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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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ミサの時に、5000人のみならず、イエズス様に従う私たちに御自分の体を増やし飽きるまで御恵みで満たし養う

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2020年3月22日(主日)四旬節第4主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教(東京)

“Laetare Jerusalem”「エルサレムよ、喜べ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さん、今日四旬節のど真ん中、第4主日、そして教会は、カトリック教会の信徒の私たちに向かって、「エルサレムよ、喜べ!」と言っています。
では今日はこのミサに従って、
(1)今日、指定巡礼教会「エルサレムの十字架」、一体これはどんな所なのか?
(2)次に書簡、書簡書ではやはり、エルサレムについて語られます。「新しいエルサレム」です。つまり「私たち」の事です。これについて黙想しましょう。
(3)そして次に、今日は福音では「パンの増加」について語られます。私の思うにはこれは「十字架」の事、十字架のいけにえの象りです。
ですから、この福音と書簡を合わせると、「エルサレムにおける聖十字架が見えてくる」、これを今日は、皆さんと一緒に黙想したいと思っています。

⑴「エルサレムの聖十字架教会」というのは、ローマにある、十字架の聖遺物を安置する教会です。
聖ヘレナが、つまりコンスタンティノ、ローマ皇帝のお母様が、聖地エルサレムに行って、イエズス様の架かった聖なる十字架の聖遺物を、ローマに持って来ました。そして自分の住んでいた家、その家は当時“Domus Sessoriana”と言われていたのですけれども、“Caelius”と言う丘の上に建てられていた大きな家を、これを聖十字架を安置する為の御聖堂に変えて、そしてこの家、自分の家を奉献しました。
それ以来その聖ヘレナの家は、「ローマにおけるエルサレム」、後には「エルサレムの聖十字架教会」と呼ばれるようになりました。
今日は霊的に私たちはそこに巡礼する事になります。ですから心をローマの聖十字架教会に馳せる事に致しましょう。
⑵第2に、書簡では、新約聖書の優位、素晴らしさを示す為に、聖パウロはモーゼが十戒を受けたシナイ山、そしてそこから受けたマンナや、あるいはモーゼがそこまで辿った紅海、海の水を渡っていた事など、それの中心地である「シナイ山」と、新約の私たちの母「新しいエルサレム、天のエルサレム」についての比較があります。
皆さんもよくご存知の通り、モーゼの紅海、渡った紅海は紅い海は、洗礼の象りでした。モーゼが受けたマンナは、御聖体の前兆でした。そしてモーゼがその上で受けた十戒、シナイ山、これは私たちが遂に新約で受ける聖霊の愛の炎、私たちの心に刻まれる愛の掟の前兆でした、前のしるしでした。
そしてモーゼの教えたシナイの旧約の教えは、隷属の奴隷の、恐れの教えでした。なぜ「奴隷の」というかと言うと、恐れには2つあるからです。
1つは「奴隷のような恐れ」、もう1つは「子供のような恐れ」。
奴隷のような恐れというのはつまり、「主人から罰せられるのが恐ろしいから、私はこれを守る、これをする」という恐れの事です。その隷属の奴隷のような恐れに基づくのが、旧約時代でした。モーゼの受けた教えでした。そして罪人を厳しく罰する掟でした
新約は、恐れは恐れですけれども、子供のような恐れであって、子供のような心であって、「天主聖父を悲しませる事を恐れる、罪を犯して、天主の聖心に背いてしまう事を恐れる」「罰ではなくて、その心に適わない事を恐れる」子供の愛の恐れであって、そしてしかもこの新しい教えは、新約の教えは、罪を罰するのではなく、罪を赦す、憐れみの教えでした。
そしてこの新約の優位はどこに現れるかと言うと、「来たるべき、本物のマンナであるイエズス・キリストの御体によって、御聖体によって私たちが養われ、イエズス・キリストと一致する」というところに最高に完成させられます。

⑶第3のポイントは、今日イエズス様が5000人の男の人々を、子供・女性を含まない男、“viri, quinque mília.” 男5000人を、たった5切れのパンと、そして2匹の魚で充分に満たして、そして更に、余ったその残りのパン・魚を集めてみたら、12の大きなカゴにいっぱいになった、満ち溢れたという、本当に起こった奇跡について、私たちは読みました。
もしもそのような今日光景に出会ったら、私たちは一生忘れない事でしょう。5000人の大群衆が、たったほんのちょっとのパン切れで養われた。たくさん食べて、食べて、食べて、そして満たされた。どれほど嬉しかった事でしょうか。
彼らは砂漠のイエズス様を付いて、イエズス様の聖心を聞こうとして、イエズス様の御跡を慕って、一体、将来の事も、あるいはどうするべきだろうか、という事も考えずに、おそらく信頼して、付いてきた事でしょう。
イエズス様はそのような人々を、決して空腹で野垂れ死にさせるような事はありませんでした。その御摂理と憐みとの心が、この奇跡に現れています。天主イエズス・キリストの全能の愛が、ここに滲み溢れています。「彼らはどれほどお腹が空いているだろうか」と、私たちの体の事をさえも心配して下さる、イエズス様。
ヨハネはこの事をよく覚えていました、「これは過越の少し前だった。」「座っている所には、草がたくさん生えていた」等々、詳しい事を覚えています。
もちろん私たちがよく知っているように、これは、来たるべき過越の時に、最後の晩餐の時に、イエズス様が成そう、成立しようとする、「御聖体の秘跡」のいわば象りでした。
イエズス様はこの砂漠に付いて来た5000人の男たちとその家族たちだけではなく、イエズス様に付いて砂漠のようなこの世を歩む、巡礼する、天国のエルサレムまで巡礼しようとする私たちの事をも、考えていました。
そして私たちを単なるパンで養うのではなく、御自分の御体と、御自分の流す御血によって養おうとされます。
この今日福音で読んだこの奇跡は、そのもっと素晴らしい事が、今日皆さんの目の前で、この祭壇の上で、実現します。何故かというと、この祭壇は、新約のカルワリオであって、今皆さんが与っているのは、「十字架のいけにえの再現」であるからです。
あたかも皆さんは、エルサレムのカルワリオの丘に居て、そしてイエズス様の十字架のその効果を、今受けようとしています。これがカトリックの教えです。ですから私たちは、どんな事があっても、このミサを挙げ続けたいと願っています。
パドレ・ピオは言いました、「地球が存在する為には、太陽よりもミサがある方がもっと必要だ。」もうちょっと正確な言い回しを使うと、「地球にとって、ミサが無いよりも、太陽が無い方がまだ存在できる」と。それほど、このミサの重要性を分かっていたのが、聖パドレ・ピオでした。
そしてこのミサの時に、イエズス様は5000人のみならず、無数の世の終わりに至るまでの、イエズス様に従う私たちに、御自分の体を増やして、飽きさせるほどまで御恵みで満たして、私たちを養ってくれようとしています。
このイエズス様のこの奇跡が、今この目の前で行なわれるという事を黙想すると、私たちの思い起こすものは、「何と、イエズス様の愛の深さ、イエズス様の憐みの深さか」という事です。
イエズス様は憐み深く更に、今日のジェスチャーを以って別の事も象徴しています。
それは、今日の福音では、イエズス様はパンの奇跡の時に、「弟子たち」を「使徒たち」を使ってなさいました。
新約時代において、カトリック教会の司祭を以って、イエズス様は、全く同じことをします。もしも使徒たちが配らないのならば、このパンの奇跡は起こりません。
もしも司祭が存在しないならば、新約のカトリック司祭が存在しないならば、この御聖体も作られる事ができられません。
最後の晩餐の時に、イエズス様は御聖体を制定しましたが、それと同時に、新約の司祭、新しい司祭職を制定しました。十字架のいけにえを日々私たちの祭壇の上で再現させる、実現させる、もう一度それを目の前に現存させる、その権能を持った司祭職を作りました。
ですから、カトリックの司祭というのは、「イエズス様のいけにえである、十字架のいけにえ、ミサ聖祭」と非常に深く結び付いています。
カトリックの司祭の最も核心的な能力は、まさにここにあります。イエズス様の御体を聖変化させる事、パンの実体を、全くイエズス・キリストの御体に聖変化させる事、「全実体変化」という大奇跡を行なって、今日福音で読んだ奇跡よりも、更に偉大な事を毎日、ミサの祭壇の上で行なう、という事です。
カトリックの司祭は、プロテスタントの牧師や、あるいは離教の教会の正教会等の司祭とは全く違います。イスラム教のイーマン等とは全くレベルが違います。
唯一、カトリック司祭だけが、イエズス・キリストの代理者であって、使徒たちから受けた、脈々と途切れる事なく受けた、司祭職を続けているものです。私たちがこのミサを捧げ続ける為には、この聖伝の司祭が、カトリックの教えを変えずに行ない、そしてミサを、聖変化をさせ続ける司祭がどれほど必要でしょうか。
これは、私たちが傲慢の為にこう言うのではなく、しかしイエズス様の御望みによって、私たちが天国のエルサレムに届く為にも、この秘跡が制定されたからです。「御聖体」と「司祭職」。
では今日、教会の精神に従って喜び、そしてイエズス様に感謝する事に致しましょう。
そして復活祭まで、ますますこの御聖体が毎週日曜日に主日にここで捧げられますように。そして私たちの間から、あるいは日本から、聖なる司祭たちがたくさん出てきますように。若い青年たちが、イエズス様の御業を続ける為に、自分をイエズス様に全く捧げて奉仕する事できますように。
その御恵みを、今日ミサでお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。















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