2020年5月5日(火)霊的秋田巡礼 霊的講話4
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「私たちの主の飢えと渇き」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さん、ではテレ巡礼を続けていきましょう。
私たちは既に、天主様の愛の対象であって、愛を受けて荒れ野に招かれた、という事を黙想しました。「荒れ野に招かれた」というのは、被造物に全く空になって、そして天主様に満たされる為です。
「沈黙」というのは、天主の声を聞く為です。被造の雑音から遠ざかって、愛の声を聞く為です。愛に満たされる為です。
ですから私たちも、私たちの主と一緒に荒れ野に行きましょう。40日間、主は公生活の最初に、荒れ野に行って沈黙の内に祈りました。この燃えるような熱い沈黙を黙想しましょう。
40日の断食と祈りの後に、イエズス様は飢えを感じられました。公生活に入って、これから皆の前に人生を以って、生き様を以って、模範を以って、御教えを以って、公生活を始めようという、教えようというその最初に、主は飢えを感じられました。
何か必要があった、何か食べる必要があったという事です。砂漠を出るとき、荒れ野を出る時に、主は飢えを感じられました。
ところで、私たちの主が人生の終わりに、十字架の上で沈黙を守ります。十字架の上では、飢えではなくて、「私は渇く」と言われました。人生の終わりに、公生活の終わりに、「渇く」と、これから亡くなろうと、命を天主聖父の元に返そうとする時に、主の中に入ろうとする時に、「私は渇く」と言いました。
この公生活の最初の「飢え」と、公生活の終わりの人生の終わりの「渇く」というのは、何か深い意味がありそうです。同じ沈黙の中になされた事ですけれども。
「飢え」というのは、お腹が減っている、飢えているというのは、何かこれから歴史的な、この世の、人間の人生を、この世の事を始める時に、それに取り掛かる時に感じた事でした。限られたこの人生を生きる時に感じられたものでした。
「私は渇く」と言った時には、これから永遠の世界に入ろうとする時に感じられたものでした。無限の、そして果てしのない世界に入るその時に、「渇く」と言われました。天主様の無限の果てしのない望みを、天主に関する事に、関わる事であるかのようです。
イエズス様が40日の断食の後に飢えを感じられた後に、サタンは悪魔は、このイエズス様の事が分かりました。そこでイエズス様を試みようと、とても魅力的な誘惑をしようと思いました、「この地上のものに関わりたいのならば、もしもそうであるのならば、お前が天主の子であるなら、私の前に膝を屈めて礼拝せよ。そうすれば、この全ての地上の栄華、富をお前に与えよう。全ての政治、経済、この世の権力、富、名誉、名声、それに飢えているのではないか」と、サタンは感じたかのようです。
しかし人生の終わりに、十字架の上で渇きを感じられた主が、「私は渇く」と言った時に、サタンはそれが何を意味するか分かりませんでした。「水を飲みたいのであるか?」と思って、酢と苦い物を与えただけでした。イエズス様の渇きはそんなものではありませんでした。全く理解できていませんでした。確かに水に似たようなものではありましたけれども、イエズス様の渇きはもっと深い、そして無限の渇きでした。天主の深い淵に関わる、永遠に関わる渇きでした。
イエズス様の燃えるような、この十字架の上での渇き、願い、望みとは一体、何だったのでしょうか?
ちょうど十字架の上で、そしてまた全生涯の中で、イエズス様の持っていた強い望み、「天主聖父の栄光と、そして霊魂の救い」というこの望み、これを表していました。
ちょうど沈黙の内に隠れて見えなかったけれども、ちょうど大きな氷の塊が、海の中で先っぽだけを見せて、そのほとんどが海の中に隠れているように、イエズス様の無限の、天主聖父を讃美したい、聖父を愛し、その御旨を果たしたい、その御旨のみを果たしたい、という沈黙の願いは、「私は渇く」と言った時に、ちらりと姿を見せたかのようです。
イエズス様はこの世に入る時に、「聖父よ、私は御身の御旨を果たす為に来ました」と言いました。聖パウロが証言しています。イエズス様は御望みになったので、そう御望みになったので、御自分をいけにえとして捧げました。“Oblatus est, quia ipse voluit.”
イエズス様の沈黙の内の隠れた熱い望み、願いとは、一体何だったのでしょうか?
それは、私たちの罪の償いです。人間の受けるべき罰、そして人間がしたくてもできない、し尽くす事ができない罪の償い、贖いの業を成し遂げる、そしてそうする事によって、天主聖父に栄光を与える、霊魂を救う、この贖いの為に、十字架の上で残酷な死を遂げて、聖父の御旨を果たし尽くす、これでした。
天主の御言葉が、創られなかった天主の御言葉が、天主聖父の発生した唯一の御言葉が、人間となって、肉を取って、そして御託身によって人間となったとしたならば、それは私たちの罪の償いの為に、十字架の上にいけにえとなって屠られる事でした。天主の小羊となって屠られる事でした。私たちの罪の贖いと、いけにえとなる事でした。
天主の本性が、至聖三位一体の第二のペルソナにおいて、人間の本性と全く合体しました。分かつ事ができないほど、親密に合体しました。この一致の恵み、これは一体何の為だったのでしょうか?なぜ天主は人となったのでしょうか?御言葉のペルソナにおいて、人性と天主性が一つとなったのでしょうか?
それは、罪のいけにえとなる為です。贖いの業を成し遂げる為です。この超自然の御恵み、聖寵は、一致の御恵みは、イエズス様にとっては苦しみの原理でした。この一致を以って、イエズス・キリストは、天主の御言葉は、人となった天主の御言葉は、苦しみ、死を捧げる事ができるようになりました。この一致は、天主の本性と人間の本性が一つとなったというこの一致は、イエズス・キリストの聖徳の原理でもあり、それと同時に、贖い、苦しみの原理でもありました。栄光の原理その元であると同時に、屈辱と、そして十字架の死に至るまでの無となる原理でもありました。
イエズス様がこの地上に来られたその最初の瞬間、マリア様が「我になれかし」と言われて、御胎内に天主の御子が宿られたその瞬間から、一つの沈黙の内の熱い願いが、天主の御言葉に、人となった天主の御言葉に、イエズス・キリストにありました。「受難。」そして「いけにえとなる。天主聖父の御旨を果たして、十字架に至るまで従順である。十字架の死に至るまで従順である」という事でした。
イエズス様が聖なる者であればあるほど、清らかな者であればあるほど、天主と一致すれば一致しているほど、まさに罪を償うに相応しいものでした。イエズス様が栄光に満ちていれば満ちているほど、天主の御稜威に満ちていれば満ちているほど、無とする事ができる方となりました。
イエズス様は、氷山の一角のように、沈黙の内にある望みをポロリと仰った事が時々あります、「私の食べ物は、聖父の御旨を果たす事だ。」「私には受けなければならない洗礼がある。」一体これは何でしょうか?血による洗礼です。
ある時、マグダレナのマリアが、イエズス様の御足元でナルドの香油を塗って、そして「その高価な物を何でそんな粗末にするのか」とユダに嗜められた事がありました。その時にイエズス様がすぐに仰ったのは、「これは、私の葬りの為だ。」
イエズス様が考えてあったのは、いつも御受難の事でした。十字架における死の事でした。「私の時」の事でした。
ある時、弟子たちの母親たちがやって来て、「ああ、私の子供を、あなたの栄光の時にあなたの右に是非座らせて下さい。大臣に、あるいは長官にして下さい。栄誉を与えて下さい」と頼んだ時があると、すぐにイエズス様の頭にあったのが、「では彼らは、私の飲もうとする杯を飲む事ができるのか?受難を飲む事が、受ける事ができるのか?私と共に苦しむ事ができるのか?」
イエズス様の頭にあったのは、いつも十字架の事でした。子供の時からそうでした。イエズス様はこの受難の杯を飲み干す事を、それに渇いていました。「私は渇く。」
もしもこれに反対する者があれば、イエズス様の御怒りは、あたかも柔和なイエズス様ではないかのようでした。ある時、ペトロがイエズス様に、イエズス様の予言を聞いて、「ああ、主よ、決してそんな事が起こりませんように。ああ、そんなまさか」と言うと、ペトロに非常に怒ります、「サタン、退け!」ところで、自分を苦しみに、受難へと導く弟子に対しては、裏切りのユダに対しては、「友よ、」。何というコントラストでしょうか。
御受難の前、最後の晩餐の時、「私は、このパスカを、この過ぎ越しを、望みに望んでいた」と仰います。「私は渇く。」
イエズス様が沈黙の内に熱烈に望んでいたのは、まさにこの御受難でした。
なぜここまで望んでいたのでしょうか?
天主に対する、天主聖父に対する熱烈な愛と、そして愛する兄弟の皆さん、皆さんと、そして私に対する熱烈な愛、霊魂を救いたい、私たちを幸せにしたい、無限に幸せにしたい、天国に連れて行きたい、という愛の表れでした。その為にこそ、天主は人となったからです。命そのものが、死を望もうとされたからです。死を受ける為に人となったからです。
では沈黙の中に、イエズス様のこの御受難の熱烈な望みの中に深く入りましょう。マリア様にお願いしましょう。私たちにもその熱烈な望みが与えられますように、
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
霊的秋田巡礼 「イエズス様は沈黙のうちに、何に渇いておられたのか?」 霊的講話4
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「私たちの主の飢えと渇き」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さん、ではテレ巡礼を続けていきましょう。
私たちは既に、天主様の愛の対象であって、愛を受けて荒れ野に招かれた、という事を黙想しました。「荒れ野に招かれた」というのは、被造物に全く空になって、そして天主様に満たされる為です。
「沈黙」というのは、天主の声を聞く為です。被造の雑音から遠ざかって、愛の声を聞く為です。愛に満たされる為です。
ですから私たちも、私たちの主と一緒に荒れ野に行きましょう。40日間、主は公生活の最初に、荒れ野に行って沈黙の内に祈りました。この燃えるような熱い沈黙を黙想しましょう。
40日の断食と祈りの後に、イエズス様は飢えを感じられました。公生活に入って、これから皆の前に人生を以って、生き様を以って、模範を以って、御教えを以って、公生活を始めようという、教えようというその最初に、主は飢えを感じられました。
何か必要があった、何か食べる必要があったという事です。砂漠を出るとき、荒れ野を出る時に、主は飢えを感じられました。
ところで、私たちの主が人生の終わりに、十字架の上で沈黙を守ります。十字架の上では、飢えではなくて、「私は渇く」と言われました。人生の終わりに、公生活の終わりに、「渇く」と、これから亡くなろうと、命を天主聖父の元に返そうとする時に、主の中に入ろうとする時に、「私は渇く」と言いました。
この公生活の最初の「飢え」と、公生活の終わりの人生の終わりの「渇く」というのは、何か深い意味がありそうです。同じ沈黙の中になされた事ですけれども。
「飢え」というのは、お腹が減っている、飢えているというのは、何かこれから歴史的な、この世の、人間の人生を、この世の事を始める時に、それに取り掛かる時に感じた事でした。限られたこの人生を生きる時に感じられたものでした。
「私は渇く」と言った時には、これから永遠の世界に入ろうとする時に感じられたものでした。無限の、そして果てしのない世界に入るその時に、「渇く」と言われました。天主様の無限の果てしのない望みを、天主に関する事に、関わる事であるかのようです。
イエズス様が40日の断食の後に飢えを感じられた後に、サタンは悪魔は、このイエズス様の事が分かりました。そこでイエズス様を試みようと、とても魅力的な誘惑をしようと思いました、「この地上のものに関わりたいのならば、もしもそうであるのならば、お前が天主の子であるなら、私の前に膝を屈めて礼拝せよ。そうすれば、この全ての地上の栄華、富をお前に与えよう。全ての政治、経済、この世の権力、富、名誉、名声、それに飢えているのではないか」と、サタンは感じたかのようです。
しかし人生の終わりに、十字架の上で渇きを感じられた主が、「私は渇く」と言った時に、サタンはそれが何を意味するか分かりませんでした。「水を飲みたいのであるか?」と思って、酢と苦い物を与えただけでした。イエズス様の渇きはそんなものではありませんでした。全く理解できていませんでした。確かに水に似たようなものではありましたけれども、イエズス様の渇きはもっと深い、そして無限の渇きでした。天主の深い淵に関わる、永遠に関わる渇きでした。
イエズス様の燃えるような、この十字架の上での渇き、願い、望みとは一体、何だったのでしょうか?
ちょうど十字架の上で、そしてまた全生涯の中で、イエズス様の持っていた強い望み、「天主聖父の栄光と、そして霊魂の救い」というこの望み、これを表していました。
ちょうど沈黙の内に隠れて見えなかったけれども、ちょうど大きな氷の塊が、海の中で先っぽだけを見せて、そのほとんどが海の中に隠れているように、イエズス様の無限の、天主聖父を讃美したい、聖父を愛し、その御旨を果たしたい、その御旨のみを果たしたい、という沈黙の願いは、「私は渇く」と言った時に、ちらりと姿を見せたかのようです。
イエズス様はこの世に入る時に、「聖父よ、私は御身の御旨を果たす為に来ました」と言いました。聖パウロが証言しています。イエズス様は御望みになったので、そう御望みになったので、御自分をいけにえとして捧げました。“Oblatus est, quia ipse voluit.”
イエズス様の沈黙の内の隠れた熱い望み、願いとは、一体何だったのでしょうか?
それは、私たちの罪の償いです。人間の受けるべき罰、そして人間がしたくてもできない、し尽くす事ができない罪の償い、贖いの業を成し遂げる、そしてそうする事によって、天主聖父に栄光を与える、霊魂を救う、この贖いの為に、十字架の上で残酷な死を遂げて、聖父の御旨を果たし尽くす、これでした。
天主の御言葉が、創られなかった天主の御言葉が、天主聖父の発生した唯一の御言葉が、人間となって、肉を取って、そして御託身によって人間となったとしたならば、それは私たちの罪の償いの為に、十字架の上にいけにえとなって屠られる事でした。天主の小羊となって屠られる事でした。私たちの罪の贖いと、いけにえとなる事でした。
天主の本性が、至聖三位一体の第二のペルソナにおいて、人間の本性と全く合体しました。分かつ事ができないほど、親密に合体しました。この一致の恵み、これは一体何の為だったのでしょうか?なぜ天主は人となったのでしょうか?御言葉のペルソナにおいて、人性と天主性が一つとなったのでしょうか?
それは、罪のいけにえとなる為です。贖いの業を成し遂げる為です。この超自然の御恵み、聖寵は、一致の御恵みは、イエズス様にとっては苦しみの原理でした。この一致を以って、イエズス・キリストは、天主の御言葉は、人となった天主の御言葉は、苦しみ、死を捧げる事ができるようになりました。この一致は、天主の本性と人間の本性が一つとなったというこの一致は、イエズス・キリストの聖徳の原理でもあり、それと同時に、贖い、苦しみの原理でもありました。栄光の原理その元であると同時に、屈辱と、そして十字架の死に至るまでの無となる原理でもありました。
イエズス様がこの地上に来られたその最初の瞬間、マリア様が「我になれかし」と言われて、御胎内に天主の御子が宿られたその瞬間から、一つの沈黙の内の熱い願いが、天主の御言葉に、人となった天主の御言葉に、イエズス・キリストにありました。「受難。」そして「いけにえとなる。天主聖父の御旨を果たして、十字架に至るまで従順である。十字架の死に至るまで従順である」という事でした。
イエズス様が聖なる者であればあるほど、清らかな者であればあるほど、天主と一致すれば一致しているほど、まさに罪を償うに相応しいものでした。イエズス様が栄光に満ちていれば満ちているほど、天主の御稜威に満ちていれば満ちているほど、無とする事ができる方となりました。
イエズス様は、氷山の一角のように、沈黙の内にある望みをポロリと仰った事が時々あります、「私の食べ物は、聖父の御旨を果たす事だ。」「私には受けなければならない洗礼がある。」一体これは何でしょうか?血による洗礼です。
ある時、マグダレナのマリアが、イエズス様の御足元でナルドの香油を塗って、そして「その高価な物を何でそんな粗末にするのか」とユダに嗜められた事がありました。その時にイエズス様がすぐに仰ったのは、「これは、私の葬りの為だ。」
イエズス様が考えてあったのは、いつも御受難の事でした。十字架における死の事でした。「私の時」の事でした。
ある時、弟子たちの母親たちがやって来て、「ああ、私の子供を、あなたの栄光の時にあなたの右に是非座らせて下さい。大臣に、あるいは長官にして下さい。栄誉を与えて下さい」と頼んだ時があると、すぐにイエズス様の頭にあったのが、「では彼らは、私の飲もうとする杯を飲む事ができるのか?受難を飲む事が、受ける事ができるのか?私と共に苦しむ事ができるのか?」
イエズス様の頭にあったのは、いつも十字架の事でした。子供の時からそうでした。イエズス様はこの受難の杯を飲み干す事を、それに渇いていました。「私は渇く。」
もしもこれに反対する者があれば、イエズス様の御怒りは、あたかも柔和なイエズス様ではないかのようでした。ある時、ペトロがイエズス様に、イエズス様の予言を聞いて、「ああ、主よ、決してそんな事が起こりませんように。ああ、そんなまさか」と言うと、ペトロに非常に怒ります、「サタン、退け!」ところで、自分を苦しみに、受難へと導く弟子に対しては、裏切りのユダに対しては、「友よ、」。何というコントラストでしょうか。
御受難の前、最後の晩餐の時、「私は、このパスカを、この過ぎ越しを、望みに望んでいた」と仰います。「私は渇く。」
イエズス様が沈黙の内に熱烈に望んでいたのは、まさにこの御受難でした。
なぜここまで望んでいたのでしょうか?
天主に対する、天主聖父に対する熱烈な愛と、そして愛する兄弟の皆さん、皆さんと、そして私に対する熱烈な愛、霊魂を救いたい、私たちを幸せにしたい、無限に幸せにしたい、天国に連れて行きたい、という愛の表れでした。その為にこそ、天主は人となったからです。命そのものが、死を望もうとされたからです。死を受ける為に人となったからです。
では沈黙の中に、イエズス様のこの御受難の熱烈な望みの中に深く入りましょう。マリア様にお願いしましょう。私たちにもその熱烈な望みが与えられますように、
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
霊的秋田巡礼 「イエズス様は沈黙のうちに、何に渇いておられたのか?」 霊的講話4