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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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御聖体降福式は天主の御怒りを防ぐ楯である

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聖体の顕示に関する黙想
御聖体降福式は天主の御怒りを防ぐ楯である
 礼拝 天地の間、天主と人類との間に高くあげられた主イエズス・キリストを礼拝しよう。主が御聖体降福式の時に占められるこの位置は、主が天主と人との間に立って、仲介者、大祭司である最も厳しゅくなご任務をとり行われていることを象徴している。
 イエズス・キリストは、かつてご托身の日に、唯一の大祭司として聖別され、罪人のために天父にとりなす仲介者として定められた。いや、主は単にとりなしをしてくださる仲介者としてだけではなく、まことに全世界の罪のあがないとして定められたのである。すなわち、主は御父の御怒りを和らげるために、その傷つけられた正義を償うに足りる犠牲と、人々の罪を打ち消すに足りる功徳とをささげなければならないことになったのである。
 主がカルワリオ山上でとげられたのは、まことにこのみわざである。主はそのために、第一に名誉と自由を、次に御血、ご生命までも、これを天父にささげ、同時に、世の罪によって汚された天父のみ名の光栄を取り戻すために、最高の聖徳まことの完全徳を実行された。このようについにカルワリオ山上で、天地の間にあげられ、加害者と被害者との二つに身分をご自身のうちに一致させ、以上の仲介と、とりなしのみわざを完成された。すなわち、こうして、私たちの祈りを主ご自身の善業と功徳とに合わせ、御血をもって私たちのいっさいの罪を洗い清め、私たちのために平和と許しと救いとを天父から得ることがおできになったのである。
 救い主は今もなお、この大いなるみわざを聖体の中でつづけられ、特にミサ聖祭の間に、司祭の手を借りて、ご死去の御功徳と、秘跡の中で受けられる多くの屈辱と犠牲とを、罪人にかわって天父にささげ、彼らのために祈られるのである。
 礼拝すべき大司祭、天主なる仲介者、誠実なるいけにえ、たゆまざる弁護者、正義と聖徳そのものでいらっしゃるイエズスを聖体の中に礼拝し、あなたの不義を主の聖徳の下に、あなたの貧しさを主の御功徳の下におおい隠してくださるようお願いしよう。
 感謝 いとも尊い天主の子羊の御怒りと善業と償いに守られて、私たちは、このように繰り返して犯す無数の罪にもかかわらず、まだ天主の正義の罰を受けないでいる。
 ソドマやゴモラ、ニニベやバビロン、天主を殺したエルサレム、異教のローマが犯した罪で、私たちが犯さなかったものがあるだろうか。
 私たちは背信の民である。私たちは洗礼のたまものにふさわしくない多くの腐敗と堕落とを重ねて天主を侮辱し、天主を否んだりした。このために全地は私たちの冒瀆によって汚され、私たちの罪悪に満ちあふれているありさまではないだろうか。
 天主の御恵みが豊かであっただけに、私たちは天主の懲罰に相当する。それにもかかわらず、私たちはなおまだ天主の御怒りの火中に投げ入れられていない。
 これは聖なるホスチアが昼夜をわかたず私たちのために天父の御怒りをなだめ、私たちを保護してくださるからである。これを思うとき、私たちは主に永遠の愛と感謝とを約束しないではおられない。
 償い 世人一般の罪、特にあなた自身の罪を反省しよう。その時、あなたは、聖体の中の仲介者が、恐ろしい刑罰からあなたを救い出すために、お支払いにならなければならなかった代価の程度をわかり、また同時に罪の機会を避け、他人に与えたつまづきをあがない、祈りと苦業と熱心な善業とによって、自分自身の償いを主の償いに合わせなければならない義務をもさとるであろう。
 カトリック教会は、世間全体が、ごうまんと貪欲と肉欲とにしいたげられていると説いているが、これは偽りであろうか。地を支配し、地上で愛され、あがめられ、おがまれているのは、はたして何であろうか。注意してあなたの周囲を見わたしたら、いかに憎まねばならない罪悪が、この三大邪欲によってかもし出されているかがわかるであろう。
 それでは、あなた自身はどうであろうか。あなたの過去、また現在はどうか。他人からは善人と思われていても、実際は、罪のきずなで縛られてはいないだろうか。そしてそれが隠れた執着であるだけに、その力はなお強くないであろうか。
 天主の御慈悲にも限りがあるということをまじめに考えよう。ひとたび息をひきとったならば、私たちはもはや仲介者なる聖体の守護を受けることができず、弁護者なしに正義の法廷に出なければならないのである。あわれみ深い大祭司、いとも忠実な犠牲の長いとりなしと償いとを空費したあと、生ける天主の御子の中に陥ることは、なんと恐ろしいことであろう。
 祈願 聖ヨハネの次の言葉の意味をよく味わおう。『わが小子よ、罪を犯すなかれ、されど罪を犯した者あらば、われらは父のみ前に弁護者を有せり。これすなわち義者イエズス・キリストにして、彼はわれらが罪の贖いにてまします。ただわれらの罪のみならず、全世界の罪に対してもまたしかるなり』と。
 実行 罪を犯したからといって落胆してはならない。天主が私たちを罰するために多くの試練を送り、また社会の罪悪を責めるためにかずかずの災難を送ってくださったとしても決して失望してはならない。こんな時には私たちの霊魂を清めるために慈悲深い大祭司なる主に祈り、たびたび聖体を拝領し、また聖体顕示式に参列しよう。








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