テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より
人である聖体
聖体はわが伴侶である
礼拝 私たちがただいま祭壇上に礼拝申しあげるイエズスは、私たちのかたわらに住み、都会と田舎を問わず私たちの行くところに伴ない絶えず私たちと一緒にいらっしゃるのである。このイエズスは、私たちが幼児期を脱して知恵のつきはじめたころ、初聖体の日にはじめて私たちのもとに来られて以来いつも私たちとともにとどまっていらっしゃる。だから、いにしえの預言者や聖会博士の口を通して、主がご自分からお名乗りになった『われらの伴侶』のみ名ほど、主にふさわしいみ名はない。
主はこの世に天下り、私たちと同格の者とおなりになった。そして地上では私たち人間の忠実な信頼すべき忍耐深い友として、一切の仕事をしてくださるのである。私たちのたどる小道がいかに卑しく、いかに険しく、またいかに恐ろしくても主はいつも私たちのかたわらにおいでになって、いつでも、そのあたたかいみ手を伸ばしておいでになる。
私たちは天国に至るために、小やみなく常に歩まなければならない。私たちは旅をするよう運命づけられている。涙の谷は昼でも暗く、人生の断崖絶壁は非常に危ない。障害は途上に横たわり、盗賊は路傍に出没する。けれども、主が私たちと一緒においでになるかぎり、そこになんらの危険もない。主は衣の裾をからげ、腰に帯し、杖をとって私たちと一緒に歩いてくださる。
私たちは人生の朝より、寒く暗い老年の夕べに至るまで、長くて苦しい一日を歩み続けなければならない。頭上には烈日が輝き、足もとには岩石と茨とが道をふさいでいる。まことに艱難辛苦をきわめる旅である。だがそれが何であろう。主はご自分から私たちと一緒に軛(くびき)をにない、私たちの労働をわかち、私たちのように額に汗を流された。このように休みなく働かれるだけでなく、必ず主の御助けを願えと私たちにいわれるのである。それは、主が一緒においでにならなければ、私たちは何ごとをもなすことができないからである。
私たちは兵士である。私たちの一生は戦場で過ごすのである。この戦いは休戦時のない悪戦苦闘で、あざむきと残虐とがその特徴である。けれども、それが何だろう。主は私たちと一緒に戦い、私たちの試練を分けてくださる。
流刑にされた罪人なる私たちの故郷は天国である。地はもともと恩恵の楽園であり、光楽の天国に通じるこころよい大道であるはずだった。だが私たちは、忘恩と傲慢とによりその外に追放され、血に飢えたサタンが統治する異郷におかれて、私たちを憎み、私たちを迫害してやまない異邦人の間にさまよわなければならなくなった。しかし私たちは恐れない。主は御父の住み家である天国の美しい宮殿を捨て、主を囲んで奉仕する無数の天軍と別れて、私たちの流刑の伴侶となり、私たちのように憎まれ、追われ、背(そむ)かれたもうた。主は死に処せられ、休みどころである御墓においてさえも非道な戦いがいどまれた。
最後に、私たちは鉄鎖につながれ、牢獄に投げ入れられた囚人である。天主の御稜威(みいつ)に対しての反逆と天主の正義に対しての無限負債とは、私たちを無期徒刑、終身懲役に処したのである。私たちの看守は、悪魔であり、罪悪であり、そのほか種々雑多な不幸である。それらは無数で、しかも残酷無情冷血をきわめ、一刻も私たちをしいたげることをやめないで、この世の牢獄から、永遠の地獄の罰へ私たちを突き落そうとする。しかし王の御子なる主は、この牢獄の中にも降りてくださった。私たちの鎖、私たちの刑具は、主の御手足にまとってこれを緊縛した。ああイエズスよ、私たちは御身を礼拝したてまつる。私たちと同じ鎖につながれ、私たちと同じ苦役に服される同囚のみあるじよ。
感謝 これらの真理を聖櫃の前で黙想することは、どんなに楽しいことであろう。二十世紀の間、イエズスは私たちと共にとどまられて、私たちの旅の疲れ、私たちの労働の汗、私たちの戦いの困難、私たちの流刑の苦痛、私たちの牢獄の恥辱と苦役とをわかたれたのである。私たちは地上の生命の続くあいだ――それはほんとうはたいして長くない――これらの苦しみをしのげばよいのである。その数年ないし数十年が終わりさえすれば、天主に忠実であるかぎり、天国の休息と報酬とを受けることができる。私たちの逐謫(ちくたく)は終わり、私たちの鉄鎖は地に落ち、それらの傷あとは光栄ある聖痕として光り輝く。だが私たちの伴侶イエズスの仕事は、世界の終わり、時間の続くかぎり、なくならないのである。それまでイエズスは、ちょうど険阻な山に住んでいる修道士たちが、天主の愛のために道行く旅人たちをひとりひとり案内するように、主は順次に新しい時代の人々の人生の旅を助けてくださる。どのような危険にあっても、主は決して子どもたちをお見捨てにならない。またどんな酷暑厳寒の国々にも、またどんな不毛荒涼とした砂漠の僻地にも主はそこにおいでになって、故郷を離れて異郷に流離(さすら)う人々を励ましてくださる。人々から忘れられ、ののしられ、時としてかすめられる聖櫃は、主が牢獄にいる人々を慰めるために自らお選びになった虜(とりこ)の場所である。ああいかなる愛、いかなる勇気であろうか。
あなたの尊い伴侶から受けるすべての慰めと力とを喜ぼう。主は私たちを愛されるとともに、私たちのために必要を予想して、楽しい食物、力のある食物、故郷の先験、救済の証拠である御血肉を用意された。実に主は限りない親切な伴侶でいらっしゃる。
償い あなたは主に対して忠実だったろうか。あなたの方でたびたび主を裏切り、主を見捨てはしなかったか。あなたにへつらいはしても、その実、盲目なうえに利己的であって、しまいにはあなたとともに泥沼に落ち込むような人々との交際を好まなかったか。あなたは主の御導きを嫌い、主の勧めにそむき、主の御言葉を無視しなかったか。あなたは主のご努力を無にし、主の流刑をさらに苦しくし、主の牢獄をもっと辛くするやっかいな重荷、恥じねばならない伴侶ではなかっただろうか。これらの点を糾明して必要な償いをしよう。
祈願 最後まで主に忠誠な伴侶であるように、必要な恩恵と力とを願い、これからは主のよい伴侶となろう。
私に対する主の思し召しを知り、主の御言葉を理解することができるよう祈ろう。また主に忠誠を守り通すに必要な手段をとることができるよう賢明忠実で超自然的な指導霊父を送られるよう主に願い望もう。
実行 毎日聖体中においでになる尊い伴侶を訪問して、主と交わることを学ぼう。
人である聖体
聖体はわが伴侶である
礼拝 私たちがただいま祭壇上に礼拝申しあげるイエズスは、私たちのかたわらに住み、都会と田舎を問わず私たちの行くところに伴ない絶えず私たちと一緒にいらっしゃるのである。このイエズスは、私たちが幼児期を脱して知恵のつきはじめたころ、初聖体の日にはじめて私たちのもとに来られて以来いつも私たちとともにとどまっていらっしゃる。だから、いにしえの預言者や聖会博士の口を通して、主がご自分からお名乗りになった『われらの伴侶』のみ名ほど、主にふさわしいみ名はない。
主はこの世に天下り、私たちと同格の者とおなりになった。そして地上では私たち人間の忠実な信頼すべき忍耐深い友として、一切の仕事をしてくださるのである。私たちのたどる小道がいかに卑しく、いかに険しく、またいかに恐ろしくても主はいつも私たちのかたわらにおいでになって、いつでも、そのあたたかいみ手を伸ばしておいでになる。
私たちは天国に至るために、小やみなく常に歩まなければならない。私たちは旅をするよう運命づけられている。涙の谷は昼でも暗く、人生の断崖絶壁は非常に危ない。障害は途上に横たわり、盗賊は路傍に出没する。けれども、主が私たちと一緒においでになるかぎり、そこになんらの危険もない。主は衣の裾をからげ、腰に帯し、杖をとって私たちと一緒に歩いてくださる。
私たちは人生の朝より、寒く暗い老年の夕べに至るまで、長くて苦しい一日を歩み続けなければならない。頭上には烈日が輝き、足もとには岩石と茨とが道をふさいでいる。まことに艱難辛苦をきわめる旅である。だがそれが何であろう。主はご自分から私たちと一緒に軛(くびき)をにない、私たちの労働をわかち、私たちのように額に汗を流された。このように休みなく働かれるだけでなく、必ず主の御助けを願えと私たちにいわれるのである。それは、主が一緒においでにならなければ、私たちは何ごとをもなすことができないからである。
私たちは兵士である。私たちの一生は戦場で過ごすのである。この戦いは休戦時のない悪戦苦闘で、あざむきと残虐とがその特徴である。けれども、それが何だろう。主は私たちと一緒に戦い、私たちの試練を分けてくださる。
流刑にされた罪人なる私たちの故郷は天国である。地はもともと恩恵の楽園であり、光楽の天国に通じるこころよい大道であるはずだった。だが私たちは、忘恩と傲慢とによりその外に追放され、血に飢えたサタンが統治する異郷におかれて、私たちを憎み、私たちを迫害してやまない異邦人の間にさまよわなければならなくなった。しかし私たちは恐れない。主は御父の住み家である天国の美しい宮殿を捨て、主を囲んで奉仕する無数の天軍と別れて、私たちの流刑の伴侶となり、私たちのように憎まれ、追われ、背(そむ)かれたもうた。主は死に処せられ、休みどころである御墓においてさえも非道な戦いがいどまれた。
最後に、私たちは鉄鎖につながれ、牢獄に投げ入れられた囚人である。天主の御稜威(みいつ)に対しての反逆と天主の正義に対しての無限負債とは、私たちを無期徒刑、終身懲役に処したのである。私たちの看守は、悪魔であり、罪悪であり、そのほか種々雑多な不幸である。それらは無数で、しかも残酷無情冷血をきわめ、一刻も私たちをしいたげることをやめないで、この世の牢獄から、永遠の地獄の罰へ私たちを突き落そうとする。しかし王の御子なる主は、この牢獄の中にも降りてくださった。私たちの鎖、私たちの刑具は、主の御手足にまとってこれを緊縛した。ああイエズスよ、私たちは御身を礼拝したてまつる。私たちと同じ鎖につながれ、私たちと同じ苦役に服される同囚のみあるじよ。
感謝 これらの真理を聖櫃の前で黙想することは、どんなに楽しいことであろう。二十世紀の間、イエズスは私たちと共にとどまられて、私たちの旅の疲れ、私たちの労働の汗、私たちの戦いの困難、私たちの流刑の苦痛、私たちの牢獄の恥辱と苦役とをわかたれたのである。私たちは地上の生命の続くあいだ――それはほんとうはたいして長くない――これらの苦しみをしのげばよいのである。その数年ないし数十年が終わりさえすれば、天主に忠実であるかぎり、天国の休息と報酬とを受けることができる。私たちの逐謫(ちくたく)は終わり、私たちの鉄鎖は地に落ち、それらの傷あとは光栄ある聖痕として光り輝く。だが私たちの伴侶イエズスの仕事は、世界の終わり、時間の続くかぎり、なくならないのである。それまでイエズスは、ちょうど険阻な山に住んでいる修道士たちが、天主の愛のために道行く旅人たちをひとりひとり案内するように、主は順次に新しい時代の人々の人生の旅を助けてくださる。どのような危険にあっても、主は決して子どもたちをお見捨てにならない。またどんな酷暑厳寒の国々にも、またどんな不毛荒涼とした砂漠の僻地にも主はそこにおいでになって、故郷を離れて異郷に流離(さすら)う人々を励ましてくださる。人々から忘れられ、ののしられ、時としてかすめられる聖櫃は、主が牢獄にいる人々を慰めるために自らお選びになった虜(とりこ)の場所である。ああいかなる愛、いかなる勇気であろうか。
あなたの尊い伴侶から受けるすべての慰めと力とを喜ぼう。主は私たちを愛されるとともに、私たちのために必要を予想して、楽しい食物、力のある食物、故郷の先験、救済の証拠である御血肉を用意された。実に主は限りない親切な伴侶でいらっしゃる。
償い あなたは主に対して忠実だったろうか。あなたの方でたびたび主を裏切り、主を見捨てはしなかったか。あなたにへつらいはしても、その実、盲目なうえに利己的であって、しまいにはあなたとともに泥沼に落ち込むような人々との交際を好まなかったか。あなたは主の御導きを嫌い、主の勧めにそむき、主の御言葉を無視しなかったか。あなたは主のご努力を無にし、主の流刑をさらに苦しくし、主の牢獄をもっと辛くするやっかいな重荷、恥じねばならない伴侶ではなかっただろうか。これらの点を糾明して必要な償いをしよう。
祈願 最後まで主に忠誠な伴侶であるように、必要な恩恵と力とを願い、これからは主のよい伴侶となろう。
私に対する主の思し召しを知り、主の御言葉を理解することができるよう祈ろう。また主に忠誠を守り通すに必要な手段をとることができるよう賢明忠実で超自然的な指導霊父を送られるよう主に願い望もう。
実行 毎日聖体中においでになる尊い伴侶を訪問して、主と交わることを学ぼう。