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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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霊魂の生命なるキリスト 第1講の五 人祖アダムの罪によりて破壊され、イエズスの御托身によりて回復されたる天主の御計画

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霊魂の生命なるキリスト

第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画
五 人祖アダムの罪によりて破壊され、イエズスの御托身によりて回復されたる天主の御計画
人祖アダムは天主の子とされる恩寵を自己のみのためだけではなく、子孫である全人類のためにうけたのであるが、罪のためにこれを失い、その結果は自己のみだけでなく全人類に及び、世に生れてくる人類は―聖母マリアを除き―天主の子としての恩寵をはがされ、罪の子、天主の怒りの子、天主の敵として世に生れでることとなってしまった。天主が人の上に持ち給うた御計画はここに破壊されてしまったのである。
原罪後の新秩序。ところが隣み深い天主は、驚歎するような方法により、破壊されてしまった御計画を回復し、新しい秩序を立て給うた。すなわち教会がミサ聖祭中に「驚歎すべくも人性を取り給える天主は、さらに驚歎すべき方法をもってこれを改造し給えり」と祈る通りに、天地創造よりも一層深い神秘と驚歎すべき聖旨と方法とをもって我等の人性を改造し給うた。
人性改造の偉業とは何であろうか。これこそが、御托身の玄義である。天主は人性を取り、真の天主、真の人として世に降り、自らこの偉業を完成し、秩序を回復し給うた。その人性を取って世に降り給うた天主とは、これこそ天主の永遠の御言葉イエズス・キリスト、これこそ、聖パウロが啓示する「世の始より天主の考の中に隠れたりし奥義」(エフェゾ3:9)である。確かに真の神人イエズス・キリストは天主と人との間の仲介者となり、我等を天主と和睦させて、それによって我等が再度聖寵をいただけるよう取計い給うた御方である。この計画は天主にあっては永遠の彼方から定められていたので、聖パウロはこれを現在の神秘として取扱っている。これより後に述べようとしているのは、この大使徒が天主の御計画を世に明らかに知らせようとするために天主の御心の中にまで入りこれに触れて知り得たるところを述べる大論旨であるから、深い信仰の精神をもって味わいたいものである。
まず天主の御意向は、聖子イエズス・キリストを、すべて贖(あがな)われたる者と今世、来世における万事万物の頭に立て、彼によって、彼と共に、彼において、我等を成聖し御自分との一致を実現させ給うにあった。聖パウロの全書間はその述べる方法は異なろうとも、根底においてはこの唯一の教義の上に立ち、またこれを明らかに力強く表わすものである。
次に我等は天主がどのようにしてこの御計画を実現させ給うかを観想しなければならないが、それに先だって、聖父の永遠の御懐(ふところ)に生れ、人性を取って人となり世に降り給うた御言葉を各自で自分の心の中において拝礼しよう。―至聖三位の天主は童貞マリアの胎内に我等と同じ一人の人を創造し、これを、言い表し難い絶妙、不可分なる形の下に、天主の第二位なる御言葉、聖子の位格に合致させ、真の神人を世に生れ出でさせ給うた。これが、イエズス・キリストである。実に天主の御言葉は、天主の本性の中に被造物である人の性を取り上げ給うたが、その一致は唯一の御言葉の位格しかない程、密接かつ完全であった。しかしこのことにより、天主の性そのものに何等の変化や影響等があるはずがない。キリストの中での天主の性と人の性とは、あまりにも明らかな別物で決して混同されるべきものではない。確かに、キリストは天主の実の聖子に在して、御自分の中に天主の生命と完全さを保有し給う方なのだ。「父は生命を己のうちに有し給う如く、子にまた生命を己のうちに有する事を得させ給えり」(ヨハネ5:26)。
このように、聖父天主は生命を御言葉なる聖子に伝え、人性と合し給える御言葉は、これを自らの人性に伝えて世に生れ出で給うたので、聖父は聖子イエズス・キリストをご自分の実子として「汝はわが子なり,我今日汝を生めり」(ヘブレオ5:5)と言っているのである。こうしてキリストは、聖父天主の実子に在すが故に、その人性はまた天主の実子の人性であり、天主の生命、真理、完徳、聖寵、智識のすべてを己の中に充満させているのである。「智識及び学識の諸の宝、彼に隠れて在す」(コロサイ2:3)。「神性は残なく実体的にキリストの中に充満ちて宿れるなり」(コロサイ2:9) 「これが中に生命あり」(ヨハネ1:4)。この故にキリスト・イエズスは、天主としても人としても同様に拝礼し奉るべき御方である。「人と成り給える天主の御言葉、キリスト・イエズスよ。御身は天主の聖子にして、聖父と等しく在す。実(まこと)、御身は聖父天主の愛子にして、聖父の御意によく適い給う御方にて在せば、我御前に平伏し拝礼し奉る。諸人も来たりて拝礼し奉れ」。
さらに我等を歓喜させ感歎させるのは、イエズス・キリストに充満つる天主の生命は溢れ出で、全人類の上に及ばねばならないものであることが啓示されたことである。キリストが本性より天主の聖子にて在しながら、人性を取って人と成り世に来り給うたのは、聖寵によって人類を御自分と同様に天主の子、己が兄弟にならせ、自ら多くの兄弟の中で長子となり給わんがためであった。すなわち キリストは本性より天主の聖子にて在し、我等は聖寵によって天主の子となることができる者となったのである。「天主は予知し給える人々を、御子の状(すがた)に肖似(あやか)らしめんと予定し給えり、これ、御子が多くの兄弟の中に長子たらんためなり」(ロマ8:29)
天主の御計画の中心点。これで我等は天主が人類の上に設定し給うた御計画の中心点に到達したので、次に天主はどのようにして我等を自分の御子とさせ、天国の家督を継がせ給うかということの実際的方法について見る。すると それはすべて聖パウロが言ように、聖子イエズス・キリストによって、彼において、彼を通じて、これを実現し給い、そうして聖子もそのためにこそ世に遣され給うたことが知られる。「天主は御子を女より生(な)りたるものとして遣わし給えり。これ我等をして子とせらるることを得しめ給わんためなり」(ガラチア4:5)。さらに具体的に言えば、天主の本性、生命、権能、聖寵はすべて本性よりの聖子なるキリスト・イエズスの中に実体的に充満ちて宿り、「神性は、諸々の権勢及び能力の頭にて在すキリストの中に充満ちて宿れるなり」 (コロサイ2:10)、しかも彼の中に満ちあふれたる天主の性、生命、聖寵は、彼によって我等に与えられ、こうして我等は天主の子とされるのである。聖ヨハネも真理と聖寵に充満ちて人と成り給える御言葉を示したる後「わが世に来たれるは羊が生命を得、しかなお豊かに得んためなり」(ヨハネ10:11)。「かくて我等は皆、その充満せる所より授かりて、恩寵に恩寵を加えられたり」(同1:16)と言い、我等が皆、キリスト・イエズスによって彼の中に充満てる天主の性と生命をいただき、これにより天主の子、彼の兄弟とされることを明らかにしている。「思召のままにイエズス・キリストをもって己が子とならしめんことを予定し給えり」(エフェゾ1:5)。
イエズス・キリストのすべては天主の御子たる身分に帰し、人のすべてはイエズス・キリストに帰する。こうしてイエズス・キリストは我等の永遠の生命と成聖の源泉にて在し、我等は皆、その泉に養われている者である。さればイエズス・キリストのすべては天主の聖子なる身分に帰すると同様に、我等信者のすべては、またイエズス・キリストに帰着し、我等の成聖はキリストによって天主の生命に与かることである。またキリスト御自身が聖そのものにて在すと共に、また我等の成聖者に在し、天主は我等の成聖をキリストの人性の中に置き給うが故に、我等はキリストなる生命の源泉より水を汲み、これを飲む外に成聖の道がないのだということが知られる。我等はミサ聖祭のグロリアにおいて教会と共に「おお!キリスト・イエズスよ、汝は独り聖にて在す」と高らかに歌い、大使徒聖パウロの言うように「我等は天主によりてこそ、我等の智慧と義と成聖と贖いとになり給いしキリスト・イエズスにあるなれ」(コリント前1:30)と言おう。
主キリスト、御身は己の中にすべての宝を持ち給うので、御身を受けることとはすべての宝を受けることである。「わが御子をすら惜しみ給わず、かえって我等一同のためにこれを付(わた)し給いたれば、いかでかこれに添えて一切を我等に賜わざらんや」(ロマ8:32)「我等はキリストにありて贖いを得、その恩寵我等に溢れたり」(エフェゾ1:7,8)。そうであれば主キリストよ、我等の救霊、罪の赦し、超自然的な豊かな富は、ただひとり御身から我等に降り、人の言葉では言い表わし難い賜物に対する我等のすべての讃美は、御身に帰し、御身によって聖父に昇ることを希望し奉る。







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