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聖ピオ十世会 クリスマス 大阪での聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)でのお説教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父による、12月25日「主のご降誕の大祝日」のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



12月25日「主のご降誕の大祝日」のお説教
 
 親愛なる兄弟の皆さん、天主は私たちを気遣ってくださいます。
 
 「天主は御独り子与え給うたほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。御降誕の祝日は、私たちの主イエズス・キリストに関するこの宣言を美しく表してくれます。そうです、実に、天主は私たちを愛しておられます。取るに足らない人間という存在である私たちに、御独り子を、永遠の御父の永遠の御子、全能の御父の全能の御子、無限に完全な御父の無限に完全な御子をお与えになったほどに愛しておられます。誰のためでしょうか。取るに足らない人間という存在、非常に弱く、非常に短い期間しか生きられない私たちのためです。「あなたがみ心にとめられるこの人間とは何者か。あなたが心を配られるこの人の子とは何者 か」(詩篇8章5節)。
 
 天主から来るものは、天主に帰るべきです。実際、無限の善である天主が、究極の目的として無限の善でない目標を持つことは不可能です。ですから天主は、天主ご自身以下の何物も究極の目的として愛することはできません。天主にとって、究極の目的を被造物に置くことは大罪であり、不合理です。天主が一部の被造物を「彼ら自身のために」望んだのであり、究極的に天主に帰るよう命じはしなかったと考える人がいるならば、天主の完全性を理解していないことになります。天主は全世界を創られました。そして、この世の被造物が天主に帰るように命じられました。聖書は言います。「主はすべてのものを、ご自分のためにお創りになった」(箴言16章4節)。どのようにしてできるのでしょう か。私たちは、どのようにして天主に帰るのでしょうか。
 
 天主は私たちを必要とはされません。天主がお持ちでないもので、私たちが天主に「お与え」できるものは何もありません。ですから、どのようにして「天主に帰る」ことができるのでしょうか。聖パウロは言います。「すべては天主からであり、天主によってであり、天主のためである。天主に代々、栄光あれ。アーメン」(ローマ11章36節)。また詩篇作者は歌います。「天は天主の栄光を語る」(詩篇18章2節)。すべてのものは、天主に栄光を捧げるために天主に帰らなければなりません。天主に栄光を捧げることは、天主の完全性にさらに何かを加えることではありません。私たちが天主に栄光を捧げたからといって、天主がより善くなられたり、より幸せになられる訳では ありません。天主は私たちを必要とはされません。しかし、被造物にとって、天主に栄光を捧げることは「ふさわしく、かつ正しいのです(vere dignum et justum est)」。まさに、天主の知恵によって命じられたのです。私たちの完徳と永遠の幸福は、天主に栄光を捧げることにあり、完全に天主のために存在し生きることにあるのです。
 
 この「栄光」とは何でしょうか。人間にとって、多くの人々から高く評価されるなら栄光を受けたことになります。このように、栄光とは広く名が知られ、かつその価値を高く評価されることにあります。このように、天主の栄光は、至高の完全な存在であり、天主、万物の創り主として霊的被造物によって広く知られ、かつ被造物によって、何にもまして愛されることにあるのです。「あなたはすべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて主なる天主を愛せよ」(ルカ10章27節)
 
 物質的被造物でさえ、知識を授けられていないにもかかわらず、人間や天使に「使われる」ことによって、天主に栄光を捧げます。人間や天使は、物質的被造物に、すべての芸術家のうちで最も偉大で最も力強いものとして、全能の天主の知恵の働きを見て、そのわざによって天主を讃美するのです。人間と天使は、言葉にならないほど素晴らしい物質的被造物のゆえに、天主に讃美を捧げます。空の星々について、次のように書かれています。「天は天主の栄光を語る」(詩篇18節2章)。最も大きな物質的被造物から最も小さな被造物まで、創造主の知恵は表れています。「それらの力と働きに感嘆したのなら、それをつくった方が、いかに勢力あるかを推しはからねばならない。被造物の偉大さと美は、そ の創り主を類比によって推しはからせる」(知恵13章4―5節)。聖パウロは、偶像崇拝者である異邦人の罪を非難します。「彼らは天主を知りながら、これを天主として崇めず、感謝しなかったからである」(ローマ1章21節)。
 
 これが人類のドラマなのです。小さな被造物にすぎない人間が、しかし知性を授けられ、創造主かつ至高の天主を知ることができるにもかかわらず、偉大な天主を無視して自分を創られたものに向けてしまう。天主のために創られたにもかかわらず、被造物に究極の目的を置く。これが大罪の本質なのです。罪が人類を傷つけたため、すべての人は生まれながらに原罪を持っています。(私たちの主イエズス・キリストの特権によってインマクラータである聖母は除外されます。)でも天主は、人類を罪があるままにしてお見捨てになりませんでした。人類の贖い主かつ救い主として、御独り子を送られたのです、「罪から民を救うために」(マテオ1章21節)。
 
 さて、私たちが天主に捧げる最初の本質的な栄光は内的であり、霊的なものです。知ることと愛することです。至高の存在として天主を知り、何にもまして天主を愛することです。さらに、天主が明らかにされたのは、永遠におけるご自身の内的生命の神秘でした。三つのペルソナ、御父が永遠において御子を生み給い、共通の愛の霊として共に聖霊を発出させ給うということです。天主は私たちに対して、ご計画を明かされました。私たちを罪から救い、天国において天主と共に永遠の幸福に導いてくださることです。天主がおっしゃるならば、人は信じなければなりません。信じるとき、私たちは天主の誠実さを褒めたたえ、天主の真理を褒めたたえます。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ1 4章6節)。この褒めたたえることは、まことの信仰、カトリック信仰によってなされます。「その証明(御父が御子にお与えになる証明)を受け入れる人は、天主が真実であることを証認する」(ヨハネ3章33節)。これは、天主の誠実さを褒めたたえるということです。
 
 しかし、信仰だけでは十分ではなく、私たちはまた、何にもまして天主を愛さなければなりません。このことは、あらゆる戒めの中で最初であり、かつ最も重大なものです。「すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力をあげて、主なる天主を愛せよ。これが第一のおきてである」(マルコ12章30節)。天主を愛することによって、私たちは、そうです、天主は至高の善であり、それゆえに至高の愛を捧げるべき方であることを具体的に証言するのです。口では、天主は至高の善であると言いながら、天主よりも被造物を愛するならば、行動によってそれを否定しているのです。「彼らは天主を知っていると言うが、その行いによって天主を否定している」(ティト1章16節)。
 
 天国にいる善き天使たちと聖人たちは、天主を知ることによって、天主に完全な栄光を捧げています。至福直観が、知識の最大限の完全性をもたらします。ですから彼らの天主に対する愛は何にもましています。天主を知り、愛しながら、彼らは永遠に生きるのです。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。このように、心を尽くし、霊を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛をもって天主を黙想することは、天主に栄光を捧げることであり、ここに私たちの究極の目的があるのです。私たちが生きるのは、実に自分のためではなく天主のためなのです。ここに私たちの究極の喜び、天国での永遠の幸福があ るのです。これを準備するのは、この黙想、啓示された神秘を愛する信仰という眼差しなのです。
 
 しかし、私たちはどのようにすれば、その段階に至るのでしょうか。その目標には、私たちの力では及ばないのではないでしょうか。私たちの本性の力、特に罪の傷ののちの本性の力では、そんな高い目標に至るには十分ではありません。でも、天主が気遣ってくださいます。天主は、私たちを罪から救い、「天主の子となれる力を私たちに授ける」(ヨハネ1章12節)ために、御独り子を送られました。ですから、私たちは御降誕祭にこのことを見るのです。天国に行くにはどのようにすればよいか。私たちの主イエズス・キリストを黙想し、主に従いましょう。
 
 人間の知識はすべて、感覚から始まります。感覚で把握したデータから、アイデアを抽象化し、霊的なものや万物の創造主のことを知るに至ります。罪に落ちた人間は、この世のものに注意を向けました。その罪に落ちた結果、天国の真実に目を上げることが難しくなりました。そのため天主はこの世に御子を送られました。「み言葉は人となり給うた」(ヨハネ1章14節)。御子は人間の本性を取られ、私たちと同じように身体と霊魂をお持ちです。それは、私たちが身体の目で御子を見、耳で御子の言葉を聞き、手で御子に触れることによって、イエズスの人間の本性を通してその天主の本性を知るに至るようになるためでした。聖ヨハネは、このことについてたいそう喜んでいましたから、第一の手紙の最 初に次のように書いています。「初めからあったこと、私たちの聞いたこと、目で見たこと、ながめて手で触れたこと、すなわち命のみ言葉について―そうだ、この命は現れた、私たちはそれを見て証明する。御父のみもとにあって今私たちに現れた永遠の命をあなたたちに告げる―、あなたたちを私たちに一致させるために、私たちは見たこと聞いたことを告げる。私たちのこの一致は、御父と御子イエズス・キリストのものである」(ヨハネ第一1章1―3節)。
 
 聖三位一体の知識に私たちを最も良く導いてくれるのは、私たちの主イエズス・キリストの人間の本性についての知識です。まぐさおけの中で静かに眠る幼子イエズスを見るとき、絶えまない祈りによってイエズスの霊が御父をあがめ、私たちを取り成してくださることで、私たちは内的生活の価値をまことに理解するのです。人間はこの世のもの、富や安楽、外からくる名誉や楽しみを好みます。天主の御子が地上に来られたとき、そのどれもお選びになりませんでした。大変な貧しさ、寒さ、困難の中でお生まれになり、この世の君主たちに知られず、知られあがめられたのは、童貞聖マリアと聖ヨゼフ、そして純粋な魂をもつ羊飼いや大きな心をもつ賢者たちでした。天主の御子である主は、富や楽しみ、こ の世からのほまれを受けるよりも、童貞聖マリアやこれら数少ない信心深い霊魂たちの礼拝と愛の方に価値を見いだされるのです。私たちは次のように理解します。「天主は霊であるから、礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」(ヨハネ4章24節)。
 
 この幼子は、この世においては貧しいですが、天使の軍勢は羊飼いたちに宣言し歌います。賢者たちには不思議な星によって宣言されます。幼子はまことに、天と地、見えるもの(星)見えざるもの(天使たち)すべての創造主なのです。
 
 この幼子は、全能の天主であられます。しかし、悔い改める罪びとを恐れさせはせず、むしろ私たちすべてに幼子への愛を持つようお求めになります。幼子が自ら小さく貧しくなられたのは、人間の本性を取られた幼子をお助けすることで、私たちが天主の本性による助けと恩寵を得るようにするためなのです。このことは、主の身体のお世話をした聖母と聖ヨゼフにとって真実であるだけでなく、主の神秘体のメンバーを助けるすべての人々にとっても真実です。「まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)。
 
 聖アウグスティヌスは言います。幼子たちは私たちの愛を求める技を、自分たちを愛させる技を持っている、と。このように、全能の天主は、私たちの愛を求めるために幼子になられたのです。イエズスの人間の本性を愛することによって、私たちは天主の本性を愛するように導かれます。
 
 しかし、それについてはさらに言うべきことがあります。羊飼いたちの礼拝を受けた幼子イエズスは、天主の小羊です。私たちの罪を償う犠牲において捧げるため、最も完全な犠牲によって天主のほまれを回復させるために捧げるために、主は御体と御血をおそなえになったのです。イエズスは救い主であり、天主の医者であって、私たちの霊魂を罪から癒やし、驚くべきことに天主との友人関係にまで、いや、「天主の養子」にまで高めてくださるのです。天主の子が人の子となられました。その結果、人の子らは天主の子らになりうるのです。まことに天主は気遣ってくださいます。天主は、言葉で表せないほどの愛なのです。
 
 親愛なる兄弟の皆さん、ご托身という偉大な神秘を黙想すればするほど、ご托身における天主の完全性がそこに反映されていることをさらに深く黙想することができ、また心を尽くし、霊魂を尽くし、精神を尽くし、すべての力を尽くし、すべてに超えて天主を愛するよう、私たち自身が一層高められるのです。このご托身という神秘の美しさを表現できる言葉はありません。沈黙のうちに黙想すべきです、夜の沈黙の中でご托身の神秘が起きたように。これこそが、聖三位一体に栄光を捧げるのです。
 
 このご托身の黙想をするのを最も助けてくださるのは、童貞聖マリアをおいてほかにおられません。聖母はこの神秘と非常に密接に結ばれておられ、最も深く理解しておられます。聖母の御助けによって、私たちが、このいとも驚くべき神秘をさらに理解することができますように、またそれによって、私たちが、今から永遠に至るまで御父と御子と聖霊に栄光を捧げることができますように。アーメン。
 
 フランソワ・レネー神父
 
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この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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