霊魂の生命なるキリスト
第2講 完徳の唯一の規範であるイエズス・キリスト
序説 ―キリストの教義の種々の面と豊かな実り―
一、天主と一致するには天主を知らなければならない。天主は御子イエズスをもって世に御自分を顕わし給う。「彼を見る人は父を見るなり」。
二、真の天主にして完全なる人イエズス・キリストは我等の模範――聖寵は彼に似奉るための基礎的印(しるし)であること。
三、その御業と徳において我等の模範なるキリスト。
四、我等は聖寵によりキリストに似奉ること。すべてを聖父天主の御光栄に帰する根本的心構えが備わってこそ、我等は他のキリストと言える。
序説
聖パウロは生涯を捧げすさまじい熱意をもってイエズス・キリストを語り続けたが、そのすべては“キリストは生命に在す"と言う一点に要約される。
「けだし、我に取りて活くるは、キリストなり」(フィリッピ1:21)「我は最も喜びて汝等の魂のために尽し、また己をも尽さん」(コリント後12:15) キリストの御教えを全世界に宣べ伝える器(うつわ)としてキリストから選ばれ、キリストに教えられたパウロは、その崇高で偉大な奥義にまで深く通じて、キリストこそ拝礼し奉るべき真の天主にして真の人、世の救い主であることを理解していた。キリストをよく理解していただけにまたそれだけキリストを愛し奉る熱意に自ら燃え、またこれを世に示し認めさせ、愛させることが彼の生涯の熱望であった。――身は絶えまない追害と艱難に苦しみながらも、心は歓喜に満ちていたことをコロサイの信者に書き送っている。それは彼が前の世には隠されていた天主の奥義と奥義の中に秘められていた光栄の富を世の人に知らせることこそ天主の望みであることを知り、今の世においてキリストを信仰する信者に自らこれを告げることができたからである。さらに牢獄に繋がれている間に、善い意図からだけでなく彼に反対しようとの意図からも他の人らがキリストを宣べ伝えているという報告を受けた時も、これを憎み妬むようなことは少しもなかった。それだけでなく、かえってどんな形のもとにおいてでも、とにかく、キリストが宣べ伝えられさえすれば、それを喜び、「いかようにもあれ、あるいは口実としてなりとも、あるいは真心をもってたりとも、キリスト宣伝せられ給えば、我はこれを喜ぶ、以後も復喜ばん」(フィリッピ1:18) と言っていた。これを見ると、聖パウロは己の学も、智識も心、愛、喜、苦難も生命も挙げてキリストに帰しキリストに捧げ尽し、さらに進んで十字架に釘付けられ給うたキリストを知る智識とそのために苦しむことを良しとして、人々の霊の中にキリストを生むことを喜びとしていたことが知られる。「けだし、我、汝等の中においてイエズス・キリストしかも十字架に釘付けられ給いたる彼の外は何をも知るを善しとせず」(コリント前2:2 )
初代の信者等は、この偉大な使徒の教える教義——聖父なる天主が御独り子イエズス・キリストを世に与えて、これを我等の智慧、義、成聖、贖(あがない)としようと望み給うたこと「我等の智慧と義と成聖と贖になり給いしキリスト・イエズス」(コリント1:30)、また、天主は充満つる恩寵をまずキリストに与え我等をしてキリストの中にすべてを見出させようと計画し給うことを悟っていた。そして、この教義「キリストは………汝等の生命にて在す」(コロサイ3:4)の上に、己の生活を築いて行ったのである。従って彼等の霊的生活は、非常に単純であった。単純ではあったが、これによって恩寵を豊かに受けたのである。
それなのに現代の我等の時代に至って、天主の御心はその愛が減り御腕は力弱きものとなったなどとどうして考えることができるだろうか。天主の愛に変りはない。初代教会の人々を愛し憐れみキリストを通じて恩寵を豊かに恵み給うた天主が、今日の我等にこれを恵み給わないはずもなく、我等を愛し給わない理由もない。それと同じように、天主は我等の上に恩寵――初代信者等が受けた恩寵のように非常な特質のものではないとしても、その豊かさ、有益さにおいては、少しも変わらない恩寵――の雨を降らそうと準備し給うのであり、今日の我等を初代の信者等ほど愛し給わないと言うようなことは考えられないのである。見よ、成聖の方法として彼等が持っていたものは我等も持っているではないか。さらに我等はキリストの御跡に倣い奉った多くの聖人の模範があるので、これに勇気づけられることも出来るではないか。そうであるなら方法は豊かに伝わっているにもかかわらず何故聖寵の実を挙げる人が少ないのだろうか。それは、昔、預言者のもとに来て診察と治療を願いながらも、預言者の治療法が余りに簡単なので意外に感じこれを疑い信用しなかったために、全癒の恵を受けそこなった癩(らい)病者と同じような疑惑と不信を成聖について持っているからである。「予言者エリゼオの時イスラエルの中に多くの癩(らい)病者ありしかど……その中1人も潔くせられざりき」(ルカ4:27)世には成聖の道において、この癩(らい)病者と同じ人が少なくない。天主の定め給うた成聖の道が余りに簡単なので、これを軽んじて棄て、その代りに自ら方法を立て、これによって成聖を企てる人さえある。しかし、これはキリストの奥義を解せず末端のことにとらわれた者で、これではどんなに長い間努力しても絶えず新しい困難に遭い潤いも愉悦もなく無味乾燥で、いたずらに疲れ果てるだけである。それは天主が人の成聖の中心に据え給う唯一の土台であるキリストを無視して、その代りに自己を土台とし、この上に成聖を築こうとするからである。「そは据えられたる基礎、すなわちキリスト・イエズスを除いては、誰も他の基礎を置くこと能わざればなり」(コリント前3:11)。
我等は、まず霊的生命の向上や成長はひとり天主の御業によることであって、我等の知識や工夫・計画の与り得るところではないことを知らなければならない。時としてある人が自らは夢想さえしないのに突然霊的変化を見ることがある。これは霊的生命の向上や成聖は、人の智識や工夫によるのでなく、独り天主の御業であることを説明するものである。すなわち我等に取って、キリストはすべてにて在し、アルファ、オメガにて在す。「我等は最初のものなり、最後のものなり、原因なり、終局なり」(黙22:13)。我等は キリストを他にして何物も持てずキリストの中においてこそすべてを持ち 万事はキリストの中に要約せられていることを了解させられて、霊的覚醒と飛躍の恩寵を思わぬ時に与えられることがあるのだ。一度この恩寵を受けるや否や、万事が今までとは異なる相をもって表われ、困難は、さし昇る朝日の前における夜の帷(とばり)のように消え失せる感じになってしまうことがある。このような事実は、天主のみが我等の生命の太陽に在して我等を照らし富ませて成聖し給い、人の霊的生命は天主の御業によってのみ花咲き聖徳の実を結ぶものであるということを裏づけするものである。
しかしこうした変化があったからといって、試練がなくなると言う訳ではない。試練は往々霊的生活の向上に必要な条件なので、成聖が進めば進むほど大きな試練が加わる例は少なくない。考えてみるに、魂は試練の中にあっても、自己の中における天主の御働きに絶えず注意してこれに協力しようと努力するので、奮発心を失うとか落胆するとかのような心配がないばかりか、かえって光の中に生き単純化されて広々たるものとなるのである。「我汝の誠の道を走らん。その時汝はわが心を広くし給わん」(詩118:32)。人の考案による成聖の計画は、「主、家を建て給うにあらざれば、建つる者の働は空し」(詩126:1)の御言葉の通り空にして無力なので、我等人間の力で霊的な建築すなわち成聖の業(わざ)は出来るものではない。ただひとり天主のみがよくなし給い、しかしてキリストは自ら聖そのものに在し、成聖の因も果実も御自分の中に持たれ、すべての霊的財宝に富み溢れ給う御者に在すが故に、我等はその溢れを受けその富に与らない限り自らでは聖性に富む者になれないことを悟るに至る。そして、以前の自分の霊的建築のために自ら立てては改変し来た方法が無力で貧弱であったことに気付くに至るのだ。キリストの富とは、聖パウロによれば「天主の究め難き富」(エフェゾ3:8)であり、汲めども尽きず人がどれほど讃美しようとも到底表現し尽せない富のことである。
キリストが成聖の原因にて在す教義の中には、さらに観想しなければならない三つの奥義がある。すなわち神学の王座である聖トマによれば、キリストは一、我等の成聖の規範、すなわち我等の目指す完徳の唯一の原型、二、功力の原因、すなわち我等の贖罪主、三、能力の原因、すなわち我等の成聖に必要なる恩寵の無限宝庫にて在すことである。
この奥義は人の霊魂の生命としてのキリストを要約し、恩寵は成聖の実質と根底となっている超自然的生命の主体で、キリストの中に充満ちている。そして我等が修めなければならないすべての徳の原型はイエズス・キリストに在し、キリストはその御生活、御苦難、御死去の功力によって我等に聖寵を受けさせ、信仰と秘蹟を通じて我等と接触して一致し、もって我等の魂の中に、聖寵を発生させ給うことを示すものである。
これらの真理は、その内包するところ非常に豊富で深遠であるため、別々に観想する必要があるが、ここでは、キリストをすべての徳の神的原型、成聖の規範としての観想にとどめたい。
第2講 完徳の唯一の規範であるイエズス・キリスト
序説 ―キリストの教義の種々の面と豊かな実り―
一、天主と一致するには天主を知らなければならない。天主は御子イエズスをもって世に御自分を顕わし給う。「彼を見る人は父を見るなり」。
二、真の天主にして完全なる人イエズス・キリストは我等の模範――聖寵は彼に似奉るための基礎的印(しるし)であること。
三、その御業と徳において我等の模範なるキリスト。
四、我等は聖寵によりキリストに似奉ること。すべてを聖父天主の御光栄に帰する根本的心構えが備わってこそ、我等は他のキリストと言える。
序説
聖パウロは生涯を捧げすさまじい熱意をもってイエズス・キリストを語り続けたが、そのすべては“キリストは生命に在す"と言う一点に要約される。
「けだし、我に取りて活くるは、キリストなり」(フィリッピ1:21)「我は最も喜びて汝等の魂のために尽し、また己をも尽さん」(コリント後12:15) キリストの御教えを全世界に宣べ伝える器(うつわ)としてキリストから選ばれ、キリストに教えられたパウロは、その崇高で偉大な奥義にまで深く通じて、キリストこそ拝礼し奉るべき真の天主にして真の人、世の救い主であることを理解していた。キリストをよく理解していただけにまたそれだけキリストを愛し奉る熱意に自ら燃え、またこれを世に示し認めさせ、愛させることが彼の生涯の熱望であった。――身は絶えまない追害と艱難に苦しみながらも、心は歓喜に満ちていたことをコロサイの信者に書き送っている。それは彼が前の世には隠されていた天主の奥義と奥義の中に秘められていた光栄の富を世の人に知らせることこそ天主の望みであることを知り、今の世においてキリストを信仰する信者に自らこれを告げることができたからである。さらに牢獄に繋がれている間に、善い意図からだけでなく彼に反対しようとの意図からも他の人らがキリストを宣べ伝えているという報告を受けた時も、これを憎み妬むようなことは少しもなかった。それだけでなく、かえってどんな形のもとにおいてでも、とにかく、キリストが宣べ伝えられさえすれば、それを喜び、「いかようにもあれ、あるいは口実としてなりとも、あるいは真心をもってたりとも、キリスト宣伝せられ給えば、我はこれを喜ぶ、以後も復喜ばん」(フィリッピ1:18) と言っていた。これを見ると、聖パウロは己の学も、智識も心、愛、喜、苦難も生命も挙げてキリストに帰しキリストに捧げ尽し、さらに進んで十字架に釘付けられ給うたキリストを知る智識とそのために苦しむことを良しとして、人々の霊の中にキリストを生むことを喜びとしていたことが知られる。「けだし、我、汝等の中においてイエズス・キリストしかも十字架に釘付けられ給いたる彼の外は何をも知るを善しとせず」(コリント前2:2 )
初代の信者等は、この偉大な使徒の教える教義——聖父なる天主が御独り子イエズス・キリストを世に与えて、これを我等の智慧、義、成聖、贖(あがない)としようと望み給うたこと「我等の智慧と義と成聖と贖になり給いしキリスト・イエズス」(コリント1:30)、また、天主は充満つる恩寵をまずキリストに与え我等をしてキリストの中にすべてを見出させようと計画し給うことを悟っていた。そして、この教義「キリストは………汝等の生命にて在す」(コロサイ3:4)の上に、己の生活を築いて行ったのである。従って彼等の霊的生活は、非常に単純であった。単純ではあったが、これによって恩寵を豊かに受けたのである。
それなのに現代の我等の時代に至って、天主の御心はその愛が減り御腕は力弱きものとなったなどとどうして考えることができるだろうか。天主の愛に変りはない。初代教会の人々を愛し憐れみキリストを通じて恩寵を豊かに恵み給うた天主が、今日の我等にこれを恵み給わないはずもなく、我等を愛し給わない理由もない。それと同じように、天主は我等の上に恩寵――初代信者等が受けた恩寵のように非常な特質のものではないとしても、その豊かさ、有益さにおいては、少しも変わらない恩寵――の雨を降らそうと準備し給うのであり、今日の我等を初代の信者等ほど愛し給わないと言うようなことは考えられないのである。見よ、成聖の方法として彼等が持っていたものは我等も持っているではないか。さらに我等はキリストの御跡に倣い奉った多くの聖人の模範があるので、これに勇気づけられることも出来るではないか。そうであるなら方法は豊かに伝わっているにもかかわらず何故聖寵の実を挙げる人が少ないのだろうか。それは、昔、預言者のもとに来て診察と治療を願いながらも、預言者の治療法が余りに簡単なので意外に感じこれを疑い信用しなかったために、全癒の恵を受けそこなった癩(らい)病者と同じような疑惑と不信を成聖について持っているからである。「予言者エリゼオの時イスラエルの中に多くの癩(らい)病者ありしかど……その中1人も潔くせられざりき」(ルカ4:27)世には成聖の道において、この癩(らい)病者と同じ人が少なくない。天主の定め給うた成聖の道が余りに簡単なので、これを軽んじて棄て、その代りに自ら方法を立て、これによって成聖を企てる人さえある。しかし、これはキリストの奥義を解せず末端のことにとらわれた者で、これではどんなに長い間努力しても絶えず新しい困難に遭い潤いも愉悦もなく無味乾燥で、いたずらに疲れ果てるだけである。それは天主が人の成聖の中心に据え給う唯一の土台であるキリストを無視して、その代りに自己を土台とし、この上に成聖を築こうとするからである。「そは据えられたる基礎、すなわちキリスト・イエズスを除いては、誰も他の基礎を置くこと能わざればなり」(コリント前3:11)。
我等は、まず霊的生命の向上や成長はひとり天主の御業によることであって、我等の知識や工夫・計画の与り得るところではないことを知らなければならない。時としてある人が自らは夢想さえしないのに突然霊的変化を見ることがある。これは霊的生命の向上や成聖は、人の智識や工夫によるのでなく、独り天主の御業であることを説明するものである。すなわち我等に取って、キリストはすべてにて在し、アルファ、オメガにて在す。「我等は最初のものなり、最後のものなり、原因なり、終局なり」(黙22:13)。我等は キリストを他にして何物も持てずキリストの中においてこそすべてを持ち 万事はキリストの中に要約せられていることを了解させられて、霊的覚醒と飛躍の恩寵を思わぬ時に与えられることがあるのだ。一度この恩寵を受けるや否や、万事が今までとは異なる相をもって表われ、困難は、さし昇る朝日の前における夜の帷(とばり)のように消え失せる感じになってしまうことがある。このような事実は、天主のみが我等の生命の太陽に在して我等を照らし富ませて成聖し給い、人の霊的生命は天主の御業によってのみ花咲き聖徳の実を結ぶものであるということを裏づけするものである。
しかしこうした変化があったからといって、試練がなくなると言う訳ではない。試練は往々霊的生活の向上に必要な条件なので、成聖が進めば進むほど大きな試練が加わる例は少なくない。考えてみるに、魂は試練の中にあっても、自己の中における天主の御働きに絶えず注意してこれに協力しようと努力するので、奮発心を失うとか落胆するとかのような心配がないばかりか、かえって光の中に生き単純化されて広々たるものとなるのである。「我汝の誠の道を走らん。その時汝はわが心を広くし給わん」(詩118:32)。人の考案による成聖の計画は、「主、家を建て給うにあらざれば、建つる者の働は空し」(詩126:1)の御言葉の通り空にして無力なので、我等人間の力で霊的な建築すなわち成聖の業(わざ)は出来るものではない。ただひとり天主のみがよくなし給い、しかしてキリストは自ら聖そのものに在し、成聖の因も果実も御自分の中に持たれ、すべての霊的財宝に富み溢れ給う御者に在すが故に、我等はその溢れを受けその富に与らない限り自らでは聖性に富む者になれないことを悟るに至る。そして、以前の自分の霊的建築のために自ら立てては改変し来た方法が無力で貧弱であったことに気付くに至るのだ。キリストの富とは、聖パウロによれば「天主の究め難き富」(エフェゾ3:8)であり、汲めども尽きず人がどれほど讃美しようとも到底表現し尽せない富のことである。
キリストが成聖の原因にて在す教義の中には、さらに観想しなければならない三つの奥義がある。すなわち神学の王座である聖トマによれば、キリストは一、我等の成聖の規範、すなわち我等の目指す完徳の唯一の原型、二、功力の原因、すなわち我等の贖罪主、三、能力の原因、すなわち我等の成聖に必要なる恩寵の無限宝庫にて在すことである。
この奥義は人の霊魂の生命としてのキリストを要約し、恩寵は成聖の実質と根底となっている超自然的生命の主体で、キリストの中に充満ちている。そして我等が修めなければならないすべての徳の原型はイエズス・キリストに在し、キリストはその御生活、御苦難、御死去の功力によって我等に聖寵を受けさせ、信仰と秘蹟を通じて我等と接触して一致し、もって我等の魂の中に、聖寵を発生させ給うことを示すものである。
これらの真理は、その内包するところ非常に豊富で深遠であるため、別々に観想する必要があるが、ここでは、キリストをすべての徳の神的原型、成聖の規範としての観想にとどめたい。