2020年5月4日(月)霊的秋田巡礼 霊的講話1
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「私は彼女を誘って、荒れ野に連れて行き、その心に語りかけよう。」(ホセアの書2:16)私たちは、主と共に荒れ野に、砂漠に参りましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、四旬節の務めが終わって、それから復活祭も終わりました。それで私たちは、秋田に巡礼に行こうと思っていました。
ところが、天主様の御摂理によって、秋田の巡礼は今年はキャンセルになってしまいました。ですからテレワークの方式で、テレ巡礼を行ないたいと思っています。霊的に秋田に参りましょう。そしてマリア様の御元に行きましょう。
私たちはこのテレ巡礼をするにあたって、講話もテレ講話をしたいと思っています。たまたまこの講話をお聞きの方々もいらっしゃると思います。これはたまたまではないと思っています。天主様がこれを招いて下さっているのだと思っています。
『ホセアの書』という旧約聖書の中にこうあります、第二章十六節、「私は彼女を誘って、荒れ野に連れて行き、その心に語りかけよう。」
「荒れ野に連れて行き」
「荒れ野に連れて行かれる」という事は「愛されている」という証拠です。
主は特別の弟子たちを、御自分の愛する弟子たちを連れて、他の人たちと離して、荒れ野に連れて行きました。聖ペトロ・ヤコボ・それからヨハネは、タボル山の元に主と共に登りました。そしてその心に語りかけるかのように、御自分の栄光の姿を御見せになりました。
またこの3人を特別に、他の弟子たちから離して、別の荒れ野にも連れて行きました、ゲッセマ二の園です。そして御自分の言う事ができない御苦しみを、悶えを、祈りの姿を、お見せになりました。
イエズス様は荒れ野に連れて行って、私たちの心に話しかけようとされています。これは特別の御恵みです。「主から招かれている」という、「愛の招きを受けている」という、特別な御恵みです。
そして今日この講話を聞いていらっしゃる愛する兄弟の皆さんは、特別の愛の対象です。主が御自分の思いを皆さんに語りかけようとしています。
ですから私たちは、主と共に荒れ野に、砂漠に参りましょう。
天主は私たちを招いて、そして私たちのこの地上の雑音から身を離させようとしています。聖マルコの福音によると、「主は、天主はイエズス様を砂漠に追い出した」とあります。天主は私たちを愛するが故に、私たちは砂漠へと荒れ野へと導かれています。
荒れ野、なぜ荒れ野なのでしょうか?
なぜかというと、「この世から離れている」という理由であるからです。この荒れ野に行くと、非常に単純で、変わる事もなく、そして全くこの地上のものから、この世の事から離脱していて、沈黙があります。センセーショナルな事はありません。厳しさがあります。そして人々が不在です。
砂漠に荒れ野に行くと、私たちの見つけるものは、単純な、厳しい、天主の御姿です。この荒れ野に招かれるというのは、天主様の懐に招かれるであるかのようです。この世を離れて、天主に御元に深く行くという事であるかのようです。天主様との親密なコンタクトを取る、天主と共にいる、私たちの霊魂を浄める、そして単純な真理の中に入る、という事であるかのようです。
ですから私たちは寛大に、この霊的なテレ講話の中に入っていきましょう。荒れ野に招かれる事に致しましょう。
私たちにとって一番大切なのは、「天主様の御旨を果たしたい。天主様の近くに行きたい」という事です。
これが私たちの最後の巡礼であるかのように、最後の講話であるかのように、私たちのこの時間を無駄にしないように、黙想致しましょう。私たちは特にこのGolden weekを、God’s week、天主様の1週間に、愛の黄金に満ちた、天主への愛に満ちた1週間となりますように、この世の喧騒から離れて、この世の私たちの心配事から離れて、他の人があー言っている、このニュースはあーだ、この世界はこーだ、という事から離れて、荒れ野に、天主様の御元に参りましょう。
天主だけを求めて、天主の聖寵を受け入れる事を求めて、それに満たされる事を求めて、天主様だけと生活するその恵みを求めましょう。
秋田に本当に巡礼に物理的に行けば、大自然の中でマリア様の元でそれも簡単に叶ったかもしれません。私たちはそれが叶わないの今、できるだけ寛大に、この世の事を忘れて、一時忘れて、被造物から離れて、被造物の事を忘れて、あの人が、この人が、という事を忘れて、天主に心を向けましょう。
なぜかというと私たちは、天主がその「心」に語りかける、と招いているからです。私たちの心に、天主の御国がやって来ますように、内的な天主様との親しい命が、生活が、私たちの心に確立しますように。
では私たちの心を、荒れ野のように、一切の雑音から離して、飛行機の雑音からも離して、電車の騒音からも離して、そして天主様に満たされて、荒れ野に参りましょう。天主様はこれを望んでおられます。天主様は私たちにどのような御恵みを与えようか、という事を知っています。
ところで、何で天主は私たちを荒れ野に導くのでしょうか?
なぜかというと、主は隠れておられるからです。沈黙の天主であるからです。私たちの肉の目では、目に見えない存在であるからです。天主様はいつも私たちに隠れて、愛の内に働きかけるからです。
その典型的な例が、「御聖体」です。イエズス様は御聖体の内に真に、パンの形色の内に、外見の内に、真に在す天主です。しかしこれは隠れて、パンの外見の下に隠れて、私たちに愛の内に働きかけます。
ちょうど全ての秘跡の中心であり、太陽であるかのように、私たちに真理の光と信仰の光の源となって、愛の熱の源となって、その私たちに光と、熱情と、天主に対する燃えるような愛を伝えてくれます。
私たちはこの光の前で、愛の前で、御聖体の前で、礼拝して、沈黙して、そしてファチマで100年前に天使がしたように、それを罪の償いを込めて、イエズス様を、真に御聖体の内に在し給うイエズス様を礼拝致します。天主は隠れて在す。
御受難の時もそうでした。私たちは四旬節の時に、特に聖週間にこの事を黙想しました。イエズス様は苦しみの、悲しみの人となって、全てのこの世の苦しみ、悲しみ、苦痛、屈辱を受け給いました。
御聖体では人の姿でなくなってパンの形を取っていらっしゃるように、御受難の時にはもはや人間ではないかのように、虫けらであるかのように、ただれて、血まみれになって、この世の全く屑であるかのようになられました。十字架の死に至るまで、屈辱を受けました。天主聖父を愛するが為に。
天主は隠れて、御自分の栄光、御自分の力強さ、御自分の御稜威を隠されて、私たちに愛を以って働きかけようとします。
天主はその秘密があります。この秘密をしかし全く隠すのではなくて、少しずつ私たちに近付くように、私たちがその中に入る事ができるように、助けてくれます。
イエズス様は私たちがその荒れ野に行く事ができるように、御自分で模範を示して下さいました。40日間40夜、御自分の公生活の最初に、荒れ野に行かれました。乾燥した、人が誰も住んでいない砂漠、荒れ野。私たちもこの荒れ野に招かれていきましょう。
私たちが求めるのは、単なる物理的な水の無い荒れ野ではありません。「霊的な沈黙」です。「被造物からの離脱」です。私たちの周りにある騒音が消えるというよりは、私たちの心に沸き起こる情念や、あるいは心配、あるいは憂鬱、あるいはその他色々な被造物の声、あれをしたい、これをしたい、あーだこーだ、それを沈黙させる事です。離脱する事です。被造物を全て脱ぎ捨てる事です。天主に渇く、天主を求める、天主のみと生きる、天主を愛する、という事です。
旧約時代、モーゼを通して天主御自身が、マンナを以って、砂漠で彼らを、旧約の民を養われました。天主は今も私たちに、砂漠で荒野で、御自分自身を以って養って下さろうとされます。「御聖体」は、十字架という最も高貴な木に実る実りです。天主御自身です。それを以って私たちを養おうとされます。
その為に私たちは、天主のみを求める荒れ野に参りましょう。天主を愛するが為、天主の為に、天主と共に、そして天主を受ける為に、天主に満たされるが為に、荒れ野に参りましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。