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新しいミサの50年(1) ローマ・ミサ典書はいかにしてできたか

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「新しいミサの50年(1) ローマ・ミサ典書はいかにしてできたか」をFSSPX.NEWSサイト(2019年12月3日)からご紹介いたします。


半世紀前、教皇パウロ六世は、終了したばかりの公会議の名によって、教会全体に典礼改革を命じました。こうして、第二バチカン公会議のミサが誕生しました。このミサは直ちに二人の枢機卿によって拒否され、それ以来、このミサへの反対意見は弱まることはありません。この悲しい記念日は、このミサの歴史を振り返る良き機会です。

パウロ六世の典礼改革と新しいミサを考察する前に、ローマ・ミサ典書の歴史をたどる必要があります。なぜなら、この改革は過去からの継続だと主張されているからです。歴史的に俯瞰をすることが、この主張の愚かさを理解する助けとなることでしょう。

ローマ・ミサ典書は何世紀にもわたって発展していました。ミサの聖なるいけにえを実行するために必要不可欠な諸要素は常に存在していたものの、漸次、その諸要素を内に秘めた様々な典礼が発達し、それらの典礼によって、必要不可欠な諸要素を理解し、またその深い意味をつかむことが可能となるのです。

最初の3世紀

新約聖書の本文は、聖木曜日の夕方に行われたご聖体の制定を記録しています。それは、キリストの尊き御血によって新約を成立させる過ぎ越しの食事、新しい過ぎ越しです。この新しい過ぎ越しを更新するために選ばれた日は日曜日、ご復活の日です。 一世紀の終わり頃の「ディダケー」は、「主の日」について語っており、聖ユスティノが二世紀にそのことを証言しています。

福音書の本文もまた、この新しい礼拝の必要不可欠な要素、つまり「私の記念としてこれを行え」という主の命令の成就を意味する「パンを裂くこと」について言及しています。使徒行録はこの儀式が個人の家で行われていたことを示しています。「週のはじめの日、私たちはパンを裂くために集まった」(使徒行録20章7節)。

礼拝を目的とした最初の建物はかなり早期に、早くも2世紀には出現していました。最古の教会はユーフラテス河岸のドウラ・エウロポス(Doura-Europos)で見つかりましたが、これは232年ごろのものでした。ローマでは、キリスト教の宗教建築の記録が残る、3世紀初頭まで待たなければなりません。しかし、殉教者聖ユスティノ(165年死去)による第一弁明を別にすれば、この期間にはキリスト教の礼拝の展開や、使われていた祈りについての詳細は存在しません。

これが、この聖なる護教家聖ユスティノの有名な一節です。
「そして日曜日と呼ばれる日に[τῇ τοῦ ἡλίου λεγομένῃ ἡμέρᾳ ]、都市や田舎に住んでいるすべての人が一つの場所に集まり、時間が許す限り、使徒たちの回想録や預言者たちの書物が読み上げられます。そして、朗読がやむと、司式者は口頭でこれらの良いものに倣うよう教え、勧めます。それから私たちはみな一緒に立ち上がって祈り、前に言ったように、私たちの祈りが終わると、パンとぶどう酒と水が持ってこられ、司式者は同様に彼の能力に従って(ὅση δύναμις αὐτῷ)祈りと感謝を捧げ、会衆は同意してアーメンと言います。そして、各人への分配があって、感謝の気持ちが込められたその分配にあずかり、またその一部は助祭によって欠席している人のもとに運ばれます」。

4世紀から6世紀まで

4世紀には迫害の終わりを迎えます。今や認可されたキリスト教は、ついに礼拝のみを目的とした建物での公の礼拝を実施することができるようになるのです。これらの建物が最初のバジリカです。感謝の祭儀に関するこの時期の文書はかなりの数にのぼります。この文献によると、ローマで使用された最古にして唯一のアナフォラはローマ典文だったと思われます。ですから、その時からローマの感謝の典礼は統一されていたのです。

ミサは、朗読、詩篇、賛歌の歌唱、説教という、いけにえのための準備をもって始まり、これには求道者が出席していました。それに続いて、奉献誦、サンクトゥスの歌唱、典文、ホスチアの分割、聖体拝領という、信者のためだけの祭儀がありました。入祭誦は6世紀に追加されました。キリエ・エレイソンは、4世紀にギリシャ典礼から借用されました。同時に、グローリアは聖務日課―詩篇の朗読―からミサへと移動しました。6世紀以降、ローマでは書簡と福音という二つの朗読だけがあったことが示されています。

典文の前の序誦は、4世紀以前から存在する非常に古いものです。その後にサンクトゥスが続きます。ホスチアの分割の儀式は、アニュス・デイの歌唱の間、典文の終わりに行われました。それに続くパーテル・ノステルは、ギリシャの慣習に従って、大聖グレゴリオによって典文の締めくくりに加えられました。パーテル・ノステルの後のリベラ・ノスはすべての典礼に存在することが知られています。平和の接吻がホスチアの分割に続きました。聖体拝領は聖別されたパンとカリスで行われましたが、正確にどのように行われたかはわかりません。祝福の後、助祭がイテ・ミサ・エストを歌って、信者が退出しました。

6世紀から11世紀まで
590年から604年まで教皇を務めた大聖グレゴリオから、聖グレゴリオ七世(1073-1085年)にかけて、一つの進化が起こりました。それは、基本的にはフランク族の典礼から借用された要素の導入でした。ゴール地方はローマの信仰と同様にローマの典礼も受け入れていました。しかし、ローマ典礼がある程度フランク化されたことで、フランクの領土に固有の特定の伝統を含んだローマ・ミサ典書が採用されるようになりました。

主に、シャルルマーニュと彼の学者たちがこの交配現象をもたらしました。彼らはフランク王国にローマの慣習を導入しましたが、地元からの寄与も数多くありました。この頃、グレゴリオ聖歌が栄えました。

聖レオ九世(1002-1054年)によって行われ、ウルバノ二世(1088-1099年)によって完成されたグレゴリオ改革は、ゲルマン族出自の諸教皇の影響下で、ローマの諸要素を加えながらも、ローマ・フランク風の典礼書をローマ自体に導入することになりました。グレゴリオ改革によってもたらされた中央集権化は、かくして、より充実したローマ典礼を決定的に統合することになったのです。

トリエント典礼書の祖先である13世紀の典礼書は、この二重の交配現象に由来します。この二重の交配現象とは、ローマ・カロリング朝の時期におけるフランク的要素の導入と、グレゴリオ改革の時期におけるローマ・フランク典礼へのローマ的諸要素の追加です。

入手可能な種々の典礼写本の調査から明らかになることは、これらの儀式がトリエント典礼に全般的に非常に類似しているということです。しかしながら、場所によって異なる副次的な典礼はたくさんあります。それでも、典礼の統一については常に配慮されています。これは正統に配慮するという義務から来ているのですが、さらにまた、たちまち無秩序に陥ってしまう可能性をもった典礼の急増現象を避けるという望みからも来ているのです。

(Source : C. Barthe – FSSPX.Actualités - 30/11/2019) 

 


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