テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より
聖体の顕示に関する黙想
聖体降福式はパレ・ル・モニアルで示された主の聖心のお望みに適うものである
礼拝 天主なる主が、その御稜威を愛をもっておおい座したもう玉座のみ前に跪(ひざまず)き、かつて聖女マルガリタ・マリアが主を仰ぎのぞみながら、聖心の啓示をお受けしたときに感じた同じ感情をもって主を礼拝しよう。彼女は語る。
『ある日、聖体が顕示されていたときに、主は突然私に聖心をお示しになった。聖心は主の御胸よりほとばしりいずるほのおに包まれたかまどのようで、御手足の傷は太陽のように輝いていた。そして主の御からだは烈火の中に立ちたもうようであった』と。
この時、救い主イエズスは、聖女にその神聖な人性を示すためホスチアのおおいを除き、普段その中にひそみ隠れておいでになる暗黒を照らされたのである。これによってもわかるように、主の聖心はホスチアの中にいつも鼓動し、私たちを迎えてくださるのである。
ああ たとい秘跡の陰に隠れておいでになっても、ここにおいでになる御者は、天主にして人なるイエズス・キリストでいらっしゃることを固く信仰し、全身全霊をあげて主を礼拝しよう。
救い主は聖女に仰せになった。『わが心を見よ。この心は人々を愛して何ものをも惜しまず、愛を証するためには、いさぎよく万事を犠牲にした。それなのに、私はこの愛の秘跡に対して、忘恩、冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆を受けるだけである。それゆえ、せめてなんじだけでも、なんじの力に応じて少しでも私を慰め、私の心に報いてほしい』と。
聖体の礼拝、聖体の賛美は、このようにして主がお求めになった報恩である。
ああ、主よ、私たちは主に愛と尊敬とを捧げ、盛大な聖体降福式によって主を賛美し、主のために忠実な礼拝者の群を集めたいと願うのである。私たちは常に主のみ前に座して、あるいは観想の沈黙、あるいは賛美歌の合唱、そのほかあらゆる信心の務めを尽くしたい。そこには、信仰、愛、賛美、服従などの礼拝、痛悔、同情、犠牲、献身などの償い、また、信頼、奮発、祈禱などの祈願のすべてがあるからである。主の礼拝者なる私たちは、このようにして、一切を主に捧げ、完全に主と一致し奉るよう努力するのである。
感謝 聖体の愛と祝福とを理解する人は、聖体降福式の盛儀に参加し、礼拝者の群に入ることをこのうえない慰めとするはずである。なぜなら、彼らはこれによって、救い主に負債を支払い、感謝の義務を少しでも減らすことができるからである。
聖体降福式にあずかるときには、私たちは普通よりもさらにいっそう熱心と誠意とをもって主を礼拝しなければならない。それはこの聖体が、このためにこそ制定されたものであって、また、こうしてはじめて聖心のお望みに適うからである。
主は私たちに対する愛を証するために何ものをも惜しまず、すべてを犠牲にされた。それにもかかわらず私たちはなぜ主に対する感謝の務めに不熱心なのであろうか。私たちは最少限度の必要を満たすだけでなく、すすんでそれ以上の奉仕をなし、すべてを捧げ、すべてを捨てる幸福を経験したくないのであろうか。愛するもののためには何ものをも与え、何ものをも惜しまぬところにこそ幸いがある。主はご生涯を通じ、特に十字架上においてご自身を無とし、また聖体の中においては、私たちの救霊のために日ごと御自らを天父にお捧げになる。この限りのない愛に対する感謝として、私たちもまた献身、犠牲を実行し、永遠の幸福にあずかろうではないか。
償い 聖心に対する償いの意味をよく理解し、熱心をもって奮発するため、私たちは引きつづいてパレ・ル・モニアルの啓示を黙想しなければならない。主は『それなのに私はこの秘跡に対し、多数の人より忘恩、冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆を受けるだけである』と仰せられた。
『それなのに』とは、いかに非痛なみ声であろうか。主の絶大な愛に報いるのに、私たちは十分な愛と信頼とをもってしない。主と私たち、主の聖心と私たちの心、私たちのために一切を惜しまなかった主と、主のために努力し苦しむことを恐れる私たちとの間には、いかに悲しむべき相違があることであろう。
主は『多数の人から』と仰せになった。すべての人ではないが、大多数の人、すなわち、少数の例外を除いた人類が、主の愛に忘恩をもって報いている。
『冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆』とは、主が御自ら私たちの不義と罪悪とを指摘された御言葉である。これらはみな愛と感謝との欠乏から起こる。
『冷淡』とは、何ものをも感動させることができない私たちの利己主義的な頑なさである。
『軽蔑と不敬』とは、私たちの不熱心な投げやりのことである。卑近な例をとるなら、母なる聖会が、私たちに聖体の前に跪き、ランプをともし、ろうそくをつけ、祭壇をおおうのに麻布を使うことを命じているのに、跪く礼はおろそかにされ、ランプはたびたび消えたままで、祭壇の布は染みだらけとなり、聖櫃の上には塵がたまりがちなのである。種々の祭式のためには金銭が出し惜しまれる。『この浪費は何のためぞ』とつぶやく声が聞こえてくる。主よ、主は私たちの間で最も卑しい人のように取り扱われになられている。
最後に、主は『冒瀆』を嘆かれる。主を拝領しても心の奥で主を汚す者、悪魔の手先となって主の祭壇を略奪する者、彼らこそ最も憎むべき冒瀆者である。
主はこのように嘆かれたあと『すべてこれらのことは、受難の時に感じたどんな苦しみよりも大いなる苦しみである』と仰せになった。
このような御言葉を耳にしても、なお私たちはまだ主を敬うことを怠り、聖体降福式に対して精神的、物質的に不忠実であることができるだろうか。
祈願 『それゆえ、せめてなんじの力に応ずる多少の報恩をもって、私を慰めてくれねばならぬ』この御言葉の中に、しなければならない決心、求めなければならない恩恵が示されている。すなわち、私たちの熱心、誠意、賛美こそは、最上の主なるイエズスのご光栄であるばかりでなく、実にその御慰め、御喜びとなるのである。この確信をもって主を礼拝し、たびたび聖体を拝領し、聖堂を飾るための労力と費用とを惜しまず、また聖体降福式の普及のために全力を尽くそう。これによって、私たちは功徳を積み、聖心をお慰めし、『聖体中において人々にあがめられん』ことをお望みになる主の御渇きを癒すことができるのである。
実行 聖体降福式のため祭壇を飾るのになにも惜しまないようにしよう。
聖体の顕示に関する黙想
聖体降福式はパレ・ル・モニアルで示された主の聖心のお望みに適うものである
礼拝 天主なる主が、その御稜威を愛をもっておおい座したもう玉座のみ前に跪(ひざまず)き、かつて聖女マルガリタ・マリアが主を仰ぎのぞみながら、聖心の啓示をお受けしたときに感じた同じ感情をもって主を礼拝しよう。彼女は語る。
『ある日、聖体が顕示されていたときに、主は突然私に聖心をお示しになった。聖心は主の御胸よりほとばしりいずるほのおに包まれたかまどのようで、御手足の傷は太陽のように輝いていた。そして主の御からだは烈火の中に立ちたもうようであった』と。
この時、救い主イエズスは、聖女にその神聖な人性を示すためホスチアのおおいを除き、普段その中にひそみ隠れておいでになる暗黒を照らされたのである。これによってもわかるように、主の聖心はホスチアの中にいつも鼓動し、私たちを迎えてくださるのである。
ああ たとい秘跡の陰に隠れておいでになっても、ここにおいでになる御者は、天主にして人なるイエズス・キリストでいらっしゃることを固く信仰し、全身全霊をあげて主を礼拝しよう。
救い主は聖女に仰せになった。『わが心を見よ。この心は人々を愛して何ものをも惜しまず、愛を証するためには、いさぎよく万事を犠牲にした。それなのに、私はこの愛の秘跡に対して、忘恩、冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆を受けるだけである。それゆえ、せめてなんじだけでも、なんじの力に応じて少しでも私を慰め、私の心に報いてほしい』と。
聖体の礼拝、聖体の賛美は、このようにして主がお求めになった報恩である。
ああ、主よ、私たちは主に愛と尊敬とを捧げ、盛大な聖体降福式によって主を賛美し、主のために忠実な礼拝者の群を集めたいと願うのである。私たちは常に主のみ前に座して、あるいは観想の沈黙、あるいは賛美歌の合唱、そのほかあらゆる信心の務めを尽くしたい。そこには、信仰、愛、賛美、服従などの礼拝、痛悔、同情、犠牲、献身などの償い、また、信頼、奮発、祈禱などの祈願のすべてがあるからである。主の礼拝者なる私たちは、このようにして、一切を主に捧げ、完全に主と一致し奉るよう努力するのである。
感謝 聖体の愛と祝福とを理解する人は、聖体降福式の盛儀に参加し、礼拝者の群に入ることをこのうえない慰めとするはずである。なぜなら、彼らはこれによって、救い主に負債を支払い、感謝の義務を少しでも減らすことができるからである。
聖体降福式にあずかるときには、私たちは普通よりもさらにいっそう熱心と誠意とをもって主を礼拝しなければならない。それはこの聖体が、このためにこそ制定されたものであって、また、こうしてはじめて聖心のお望みに適うからである。
主は私たちに対する愛を証するために何ものをも惜しまず、すべてを犠牲にされた。それにもかかわらず私たちはなぜ主に対する感謝の務めに不熱心なのであろうか。私たちは最少限度の必要を満たすだけでなく、すすんでそれ以上の奉仕をなし、すべてを捧げ、すべてを捨てる幸福を経験したくないのであろうか。愛するもののためには何ものをも与え、何ものをも惜しまぬところにこそ幸いがある。主はご生涯を通じ、特に十字架上においてご自身を無とし、また聖体の中においては、私たちの救霊のために日ごと御自らを天父にお捧げになる。この限りのない愛に対する感謝として、私たちもまた献身、犠牲を実行し、永遠の幸福にあずかろうではないか。
償い 聖心に対する償いの意味をよく理解し、熱心をもって奮発するため、私たちは引きつづいてパレ・ル・モニアルの啓示を黙想しなければならない。主は『それなのに私はこの秘跡に対し、多数の人より忘恩、冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆を受けるだけである』と仰せられた。
『それなのに』とは、いかに非痛なみ声であろうか。主の絶大な愛に報いるのに、私たちは十分な愛と信頼とをもってしない。主と私たち、主の聖心と私たちの心、私たちのために一切を惜しまなかった主と、主のために努力し苦しむことを恐れる私たちとの間には、いかに悲しむべき相違があることであろう。
主は『多数の人から』と仰せになった。すべての人ではないが、大多数の人、すなわち、少数の例外を除いた人類が、主の愛に忘恩をもって報いている。
『冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆』とは、主が御自ら私たちの不義と罪悪とを指摘された御言葉である。これらはみな愛と感謝との欠乏から起こる。
『冷淡』とは、何ものをも感動させることができない私たちの利己主義的な頑なさである。
『軽蔑と不敬』とは、私たちの不熱心な投げやりのことである。卑近な例をとるなら、母なる聖会が、私たちに聖体の前に跪き、ランプをともし、ろうそくをつけ、祭壇をおおうのに麻布を使うことを命じているのに、跪く礼はおろそかにされ、ランプはたびたび消えたままで、祭壇の布は染みだらけとなり、聖櫃の上には塵がたまりがちなのである。種々の祭式のためには金銭が出し惜しまれる。『この浪費は何のためぞ』とつぶやく声が聞こえてくる。主よ、主は私たちの間で最も卑しい人のように取り扱われになられている。
最後に、主は『冒瀆』を嘆かれる。主を拝領しても心の奥で主を汚す者、悪魔の手先となって主の祭壇を略奪する者、彼らこそ最も憎むべき冒瀆者である。
主はこのように嘆かれたあと『すべてこれらのことは、受難の時に感じたどんな苦しみよりも大いなる苦しみである』と仰せになった。
このような御言葉を耳にしても、なお私たちはまだ主を敬うことを怠り、聖体降福式に対して精神的、物質的に不忠実であることができるだろうか。
祈願 『それゆえ、せめてなんじの力に応ずる多少の報恩をもって、私を慰めてくれねばならぬ』この御言葉の中に、しなければならない決心、求めなければならない恩恵が示されている。すなわち、私たちの熱心、誠意、賛美こそは、最上の主なるイエズスのご光栄であるばかりでなく、実にその御慰め、御喜びとなるのである。この確信をもって主を礼拝し、たびたび聖体を拝領し、聖堂を飾るための労力と費用とを惜しまず、また聖体降福式の普及のために全力を尽くそう。これによって、私たちは功徳を積み、聖心をお慰めし、『聖体中において人々にあがめられん』ことをお望みになる主の御渇きを癒すことができるのである。
実行 聖体降福式のため祭壇を飾るのになにも惜しまないようにしよう。