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霊的秋田巡礼 霊的講話5ゲッセマニの園の荒れ野に行き、イエズスの沈黙のうちの燃える望みを知る

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2020年5月6日(水)霊的秋田巡礼 霊的講話5
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「ゲッセマニの園の荒れ野に行き、イエズスの沈黙のうちの燃える望みを知る」



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、愛された、主によって愛されたテレ巡礼をなさっている皆さんは、ますます深く荒れ野に参りましょう。巡礼の中に深く入って行きましょう。

特に愛された3人の弟子たちは、イエズス様と共にゲッセマニの園にて、「イエズス様のすぐ近くで祈れ」と命じられました。私たちも弟子たちと一緒に、そしてイエズス様から選ばれて、ペトロ・ヤコボ・ヨハネと一緒に、イエズス様のすぐ近くで、ゲッセマニの園にてイエズス様がなさったその祈りを黙想致しましょう。イエズス様の燃えるような望み、それを感じ取りましょう。

なぜ、イエズス様はこうやって苦しまれるのでしょうか?それは、私たちに対する愛の望みによります。聖父に対する愛と、私たちを幸せにしたい、無限に幸せにしたい、という愛によります。ゲッセマニの園の沈黙の中に、私たちは行きましょう。

苦々しい、苦しい夜、過ぎ越しの日ですから満月に照らされた夜、しかしイエズス様の聖心には、大海のような悲しみが横たわっていました。イエズス様は3回祈られます。イエズス様の御側でオリーブの木の枝が、ザワザワと風に揺られて音を立てますが、きっとこれから来る、どのような苦しみが待っているのか、悲しみが待っているか、という事を予告していたに違いありません。

イエズス様は3回祈りますが、天主の御言葉として、これから来たるべきその苦しみをよく知っていました。オリーブがザワザワと言わなくてもよく分かっていました。御顔を地面に付けて祈っています、「聖父よ、願わくは、このカリスが、この杯が、私から遠ざかりますように」と、その「もしもできるならば。」

人間としての苦しみに対する恐れもありました。しかしそれと同時に、「しかし、私の意志ではなく、御旨が果たされますように。」

イエズス様はこれから起こる事を、その全ての状況を詳しく、一つ一つ、天主の力によって御覧になっていました。

ユダがやって来る事を御存知でした。御自分の友であるユダが、数枚のコインによって御自分を売り飛ばした弟子、愛する弟子がやって来るのを知っていました。数時間前には、この弟子の前に跪いて、足を洗い、接吻をし、そして御自分の御体を以って養ったその弟子が、裏切る為に、接吻を以って売り飛ばす為に、やって来ました。

「友よ、一体お前は、接吻を以って人の子を裏切るのか?」

ユダは何も答えません。そしてイエズス様が何とかこの滅びから救おうとしているにもかかわらず、憐れみをかけ給うにもかかわらず、ユダは滅びに駆け走っています。イエズス様はその事をあらかじめ御存知でした。そしてユダの為にどれほど涙を流される事でしょうか。

イエズス様は既にゲッセマニの園にて祈りにおいて、これから来たるべき屈辱、大司祭が、本当ならば「メシアである」と宣言しなければならない、その特別の役目を持っている、知識を持っている、知性を持っている、恵みも頂いた大司祭たちが、生命の主であるイエズス・キリストを死刑にしようと企んでいる、その陰謀を御存知でした。

イエズス様がどれほど愛し、善をなし、病を癒し、慰め、村を駆け巡り、そして優しい言葉をかけたその人々が、ユダヤの民が、声を合わせて、イエズス様を「死にかけよ!十字架にかけよ!十字架にかけよ!」と叫んでいるその姿を、ゲッセマニの園にて御覧になります。あれだけ善を施したのに、それに忘恩で、侮辱で、屈辱で、返答するこの民。全く不当な告発、非難、讒言。

イエズス様がどれほど馬鹿にされ、偽りのコメディの王であると挨拶され、鞭打たれ、血を流され、茨の冠を被せられ、殴られ、蹴り飛ばされ、そしてカルワリオを重い十字架を担って歩まなければならないか、ゲッセマニの園にて御覧になっておられました。

何回、重い十字架の下に押し潰されて、気絶するほどの痛みを感じなければならないか、お母様からマリア様から作って頂いた服を剥ぎ取られ、そして十字架に釘付けにせられなければならないか、この不当な、残酷な、非人間的な、非道な拷問を受けなければならないか、という事を御存知でした。

人々の前で裸にされ、十字架に上げられ、そして嘲りと、嘲笑と、冒瀆に囲まれて、それを黙って耐え忍ばなければならないか、という事を御存知でした。

3つの釘に、自分の重い体重を乗せて、3時間の苦しい、残酷な、十字架の上での痛みを耐え忍ばなければならないか、という事を御存知でした。

人々に捨てられた、弟子たちに捨てられた、裏切られたばかりか、イエズス様は、「聖父によっても見放された」という事を感じられます。

御覧になると自分は、二人の極悪の盗賊の間に付けられて、そして狂ったような騒ぎを立てている人々の間に、愛する母が立って、立ち留まって、黙って、涙ながらに御自分をご覧になっているのを見ます。その母、愛するマリア様を御覧になったイエズス様は、どれほど悲しみが大きくなる事でしょうか。それも御存知でした。

悲しみの大海原の中にずっしりと浸かったイエズス様、その御受難の様子を一つ一つ、詳しく御覧になったイエズス様は、聖父に祈ります、「聖父よ、もしもできるならば、この杯を私から遠ざけて下さい。しかし私の思いではなく、御旨が果たされますように。」

そして弟子たちの元に行きます。愛する3人の弟子たち、ペトロとヤコブとヨハネです。しかし彼らはもう、イエズス様をほったらかしてスヤスヤと眠りこけていました。そのような弟子たちを見て、更に悲しみに沈んだ私たちの主は、もう一度祈りの場所に戻ります。

私たちもこの祈りの場所に一緒に行きましょう。沈黙の内に、イエズス様はどれほど苦しむかを、私たちは傍に行って慰めましょう、御恵みによって。

イエズス様は今度は、罪の邪悪さ、罪の汚らわしさ、罪がどれほど悪意に満ちているか、恐ろしいものであるか、汚いものであるか、おどろおどろしいものであるか、という事を御覧になります、見せつけられます。何という反吐が出そうな、嘔吐が出そうな、この嫌悪感を感じられた事でしょうか。何という恐ろしさでしょうか。人類が犯すその罪の邪悪さ、汚らしさ、天主に対する冒瀆、天主に対する反抗、逆らい、瀆聖、軽蔑、天主の愛を足に踏みにじるような罪の数々、イエズス様はそれらを見て、一つ一つ見て、罪のその邪悪さに、真っ黒な邪悪さに、悲しみに沈まれます。

イエズス様が人類を愛して、御恵みを与え続けて、そしてその御恵みを無にするような、それを悪意をもって返答する人々の罪、イエズス様が愛を込めて制定する愛の秘跡、御聖体、御自分の最も清らかな肉体で人間の霊魂を養おうとされた愛の秘跡、しもべが天主御自身によって養われ、天主を食するというほどのこの愛の秘跡、御聖体、それを信じない、それを軽蔑する、それを感謝しない、それを足で踏みにじるような、それに忘恩と、冷淡と、そして無関心で答えるその罪、イエズス様が私たちの為になしたその善を悪で返すその罪、それを見て、どれほどの苦しみ、悲しみを感じられた事でしょうか。

第2の祈りをします、「聖父よ、願わくは、できる事ならば、このカリスを、この杯を、受難の杯が私から遠ざかりますように、しかし私の思いではなく、御旨がなされますように。」

その悲しさのあまり、汗は御血のようになり、御顔を地面に付けて祈り、悲しさのあまり3人の弟子たちの元に行きます。しかし、弟子たちはやはり眠っていました。主の事は忘れこけて眠っていました。

イエズス様はもう一度、三度、御自分の祈りの場所に戻ります。イエズス様が今度はどのような苦しみを受けるのでしょうか。

それは、イエズス様がこれからしようとする御受難、流そうとするその御血、天主の御血、その無限の価値があるそのいけにえ、その苦しみ、少なくともそれを認識して、それを感謝する霊魂がいるだろうか。いえ、残念ながらイエズス様は、本当の事をビジョンで見ます。ゲッセマニの園にて既に知っていました。人類の大部分は、この天主の流される御血を無駄にする、という事、それをありがとうとも思わない、感謝しようともしない、それを認めようともしない、無関心、忘恩、それで返答する、わざと知ろうとしない、イエズス様の事を少しも考えようとしない、「十字架の上でイエズス・キリストが亡くなった、それが私と一体どういう関係があるのか。」多くの霊魂のその冷たい無関心、それを御覧になります。

これだけ熱く、霊魂を救おうと、幸せにしようと、恵みを与えようと思っているその善意が、その愛が、軽蔑と、無関心、冷淡で答えられます。

しかし同時にイエズス様は、ほんの少数ですけれども、このイエズス様の流される御血の事を知り、感謝し、それに応えようとする霊魂たちの事も御存知になりました。その未来の霊魂たちを知ります、御覧になります。そしてイエズス様はその悲しみのど真ん中において、このほんの少しの霊魂たちの為に、愛の限りを絞って、この苦しみを耐え抜こうと決心されます。

「私の血が一体どんな益があるのか?私の苦しみ、私の命が一体何の為になるのか?この霊魂を見れば良い。この少ない霊魂たちの為に、捧げよう。」

そしてこの戦いに、燃えるような望みを更に掻き立てます。人間たちの忘恩、そして天はあたかも閉ざされたかのように全く孤独を、そして無意味さを感じる中で、この少数の霊魂たちの為に、イエズス様は終わりまで、最後まで、熱烈な愛を持って立ち進みます。

御顔を地面に付けて祈ります。血はダラダラと額から、体中から汗となって流れます、「私の霊魂は、死なんばかりに憂い、悲しむ。」

御覧下さい、イエズス様の御顔、血でいっぱいに、血だらけになっています。目は、開いている目は、汗と血ではっきり物も見る事ができないかのようです。汗と血にずぶ濡れになっているイエズス様。その御血はゲッセマニの園に滴り落ちて、この周りはイエズス様の周りは、真っ赤に染まっています。

イエズス様の、キリストの、私たちの救い主の、その燃えるような愛、私たちの霊魂を救いたい、罪の償いをしたい、受難の為に御自分を捧げたい、というその望みは、この血を流させました。一体この燃えるような望みに、沈黙の望みに、私たちは一体どうやって答えたら良いのでしょうか?

天はどのような答えをするでしょうか?天主聖父は沈黙を守ります。天は口を閉ざします。あたかも見捨てたかのように。

イエズス様は、天主の本性と人間の本性が全く合体して、分かち難く一つになっている御方です。真の天主、真の人、イエズス・キリスト。ヒュポスタシスにおいて、天主の御言葉のそのペルソナにおいて、二つの本性が合体している御者です。この御方であるにも関わらず、天主はイエズス様を見捨てられたかのように感じられました。イエズス様は苦しみに身を委ねます。このイエズス様の苦しみ、悲しみ、その悶え、一体誰が知る事ができるでしょうか。その苦悩は計り知れず、こうも十字架の上で仰るほどです、「我が天主、我が天主、どうして私を見捨て給うのか。」

このようなイエズス様の御受難の前で、一体私たちはどうやって答えたら良いでしょうか?

私たちは、イエズス様の沈黙における燃えるようなこの願い、御受難への願いに対して、私たちも燃えるような愛の願いを、沈黙の内に、イエズス様に添える事に致しましょう。イエズス様の沈黙に私たちも真似る事に致しましょう。イエズス様と同じように私たちも致しましょう。

イエズス様において聖寵は、恩寵は、天主の本性と人間の本性が一つとなったとしても、御恵みは、その聖寵は、栄光の原理であると同時に、苦しみの原理でもありました。贖いの原理でもありました。これを以ってイエズス様は、私たちを贖いました。

それは私たちにおいても同じです。洗礼を受けた時に私たちには、成聖の恩寵が与えられます。天主の命が与えられます。イエズス様から受ける命です。このこれは、私たちにとって将来の栄光の元でもありますが、それは私たちにとっての受難の、苦しみの元でもあります。イエズス・キリストと共に苦しむ元でもあります。なぜかというと私たちは、キリストの神秘体に、その聖寵の状態を以って幹に、その木に接木されているからです。神秘体の一部となっているからです。イエズス・キリストの頭(かしら)に流れるその御恵みと同じ御恵みを、私たちも頂いているからです。

ですからこの成聖の聖寵において、私たちは沈黙の内に屠られ、いけにえとなるという望みを持ちましょう。イエズス様のすぐ傍に行って、ゲッセマニの傍に行って、イエズス様と一致いたしましょう。

一体どうしたら一致できるでしょうか?

イエズス様は私たちに色々な方法を教えてくれましたけれども、その内の最高の方法は、「御聖体拝領」です。なぜかというと、御聖体というのは、イエズス・キリストの真の御体であるからです。人となった天主の御言葉、それ自身を、私たちが受けるからです。これは2000年間のカトリックの信仰です。私たちはその前に跪かなければなりません、礼拝しなければなりません、感謝しなければなりません。突っ立っている事はできません。そして私たちの「無」であるという事を見せて、この天主の肉を御体を、私たちは拝領しなければなりません。

そして私たちの燃えるような沈黙の内の愛を、イエズス様の御受難に私たちの苦しみを添えて、一致させなければなりません。いけにえとして、イエズス様にお捧げしなければなりません、御聖体拝領によって。イエズス様の苦しみに私たちの苦しみを添えて、イエズス様の沈黙に私たちの沈黙を添えて、イエズス様の屈辱に私たちの受ける屈辱を添えて、イエズス様の受ける全ての悪に私たちの受ける、当然受けるべき悪を添えて、捧げなければなりません。それが御聖体拝領です。

私たちの無を大きく開けて、イエズス様を、愛であるものを受けなければなりません。私たちは生ける御聖櫃となる為、イエズス様を受けなければなりません。そうする事によってもはや、私が生きるのではなく、イエズス・キリストが私において生きる事ができるように、イエズス・キリストの神秘体において、キリストの苦しみの欠いているところを満たす為に、聖パウロが教える通り、満たす為に、私たちの儚い拙いいけにえを、苦しみを、一緒に捧げなければなりません。そうして私たちはイエズス様の沈黙に、愛の沈黙に、愛の沈黙を以って答える事ができます。

愛に生く、
いけにえの主に、
似る為に、
頂き物の、
苦しみ捧ぐ。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

霊的秋田巡礼「ゲッセマニの園で沈黙のうちにイエズス様は何を思われ祈られたのか」 霊的講話5

愛に生く、
祈る主の血が
庭に散る
いずみの汗は
紅(くれない)に染む

愛に生く、
居眠る弟子の
忍(にん)無きに
いや増すは主の
苦しみの愛

愛に生く、
司祭の聖母(はは)は
カルワリオ、
司祭のように、
立ち留まりし

愛に生く、
全ての苦楽
主の為に
聖母と共に
我になれかし。

愛に死す、
七つの剣
貫きし
み母の心
我にも給え。

愛に果つ、
痛ましき主の
肉体よ、
聖母(はは)の御心(こころ)に
剣(つるぎ)貫く

愛に生く、いと遅かりし夕なれど、テレジアをまね、子供のように



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