アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2014年12月の初金曜日には、大阪においてレネー神父様がミサ聖祭を捧げて下さいました。16名の方々が聖伝のミサに与るお恵みを戴きました。天主様に感謝!レネー神父様のためのたくさんの霊的花束を心から感謝します。レネー神父様のような素晴らしい司祭が日本に来て下さっていることを天主様に感謝します。
こちらマニラではネリ神父様が先ほど発たれてフランスに向かわれました。12月8日にはパリで過ごすとのことです。
よき無原罪の御孕りの祝日をお迎え下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
12月の初金曜日の御ミサの報告です。12月5日 初金曜には、16人の方が御ミサに与るお恵みを頂きました。 デオグラチアス!!
お説教は、無原罪の御宿りの大祝日を三日後に控えて「無原罪の御宿り」についての大変素晴らしいものでした。(いつも素晴らしいですが・・・)
また、御ミサの後に、ちょうどこの日、5日にお誕生日を迎えられたレネー神父様にささやかながら誕生日ケーキと、ハッピーバースデー♪と、霊的花束をプレゼントして、乾杯をいたしました。ケーキを頂きながら、御休暇中のフランスでの90歳の神父様のお母様を 囲んでのご家族の写真などを見せて頂き短い時間でしたが大変幸せな時間を過ごすことができました。レネー神父様の満面の笑みと、「そんなにロウソクを立てないで!!」とのジョークで皆も大爆笑でした。
2015年の典礼カレンダーの12月には以前のレネー神父様のお説教が掲載されていますが、「フランソワ・レネー神父」 とご自分のお名前が書かれているところを嬉しそうに写真にとられていらっしゃいました。韓国語の次は、日本語を勉強しますと仰っていました。(*^▽^*)
大阪の信徒からレネー神父様にお渡しいたしました霊的花束は、以下のとおりです。
※この霊的花束には大阪の信徒の方だけでなく、遠くにお住まいの愛する兄弟姉妹も参加して下さいました。
ミサ聖祭参列 49回
御聖体拝領 47回
霊的聖体拝領 836回
十字架の道行き 117回
ロザリオ 1380本
小さき犠牲 310
イエズスの御名の連祷 124回
イエズスの聖心の連祷 39回
聖母の連祷 169回
聖ヨゼフの連祷 135回
ミサ聖祭(レネー神父様の為) 1回
司祭の為の祈り 128回
パドレ・ピオのチャプレット 44回
十字架上のイエズスに向かう祈り 40回
2014年12月5日(金)大阪の説教 無原罪の御宿りについて
Tota Pulchra es, Maria, et macula non est in te!
マリアよ、あなたはすべてが美しく、何のけがれもない
「愛する者よ、あなたはすべてが美しく、何のけがれもない」(雅歌4章ノ7節)。教会は、無原罪の御宿りの祝日の昇階誦に、この美しい言葉がある雅歌を歌います。あなたには傷も、しみも、罪あるものは何もない。あなたは美しい。すべてが美しい。メシアの愛する浄配とは誰か、メシアがそれほど褒めたたえるのは誰か。それは教会です。これについて聖パウロは書いています。「キリストが教会を愛し、そのために命を与えられた。キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐことと、それに伴う言葉によって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25―27節)。けがれの ない、ということをラテン語では「インマクラータimmaculata」といいます。これは天の教会にとっては真実ですが、ここ地上の戦闘の教会にとってはまだ真実ではありません。地上では、善と悪が入り混じっており、主が福音の中で警告なさったように、畑には毒麦(マテオ13章30節)があり、麦打ち場にはもみ殻(マテオ3章12節)があり、網にかかったよいものと役に立たないもの(マテオ13章48節)があり、メシアの婚姻の宴に招かれた善い客と悪い客(マテオ22章10節)がいるのです。しかしながら、生涯の最初の瞬間から制限なしにこれらの言葉を適用できる方がいらっしゃるでしょうか?そうです、いらっしゃいます。童貞聖マリア様です。「マリアよ、あなたはすべてが美しく、何のけがれもなく」、原罪のけがれさえあり ません。
自然における天主のみわざを見るとき、私たちは時折、景色の美しさに圧倒されることがあります。雄大な日の出や日の入り、雪に覆われた山の木々が太陽の光で輝いている優美な景色、春に桜の木に花が咲く様子、色鮮やかな虹などです。天主が創造されたこれら驚くべきものの前にいると、私たちは時に言葉が出なくなります。その美しさを言い表す適切な言葉が見つかりません。沈思黙考し、そこにずっととどまりたくなるでしょう。しかし、物質的被造物における自然の美は、聖性の恩寵に輝く霊魂の霊的な美しさと比較できません。ですから、天主がご自分の御母とするために特別な愛と特別な気遣いで飾られた最も素晴らしい被造物である童貞聖マリアにお与えになった美しさを見るとき、私たちはど のように感じるのでしょうか。天主は聖マリアにあふれるほどの恩寵とあらゆる種類の徳を気前よくお与えになりましたが、それは聖マリアを聖人たちの賞賛の対象とするためだけでなく、天国の天使たちの賞賛の対象とするためでもあったのです。「マリアよ、あなたはすべてが美しい」
童貞聖マリアは天主という芸術家の傑作です。実際、天主は至高の美そのものであり、あらゆるまことの美しさの源です。天主のみわざには、驚くべき調和、均整、充満、芸術があります。天主は大きなものだけでなく、小さなものもすべて配置されました。巨大な山からごく小さな雪の結晶に至るまで、巨大な銀河からごく小さな粒子まで。聖ヒエロニモは言います。天主はそれぞれの被造物に分けてお与えになったものを、マリアにはすべてお与えになった、と。マリア様において、天主は恩寵をいくつかお与えになったのではなく、すべての恩寵をお与えになったのです。「めでたし、聖寵充ち満てる」。マリア様が聖寵に充ち満ちておられるのなら、罪はなく、無原罪なのです。
すべての光と美の源は天主の知恵であり、創られたのではない天主のみ言葉です。私たちの主イエズス・キリスト、まことの天主でありまことの人間である方は、この「光」です。聖ヨハネは書いています。「みことばには生命があり、生命は人の光であった。光は闇に輝いたが、闇はそれを悟らなかった。…すべての人を照らすまことの光は、まさにこの世に来るところであった。みことばは世にあり、世はみことばによって創られたが、世はそれを認めなかった。みことばはご自分の家に来られたが、その人々は受け入れなかった。しかし、その方を受け入れた人々にはみな天主の子となれる力を授けた。そのみ名を信じるすべての人たち、彼らは、血統(ちすじ)では なく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって生まれた人々である」(ヨハネ1章4―5、9―13節)。主は、御名を信じる者に天主の子となる恩寵をお与えになりました。しかし、天主の御母となるべく主がマリア様にお与えになった恩寵は、それに比べてどれほど多くのものでしょうか。世は光を受け入れませんでしたから、闇の中にあります。しかし、キリストを「受け入れた」人々は、「世の光」(エフェゾ5章8節)になります。とりわけ童貞聖マリアは全く拒むことなく他の誰よりも光を完全に受け入れました。マリア様は聖霊の働きによって、そのいとも聖なるご胎内に真っ先に主を受け入れた方です。つまり、父なる天主が御子を世にお与えになったのはマリア様を通してでし た。マリア様がお告げの際に「なれかし」によって最初にキリストを受け入れなかったとしたら、誰もキリストを受け入れることはなかったでしょう。ですから、教皇聖レオ一世は言います。マリアはご胎内に主を受け入れる前に、最初に心に主を受け入れたのです、と。このように、マリア様はキリストの光で満たされ、闇はまったくありません。しみもなく、けがれもなく、完全に純潔であり、無原罪なのです。
贖いの傑作として、マリア様をこのようにたたえることは、私たちにとって大変有益です。作品が美しければ美しいほど、作者がその作品よりもずっと高い者であることが分かります。天主の超越性は、その作品の美しさに表れています。その美しさは、自然においてだけでなく、童貞聖マリアの霊魂に注がれた恩寵のみわざにさらに多く表れています。このように聖母をたたえることで、聖三位一体の礼拝に至ります。聖三位一体の天主の本性(ほんせい)は、三つのペルソナがマリア様に対してなされた驚くべきことによって明らかだからです。私たちは童貞聖マリアを「特別崇敬」と呼ばれる特別な敬意をもってたたえています。この特別崇敬は、被造物に対し て与えられた最高の敬意です。しかし、私たちは聖三位一体を、「ラトリア(天主への礼拝)」と呼ばれる至高の敬意をもって礼拝しています。この敬意は至高者である天主に対してだけのものです。(光を映す)鏡で見るように無原罪の聖母を観想することで、光である天主の観想へと至るのです。「天主は光であって、少しの闇もない」(一ヨハネ1章5節)。私たちは光の王国に入ることを許されるその日を待ち望むのです。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)
聖母は、ご自分のためにキリストを受け入れただけでなく、人類に、私たち一人一人にキリストをお与えになりました。聖母は光を受け入れただけでなく、キリストを映し出すよごれのない「鏡」であり、私たちのために光を映し出してくれます。天使は聖母に言いました。「あなたは天主のみ前に恩寵を得た」(ルカ1章30節)。また聖ベルナルドは述べています。「聖母が恩寵を獲得なさったのはご自分のためだけでなく、私たちのためでもあった」。私たちが天主の恩寵を得られるのは、聖母を通してなのです。
このように、聖母はすべての恩寵の仲介者ですが、特に純潔の恩寵と無垢の恩寵の仲介者です。聖母は完全に純潔であり、完全に無垢の方なのです。聖母は、霊魂たちのために純潔の恩寵と無垢の恩寵を獲得なさいます。(しかし、私たちにとって、それは決して完璧ではありません。偉大な聖人たちでさえ小罪がありました。)腐敗した現代世界にとって大変必要である一つの重要な真理があります。それは、天主が無垢の者を愛されるということです。そうです、天主は慈悲深く、両腕を開いて悔い改める罪びと、聖マリア・マグダレナのような人を受け入れてくださいます。しかし、十字架の下を見ると、聖マリア・マグダレナがいるだけでなく、聖母もいらっしゃるのが分かります。主は、痛悔女聖 マリア・マグダレナを愛されましたが、それ以上に無原罪の聖母を愛されました。無垢というものは、天主への敬意のため、注意して保たねばならない宝なのです。
無垢というものは、マリア様をまねることで保つことが可能です。特にマリア様の謙遜をまねることです。マリア様の謙遜の本質は、いつも天主に依り頼むことです。マリア様は、ご自分にある善きものはすべて天主から来ることをご存じであり、理解しておられました。「私の魂は主をあがめ、私の精神は、救い主である天主により喜び踊ります。主が卑しいはしために御目をとめられたからです。これからのち、代々の人々は私を幸いな女(ひと)とよぶでしょう。全能者が私に偉大なことをされたからです。そのみ名は清く…」(ルカ1章46―49節)。マリア様へなされた偉大なこと、マリア様は天主によってそれがなされたことをご存じでした。「なれかし」、つまり天主に「はい」と言うことによっ て、天主の恩寵に協力なさったのです。しかしマリア様は、この「なれかし」自体が天主の賜物だと分かっておられるのです。
聖母は無原罪であり、完全に純潔であるため、それに反することに対する恐れをもっておられます。あらゆる形態の罪、傲慢の罪、あらゆる種類の不純の罪、貪欲の罪、詐欺の罪、中傷の罪、悪口の罪、自己中心の罪、あらゆる罪全般に対する恐れをもっておられます。誤謬に対する恐れや嫌悪がなければ、本当に真理を愛しているとは言えません。罪に対する恐れをもっていなければ、本当に徳を愛しているとは言えません。天主は罪びとを愛されますが、罪を嫌われます。聖人たち、とりわけ聖母は罪びとを愛されますが、罪を嫌われます。罪びとに対する天主の御あわれみの本質は、正確に言えば、罪びとをその罪から救うこと、つまり罪びとを聖人に変えることなのです。罪を嫌うという気持ちを失 ってしまうこと、誤謬や悪への嫌悪を失ってしまうことは、この世の精神、リベラリズム(自由主義)の精神のしるしなのです。私たちを霊魂への悪徳から遠ざけるため、聖母が私たちに誤謬と罪に対する深い恐れをいだかせ続けてくださいますように!
教皇ピオ九世の説明によると、聖母が無原罪とされたのは、天主のみことばがご托身になる器としてふさわしくなるためです。実際、詩篇作者は歌いました。「いと高き者は、その住まいを聖化する」(詩篇45章5節)。モーゼが準備した幕屋、またその後ソロモンが建てた神殿を満たした雲のように、聖化する方である聖霊はマリアを影で覆いました(ルカ1章35節)。それは聖霊が、御父と御子と共に、御子の御托身を実現する幕屋を準備されるためでした。聖母が無原罪であるのは、天主の御母としてふさわしくなるため、処女懐胎の最初の瞬間から天主である私たちの主イエズス・キリストの御母としてふさわしくなるためです。しかし、主は贖い主として、そのいと尊き御血を流すことによって私た ちを救うために来られました。天主の小羊(ヨハネ1章29、36節)となるために来られました。さて、聖書で「無原罪[あるいは、けがれのない](immaculate)」という言葉を調べてみると、通常は犠牲のいけにえの必要条件として使われていることが分かります。小羊はけがれのないものでなければならない、というようにです。私たちの主イエズス・キリストは、ずば抜けてけがれのない小羊です。ですから、聖母が無原罪(けがれのない方)であるのは、キリストの犠牲においてキリストと一致するためなのです。聖母はまことに「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)です。この創世記の一節はエバについて書かれたものですが、聖母は新しいエバであり、新しいアダムに似合った助け手なのです。
聖なるミサにおいて私たちの主イエズス・キリストの犠牲に参加すること以上に、私たちの霊魂を罪から遠ざけるために有効な薬はありません。ミサにおいて、私たちもけがれのない小羊であるキリストと共にいけにえとなるのです。ミサにおいて、決して聖母の純潔には到底及びませんが、私たちももっともっとけがれのない状態になるのです。私たちがご聖体拝領で受けるけがれのない小羊は、私たちの霊魂を清めてくださり、「私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させえないでしょうか?」(ヘブライ9章14節)。
原罪さえもなかったけがれのない童貞を通して、原罪と自罪によってけがされ、傷つけられた私たちの霊魂を癒やす恩寵を、きょう乞い求めましょう。この世の腐敗から霊魂を守るため、聖母の完全な純潔の模範にならうよう努める恩寵を乞い求めましょう。熱心に聖母信心を広めることのできる恩寵と、聖母の御助けによって、けがれのない小羊であるキリストの統治をもたらすことのできる恩寵を聖母に乞い求めましょう。
アーメン。
【関連記事】
私たちはカトリックのローマに、聖伝の保護者である永遠のローマによりすがる
ルフェーブル大司教様のローマにおける1974年11月21日の宣言
ルフェーブル大司教様のエコン神学校での聖母の汚れ無き御心の祝日の説教 1976年8月22日
この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。
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先日、シュテーリン神父様から日本語の良い公教要理のウェブ・サイトのリンク先を尋ねられましたので、次をご紹介しました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介します。
公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解
ローマ公教要理 【使徒信経の部】
愛する兄弟姉妹の皆様、
2014年12月の初金曜日には、大阪においてレネー神父様がミサ聖祭を捧げて下さいました。16名の方々が聖伝のミサに与るお恵みを戴きました。天主様に感謝!レネー神父様のためのたくさんの霊的花束を心から感謝します。レネー神父様のような素晴らしい司祭が日本に来て下さっていることを天主様に感謝します。
こちらマニラではネリ神父様が先ほど発たれてフランスに向かわれました。12月8日にはパリで過ごすとのことです。
よき無原罪の御孕りの祝日をお迎え下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
12月の初金曜日の御ミサの報告です。12月5日 初金曜には、16人の方が御ミサに与るお恵みを頂きました。 デオグラチアス!!
お説教は、無原罪の御宿りの大祝日を三日後に控えて「無原罪の御宿り」についての大変素晴らしいものでした。(いつも素晴らしいですが・・・)
また、御ミサの後に、ちょうどこの日、5日にお誕生日を迎えられたレネー神父様にささやかながら誕生日ケーキと、ハッピーバースデー♪と、霊的花束をプレゼントして、乾杯をいたしました。ケーキを頂きながら、御休暇中のフランスでの90歳の神父様のお母様を 囲んでのご家族の写真などを見せて頂き短い時間でしたが大変幸せな時間を過ごすことができました。レネー神父様の満面の笑みと、「そんなにロウソクを立てないで!!」とのジョークで皆も大爆笑でした。
2015年の典礼カレンダーの12月には以前のレネー神父様のお説教が掲載されていますが、「フランソワ・レネー神父」 とご自分のお名前が書かれているところを嬉しそうに写真にとられていらっしゃいました。韓国語の次は、日本語を勉強しますと仰っていました。(*^▽^*)
大阪の信徒からレネー神父様にお渡しいたしました霊的花束は、以下のとおりです。
※この霊的花束には大阪の信徒の方だけでなく、遠くにお住まいの愛する兄弟姉妹も参加して下さいました。
ミサ聖祭参列 49回
御聖体拝領 47回
霊的聖体拝領 836回
十字架の道行き 117回
ロザリオ 1380本
小さき犠牲 310
イエズスの御名の連祷 124回
イエズスの聖心の連祷 39回
聖母の連祷 169回
聖ヨゼフの連祷 135回
ミサ聖祭(レネー神父様の為) 1回
司祭の為の祈り 128回
パドレ・ピオのチャプレット 44回
十字架上のイエズスに向かう祈り 40回
2014年12月5日(金)大阪の説教 無原罪の御宿りについて
Tota Pulchra es, Maria, et macula non est in te!
マリアよ、あなたはすべてが美しく、何のけがれもない
「愛する者よ、あなたはすべてが美しく、何のけがれもない」(雅歌4章ノ7節)。教会は、無原罪の御宿りの祝日の昇階誦に、この美しい言葉がある雅歌を歌います。あなたには傷も、しみも、罪あるものは何もない。あなたは美しい。すべてが美しい。メシアの愛する浄配とは誰か、メシアがそれほど褒めたたえるのは誰か。それは教会です。これについて聖パウロは書いています。「キリストが教会を愛し、そのために命を与えられた。キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐことと、それに伴う言葉によって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25―27節)。けがれの ない、ということをラテン語では「インマクラータimmaculata」といいます。これは天の教会にとっては真実ですが、ここ地上の戦闘の教会にとってはまだ真実ではありません。地上では、善と悪が入り混じっており、主が福音の中で警告なさったように、畑には毒麦(マテオ13章30節)があり、麦打ち場にはもみ殻(マテオ3章12節)があり、網にかかったよいものと役に立たないもの(マテオ13章48節)があり、メシアの婚姻の宴に招かれた善い客と悪い客(マテオ22章10節)がいるのです。しかしながら、生涯の最初の瞬間から制限なしにこれらの言葉を適用できる方がいらっしゃるでしょうか?そうです、いらっしゃいます。童貞聖マリア様です。「マリアよ、あなたはすべてが美しく、何のけがれもなく」、原罪のけがれさえあり ません。
自然における天主のみわざを見るとき、私たちは時折、景色の美しさに圧倒されることがあります。雄大な日の出や日の入り、雪に覆われた山の木々が太陽の光で輝いている優美な景色、春に桜の木に花が咲く様子、色鮮やかな虹などです。天主が創造されたこれら驚くべきものの前にいると、私たちは時に言葉が出なくなります。その美しさを言い表す適切な言葉が見つかりません。沈思黙考し、そこにずっととどまりたくなるでしょう。しかし、物質的被造物における自然の美は、聖性の恩寵に輝く霊魂の霊的な美しさと比較できません。ですから、天主がご自分の御母とするために特別な愛と特別な気遣いで飾られた最も素晴らしい被造物である童貞聖マリアにお与えになった美しさを見るとき、私たちはど のように感じるのでしょうか。天主は聖マリアにあふれるほどの恩寵とあらゆる種類の徳を気前よくお与えになりましたが、それは聖マリアを聖人たちの賞賛の対象とするためだけでなく、天国の天使たちの賞賛の対象とするためでもあったのです。「マリアよ、あなたはすべてが美しい」
童貞聖マリアは天主という芸術家の傑作です。実際、天主は至高の美そのものであり、あらゆるまことの美しさの源です。天主のみわざには、驚くべき調和、均整、充満、芸術があります。天主は大きなものだけでなく、小さなものもすべて配置されました。巨大な山からごく小さな雪の結晶に至るまで、巨大な銀河からごく小さな粒子まで。聖ヒエロニモは言います。天主はそれぞれの被造物に分けてお与えになったものを、マリアにはすべてお与えになった、と。マリア様において、天主は恩寵をいくつかお与えになったのではなく、すべての恩寵をお与えになったのです。「めでたし、聖寵充ち満てる」。マリア様が聖寵に充ち満ちておられるのなら、罪はなく、無原罪なのです。
すべての光と美の源は天主の知恵であり、創られたのではない天主のみ言葉です。私たちの主イエズス・キリスト、まことの天主でありまことの人間である方は、この「光」です。聖ヨハネは書いています。「みことばには生命があり、生命は人の光であった。光は闇に輝いたが、闇はそれを悟らなかった。…すべての人を照らすまことの光は、まさにこの世に来るところであった。みことばは世にあり、世はみことばによって創られたが、世はそれを認めなかった。みことばはご自分の家に来られたが、その人々は受け入れなかった。しかし、その方を受け入れた人々にはみな天主の子となれる力を授けた。そのみ名を信じるすべての人たち、彼らは、血統(ちすじ)では なく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって生まれた人々である」(ヨハネ1章4―5、9―13節)。主は、御名を信じる者に天主の子となる恩寵をお与えになりました。しかし、天主の御母となるべく主がマリア様にお与えになった恩寵は、それに比べてどれほど多くのものでしょうか。世は光を受け入れませんでしたから、闇の中にあります。しかし、キリストを「受け入れた」人々は、「世の光」(エフェゾ5章8節)になります。とりわけ童貞聖マリアは全く拒むことなく他の誰よりも光を完全に受け入れました。マリア様は聖霊の働きによって、そのいとも聖なるご胎内に真っ先に主を受け入れた方です。つまり、父なる天主が御子を世にお与えになったのはマリア様を通してでし た。マリア様がお告げの際に「なれかし」によって最初にキリストを受け入れなかったとしたら、誰もキリストを受け入れることはなかったでしょう。ですから、教皇聖レオ一世は言います。マリアはご胎内に主を受け入れる前に、最初に心に主を受け入れたのです、と。このように、マリア様はキリストの光で満たされ、闇はまったくありません。しみもなく、けがれもなく、完全に純潔であり、無原罪なのです。
贖いの傑作として、マリア様をこのようにたたえることは、私たちにとって大変有益です。作品が美しければ美しいほど、作者がその作品よりもずっと高い者であることが分かります。天主の超越性は、その作品の美しさに表れています。その美しさは、自然においてだけでなく、童貞聖マリアの霊魂に注がれた恩寵のみわざにさらに多く表れています。このように聖母をたたえることで、聖三位一体の礼拝に至ります。聖三位一体の天主の本性(ほんせい)は、三つのペルソナがマリア様に対してなされた驚くべきことによって明らかだからです。私たちは童貞聖マリアを「特別崇敬」と呼ばれる特別な敬意をもってたたえています。この特別崇敬は、被造物に対し て与えられた最高の敬意です。しかし、私たちは聖三位一体を、「ラトリア(天主への礼拝)」と呼ばれる至高の敬意をもって礼拝しています。この敬意は至高者である天主に対してだけのものです。(光を映す)鏡で見るように無原罪の聖母を観想することで、光である天主の観想へと至るのです。「天主は光であって、少しの闇もない」(一ヨハネ1章5節)。私たちは光の王国に入ることを許されるその日を待ち望むのです。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)
聖母は、ご自分のためにキリストを受け入れただけでなく、人類に、私たち一人一人にキリストをお与えになりました。聖母は光を受け入れただけでなく、キリストを映し出すよごれのない「鏡」であり、私たちのために光を映し出してくれます。天使は聖母に言いました。「あなたは天主のみ前に恩寵を得た」(ルカ1章30節)。また聖ベルナルドは述べています。「聖母が恩寵を獲得なさったのはご自分のためだけでなく、私たちのためでもあった」。私たちが天主の恩寵を得られるのは、聖母を通してなのです。
このように、聖母はすべての恩寵の仲介者ですが、特に純潔の恩寵と無垢の恩寵の仲介者です。聖母は完全に純潔であり、完全に無垢の方なのです。聖母は、霊魂たちのために純潔の恩寵と無垢の恩寵を獲得なさいます。(しかし、私たちにとって、それは決して完璧ではありません。偉大な聖人たちでさえ小罪がありました。)腐敗した現代世界にとって大変必要である一つの重要な真理があります。それは、天主が無垢の者を愛されるということです。そうです、天主は慈悲深く、両腕を開いて悔い改める罪びと、聖マリア・マグダレナのような人を受け入れてくださいます。しかし、十字架の下を見ると、聖マリア・マグダレナがいるだけでなく、聖母もいらっしゃるのが分かります。主は、痛悔女聖 マリア・マグダレナを愛されましたが、それ以上に無原罪の聖母を愛されました。無垢というものは、天主への敬意のため、注意して保たねばならない宝なのです。
無垢というものは、マリア様をまねることで保つことが可能です。特にマリア様の謙遜をまねることです。マリア様の謙遜の本質は、いつも天主に依り頼むことです。マリア様は、ご自分にある善きものはすべて天主から来ることをご存じであり、理解しておられました。「私の魂は主をあがめ、私の精神は、救い主である天主により喜び踊ります。主が卑しいはしために御目をとめられたからです。これからのち、代々の人々は私を幸いな女(ひと)とよぶでしょう。全能者が私に偉大なことをされたからです。そのみ名は清く…」(ルカ1章46―49節)。マリア様へなされた偉大なこと、マリア様は天主によってそれがなされたことをご存じでした。「なれかし」、つまり天主に「はい」と言うことによっ て、天主の恩寵に協力なさったのです。しかしマリア様は、この「なれかし」自体が天主の賜物だと分かっておられるのです。
聖母は無原罪であり、完全に純潔であるため、それに反することに対する恐れをもっておられます。あらゆる形態の罪、傲慢の罪、あらゆる種類の不純の罪、貪欲の罪、詐欺の罪、中傷の罪、悪口の罪、自己中心の罪、あらゆる罪全般に対する恐れをもっておられます。誤謬に対する恐れや嫌悪がなければ、本当に真理を愛しているとは言えません。罪に対する恐れをもっていなければ、本当に徳を愛しているとは言えません。天主は罪びとを愛されますが、罪を嫌われます。聖人たち、とりわけ聖母は罪びとを愛されますが、罪を嫌われます。罪びとに対する天主の御あわれみの本質は、正確に言えば、罪びとをその罪から救うこと、つまり罪びとを聖人に変えることなのです。罪を嫌うという気持ちを失 ってしまうこと、誤謬や悪への嫌悪を失ってしまうことは、この世の精神、リベラリズム(自由主義)の精神のしるしなのです。私たちを霊魂への悪徳から遠ざけるため、聖母が私たちに誤謬と罪に対する深い恐れをいだかせ続けてくださいますように!
教皇ピオ九世の説明によると、聖母が無原罪とされたのは、天主のみことばがご托身になる器としてふさわしくなるためです。実際、詩篇作者は歌いました。「いと高き者は、その住まいを聖化する」(詩篇45章5節)。モーゼが準備した幕屋、またその後ソロモンが建てた神殿を満たした雲のように、聖化する方である聖霊はマリアを影で覆いました(ルカ1章35節)。それは聖霊が、御父と御子と共に、御子の御托身を実現する幕屋を準備されるためでした。聖母が無原罪であるのは、天主の御母としてふさわしくなるため、処女懐胎の最初の瞬間から天主である私たちの主イエズス・キリストの御母としてふさわしくなるためです。しかし、主は贖い主として、そのいと尊き御血を流すことによって私た ちを救うために来られました。天主の小羊(ヨハネ1章29、36節)となるために来られました。さて、聖書で「無原罪[あるいは、けがれのない](immaculate)」という言葉を調べてみると、通常は犠牲のいけにえの必要条件として使われていることが分かります。小羊はけがれのないものでなければならない、というようにです。私たちの主イエズス・キリストは、ずば抜けてけがれのない小羊です。ですから、聖母が無原罪(けがれのない方)であるのは、キリストの犠牲においてキリストと一致するためなのです。聖母はまことに「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)です。この創世記の一節はエバについて書かれたものですが、聖母は新しいエバであり、新しいアダムに似合った助け手なのです。
聖なるミサにおいて私たちの主イエズス・キリストの犠牲に参加すること以上に、私たちの霊魂を罪から遠ざけるために有効な薬はありません。ミサにおいて、私たちもけがれのない小羊であるキリストと共にいけにえとなるのです。ミサにおいて、決して聖母の純潔には到底及びませんが、私たちももっともっとけがれのない状態になるのです。私たちがご聖体拝領で受けるけがれのない小羊は、私たちの霊魂を清めてくださり、「私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させえないでしょうか?」(ヘブライ9章14節)。
原罪さえもなかったけがれのない童貞を通して、原罪と自罪によってけがされ、傷つけられた私たちの霊魂を癒やす恩寵を、きょう乞い求めましょう。この世の腐敗から霊魂を守るため、聖母の完全な純潔の模範にならうよう努める恩寵を乞い求めましょう。熱心に聖母信心を広めることのできる恩寵と、聖母の御助けによって、けがれのない小羊であるキリストの統治をもたらすことのできる恩寵を聖母に乞い求めましょう。
アーメン。
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