam profitentur, et in primis qui eam defendunt vel propagant, ipso facto, tamquam apostatae a fide catholica, incurrant in excommunicationem speciali modo Sedi Apostolicae reservatam.

Emi ac Revmi Patres, rebus fidei ac morum tutandis praepositi, praehabito RR. DD. Consultorum voto, in consessu plenario feriae III (loco IV), diei 28 Iunii 1949, respondendum decreverunt:
Ad 1. Negative : communismus enim est materialisticus et antichristianus; communistarum autem duces, etsi verbis quandoque profitentur se Religionem non oppugnare, re tamen, sive doctrina sive actione,
Deo veraeque Religioni et Ecclesiae Christi sese infensos esse ostendunt ;
Ad 2. Negative : prohibentur enim ipso iure (cfr. can. 1399 C. I. C.) ;
Ad 3. Negative, secundum ordinaria principia de Sacramentis denegandis iis qui non sunt dispositi ;
Ad 4. Affirmative.

Et sequenti feria V, die 30 eiusdem mensis et anni, Ssmus D. N. Pius divina Providentia Papa XII, in solita audientia Excnio ac Revmo Domino Adsessori S. Officii impertita, relatam Sibi Emorum Patrum resolutionem adprobavit et in Actorum Apostolicae Sedis Commentario
Officiali promulgari iussit.
Datum Romae, die 1 Iulii 1949.
L. S.
Petrus Vigorita, Supr. S. Congr. S. Officii Notarius.



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