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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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そこにはユダヤ人のきよめのために準備されている石がめが六つあった 【ヨハネ2章】 四旬節への準備

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年2月18日は灰の水曜日、四旬節に入ります。イエズス・キリストは、構成勝に入る直前に40日の断食を荒野で行います。

 これについて「荒れ野での誘惑と無原罪の御宿り」で少し黙想しました。

 40日の断食の後、イエズスは、ヨハネ、アンドレア、ペトロ、フィリッポ、ナタナエルと会います。「それから三日目にガリラヤのカナに婚礼があった。」(ヨハネ2:1)

 この「三日目」は、使徒信経の「三日目に死者のうちよりよみがえり。Tertia die resurrexit a mortuis.」につながり、ヨナが怪物の腹の中に過ごした三日につながります。つまり第三日目は、復活のシンボルです。

 カナの婚宴での奇跡は、復活の奇跡の前兆でもあります。そこで、四旬節においてカナの婚宴の黙想を提案します。

 イエズス・キリストは、無からブドー酒を創ることもできました。下男の助けなど必要とせずに、大きな奇跡をあっという間に起こすことも出来ました。もちろんです! イエズス・キリストは、全能の天主であり、私たちが思いもつかない深い知恵を持ち、すべてをお望みのままに行うことが出来ます。

 しかし聖母マリア様は、イエズス・キリストが私たちの協力をお求めになることをご存じでした。私たちの従順をお望みになることをご存じでした。そこで下男たちに命じます。「なんでも、あの人のいうとおりにしなさい」と。聖母マリア様は、決して、天主の力を過小評価していたわけではありません。その反対です。天主の全能は、私たちの無力をさえ使うことが出来るほど偉大であることを知っていたのです。天主は、奇跡を行う前に、私たちの善意のしるし、あるいは、私たちの努力をお求めになることを、聖母マリアは知っておられました。

 イエズス・キリストは下男に「その石がめに水をいっぱいにしなさい」とおおせられます。

 「石がめ(複数)」(lapideae hydriae)がそこに6つありました。油を入れるかめでもなければ、ワインを入れるかめでもなく、水を入れるためのかめでした。しかも単なる石がめではなく、「そこにはユダヤ人のきよめのために準備されている三、四斗入りの石がめが六つあった」(Erant autem ibi lapideae hydriae sex positae secundum purificationem Judaeorum, capientes singulae metretas binas vel ternas)のです。つまり水以外のものは入れないかめでした。

 しかもそれは石で出来た重い瓶です。土器の軽い動かしやすいものではなく、何らかの理由で空となっていた石の容器です。この石がめに水を満たすことは、つまり、手を洗ったり、口をすすいだりする水を準備しなさいということだったのです。

 下男は「招待客は、手を洗うことではなく、もっと飲むことを望んでいます」とも反論を言うことも出来たかもしれません。しかし、黙って従います。下男たちは素直に石がめを口まで水でいっぱいにします。

 私たちが天主に至ることを妨害するものは、私たちの罪です。私たちはこの罪の汚れを浄めなければなりません。「さらに私を私の邪悪から洗い給え、そして私の罪から私を浄め給え。」Amplius lava me ab iniquitate mea, et a peccato meo munda me.(詩編50:4)このために、石がめが、ユダヤ人のきよめのために家の入り口に準備されていました。

 聖アウグスティヌスによると、これらの6つの石がめは、人類の浄めの6つの
歴史の段階だとのことです。聖アウグスティヌスの考えでは「預言は大昔からあったが、キリストを知ることを与えない預言は水である。キリストを認めるとき初めて預言はブドウ酒となる。キリストについて預言の意味は隠されたままだったので、預言は今に至るまで水であった。預言が満たされ石がめが一杯になったのは、水がブドウ酒に変わる時に、キリストが全ての預言の中で知られるためである。預言は全世界のあらゆる国民の救いに関わるものとして与えられた。
 第一の時代は、アダムからノエまで。太祖、アダムとエワは全人類の祖であった。「『これがために男は父と母とを離れ、妻と合って、二人は一体となる』。この奥義は偉大なものである。私がそういうのは、キリストと教会とについてである。」(エフェゾ五章)
「聖父を離れた」というのは、聖父と等しい形においてではなく人間たちに自らを現したこと。「母を離れた」とは、キリストは肉によればユダヤ人から生まれたが、その会堂を捨ててご自身を教会に結びつけたから。
 第一の石がめはキリストについての預言を持っていた。しかし「この奥義は偉大なものである。私がそういうのは、キリストと教会とについてである。」ということが明らかにされないうちはまだ水であった。ブドウ酒に変わっていなかった。アダムが眠っていた時、エワが生まれた。第2のアダムであるキリストが死の眠りについた時、第2のエワである教会が生まれた。エワは眠っているアダムの脇腹から生まれた。死の眠りについたキリストの脇腹は槍で刺され、多くの神秘がそこから流れ出て、教会が形づくられた。
 第二の時代は、ノエからアブラハムまで。
 キリストはノエの中にも予表される。方舟のなかにあらゆる動物が土井込めれられたのは、全世界のあらゆる民族を意味するためであった。木の方舟によって全地の命は木によって結ばれなければならなかった。
 第三の時代は、アブラハムからダヴィドまで。
 アブラハムの一人子イサアクは木を背負って自分を犠牲として差しだそうとした。主は十字架の木を背負われた。
 第四の時代は、ダヴィドからバビロンに移されるまで。
 ダヴィドは、その詩篇のほとんど全てでキリストについて預言している。
 第五の時代は、バビロンに移されてから洗者聖ヨハネまで。
 ダニエルは幻に、人手によらないで山から切り出された石が全ての王国を砕いたのを見た。そしてその石が成長して大きな山となり全地の表面を覆うのを見た。人手によらないで生まれた石とは、童貞から生まれたキリストではないか。キリストの王国は全世界に及ぶ。
 第六の時代は、洗者ヨハネから世の終わりまで。
 洗者ヨハネは、天主は石ころからもアブラハムの子孫を創ることができると言われた。ここで全ての国民、民族は石ころといわれている。つまり信仰を模倣することによって、天主は全ての民をアブラハムのことすることが出来る。従って、この石がめの預言も全ての民族と国民に属していた。

 ところで、ドン・モンレオン(Don Monleon)著の「カナの婚宴」(Noce de Cana) によると、聖ベルナルド、大聖アルベルト、聖ボナベントゥーラらは6つの石がめが6つの神秘的な浄めを意味すると言っています。

第1の石がめは、施し
第2の石がめは、心の痛悔
第3の石がめは、告白の秘蹟
第4の石がめは、祈り
第5の石がめは、赦すこと
第6の石がめは、苦行

 第1の施しとは、すべての愛徳の業を意味します。レベッカの水瓶の例があります。アブラハムはイサアクの結婚相手を探すためにエリエゼルを使者として送ります。エリエゼルはまず天主に祈り、天主がふさわしい相手を示して下さるように願います。その祈りの直後、レベッカは水瓶(Hydria)を肩に載せてやってくるのです。レベッカは水を汲んできたばかりで家に帰るところでした。エリエゼルはレベッカにすこし水を恵んでくれるように頼むと、レベッカは、さあどうぞ、と肩から水瓶を下ろして水を与えます。エリエゼルのお供にも水を与えます。しかも10匹のらくだにも水を与えます! これが最初の水瓶です。愛徳と施しの石がめです。
 イエズスは、水で手を洗う外見的な浄めよりも、施しの大切さを説いています。聖ルカによる福音の11章にはこうあります。「イエズスが話しておられたとき、あるファリザイ人が、自分の家で食事をしてくださいといったので、イエズスははいって席にお着きになった。すると、イエズスが、食事前にまず手をお洗いにならないのを見て、ファリザイ人があやしんだので、主はその人におおせられた。"あなたたちファリザイ人は、杯と皿との外を清めるが、内は強奪と罪悪とにみちている。おろか者どもよ。外をつくったお方は、また内をもおつくりになったのだ。むしろ、あなたたちのもつものを施せ。そうすれば、あなたたちにとって、すべてが清くなるだろう。"」
 聖マテオによる福音では、天主の裁きは愛徳と施しについてまずなされるだろうことが言われます。
「あなたたちは、私が飢えていた時に食べさせてくれ、かわいている時に飲ませてくれ、旅にいた時に宿らせてくれ、裸だった時に服をくれ、病気だった時に見舞ってくれ、牢にいた時に訪れてくれた」と。さらに「あなたたちが、私の兄弟であるこれらのもっとも小さな人々の一人にしてくれたことは、つまり私にしてくれたことである。これらのもっとも小さな人々の一人にしてくれなかったことは、つまり私にしてくれなかったことだ」(マテオ25)と。

第2の石がめは、心の痛悔です。
旧約のサムエルの書下の第11章にはダヴィド王とベトサベとの事件が描かれています。ベトサベという極めて美しい女性は、ある日の午後遅く、自分の家の屋上のテラスで体を洗っていました。ダヴィドは王宮の屋上からそれを目に入れると、すべてを忘れるほどベトサベに心を奪われます。ダヴィドは正気を失ってしまいます。自分の情欲を押さえきれず、ダヴィドはベトサベと罪を犯します。
聖アンブロジオによると、この霊的な意味は次の通りです。王宮の屋上から町を眺めるダヴィド王は、天の高みからこの地上を見下ろしご自分を愛する霊魂を探しているキリストを意味し、ベトサベは痛悔し、精神の最も高いところで身を罪から清めている霊魂を意味する、こうすることによって罪を痛悔する霊魂は王であるキリストの心にふれ、その霊魂を愛する、と。その時、すぐに、この霊魂は不浄から浄められる、と。

第3の石がめは、告白の秘蹟です。使徒信経にあるように「我は罪の赦しを信じ奉る」。痛悔女聖マグダレナのように、涙を流すだけでなく、世間体を顧みずに、イエズスの足下に行き、涙と悲しみとその態度で自分が罪人であることを認めます。そこで、最高の司祭であるイエズスから罪の赦しを得るのです。彼女は泣きながら、イエズスのうしろ、そのおん足の近くに立ち、涙でおん足をぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、おん足にくちづけして、香油をぬります。
「だから私はいう。この人の罪、その多くの罪はゆるされた。多く愛したのだから。少しゆるされる人は、またすこししか愛さない」とおおせられ、女に向かって、「あなたの罪はゆるされた」と断言します。

第4の石がめは、祈りです。
私たちの主イエズス・キリストは、霊と真理とをもって祈る礼拝者を求めています。「まことの礼拝者が、霊と真理とをもっておん父を拝む時がくる。いやもう来ている。おん父は、そういう礼拝者をのぞんでおられる。天主は霊であるから、礼拝者も、霊と貞理とをもって礼拝しなければならない」(ヨハネ5章)と。
トリエント公会議による公教要理によれば、霊と真理とをもって祈るとは、心の内奥から、熱い精神の注意を傾けて祈ることに他なりません。内心からほとばしり出る祈り、人の隠れた思いを熟知される天主が(祈る者の)口に上ることなしに、お聞きになる祈りです。実際、主はサムエルの母アンナの、内的な祈りをお聞き入れになりました。彼女が涙を流しながら、ただ[声を出さず]唇だけを動かして祈ったことが聖書中に述べられています。また、ダビドもこのような内的な仕方で祈りました。「あなたに私の心はこう言った。『主のみ顔を探せ』と。主よ、私はみ顔を探し求める。」聖書中いたるところに、この種の祈りについて述べた箇所を見出すことができます。
「あなたが祈るときには、自分の部屋に入り、戸を閉め、かくれておいでになるあなたの父に祈れ。そうすれば、隠れたことをご覧になるあなたの父が、報いてくださるだろう。」ここで言われている「部屋」とは、人の心のことであると正しく解することができ、しかるに、祈る際には、この心に入るだけでは足りず、外部から祈りの純然さを害するものが忍び入らないよう、堅く閉じることが必要となります。このようにして初めて、各人の心と思いとを熟知される御父は、祈る者の願いをお聞き入れになるのです。

第5の石がめは、赦すことです。イエズスは私たちに「我らが人に赦す如く、我らの罪を許し給え」と祈ることを教えられました。「あなたたちは、おん父が慈悲深くあらせられるように、慈悲深いものであれ。ひとを裁くな、そうすればあなたたちも裁かれない。ひとを罪にさだめるな。そうすればあなたたちも罪に定められない。ゆるせ、そうすればあなたたちもゆるされる。与えよ、そうすればあなたたちも与えられる。押しいれ、ゆりいれ、あふれるほどの、充分なはかりのものが、あなたたちの服のひだに入れてもらえる。あなたたちは、自分の量るはかりで量られるのである」(ルカ6章)と。
最初の殉教者聖ステファノは、これを実践しました。かれらが石を投げつけているとき、ステファノは、「主イエズスよ、私の霊をお受けください!」と天主にこいねがい、それからひざを折って倒れ、「主よ、この罪をかれらに負わせないでください!」と大声で叫び、そうして眠りについたのです。

第6の石がめは、苦行です。ニニヴェの町は、40日の間、償いの苦行をして助かりました。私たちにとっても40日の四旬節は、浄めの意味があります。第6の石がめです。この四旬節の水がめが満たされるとき、つまり、復活祭には、水は最高のブドウ酒と変わり、私たちの霊的変化の奇跡が起こるでしょう。

聖母マリアは私たちに「なんでも、あの人のいうとおりにしなさい」と言われます。イエズスは私たちに「その石がめに水をいっぱいにしなさい」と言われるでしょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

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