2020年3月22日(主日)四旬節第4主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教(大阪)
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2020年3月22日、四旬節第4主日のミサを捧げております。
今日、この聖伝のラテン語のミサに初めていらした方に、心から歓迎致します。
このミサの後に感謝のお祈りがありますけれども、聖体拝領後の祈りなどをして後に、この前の主日のように終課を、グレゴリオ聖歌による夜の最後のお祈りをラテン語で歌いたいと思っています。10分かそれぐらいのものです。もし時間がありましたらいらして下さい。どうぞそのまま残って一緒に聖歌歌って下さい、お祈りなさって下さい。
来週の3月29日も、御受難の第1主日のミサがあります。私がフィリピンに戻る事ができなくなったからです。
これから毎週、復活の主日までずっとミサがある予定です。もしも状況によっては、その後ずっと主日のミサがあるかもしれません。お祈り下さい。
「喜べ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さん、今日四旬節の第4主日、四旬節のど真ん中に来て、教会は私たちに、「喜べ!」という叫びを聞かせてくれます。
その喜びのあまり教会は、普通は四旬節では紫の祭服を着ていますけれども、それに白を混ぜて、喜びの色を混ぜて、バラの祭服を着る事を願っています。
そしてこの喜びのあまり、伝統によると、ローマの教皇様は教会の公益者に、黄金で出来たバラの花を授けるのです。
けれども、私たちはマリア様に教会の最も偉大なる公益者、私たちを最も守って下さり、私たちにミサを毎週のように主日に下さり、ミサを捧げる事ができるように助けて下さっていらっしゃっているマリア様に、愛の心を、黄金のバラを捧げようという有志の方がバラを作って下さいました。私たちもマリア様に愛のバラを捧げたいと思っています。
今日、ではこの喜びの、“Laetare”の主日に、教会は私たちに一体何を、何で喜ぶ事を求めているのでしょうか?その理由を今日黙想しながらミサを捧げる事を提案します。
3つポイントがあります。
1つは、指定巡礼教会。これが喜びと関係あるからです。何故かというと、その指定巡礼教会の秘密は、
第2の点、書簡と、
そして第3の点、福音にあると私は思ってるからです。
そこで皆さんと一緒にこの事を黙想しつつ、教会と共に喜びに深く、そして特に「復活祭が近くなった」というこの喜びに深く入って行く事に致しましょう。
ではまず第1のポイント、指定巡礼教会、それは霊的に私たちがその教会に心を馳せるのですけれども、そして伝統によると、実際にそこに行って教皇様はミサを捧げる習慣があったのですけれども、それは今回は、ローマにある「エルサレムの聖十字架教会」です。
この教会は、元々はコンスタンティノローマ皇帝のお母様の家でした、“Domus Sessoriana”。そして“Caelius”という丘の上に建てられた大きな家ですが、聖ヘレナがエルサレムまで巡礼に行って、聖十字架の本当のイエズス様の架かった十字架の聖遺物をその大部分を、ローマまで持って来ました。
そしてそのあまりにも貴重な聖遺物を、どこに置こうか。自分の家を提供しました。そして自分の家を聖遺物を保管する教会として変えてしまいました。
今でもその教会はあります、“Santa Croce ”「エルサレムの聖十字架教会」ここはローマにとって、まさにエルサレムそのものでした。
ですから今日、この聖十字架教会に私たちは行くのですけれども、なぜかというと、私たちは、「新しいエルサレム」であるからです。そして喜びの元は「十字架」にあるからです。もう少しこの黙想を深めていきましょう。
⑵第2の点は書簡です。書簡は聖パウロが、旧約のモーゼと新約のイエズス・キリストの違いを比較して、新約がどれほど優位に立っているか、どれほど完成されているか、という事を強調します。
もちろん皆さんは、愛する皆さんは、四旬節の間、モーゼのやった40日間の断食や、あるいはモーゼが砂漠でユダヤ人たちにマンナを与えた、あるいは石を叩いて水を与えた、紅海を渡った、等という事を黙想してきました。これはもちろん、聖パウロによれば、来たるべき新約の前兆、象りでしかありません。
そしてそのモーゼが頂いた十戒は、シナイ山でのものでした。天主がまさにモーゼに姿を御見せになって、十戒を2つの石版に刻んで渡し、そしてものすごい恐ろしい天変地異のような、大自然をも震えるほどの恐ろしい光景をユダヤ人たちに見せてモーゼに見せて、もしも十戒に、そして天主の掟に背く事があれば、どれほど恐ろしい罰が待っているか、どれほど天主の御稜威は恐ろしいか、という事を教えました。
旧約の掟は、ユダヤ人たちをして、「恐れ」によって守らせるものでした。
しかも皆さんもご存知の通り、恐れには2種類あります。1つは「奴隷」のような恐れと、もう1つは「子供」のような恐れです。
奴隷のような恐れというのは、「ご主人様が、もしも命令通りしなかったらどれほど恐ろしい罰を与えるか、それを恐れて罰を恐れて、罰を受ける事を恐れて、それを守る」という奴隷のような恐れです。旧約が出来たのはまさにこれでした。
しかし、自由の、子供の私たち、新しいエルサレムの私たちは、聖霊降臨、エルサレムで聖霊降臨を受けました。つまり聖霊が私たちの心に愛の掟を、2つの掟を、「全てを超えて天主を愛し」「隣人も我が身の如く愛する」という2つの掟を、私たちの心に肉に刻んで下さいました。
私たちは確かに恐れますけれども、私たちの恐れは、子供のような恐れです、「天主を悲しませる事を、愛するが故に恐れる。もしもこのような事をしたら、三位一体は、天主聖父は、イエズス様は、聖霊は、御悲しみになるだろう。だからそれはだけは嫌だ。それを、天主を悲しませる事を恐れる」と、子どものような恐れを、愛を持っています。
そしてこの愛の完成は、御聖体によって与えられます。
モーゼが砂漠で与えたのはこの世の肉体のためだけのパンでした。しかしイエズス様は、「私は、天から降りる生けるパンである。私を食する者は死んでも死なない。永遠の命を持つ。」
⑶第3の点は、今日の福音です。
福音では、過越の近くになると、5000人の男性が、もしも子供や女性を含めると、更に大きい数の人々が、イエズス様を慕って、その御話を聞こうと、あるいはイエズス様から何か奇跡の御恵みを受けようと、砂漠に付き従います。おそらくその人数を見たら、甲子園さえも埋まって満席になってしまったに違いありません。
そしてそのような人たちが、何も食べるものも無く、そして砂漠にいるのを見て、イエズス様は彼らの肉体の事も、健康の事も、お腹の事も考えます、「ああ、どうしよう。」何と優しい天主でありましょうか。「イエズス様の御配慮は、私たちの全てに及ぶ。霊的な、そして肉体的な善に及ぶ」という事を、これを以って表しています。
何故かというと、イエズス様はたった5切れのパンと、2匹の魚によって、5000人の大群衆を充分食べさせて、満腹させて、しかもそれを残りを集めたら、大きなカゴに12個、それが溢れるばかりになった、とあるからです。
何と寛大で、何と私たちにたくさん与えようと願っている方でしょうか。全能の憐み深い愛でしょうか。
もちろんこれは序の口です。
実は、愛する兄妹の皆さん、今日ミサに与っていらっしゃる皆さんは、それよりも更に素晴らしい奇跡を、今日受けようとしているからです。
霊的に私たちは、砂漠のようなこの世を、天のエルサレムまで巡礼をしています。そして私たちを養おうと、たとえ私たちが何万人であろうと何百万人であろうと、大阪のあるいは日本国民の全てであろうと、イエズス様はそれを全て養って、更に十分余るほどの力を持っています。
どのようにするかというと、「御聖体」を以って私たちを養おうとされます。今日のこのパンの奇跡は増加の奇跡は、まさに来たるべき過越、復活祭の直前で、もうすぐイエズス様が制定されようとする「御聖体の秘跡」の前兆でありました。その予告でありました。
そればかりでなくイエズス様は、「弟子たち」を通じてこれを配りました。使徒たちによって配りました。
それと同じように、最後の晩餐の時、その御自分の御復活のすぐ近くになると、御聖体の秘跡、このミサ聖祭を制定する、そして私たちを養おうとするのみならず、使徒たちの後継者をも私たちに残そうと考えられました。それが「叙階の秘跡」です。「カトリックの司祭職」です。
カトリックの司祭というのは、その核心はどこにあるかというと、「ミサ聖祭を立てる事」にあります。
もっとはっきり言うと、「ホスチアを、パンを、イエズス・キリストの御体にそのものに変えてしまう事」です。「パンの実体を、イエズス・キリストの実体に変える事」です。これをカトリックの用語で、「全実体変化」と言います。聖変化させる事です。
まさにこの事に、カトリックの司祭の最も高貴な、最も最高の権能が、力が現れます。これを以ってこそ、カトリックの司祭は、天使たちよりもはるかに大きな、偉大な者となります。
何故かというと、真の天主イエズス・キリストを、天におられて復活されているイエズス様を、この祭壇に来て下さるように命ずる事ができるからです。
そしてその瞬間、司祭がそうした瞬間、聖変化の言葉を唱えた瞬間、イエズス様は天から本当に、それに従って、私たちの目の前に降って下さるからです。そしてパンは、イエズス・キリストの本当の体になるからです。
そして司祭のこの人間の儚い手を以って、イエズス様が御自分を、皆さんの元に与えられて食されようと望んでおられます。そして御自分の御体を以って、御血を以って、私たちを養おうと、そして私たちと1つになろうと願っています。
今日福音で読んだ歴史上の事実、このパンの増加の奇跡は、私たちが今目の前で行なわれるこのミサ聖祭の大奇跡の予告に過ぎません。私たちはそれよりも更にすごい事に与っています。
そして「その制定の日がもうすぐやって来る」という事を、イエズス様は教えています、教会は教えています。ですから、「喜べ!」と私たちを招いています。
御聖体の尊さ、そしてそれと同時にカトリック司祭職の偉大さ、イエズス・キリストの使命を続けるそのカトリック司祭の崇高さ、これはプロテスタントの牧師さんや、あるいはイスラム教のイーマンとか、あるいはその他と全く比較になりません。
何故かというと、カトリックの司祭こそが、新約の司祭であって、イエズス・キリストの制定した十二使徒の後継者を、脈々と、途切れる事なく、その司祭職を唯一続けているものであるからです。
このイエズス・キリストの使命を続ける為に、どれほど私たちにとって司祭が必要である事でしょうか。イタリアで多くの方がコロナウィルスによって亡くなっている。1日に何百人何百人と亡くなっている、そして若いお医者さんたちが命を懸けて、看護士と共にその看護に当たっている、というのを見ると、非常に感動的な話があります。
しかし、イエズス・キリストの命を与える為に、イエズス・キリストの御体を私たちに与える為に、イエズス・キリストの真理を私たちに伝える為に、洗礼を以って超自然の命を私たちに与える為に、永遠の死から私たちを救う為に与えられた霊的な医者である司祭、この司祭はどれほど高貴で、どれほど必要とされている事でしょうか。
愛する兄弟の皆さん、どうぞ教会と共に、喜びの中に深く入って下さい。そして私たちに御聖体が与えられる、という事を心から感謝致しましょう。
そしてまた私たちに聖なる司祭たちが、聖伝の信仰を守る、このミサを守る司祭たちが多く与えられますように、お祈り致しましょう。
そしてマリア様に是非、イエズス様の御母、天主の御母であるマリア様に、司祭職の母であるマリア様に、お願い致しましょう。
どうぞ、私たちがこの奇跡よりも、今日福音で読んだ奇跡よりも更に偉大な奇跡が、いつも、世界中でどこでも与えられる為に、多くの聖なる司祭を送って下さい、とお願いする事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。