テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より
聖体の顕示に関する黙想
聖体降福式はご受難に対する最善の償いである
礼拝 祭壇の上におけるイエズス・キリストをご肉身の不朽の光栄と、ご霊魂の無量の御喜びのうちに礼拝しよう。主の御稜威(みいつ)は今聖体の覆(おお)いで隠されているが、実際は、死を征服されたいとも尊い主のみ前に私たちはいるのである。
天上では、主のご肉身とご霊魂とは、無数の天使聖人の賛美と愛と服従とを受け、最上の威勢、このうえもない光栄を有しておいでになる。これは、主が地上でお忍びになったご苦難と恥辱とに対しての報酬であって、主の聖なる人性に与えられた償いである。聖パウロは次の言葉によってこの真理を証明する。『彼は自らへりくだりて、死、しかも十字架上の死に至るまで従える者となりたまえり。これによりて、天主もまたこれを最上にあげたもうにいっさいの名にすぐれたる名をもってしたまえり』と。このように、天上において、主のご受難に対しての償いが存在するなら、地上においてもまた同様の償いが主に捧げられなければならないはずである。だから主が人性をもって聖体の秘跡のうちに宿られるのは、主がかつて受けられたご苦難と御恥辱とに対して、せめてもの償いとして私たちから、あらゆる栄誉、尊敬、礼拝を受けられるためではないだろうか。主が多くの苦痛を受けられたのがこの地上においてであっただけに、償いは天上よりも地上においてもっと必要なのではないだろうか。
聖体顕示の聖式は、この償いを非常にふさわしく主にささげるものである。なぜなら、この聖式のうちに行なわれるところは、すべてキリストの聖なる人性の実在に対しての賛美以外の何ものでもないからである。主が痛ましく縛りつけられた石の柱、群衆が主をとりまいて呪いの言葉を浴びせかけた裁判所のかわりに、ここでは美しい聖堂があって、光は花に映じ、信者の熱誠をこめた賛美歌は堂内に響き渡る。主のおまといになった赤いぼろのかわりに、ここでは金銀の縫いとりをした高価な絹が聖体容器をおおい、美しい絨毯(じゅうたん)が至聖所に敷きつめてある。主をひとりさびしく残して逃げ去った弟子たちのかわりに、ここでは司祭たちが交互に進み出て、ふだんの礼拝を主にささげている。『見よ、 人を。』 ああ天主なる人、救い主なる勝利者、私たちに天主性を分け与え、私たちを天主の世つぎとするために私たちの人性を受けられたこの人を見よ。
主のみ前にひれ伏して、ご受難の際の侮辱を償う心で叫ぼう。『尊きかなユデア人の王よ』と。ああまことのイスラエル人、選ばれた民の王よ。すべての賛美と愛とにふさわしい王よ。聖にして尊き王よ。
感謝 イエズスのご受難を思い出すとき、人々の感謝の念は、洪水のように聖体の玉座の前に注がれなければならない。主のご受難はなんぴとのためであったのか。主があのようにむごい苦しみを堪え忍ばれたのは、いったいなんぴとのためであったろうか。主の御苦しみ、非痛な御悩みは、私たちの罪をお除きくださるためでなくて、何であったろうか。ご苦難の杯を、底の底まで飲み干された主の英雄的なご勇気は、私たちのためにあらゆる苦痛をおしのぎになるためでなくて、いったい何のためであったろうか。
私たちは、聖体降福式によって私たちのためにこれらのことを行なわれた主を眼前に仰ぐことができる。これは、私たちの感謝を公に主に示すことのできる最上の機会といわなければならない。私たちの身体と霊魂とのすべての能力をもって、信心と敬虔と愛と歓喜と熱心とのかぎりを尽くして主の礼拝に加わろう。天上での永遠の賛美をもってしても返し尽くすことのできない感謝の負債の非常に小さい一部分を、地上で果たすことは、主の最も望まれるところである。
恩恵を知り、恩人に感謝することは、人情を知る者にとって最大の幸福である。しかも与えられた恩恵は私たちの救いであり、恩人は主イエズスでいらっしゃるからである。
償い 私たちの愛を得ようとして愛の奇跡を重ねられたイエズスの最大の御苦しみは、私たちの忘恩と無情とである。主のご臨終にあたって、日は暗み、墓は開け、多くの不信者は改心した。けれども私たちは主の御苦しみに無感覚で、そのご努力をいつも無駄にしているのである。そればかりでなく、なおユダの背信を繰り返して、主を十字架に釘づける冒瀆的な聖体拝領や、主の御からだを打擲(ちょうちゃく)した残酷な兵士のしわざにも比べられる汚聖的行為も少なくない。このような事がらを考え合わせるとき、どれほど償いが必要であるかが、だれにでも容易にわかることであろう。
主が顕示された聖体の中から聖女マルガリタ・マリアにおおせになった痛ましい御言葉『われはわが受難に際して受けたあらゆる苦痛にも増して、このことを苦痛となす』を反覆し黙想しよう。
祈願 聖体のみ前に出るたびに、主のご受難を思い出す御恵みをお願いしよう。はつらつとした信仰とともに、深い敬虔をもってこれを黙想し、罪に対しての憎悪と、天主に在す生贄(いけにえ)に対する大いなる愛を主に願おう。聖体は今もなお私たちのために、自らご自分を天父に捧げて、このために私たちの感謝と愛とを要求される生贄にて在すのである。
聖トマといっしょに『ああ救い主のご死去のかたみよ、人に生命を与うる生けるパンよ、わが魂をして御身によって生きながらえ、とこしえに御身の甘美を味わうをえしめたまえ』と祈るがよい。
実行 はじめに決心したように、聖体の礼拝を忠実に実行しよう。
聖体の顕示に関する黙想
聖体降福式はご受難に対する最善の償いである
礼拝 祭壇の上におけるイエズス・キリストをご肉身の不朽の光栄と、ご霊魂の無量の御喜びのうちに礼拝しよう。主の御稜威(みいつ)は今聖体の覆(おお)いで隠されているが、実際は、死を征服されたいとも尊い主のみ前に私たちはいるのである。
天上では、主のご肉身とご霊魂とは、無数の天使聖人の賛美と愛と服従とを受け、最上の威勢、このうえもない光栄を有しておいでになる。これは、主が地上でお忍びになったご苦難と恥辱とに対しての報酬であって、主の聖なる人性に与えられた償いである。聖パウロは次の言葉によってこの真理を証明する。『彼は自らへりくだりて、死、しかも十字架上の死に至るまで従える者となりたまえり。これによりて、天主もまたこれを最上にあげたもうにいっさいの名にすぐれたる名をもってしたまえり』と。このように、天上において、主のご受難に対しての償いが存在するなら、地上においてもまた同様の償いが主に捧げられなければならないはずである。だから主が人性をもって聖体の秘跡のうちに宿られるのは、主がかつて受けられたご苦難と御恥辱とに対して、せめてもの償いとして私たちから、あらゆる栄誉、尊敬、礼拝を受けられるためではないだろうか。主が多くの苦痛を受けられたのがこの地上においてであっただけに、償いは天上よりも地上においてもっと必要なのではないだろうか。
聖体顕示の聖式は、この償いを非常にふさわしく主にささげるものである。なぜなら、この聖式のうちに行なわれるところは、すべてキリストの聖なる人性の実在に対しての賛美以外の何ものでもないからである。主が痛ましく縛りつけられた石の柱、群衆が主をとりまいて呪いの言葉を浴びせかけた裁判所のかわりに、ここでは美しい聖堂があって、光は花に映じ、信者の熱誠をこめた賛美歌は堂内に響き渡る。主のおまといになった赤いぼろのかわりに、ここでは金銀の縫いとりをした高価な絹が聖体容器をおおい、美しい絨毯(じゅうたん)が至聖所に敷きつめてある。主をひとりさびしく残して逃げ去った弟子たちのかわりに、ここでは司祭たちが交互に進み出て、ふだんの礼拝を主にささげている。『見よ、 人を。』 ああ天主なる人、救い主なる勝利者、私たちに天主性を分け与え、私たちを天主の世つぎとするために私たちの人性を受けられたこの人を見よ。
主のみ前にひれ伏して、ご受難の際の侮辱を償う心で叫ぼう。『尊きかなユデア人の王よ』と。ああまことのイスラエル人、選ばれた民の王よ。すべての賛美と愛とにふさわしい王よ。聖にして尊き王よ。
感謝 イエズスのご受難を思い出すとき、人々の感謝の念は、洪水のように聖体の玉座の前に注がれなければならない。主のご受難はなんぴとのためであったのか。主があのようにむごい苦しみを堪え忍ばれたのは、いったいなんぴとのためであったろうか。主の御苦しみ、非痛な御悩みは、私たちの罪をお除きくださるためでなくて、何であったろうか。ご苦難の杯を、底の底まで飲み干された主の英雄的なご勇気は、私たちのためにあらゆる苦痛をおしのぎになるためでなくて、いったい何のためであったろうか。
私たちは、聖体降福式によって私たちのためにこれらのことを行なわれた主を眼前に仰ぐことができる。これは、私たちの感謝を公に主に示すことのできる最上の機会といわなければならない。私たちの身体と霊魂とのすべての能力をもって、信心と敬虔と愛と歓喜と熱心とのかぎりを尽くして主の礼拝に加わろう。天上での永遠の賛美をもってしても返し尽くすことのできない感謝の負債の非常に小さい一部分を、地上で果たすことは、主の最も望まれるところである。
恩恵を知り、恩人に感謝することは、人情を知る者にとって最大の幸福である。しかも与えられた恩恵は私たちの救いであり、恩人は主イエズスでいらっしゃるからである。
償い 私たちの愛を得ようとして愛の奇跡を重ねられたイエズスの最大の御苦しみは、私たちの忘恩と無情とである。主のご臨終にあたって、日は暗み、墓は開け、多くの不信者は改心した。けれども私たちは主の御苦しみに無感覚で、そのご努力をいつも無駄にしているのである。そればかりでなく、なおユダの背信を繰り返して、主を十字架に釘づける冒瀆的な聖体拝領や、主の御からだを打擲(ちょうちゃく)した残酷な兵士のしわざにも比べられる汚聖的行為も少なくない。このような事がらを考え合わせるとき、どれほど償いが必要であるかが、だれにでも容易にわかることであろう。
主が顕示された聖体の中から聖女マルガリタ・マリアにおおせになった痛ましい御言葉『われはわが受難に際して受けたあらゆる苦痛にも増して、このことを苦痛となす』を反覆し黙想しよう。
祈願 聖体のみ前に出るたびに、主のご受難を思い出す御恵みをお願いしよう。はつらつとした信仰とともに、深い敬虔をもってこれを黙想し、罪に対しての憎悪と、天主に在す生贄(いけにえ)に対する大いなる愛を主に願おう。聖体は今もなお私たちのために、自らご自分を天父に捧げて、このために私たちの感謝と愛とを要求される生贄にて在すのである。
聖トマといっしょに『ああ救い主のご死去のかたみよ、人に生命を与うる生けるパンよ、わが魂をして御身によって生きながらえ、とこしえに御身の甘美を味わうをえしめたまえ』と祈るがよい。
実行 はじめに決心したように、聖体の礼拝を忠実に実行しよう。