天主である聖体
聖体は遍在の天主である
礼拝 あなたの眼前の顕示器のホスチアの中においでになる主イエズス・キリストを最大の尊敬、絶対の信仰をもって礼拝しよう。
次に、あなたの住んでいる町にあるすべての教会を心に思い浮かべよう。聖体の中に私たちといっしょにおいでになる天主『エンマヌエル』は、今、現にあなたの眼前においでになるように、そのどこにもおいでになるのである。
さらに、なお遠く海を越え、国境のかなたにある、あるとあらゆる国々にあなたの思いをはせるとき、そのいずこにもあなたはカトリック教会を見いだすことができる。そのあるものは荘厳な美しい教会であり、他のものは貧しくみすぼらしい教会であろう。
けれども、あなたが今、現にあなたの心を開こうとしている天主は、そのいずこにでもまことに存在なさっているのである。
聖体の秘跡の中にこもっていらっしゃるキリストが、このように、全世界中にペルソナ的においでになるということは、無限な天主の遍在のいくぶんかを、おそらくあなたにさとらせるであろう。
天主の遍在とは、天主がどこでもその全存在において存在されていることである。天主は遍在の徳によって無限に大きく、ありとあらゆる空間、ありとあらゆる被造物の中においでになるのである。こうして遍在は天主に無限で不可測な性質を与えるのである。
聖体の中にこの遍在性を明らかにお示しになったイエズスを礼拝しよう。イエズスは聖体の秘跡の中において、単に世界のすべての国々に住まれるだけでなく、聖体拝領によって主を受けるあらゆる人々の霊魂の最も深い奥にまでおいでになり、そこに住み、そこに生きておられる。この時イエズスは、私たちの各自の中に、神性と人性とのすべてをもっておいでになるのである。
私たちが私たちのもとにおいでになるイエズスのみ姿を想像しようとするなら、測り知ることのできない神秘を見出だすであろう。すなわち、イエズスの神性は最高の天よりも高くておいでになるのに、秘跡の中でのけんそんはこれに反して彼をほとんど虚無に近い卑しい者とする。
あなたの理性の努力によって、聖体の中にお住まいになるイエズスのありさまを知りつくすことは不可能である。すなわち、聖体はパンの実体なくしてパンの性質をあらわし、イエズスはその実体においでになりながら、ご自分のご性質を隠してそこにおいでになる。
このような事実は、私たちにとって全く不可解な奥義である。この時、私たちは理性の目を閉じ、ひざまずいて、その何ものなるかを了解することができずただ信仰をもって礼拝するほかはない。
実に、聖体の秘跡の中にまことにこもっておいでになる無限遍在のイエズスを賛美できるのは、ただ私たちの信仰だけである。
感謝 無限の遍在の御徳を聖体の秘跡の中におあらわしになる慈愛深い天主を、心にあふれる感謝の情をもって祝福し、賛美しよう。
天主が私たちのまことのエンマヌエル(私たちとともにおいでになる天主)でおいでになり、私たちとともに涙の谷をお歩きになり、私たちのそばに、私たち各自の隣家にお住まいになるのは、ひとえにそのご慈悲によるのである。
被造物の私たちを保護し、私たちの病をいやし、私たちを慰め、ありとあらゆるよいたまものをくださる天主は、このようにどこにあっても私たちの隣人でおいでになるのである。
聖体の秘跡の中にあらわれる天主の遍在の御徳によって、ちくたくの地にあっても私たちは決して孤独ではない。主は友のない人の友であり、みなしごの父であって、貧しい者の支持者である。人となりたもうた天主は、このように、どこまでも人とごいっしょにおとどまりになるのである。 償い ホスチアの中における愛にあふれる天主の遍在は、私たちのむとんじゃく、一般の忘恩、多くの人のけいべつの罪をますます重くする。
私たちは洗礼を受けた信者であるのに、私たちの営む生活によって、多くの侮辱を至聖なる聖体に加えているからである。
主が聖体の卑しいありさまで、再びこの世界に帰って来てくださったのは、ただ私たちのためである。私たちは主の被造物であり、主に救っていただいた者、主にあがなっていただいた者である。
主は私たちの愛と、私たちの賛美とを要求なさる多くの権利をもたれ、また実際にこれを受けるためにおいでになり、私たちにホスチアのみ姿を示して眼前に座しておられる。
主がのちに光栄と全能の力と審判者の威容とを示して、私たちの前におあらわれになるとき、私たちはなんとお答え申しあげようか。主はその時、『なんじが憎み、けいべつし、捨てたものはすなわちわれである。わがなんじらの愛を得んと欲して、かずかずの奇跡とぎせいとを行ったときに、なんじらは恩恵をもってするわが存在に無関心であった。いまや、なんじらはわが光栄の前より永遠に退けられねばならぬ』とおっしゃるであろう。
私たちは天主の御怒りの前からのがれようとするであろう。しかしこの時、私たちの頭上には、私たちがけいべつしたホスチアが最大の光輝に包まれてあらわれ、私たちは地獄の火よりもさらに激しくこれによって焼かれなければならないであろう。
祈願 いつも、また、どこででも聖体の中にまします天主に忠実に仕え、他人の侮辱、あざけり、時としては全世界の迫害も恐れない恩恵を熱心に請い求めよう。
救い主が遍在の御徳によっていつでも、また、どこにでも絶えずあなたのそばにおいでになるように主に願い、特に誘惑に会うとき、また臨終の時、聖体の中でのイエズスがあなたをお助けになるようにお願いしよう。
よき臨終、すなわち、その時にあたって主があなたといっしょにおいでになることは、あなたの永遠の幸福を定める最も大きな恩恵だから、あなたはこれをことに熱心に願わなければならない。
実行 どこにいても、あなたの心、あなたの意志によって、至聖なる秘跡の前で日を送るようにしよう。
聖体は遍在の天主である
礼拝 あなたの眼前の顕示器のホスチアの中においでになる主イエズス・キリストを最大の尊敬、絶対の信仰をもって礼拝しよう。
次に、あなたの住んでいる町にあるすべての教会を心に思い浮かべよう。聖体の中に私たちといっしょにおいでになる天主『エンマヌエル』は、今、現にあなたの眼前においでになるように、そのどこにもおいでになるのである。
さらに、なお遠く海を越え、国境のかなたにある、あるとあらゆる国々にあなたの思いをはせるとき、そのいずこにもあなたはカトリック教会を見いだすことができる。そのあるものは荘厳な美しい教会であり、他のものは貧しくみすぼらしい教会であろう。
けれども、あなたが今、現にあなたの心を開こうとしている天主は、そのいずこにでもまことに存在なさっているのである。
聖体の秘跡の中にこもっていらっしゃるキリストが、このように、全世界中にペルソナ的においでになるということは、無限な天主の遍在のいくぶんかを、おそらくあなたにさとらせるであろう。
天主の遍在とは、天主がどこでもその全存在において存在されていることである。天主は遍在の徳によって無限に大きく、ありとあらゆる空間、ありとあらゆる被造物の中においでになるのである。こうして遍在は天主に無限で不可測な性質を与えるのである。
聖体の中にこの遍在性を明らかにお示しになったイエズスを礼拝しよう。イエズスは聖体の秘跡の中において、単に世界のすべての国々に住まれるだけでなく、聖体拝領によって主を受けるあらゆる人々の霊魂の最も深い奥にまでおいでになり、そこに住み、そこに生きておられる。この時イエズスは、私たちの各自の中に、神性と人性とのすべてをもっておいでになるのである。
私たちが私たちのもとにおいでになるイエズスのみ姿を想像しようとするなら、測り知ることのできない神秘を見出だすであろう。すなわち、イエズスの神性は最高の天よりも高くておいでになるのに、秘跡の中でのけんそんはこれに反して彼をほとんど虚無に近い卑しい者とする。
あなたの理性の努力によって、聖体の中にお住まいになるイエズスのありさまを知りつくすことは不可能である。すなわち、聖体はパンの実体なくしてパンの性質をあらわし、イエズスはその実体においでになりながら、ご自分のご性質を隠してそこにおいでになる。
このような事実は、私たちにとって全く不可解な奥義である。この時、私たちは理性の目を閉じ、ひざまずいて、その何ものなるかを了解することができずただ信仰をもって礼拝するほかはない。
実に、聖体の秘跡の中にまことにこもっておいでになる無限遍在のイエズスを賛美できるのは、ただ私たちの信仰だけである。
感謝 無限の遍在の御徳を聖体の秘跡の中におあらわしになる慈愛深い天主を、心にあふれる感謝の情をもって祝福し、賛美しよう。
天主が私たちのまことのエンマヌエル(私たちとともにおいでになる天主)でおいでになり、私たちとともに涙の谷をお歩きになり、私たちのそばに、私たち各自の隣家にお住まいになるのは、ひとえにそのご慈悲によるのである。
被造物の私たちを保護し、私たちの病をいやし、私たちを慰め、ありとあらゆるよいたまものをくださる天主は、このようにどこにあっても私たちの隣人でおいでになるのである。
聖体の秘跡の中にあらわれる天主の遍在の御徳によって、ちくたくの地にあっても私たちは決して孤独ではない。主は友のない人の友であり、みなしごの父であって、貧しい者の支持者である。人となりたもうた天主は、このように、どこまでも人とごいっしょにおとどまりになるのである。 償い ホスチアの中における愛にあふれる天主の遍在は、私たちのむとんじゃく、一般の忘恩、多くの人のけいべつの罪をますます重くする。
私たちは洗礼を受けた信者であるのに、私たちの営む生活によって、多くの侮辱を至聖なる聖体に加えているからである。
主が聖体の卑しいありさまで、再びこの世界に帰って来てくださったのは、ただ私たちのためである。私たちは主の被造物であり、主に救っていただいた者、主にあがなっていただいた者である。
主は私たちの愛と、私たちの賛美とを要求なさる多くの権利をもたれ、また実際にこれを受けるためにおいでになり、私たちにホスチアのみ姿を示して眼前に座しておられる。
主がのちに光栄と全能の力と審判者の威容とを示して、私たちの前におあらわれになるとき、私たちはなんとお答え申しあげようか。主はその時、『なんじが憎み、けいべつし、捨てたものはすなわちわれである。わがなんじらの愛を得んと欲して、かずかずの奇跡とぎせいとを行ったときに、なんじらは恩恵をもってするわが存在に無関心であった。いまや、なんじらはわが光栄の前より永遠に退けられねばならぬ』とおっしゃるであろう。
私たちは天主の御怒りの前からのがれようとするであろう。しかしこの時、私たちの頭上には、私たちがけいべつしたホスチアが最大の光輝に包まれてあらわれ、私たちは地獄の火よりもさらに激しくこれによって焼かれなければならないであろう。
祈願 いつも、また、どこででも聖体の中にまします天主に忠実に仕え、他人の侮辱、あざけり、時としては全世界の迫害も恐れない恩恵を熱心に請い求めよう。
救い主が遍在の御徳によっていつでも、また、どこにでも絶えずあなたのそばにおいでになるように主に願い、特に誘惑に会うとき、また臨終の時、聖体の中でのイエズスがあなたをお助けになるようにお願いしよう。
よき臨終、すなわち、その時にあたって主があなたといっしょにおいでになることは、あなたの永遠の幸福を定める最も大きな恩恵だから、あなたはこれをことに熱心に願わなければならない。
実行 どこにいても、あなたの心、あなたの意志によって、至聖なる秘跡の前で日を送るようにしよう。