霊魂の生命なるキリスト
第2講 完徳の唯一の規範であるイエズス・キリスト
天主と一致するには天主を知らなければならない。天主は御子イエズスをもって世に御自分を顕わし給う。「彼を見る人は父を見るなり」。
我等は、成聖とは聖そのものにて在す天主の生命に分与し天主の超自然的養子としてこれにふさわしく生活することであり、このような人こそ聖人であると知ることが出来た。
これを聖パウロは、「汝等、至愛なる小児のごとく天主に倣う者たれ」(エフェゾ5:1)と言い、イエズスは我等に「汝等完全なれ」しかも「汝等の天父の完全に在すごとく、汝等もまた完全なれ」(マテオ5:48) とはっきりと示し給うた。
それは、天主が我等を御自分の子と定め給うたのだから、我等も天主の子として父なる天主に倣いこれに似奉らねばならないからである。
天主に倣い奉るためには、まず天主はどのような方にて在すかを知らなければならない。 それなのに天主は「近づくべからざる光に住み給い、一人もかつて見奉りしことなく、また見奉る能わざる者に在す」(テモテオ前6:16),「誰もかつて天主を見奉りしことなし」(ヨハネ一書4:12)であるなら、我等はどのように天主を知り奉ることが出来るだろう。知りもせず見もしない天主を、人はどうしたら倣い奉ることが出来るだろうか。
答は聖パウロの「天主はキリスト・イエズスの御顔に輝かし給えり」(コリント後4:6)の一言に尽きる。すなわち、天主は御子イエズス・キリストの中に、また御子イエズス・キリストにより御自身を世に顕わし給うた「キリスト・イエズスは御父の光栄の輝きに在す」(ヘブレオ1:3) 「御子は見え給わざる天主の御像(みすがた)」(コロサイ1:15)のである。
御子は御父と同等であり御父に自らが知られ給うと同じく自らも御父をも知り給うゆえに、人に御父を顕わすことも叶い給う。「御父は、御子並びに御子が示さんことを望み給う人々の外には、誰にも知られ給わず」(マテオ1:27)、「我はわが父を知る」(ヨハネ1:15)。しかもそれは、ただ我等に御父を示そうとするためなのである。「父の御懐に在す独り子の自ら説き顕し給いしなり」(ヨハネ1:18) 実に、キリストは御父の顕現、その御像(みすがた)にて在す。
しかし御子イエズス・キリストはどのようにして御父を我等に示し給うであろうか。御子は人となって御父を我等に示し給いた。そして我等は御托身によって人となり世に降り給うた御言葉 (Verbum)、すなわち御子イエズス・キリストにより、また彼において天主を知り奉るのである。
―キリスト!これぞ人の外貌を取って我等が理解できるよう立現れ給うた天主、被造物の形の下に現れ出でた神的完全、我等と直接に交り触れ、倣わせるために、三十三年の間、感覚的に我等の目に見え給うた聖その御者にて在すのだ。
キリストは、我等が天主に倣い御意に適い奉ろうとするためにどのように活くべきかを、自らの言行、特に生活をもって教えようとして、人となられて世に降り、我等の間に生活し給う天主に在すのである。そしてこのために、我等が天主の子として活きるには、まず信仰と愛をもって心の目を開いてイエズスの中に天主を観想し奉らなければならないのである。この二点は、どれほど深く考えても考え過ぎることのない重要な事である。
聖福音書の中には簡単で、しかもよく知られている美しい物語――ちょうど今こそ思いださなければならない物語――がある。それは、イエズスの御受難前夜のことであった。イエズスは時の来たことを知って、弟子達に御父について話し給う。弟子達はイエズスの話を喜んで聞いていたとき、御父を見たい 知りたいと思い、遂にフィリッポが主に「主よ、父を我等に示し給え、しからば我等事足るべし」(ヨハネ14:8) と願う。キリストは「我かく久しく汝等と共におれるに、汝等なお我を知らざるか、フィリッポよ、我を見る人は父を見るなり」(ヨハネ14:9)と答え給うた。
その通り、キリストは天主の顕現、御父の顕現にて在す―天主としては御父と一つにて在すが故に、キリストを観想する人は、これ、取りも直さず天主を観想し奉る人である。故に我等は、ベトレヘムの厩(うまや)の中で産声を上げて生まれ、貧しい馬槽の中に横たわり給う幼児キリストを観想する時、「我を見る人は父をも見るなり」の御言葉を思い起こさなければならない。――ナザレトの村童と遊び戯れる少年キリスト、貧困なる青年労働者キリスト、麗しき大工小屋の中で三十才まで、ヨゼフに従って働く、従順なる壮年キリストを見る人は、また「我を見る人は、父を見るなり」のであり、彼(キリスト)を観想する人は、天主を観想する者であることを知るべきである。――ガリレアの町々をあちこちと巡って福音を宣べ病者を癒し善行を行い給うキリストであろうと、人々を救い愛し給うがために自らは悪徒の嘲弄の的となって十字架上に苦しみ死し給うキリストであろうと、これらを観想し奉ることは天主を観想し奉ることなのである。
実に「我を見る人は父をも見るなり」との主の御言葉は、キリストがいかなる外貌の下に願われ給うと、その外貌の中に天主を見させて、拝礼し奉らせる一言である。――天主の完全は、キリストのこのような言行の中に顕示されている。天主の完全は、それ自体は天主の性と同様に覚り難いものである。たとえば、我等人間が理解し得る限りのすべてを超越した深淵なる天主の愛を誰がよく理解し得るであろうか。しかし天主として父と一つであるキリスト――聖父と同じ天主の生命を御自身に有して人を教え、我等に対する愛の故に十字架上に死し、自分の生命を渡し給うたキリスト、聖体の秘蹟を制定し給うキリストを見奉る時、天主の人類を愛し給う愛がどれほど大いなるものかがわかるであろう。
このように天主の完全、その属性は、すべて人智とは無限の距離を隔てているのであるが、キリストはこれを顕示し給い、キリスト自ら話されたように、人間キリストを信じ愛して受け入れる人には、その神性を顕わし多くの奥義を見えさせ我等が深く愛し奉るに連れてますます深い奥義の中に導き御自分をよりはっきりと現わして御父に愛せられる者となし給うのだ。
「我を愛する者は、わが父に愛せらるべく、我もまたこれを愛して、これに己を顯わすべし」(ヨハネ14:21)。聖ヨハネはこれを「生命なるもの顕われ給いて、我等これを見奉りたればこそ、これを証し、父の御懐に在りたる永遠の生命――キリスト・イエズスの中に我等が見て触れることのできる者と成りたる生命――を汝等に告ぐるなり。しかしてその生命は、神人キリスト・イエズスと成りて世に降り、我等の前に顕われ給いしなり」と述べている。
それ故に我等が天主を知りこれに倣い奉るためには、御子イエズスを知り彼に倣い奉れば十分なのだ。御子イエズスこそ、御父の無限なる完全を天主として、また人として、完全に一身の上に顕現し、我等に見えさせ給うのだから。そしてこれ以外には、天主を知り奉る方法はないのである。「我を見る人は、父を見るなり」。
第2講 完徳の唯一の規範であるイエズス・キリスト
天主と一致するには天主を知らなければならない。天主は御子イエズスをもって世に御自分を顕わし給う。「彼を見る人は父を見るなり」。
我等は、成聖とは聖そのものにて在す天主の生命に分与し天主の超自然的養子としてこれにふさわしく生活することであり、このような人こそ聖人であると知ることが出来た。
これを聖パウロは、「汝等、至愛なる小児のごとく天主に倣う者たれ」(エフェゾ5:1)と言い、イエズスは我等に「汝等完全なれ」しかも「汝等の天父の完全に在すごとく、汝等もまた完全なれ」(マテオ5:48) とはっきりと示し給うた。
それは、天主が我等を御自分の子と定め給うたのだから、我等も天主の子として父なる天主に倣いこれに似奉らねばならないからである。
天主に倣い奉るためには、まず天主はどのような方にて在すかを知らなければならない。 それなのに天主は「近づくべからざる光に住み給い、一人もかつて見奉りしことなく、また見奉る能わざる者に在す」(テモテオ前6:16),「誰もかつて天主を見奉りしことなし」(ヨハネ一書4:12)であるなら、我等はどのように天主を知り奉ることが出来るだろう。知りもせず見もしない天主を、人はどうしたら倣い奉ることが出来るだろうか。
答は聖パウロの「天主はキリスト・イエズスの御顔に輝かし給えり」(コリント後4:6)の一言に尽きる。すなわち、天主は御子イエズス・キリストの中に、また御子イエズス・キリストにより御自身を世に顕わし給うた「キリスト・イエズスは御父の光栄の輝きに在す」(ヘブレオ1:3) 「御子は見え給わざる天主の御像(みすがた)」(コロサイ1:15)のである。
御子は御父と同等であり御父に自らが知られ給うと同じく自らも御父をも知り給うゆえに、人に御父を顕わすことも叶い給う。「御父は、御子並びに御子が示さんことを望み給う人々の外には、誰にも知られ給わず」(マテオ1:27)、「我はわが父を知る」(ヨハネ1:15)。しかもそれは、ただ我等に御父を示そうとするためなのである。「父の御懐に在す独り子の自ら説き顕し給いしなり」(ヨハネ1:18) 実に、キリストは御父の顕現、その御像(みすがた)にて在す。
しかし御子イエズス・キリストはどのようにして御父を我等に示し給うであろうか。御子は人となって御父を我等に示し給いた。そして我等は御托身によって人となり世に降り給うた御言葉 (Verbum)、すなわち御子イエズス・キリストにより、また彼において天主を知り奉るのである。
―キリスト!これぞ人の外貌を取って我等が理解できるよう立現れ給うた天主、被造物の形の下に現れ出でた神的完全、我等と直接に交り触れ、倣わせるために、三十三年の間、感覚的に我等の目に見え給うた聖その御者にて在すのだ。
キリストは、我等が天主に倣い御意に適い奉ろうとするためにどのように活くべきかを、自らの言行、特に生活をもって教えようとして、人となられて世に降り、我等の間に生活し給う天主に在すのである。そしてこのために、我等が天主の子として活きるには、まず信仰と愛をもって心の目を開いてイエズスの中に天主を観想し奉らなければならないのである。この二点は、どれほど深く考えても考え過ぎることのない重要な事である。
聖福音書の中には簡単で、しかもよく知られている美しい物語――ちょうど今こそ思いださなければならない物語――がある。それは、イエズスの御受難前夜のことであった。イエズスは時の来たことを知って、弟子達に御父について話し給う。弟子達はイエズスの話を喜んで聞いていたとき、御父を見たい 知りたいと思い、遂にフィリッポが主に「主よ、父を我等に示し給え、しからば我等事足るべし」(ヨハネ14:8) と願う。キリストは「我かく久しく汝等と共におれるに、汝等なお我を知らざるか、フィリッポよ、我を見る人は父を見るなり」(ヨハネ14:9)と答え給うた。
その通り、キリストは天主の顕現、御父の顕現にて在す―天主としては御父と一つにて在すが故に、キリストを観想する人は、これ、取りも直さず天主を観想し奉る人である。故に我等は、ベトレヘムの厩(うまや)の中で産声を上げて生まれ、貧しい馬槽の中に横たわり給う幼児キリストを観想する時、「我を見る人は父をも見るなり」の御言葉を思い起こさなければならない。――ナザレトの村童と遊び戯れる少年キリスト、貧困なる青年労働者キリスト、麗しき大工小屋の中で三十才まで、ヨゼフに従って働く、従順なる壮年キリストを見る人は、また「我を見る人は、父を見るなり」のであり、彼(キリスト)を観想する人は、天主を観想する者であることを知るべきである。――ガリレアの町々をあちこちと巡って福音を宣べ病者を癒し善行を行い給うキリストであろうと、人々を救い愛し給うがために自らは悪徒の嘲弄の的となって十字架上に苦しみ死し給うキリストであろうと、これらを観想し奉ることは天主を観想し奉ることなのである。
実に「我を見る人は父をも見るなり」との主の御言葉は、キリストがいかなる外貌の下に願われ給うと、その外貌の中に天主を見させて、拝礼し奉らせる一言である。――天主の完全は、キリストのこのような言行の中に顕示されている。天主の完全は、それ自体は天主の性と同様に覚り難いものである。たとえば、我等人間が理解し得る限りのすべてを超越した深淵なる天主の愛を誰がよく理解し得るであろうか。しかし天主として父と一つであるキリスト――聖父と同じ天主の生命を御自身に有して人を教え、我等に対する愛の故に十字架上に死し、自分の生命を渡し給うたキリスト、聖体の秘蹟を制定し給うキリストを見奉る時、天主の人類を愛し給う愛がどれほど大いなるものかがわかるであろう。
このように天主の完全、その属性は、すべて人智とは無限の距離を隔てているのであるが、キリストはこれを顕示し給い、キリスト自ら話されたように、人間キリストを信じ愛して受け入れる人には、その神性を顕わし多くの奥義を見えさせ我等が深く愛し奉るに連れてますます深い奥義の中に導き御自分をよりはっきりと現わして御父に愛せられる者となし給うのだ。
「我を愛する者は、わが父に愛せらるべく、我もまたこれを愛して、これに己を顯わすべし」(ヨハネ14:21)。聖ヨハネはこれを「生命なるもの顕われ給いて、我等これを見奉りたればこそ、これを証し、父の御懐に在りたる永遠の生命――キリスト・イエズスの中に我等が見て触れることのできる者と成りたる生命――を汝等に告ぐるなり。しかしてその生命は、神人キリスト・イエズスと成りて世に降り、我等の前に顕われ給いしなり」と述べている。
それ故に我等が天主を知りこれに倣い奉るためには、御子イエズスを知り彼に倣い奉れば十分なのだ。御子イエズスこそ、御父の無限なる完全を天主として、また人として、完全に一身の上に顕現し、我等に見えさせ給うのだから。そしてこれ以外には、天主を知り奉る方法はないのである。「我を見る人は、父を見るなり」。