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霊的秋田巡礼 霊的講話2 沈黙の天主、天主の沈黙。この沈黙にこたえる二つのやり方「この世の答え」と「天主を愛する人々の答え」

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2020年5月4日(月)霊的秋田巡礼 霊的講話2
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
沈黙の天主、天主の沈黙。この沈黙にこたえる二つのやり方「この世の答え」と「天主を愛する人々の答え」



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、では主に招かれて、荒れ野に参りましょう。荒れ野で天主様は私たちに、沈黙の中で語って、私たちに語りかけてくださいます。ですから私たちは天主様の沈黙の中に入りましょう。イエズス・キリストの沈黙の中に、御聖体の沈黙、御受難の沈黙の中に深く入りましょう。

秋田でシスター笹川が、天使あるいはマリア様の声を聞くその前に、不思議な現象が起こりました。それはシスターの耳が全く聞こえなくなった事です。全く聞こえませんでした。お医者さんに行って、どのような大きな音をかけても、全く聞こえませんでした。

では私たちもこの沈黙に、シーンとした沈黙の中に入る事に致しましょう。

イエズス様は40日間、砂漠の荒野に入られましたが、そして沈黙の内に祈りをされました。旧約時代でも同じでした。シナイ山においてモーゼは、40日40夜留まって、そして天主に祈っていました。「モーゼは山に登った。雲は山を覆い、主の栄光はシナイの山に留まり、雲は6日の間山を覆っていた。そして7日目、主は雲の中からモーゼを呼ばれた。イスラエルの民の目には、山頂の主の栄光が、燃え盛る炎のように見えた。モーゼは雲の中に入った。彼は山に登って、40日40夜そこに留まった。」

シナイ山の姿は恐るべきもので、もうこの世の終わりかと思われるほどでした。山頂からは雲が立ち上り、炎が見え、光が見え、主の栄光が御稜威が見えました。この中で主はモーゼに語りかけました。

シナイ山は別名「ホレブの山」とも言います。天主の人、祈りの人、奇跡を起こす人、全く天主と一致していた男エリア、預言者エリアは、ホレブの山に行きます。

その前にはサレプタで、寡婦の子供を生き返らせます。奇跡を、一大奇跡を行なった大預言者です、エリア。

そしてバアルの司祭たちを皆殺しにしました。真の天主ヤーウェを信じるエリア。

なぜホレブの山に行くようになったかというと、この天主の男であったエリアも、このアカブ王が、預言者を全て刺し殺したという事を伝えると、イザベル、この女性はエリアに使者を送ってこう言うのです、「お前があの預言者共にしたように、お前の命を明日この時刻に私が奪わなければ、神々が私自身それと同じように、いやそれよりも酷く扱われても良い。」

エザベル女王は、「エリアを殺す」と言ったのです。

すると、この天主の男である預言者は、非常に恐れました。「エリアは恐れ」と書かれています。自分の命を救おうと旅立ち、荒れ野に入り込み、自分の死を願って言います、「主よ、もうたまりません。私の命を絶って下さい。私は先祖より優れた人間ではありません。」

すると主は一位の天使を送って、この天使はエリアに、「起きて食べよ」と言います。すると焼いた固パンと水の筒がありました。エリアはそれを食べて、水を飲んで、横たわると、主の天使は再び彼に触れて、「さぁ食べよ。そうしないとお前は長い旅に耐えられまい」と言います。

エリアは起き上がって飲食し、それに勢いをつけて、天主の山ホレブまで40日40夜歩き続けます。

ところでエリアは、ホレブで天主の声を聞きます、天主と出会います、「ホレブに着くと、洞穴に入り夜を過ごした。」その時主は、「エリアよ、そこで何をしているのか」と仰せられます。エリアは答えます、「イスラエル人はあなたとの契約を破り、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。私は万軍の天主なる主の為に、力の限り奮闘しました。残ったのは私1人ですのに、彼らは私の命も狙っているのです。」

すると主は、「そこを出て、山の上、天主の前に立て」と仰せられます。すると天主は、通って行かれます。

山は揺れて、石は割れるほどの強い風が吹き荒れます。でもこの強い強風、嵐の中に、主はいらっしゃいませんでした。

風の後に嵐の後に、地震が来ます。でも主は、地震の中にもいらっしゃいませんでした。

地震の後に、火が来ます。でも主は、火の中にもいらっしゃいませんでした。

火の次に、そよ風がします。エリアはその音を聞くと、外套で面を覆い、「天主が在す」という事が分かり、そして恐れて外に出て、洞穴の入り口に足を止めます。ちょうどケルビムが、天主の御前で羽を以って顔を覆ったかのようです。

天主は強い嵐の中にも、地震の中にも、火の中にも在し給わず、静かなそよ風の中にいらっしゃいました。沈黙の中にいらっしゃいました。

預言者エリア

天主は沈黙の中で、たった一つの、一言を、御言葉を話されました。「はじめに、御言葉があった。」

ですから私たちは、沈黙の中に入らなければなりません。天主に満たされる為に、天主の御旨を知る為に、沈黙の中に入りましょう。

「沈黙」というのは、しゃべらないというよりは、「私たちの心を、天主の方に向ける」という事です。「被造物ではなく、創られない天主の方に心を向ける」という事です。「考えを向ける」という事です。そして「天主の事に集中する」という事です。「天主の事を知ろうとする」事です。「天主を愛そうとする」事です。

「沈黙」という事と、「静けさ」という事と、そして「いつも同じだ」という事と、「全ては完成させられている」という事は、同じであるかのように思われます。

3人の弟子たちが、タボル山という荒れ野に連れて行かれた時に、天主御父はこう言います、「これこそ、私の愛する子。彼に聞け」と。

アルファでありオメガである、始めであり終わりである、かつて在り、今在り、そして将来も永遠に在す、天主御子のその御言葉を「聞け」と。

天主こそが在りて在るものであって、それ以外のものは全く無に等しい、空しいものです。全ての被造物は全く空しいものです。天主のみを信じ、礼拝し、希望し、愛さなければなりません。全てに越えて、天主を信じ、礼拝し、希望し、愛さなければなりません。そして天主の為に、隣人をも我が身の如く愛さなければなりません。

しかし私たちの知っている真理は、「天主こそが在りて在るものであって、その他のものは無きに等しいものである、天主によって在らされているものである、空しい存在である、この世に来ては、そしてあっという間に消えてしまう、束の間の儚い存在である。全ての被造物は全く空しい」と教えています。

私たちは天主の中に生きて、天主の中に動いて、天主の中に今、こうして存在しています。

イエズス様は仰います、「アブラハムが在った前に、私は在る」と。「私は在る。」
天主はモーゼに、この御自分の御名を言います、「私は、在りて在るものである。」
イエズス様は言います、「私は在る。永遠に在る。」

天主こそ、全ての被造物を超越し、全ての存在を超越して、在りて在る真の天主です。イエズス・キリストこそ、真の天主です。そしてこの天主イエズス・キリスト様が、私たちの心と心に、沈黙の内に語りかけようとしています。

なぜかというと、天主は私たちの最も奥深くに、私たちを在らしめている方であるから、私たちの最も心の親密なところに、考えの最も奥深くに、語りかける事ができる存在であるからです。私たちに真理を教える事ができるからです。

天主は、この世の全てを統治しておられます。全ての全歴史を、支配しておられます。髪の毛1本でさえも、主の許しなく御存知ない事なく落ちる事はありません。この世に起こる事全てが、主の目の前に全く包み隠さず明らかです。私たちの考えも、密かな考えも、思いも、主の前に全く明らかです。全ては主の力によって維持されているからです。

イエズス様がたとえ馬鹿にされ、冒瀆され、侮辱され、唾を吐かれ、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、十字架を担わされ、ありもしない嘘や、攻撃や、讒言などを吐かれ、そして遂には十字架の上で御血を流された、その時に、イエズス様をそのようにしている悪人ども、信じない人々さえも、創造の力でそれを在らしめて、それに存在する事を許しておられました。天主は、沈黙の内に全てを支配しておられます。

ただ罪だけは、人間の自由意志を以って犯します。

天主は沈黙の内に、私たちに存在を与え、そして私たちを生かし、そして私たちに御恵みを、そして溢れる御恵みを、聖寵を、恩寵を与え続け、更に与え続け、与え続けています。

洗礼の時も、私たちは沈黙の内に、そして全く静けさの内に、聖寵を受けました。成聖の聖寵を受けました。天主の命を受けました。人間がこの世に宿る時も、全く沈黙の内に宿ります。

沈黙の内に天主は、成聖の恩寵にいる、罪が赦された状態にある霊魂たちの中に住まわれます。愛を以って住まわれます。そうする事によって私たちに、天主の命を伝えようとされます。沈黙の内に。

では私たちは、この沈黙の天主、天主の沈黙にどうやって答えたら良いでしょうか?

2つの答えがあります、「この世の答え」と、「天主を愛する人々の答え」です。

「この世の人々」は、天主の沈黙の前に、やっぱり軽蔑の、そして無関心、注意を払わない事で答えようとします。回心の呼びかけ、罪から離れる呼びかけを無視しようとします。それに耳を塞ごうとします。そしてそれから無関心と拒否を以って答えようとします。

福音にもありました。金持ちの青年が、「主よ、私はどうしたら良いですか?」主は愛の眼を以って彼に答え、「全てを捨てて、私に従え」と。するとこの青年は、非常に悲しそうに主を去っていきます。お金持ちだったからです。自分の持っている被造物に対する愛着を、捨てる事ができませんでした。彼も黙って主を捨て去りました。主の招きに答えませんでした。

ユダもそうでした。「友よ、お前は口づけを以って人の子を裏切るのか?」ユダはそれに答えません。沈黙を以って裏切り続けます。「俺は知らんよ」とでも言うかのようです。

ポンシオ・ピラトもそうでした。主が、「私は、真理を証明する為に生まれてきた」と言い、ピラトは主にイエズス様に質問をします、質問というか、「真理なんて何だ。」そしてイエズス様に答えようとしません。「そんなもの知らんよ。そんなものあるか。」

十字架の上でも、イエズス様の左右に2人の罪人がいました、盗賊がいました。そのうち左に立っていた盗賊は、イエズス様のその御姿を見て、冒瀆を言い、無関心、そして罪の赦しを乞う代わりに、それを拒否します。

イエズス様の愛を、「愛さない」で答えようとするこの世。

あたかも、現代世界の縮図であるかのようです。なぜかというと、この現代社会は、全ての事について語ろうとします。この大自然の秘密、人間の秘密、ウィルス、病気、天体、この地球の構造、あるいは宇宙の果てしないと天体のなにそれ。しかし、天主については話そうとしません。それ以外の事を以って気を散らそうとします。永遠について、真に在すこの世の創り主について、それ以外の事で気を紛らわそうとします。あえて自分は無知でいる事を望んでいるかのようです。

「主を愛する人たち」は、聖人たちは、この主の愛を、この沈黙を聞く事によって、沈黙の中に主の御言葉を聞こうとして、答えました。沈黙の中に留まって、そして沈黙を愛そうとして聞きました。

私たちの霊魂は、主の神殿です。主が沈黙の内に住まわれています。そこの中で、私たちの心の中で、その影響をますます大きくしよう、大きくしようと望んでおられます。

天主が私たちの心を支配する事ができるように、天主以外のものを、罪と被造物に対する愛着と情念、その他の雑音を全て取り除きましょう。そうする事によって、主の沈黙に答えましょう。そうする事によって、主を讃美して、そして主に近付く事に致しましょう。

イエズス様はナザレトで、全く沈黙の内に30年間過ごされました。十字架の上で御自分を無にして、沈黙をされました。そして御聖体の内に、全く自分を無として、私たちを養おうと沈黙されます。御謙遜と、従順と、隠れた生活、天主御父との生活の模範を見せられました。

私たちもこれに倣って、単純に、そして内的な生活、沈黙、この世の喧騒や儚さから離脱する事に致しましょう。それができますようにお祈り致しましょう。主は、私たちを沈黙の中に招いています。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

霊的秋田巡礼 「イエズス様の沈黙:なぜ私たちは沈黙の中に入らなければならないか」霊的講話2



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