2020年5月5日(火)霊的秋田巡礼 霊的講話3
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「被造物から全て離脱した、聖なる荒れ野、神殿として、イエズス様はマリア様の御胎内を選ばれた」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、ではテレ巡礼を続けていきます。
私たちは主から、荒れ野に行くように招かれました。ところで、私たちがその荒れ野に行く事ができるように、模範を見せて下さった方がいらっしゃいます。マリア様です。
マリア様とイエズス様は、決して離す事ができません。決して離す事ができないという事は、イエズス様がいらっしゃるところには必ず、マリア様がいらっしゃるからです。マリア様がいらっしゃるところには必ず、イエズス様がいらっしゃるからです。
イエズス様がこの地上に来られたその最初の瞬間から、そしてこの地上で息を引き取られた、十字架の下にいらしたその時も、常に一緒におられました。
マリア様はイエズス様をお生みになる為に、この地上に生を受けました。そしてマリア様はイエズス様によって、御自分の母となる事を選ばれました。
イエズス様とマリア様は、愛によって、沈黙の内に、一つの事を望んでいます、「天主の栄光と、そして霊魂の救い」です。もしも天主が選ばれた霊魂たちを荒れ野に、この被造物から離れて、この喧騒から、儚さから離れて、単純な、そして変わる事のない、厳しい荒れ野に招いたとすれば、マリア様こそまさに、その選ばれた方でした。
いえ、もっと言うとマリア様こそ、この被造物の全ての喧騒や、儚さ、虚しさ、つまらなさから切り離された御方です。無原罪の御孕りであるからです。マリア様には罪の汚れが一つも、一切ない、単純な、清らかな、純粋な御方であったからです。
あたかも被造物から全て離脱した、聖なる荒れ野、神殿として、イエズス様はマリア様の御胎内を選ばれたかのようです。マリア様において天主に逆らうものは何一つありませんでした。全てが天主によって満たされていました。聖寵充ち満てる御方でした。その聖寵のその程度は、その満ち溢れの度合いは、全ての天使、そして聖人たちをはるかに超越するものでした。マリア様はイエズス・キリストに満たされて、天主に満たされて、イエズス様と全く一つとなっていました。
イエズス様はマリア様によって運ばれていました。イエズス・キリストをマリア様は御自身で、御自身の中で運ばれていました。生ける天主の聖櫃となっていました。イエズス・キリストというのは真の天主、全ての聖寵の創り主、そして天主の第二のペルソナ、三位一体の第二のペルソナ、天主の御言葉、永遠の知恵、それ御自身を、マリア様が御胎内にお運びになります。
聖寵充ち満てる御方、天主に充ち満てる御方、イエズス・キリストに充ち満ちて、溢れている御方、マリア様です。無原罪の御孕りです。インマクラータです。マリア様こそ、天主に対する信仰と、礼拝と、希望と、愛に、溢れていました。
マリア様はただ御聖櫃の中に、あるいはチボリウムの中に御聖体がある、というように、物体的に、あるいは物理的に、イエズス様を中に御胎内に入れた、例えば香炉入れの中に香炉を入れた、物理的にそうだった、だけではありません。マリア様の中には、イエズス様が浸透して、イエズス・キリストに対する信仰と、礼拝と、希望と、愛によって、深く染み通り、天主に充ち満ちて、一体となっていたからです。ただ物理的な、その中にある、を遥かに超えた存在でした。
創られない天主の御言葉、偉大な全てを超越する創造主、全てはこれによって創られた、その天主の御子、御言葉、永遠の知恵が、天から降られて、マリア様の御胎内にお住みになりました。まさに天主の生ける神殿でした。天主の御国でした。
私たちは洗礼を受けたその時に、三位一体が私たちの罪を全て赦されて、そして私たちの霊魂に住み始めました。カトリック信仰はそう私たちに教えてくれます。
マリア様はこの御自分の存在の最初の瞬間から、全く天主に充ち満ちて、罪の汚れを一切持たずに、存在を始められました。その瞬間から、最初の瞬間から、マリア様は沈黙の内に、天主を礼拝していました。天主の元に、天主の御前で、御自分を無とされて、沈黙の内に礼拝していました。全ての天使たち、全ての聖人たちを遥かに勝って、マリア様の礼拝と愛は、燃え立つようなものでした。御謙遜に、そして熱烈な愛の讃美を、マリア様は最初の瞬間から、存在の最初の瞬間から、天主に捧げていました。
永遠の知恵、イエズス・キリストを受ける上智の座、マリア様。この霊魂からは、マリア様の汚れない霊魂からは常に、礼拝と、讃美と、感謝、祈りの快い香りの香が天に立ち上っていました。マリア様の沈黙、被造物からの離脱、儚いものからの離脱、罪に対する憎しみ、嫌悪、そして軽蔑。しかしそれと同時に、天主に対する愛と、罪人に対する同情と、憐れみは、私たちを招いています。
天主の御母。永遠の全知全能の天主の御母、天主にそれほどまでも一致しておられる御母、天主によってそれほどまでも豊かに高められた、恵みに満ち溢れている御母、聖寵の御母、天主によって全く清められた最高の美、被造物の傑作、その御母。
天使でさえも、マリア様のその前に尊敬を、そして敬意を払う、マリア様のその霊魂の清さ。大天使はマリア様にこう挨拶します、「聖寵充ち満てる御身に挨拶致します。」“Ave, gratia plena.”
ちょうど御聖体を入れる顕示台のように、マリア様は私たちに天主を示しています。マリア様において私たちは、天主を沈黙の内に愛し、礼拝し、そして讃美し、感謝し、褒め称えましょう。
マリア様は、繰り返しますけれども、マリア様はただ御聖体を、イエズス・キリストをただ入れた顕示台ではありません。この御聖体を、御自分の御血を以って、御自分の母の愛を以って養い、そして育てた御母です。このマリア様の前では、全てのこの世のつまらない雑音、騒音、心配などは、沈黙しています。
マリア様に有るのは、天主に対する信仰と、礼拝と、希望と、愛です。被造物からの離脱です。この霊魂には、この世の中がどのように騒いでいても、平安がありました。平和がありました。沈黙における喜びがありました。いつもその霊魂は穏やかで、秩序立っていて、全ては天主の為に、天主へと向かっていました。
平和の元后。まさに天主が私たちに与える、秩序における安息さ、平穏さの元后であります。私たちにその平和を伝える方です。
「平和を作り出す者は幸いなるかな。彼は天主の子と呼ばれるだろう。」
マリア様こそ、私たちに平和を与えて下さるものです。全てを、天主を頂点として秩序立てる事ができる平和を与えて下さるからです。マリア様の霊魂は、悲しみの剣でどれほど刺し貫かれた事でしょうか。しかし全てを、天主の為に受け入れました。平和の内に、沈黙の内に。
私たちもマリア様の元に駆け寄りましょう。マリア様のように天主を愛する、天主に私たちの身を一致させる、私たちの身を捧げる。
天主を愛するという事は、これは私たちの力では到底できません。被造物の身で分際で、一体超自然の御方をどうやって愛する事ができるでしょうか。天主様の御助けが必要です。天主様の愛を以って、天主を愛さなければなりません。マリア様がそれを、私たちに助けて下さいます。天主様に愛されて、天主様の御恵みを受けてこそ、天主を愛する事ができるからです。
マリア様は天主様から愛されて、聖寵の充ち満ちを受けて、それを以って天主を愛されました。ですから私たちも、心を天主に広げなければなりません。大きく開けなければなりません。被造物ではなくて、天主の御恵みを、天主の聖寵を、私たちの心に受け入れなければなりません。その為には心が全て被造物において空でなければなりません。天主に満たされなければなりません、マリア様のように。ちょうど貞潔なマリア様のように。
マリア様は仰います、「私は主の婢女である。仰の如く我になれかし。」
聖パウロはきっと、「主の奴隷だ」と言う事でしょう。イエズス様とマリア様は決して離れる事がありません。イエズス様が天主聖父に従順であったように、しかも十字架の死に至るまで従順であったように、マリア様も従順で、同じように従順であります。イエズス様の十字架の足下に至るまで、従順でした。
マリア様は、終生童貞で貞潔を守りました。これはただ肉欲から離れている、というだけではありません。マリア様の心には、この世からの離脱の他に、更に超えて、その離脱を天主による愛によって埋めて、それに満たされていました。
私たちの沈黙、荒れ野に行くというこの目的は、マリア様に倣って、ただ単なる沈黙、荒れ野ではありません。私たちの目的は、「天主の御言葉を愛し、これに満たされて、天主の愛に満たされる」という事です。「天主と一致する」という事です。
そしてこの最も美しい理想を、模範を、マリア様が示して下さっています。マリア様は愛に燃えて、十字架の下に立ち留まります。イエズス・キリストの愛に全く御自分を捧げて一致されます。イエズス様の苦しみに御自分の苦しみを添えて、一つとなります。イエズス様の燃える望みと御自分の望みを全く一つにさせます。聖寵に充ち満ちて、キリストに充ち満ちた御方となります。
では愛する兄弟の皆さん、私たちも、マリア様の元に馳せ寄りましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
霊的秋田巡礼 「マリア様の沈黙:マリア様こそ聖なる荒れ野。私たちが荒れ野に行くための美しい模範。」霊的講話3
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「被造物から全て離脱した、聖なる荒れ野、神殿として、イエズス様はマリア様の御胎内を選ばれた」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、ではテレ巡礼を続けていきます。
私たちは主から、荒れ野に行くように招かれました。ところで、私たちがその荒れ野に行く事ができるように、模範を見せて下さった方がいらっしゃいます。マリア様です。
マリア様とイエズス様は、決して離す事ができません。決して離す事ができないという事は、イエズス様がいらっしゃるところには必ず、マリア様がいらっしゃるからです。マリア様がいらっしゃるところには必ず、イエズス様がいらっしゃるからです。
イエズス様がこの地上に来られたその最初の瞬間から、そしてこの地上で息を引き取られた、十字架の下にいらしたその時も、常に一緒におられました。
マリア様はイエズス様をお生みになる為に、この地上に生を受けました。そしてマリア様はイエズス様によって、御自分の母となる事を選ばれました。
イエズス様とマリア様は、愛によって、沈黙の内に、一つの事を望んでいます、「天主の栄光と、そして霊魂の救い」です。もしも天主が選ばれた霊魂たちを荒れ野に、この被造物から離れて、この喧騒から、儚さから離れて、単純な、そして変わる事のない、厳しい荒れ野に招いたとすれば、マリア様こそまさに、その選ばれた方でした。
いえ、もっと言うとマリア様こそ、この被造物の全ての喧騒や、儚さ、虚しさ、つまらなさから切り離された御方です。無原罪の御孕りであるからです。マリア様には罪の汚れが一つも、一切ない、単純な、清らかな、純粋な御方であったからです。
あたかも被造物から全て離脱した、聖なる荒れ野、神殿として、イエズス様はマリア様の御胎内を選ばれたかのようです。マリア様において天主に逆らうものは何一つありませんでした。全てが天主によって満たされていました。聖寵充ち満てる御方でした。その聖寵のその程度は、その満ち溢れの度合いは、全ての天使、そして聖人たちをはるかに超越するものでした。マリア様はイエズス・キリストに満たされて、天主に満たされて、イエズス様と全く一つとなっていました。
イエズス様はマリア様によって運ばれていました。イエズス・キリストをマリア様は御自身で、御自身の中で運ばれていました。生ける天主の聖櫃となっていました。イエズス・キリストというのは真の天主、全ての聖寵の創り主、そして天主の第二のペルソナ、三位一体の第二のペルソナ、天主の御言葉、永遠の知恵、それ御自身を、マリア様が御胎内にお運びになります。
聖寵充ち満てる御方、天主に充ち満てる御方、イエズス・キリストに充ち満ちて、溢れている御方、マリア様です。無原罪の御孕りです。インマクラータです。マリア様こそ、天主に対する信仰と、礼拝と、希望と、愛に、溢れていました。
マリア様はただ御聖櫃の中に、あるいはチボリウムの中に御聖体がある、というように、物体的に、あるいは物理的に、イエズス様を中に御胎内に入れた、例えば香炉入れの中に香炉を入れた、物理的にそうだった、だけではありません。マリア様の中には、イエズス様が浸透して、イエズス・キリストに対する信仰と、礼拝と、希望と、愛によって、深く染み通り、天主に充ち満ちて、一体となっていたからです。ただ物理的な、その中にある、を遥かに超えた存在でした。
創られない天主の御言葉、偉大な全てを超越する創造主、全てはこれによって創られた、その天主の御子、御言葉、永遠の知恵が、天から降られて、マリア様の御胎内にお住みになりました。まさに天主の生ける神殿でした。天主の御国でした。
私たちは洗礼を受けたその時に、三位一体が私たちの罪を全て赦されて、そして私たちの霊魂に住み始めました。カトリック信仰はそう私たちに教えてくれます。
マリア様はこの御自分の存在の最初の瞬間から、全く天主に充ち満ちて、罪の汚れを一切持たずに、存在を始められました。その瞬間から、最初の瞬間から、マリア様は沈黙の内に、天主を礼拝していました。天主の元に、天主の御前で、御自分を無とされて、沈黙の内に礼拝していました。全ての天使たち、全ての聖人たちを遥かに勝って、マリア様の礼拝と愛は、燃え立つようなものでした。御謙遜に、そして熱烈な愛の讃美を、マリア様は最初の瞬間から、存在の最初の瞬間から、天主に捧げていました。
永遠の知恵、イエズス・キリストを受ける上智の座、マリア様。この霊魂からは、マリア様の汚れない霊魂からは常に、礼拝と、讃美と、感謝、祈りの快い香りの香が天に立ち上っていました。マリア様の沈黙、被造物からの離脱、儚いものからの離脱、罪に対する憎しみ、嫌悪、そして軽蔑。しかしそれと同時に、天主に対する愛と、罪人に対する同情と、憐れみは、私たちを招いています。
天主の御母。永遠の全知全能の天主の御母、天主にそれほどまでも一致しておられる御母、天主によってそれほどまでも豊かに高められた、恵みに満ち溢れている御母、聖寵の御母、天主によって全く清められた最高の美、被造物の傑作、その御母。
天使でさえも、マリア様のその前に尊敬を、そして敬意を払う、マリア様のその霊魂の清さ。大天使はマリア様にこう挨拶します、「聖寵充ち満てる御身に挨拶致します。」“Ave, gratia plena.”
ちょうど御聖体を入れる顕示台のように、マリア様は私たちに天主を示しています。マリア様において私たちは、天主を沈黙の内に愛し、礼拝し、そして讃美し、感謝し、褒め称えましょう。
マリア様は、繰り返しますけれども、マリア様はただ御聖体を、イエズス・キリストをただ入れた顕示台ではありません。この御聖体を、御自分の御血を以って、御自分の母の愛を以って養い、そして育てた御母です。このマリア様の前では、全てのこの世のつまらない雑音、騒音、心配などは、沈黙しています。
マリア様に有るのは、天主に対する信仰と、礼拝と、希望と、愛です。被造物からの離脱です。この霊魂には、この世の中がどのように騒いでいても、平安がありました。平和がありました。沈黙における喜びがありました。いつもその霊魂は穏やかで、秩序立っていて、全ては天主の為に、天主へと向かっていました。
平和の元后。まさに天主が私たちに与える、秩序における安息さ、平穏さの元后であります。私たちにその平和を伝える方です。
「平和を作り出す者は幸いなるかな。彼は天主の子と呼ばれるだろう。」
マリア様こそ、私たちに平和を与えて下さるものです。全てを、天主を頂点として秩序立てる事ができる平和を与えて下さるからです。マリア様の霊魂は、悲しみの剣でどれほど刺し貫かれた事でしょうか。しかし全てを、天主の為に受け入れました。平和の内に、沈黙の内に。
私たちもマリア様の元に駆け寄りましょう。マリア様のように天主を愛する、天主に私たちの身を一致させる、私たちの身を捧げる。
天主を愛するという事は、これは私たちの力では到底できません。被造物の身で分際で、一体超自然の御方をどうやって愛する事ができるでしょうか。天主様の御助けが必要です。天主様の愛を以って、天主を愛さなければなりません。マリア様がそれを、私たちに助けて下さいます。天主様に愛されて、天主様の御恵みを受けてこそ、天主を愛する事ができるからです。
マリア様は天主様から愛されて、聖寵の充ち満ちを受けて、それを以って天主を愛されました。ですから私たちも、心を天主に広げなければなりません。大きく開けなければなりません。被造物ではなくて、天主の御恵みを、天主の聖寵を、私たちの心に受け入れなければなりません。その為には心が全て被造物において空でなければなりません。天主に満たされなければなりません、マリア様のように。ちょうど貞潔なマリア様のように。
マリア様は仰います、「私は主の婢女である。仰の如く我になれかし。」
聖パウロはきっと、「主の奴隷だ」と言う事でしょう。イエズス様とマリア様は決して離れる事がありません。イエズス様が天主聖父に従順であったように、しかも十字架の死に至るまで従順であったように、マリア様も従順で、同じように従順であります。イエズス様の十字架の足下に至るまで、従順でした。
マリア様は、終生童貞で貞潔を守りました。これはただ肉欲から離れている、というだけではありません。マリア様の心には、この世からの離脱の他に、更に超えて、その離脱を天主による愛によって埋めて、それに満たされていました。
私たちの沈黙、荒れ野に行くというこの目的は、マリア様に倣って、ただ単なる沈黙、荒れ野ではありません。私たちの目的は、「天主の御言葉を愛し、これに満たされて、天主の愛に満たされる」という事です。「天主と一致する」という事です。
そしてこの最も美しい理想を、模範を、マリア様が示して下さっています。マリア様は愛に燃えて、十字架の下に立ち留まります。イエズス・キリストの愛に全く御自分を捧げて一致されます。イエズス様の苦しみに御自分の苦しみを添えて、一つとなります。イエズス様の燃える望みと御自分の望みを全く一つにさせます。聖寵に充ち満ちて、キリストに充ち満ちた御方となります。
では愛する兄弟の皆さん、私たちも、マリア様の元に馳せ寄りましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
霊的秋田巡礼 「マリア様の沈黙:マリア様こそ聖なる荒れ野。私たちが荒れ野に行くための美しい模範。」霊的講話3