アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)の「祈り」についての部分を更にご紹介します。
今回は、「いかに祈るべきか」についてです。祈りは善いもので、有益なものですが、もしも正しく祈らないならば、何の役にも立たないからです。
私たちはしばしば、ふさわしくない仕方で祈っています。です。ですから、私たちは、ふさわしい祈り方を知ることにしましょう。どうぞごゆっくりお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
§ 8 いかに祈るべきか
44.しかるに、どのように祈りをなすべきかを知ることがきわめて重要です。なぜなら、祈りは善く、有益なものであるとは言え、もし正しくこれをなさないならば、およそ何の役にも立たないからです。
事実、往々にして私たちが祈り求めるものを得ないのは、「ふさわしくない仕方でこれを願うから78」です。したがって、教区司祭は信徒に、天主に願い求め、かつ私的に、あるいはまた公に共同で祈りをなす最善の方法を、他ならぬ私たちの主イエズス・キリストの教えにしたがって教えさとさなければなりません。
45.霊と真理とをもって祈らなければ79なりません。なぜなら、天の父は霊と真理とをもって祈る者をお求めにるからです80。
46.さて、霊と真理とをもって祈るとは、心の内奥から、熱い精神の注意を傾けて祈ることに他なりませんが、無論、口祷を当の霊的な祈りから除外すべきではありません。とは言え、内心からほとばしり出る祈り、人の隠れた思いを熟知される天主が(祈る者の)口に上ることなしに、お聞きになる祈りにこそ第一の座が与えられるべきです。
実際、主はサムエルの母アンナの、内的な祈りをお聞き入れになりました。
彼女が涙を流しながら、ただ[声を出さず]唇だけを動かして祈ったことが聖書中に述べられています81。
また、ダビドもこのような内的な仕方で祈りました。「あなたに私の心はこう言った。『主のみ顔を探せ』と。主よ、私はみ顔を探し求める。82」聖書中いたるところに、この種の祈りについて述べた箇所を見出すことができます。
47.しかるに、口祷も、それに固有の有用性ならびに必要性を有しています。なぜなら、口祷は霊魂の熱情をかき立て、敬虔心を燃え立たせるからです。これこそ、聖アウグスチヌスがプロパに宛てた書簡中で述べていることです。すなわち、往々にして言葉およびその他の印は、私たちの心をより強く駆り立て、聖なる望みを増大します。また時として、この種の望みおよび敬虔心の力強さのために、私たちは自らの思い、感ずるところを言葉にして表すのを余儀なくされます。心が喜びに打ちふるえるとき、唇もまた打ちふるえることは、しごく当然のことです。さらに、これは私たちの霊魂と身体とが天主に対して負うところの二重の犠牲を、この上なくふさわしいかたちで捧げる手段でもあります。実際、使徒たちがこのようにして祈るのが常であったことを、使徒行録と聖パウロの書簡中に見受けることができます。
48.しかるに、祈りには、私的な祈りと公的な祈りという2種類の祈りがあり、前者で言葉を用いるのは、内心の感情と敬虔心とを助けるために他なりませんが、信徒の信心を鼓舞するために定められた祈りである後者においては、一定の定められた時に、言葉を用いずに祈ることは、およそ不可能です。
49.[言葉を用いずになされる]内的な祈りは、キリスト教信者に固有の祈りであり、異教徒はこれをいささかもなさないことを、主の次のみ言葉が示しています。「祈りの時に、異邦人のように無駄言を言ってはならない。異邦人は、言葉さえ多ければ、聞き入れてもらえる、と考えている。彼らのまねをしてはならない。あなたたちの父は、あなたたちが必要なものを、願わぬ先に知っておられる83。」
50.しかしながら、このように祈りにおける多弁を戒めておられる主が、強い持続的な心情から生じ来る長い祈りを禁じておられるのでは到底ないことは、他ならぬ主ご自身の例から明らかです。事実主は、しばしば夜を徹して祈られた84ばかりでなく、三度同じ言葉をもって祈られました85。したがって、結論として言えることは、[心の伴わない]むなしい言葉の音声のみでは、天主の御心を動かし得ないということにすぎません。
51.偽善者もまた、心からの祈りをなさないのであり、主は、彼らの悪習に倣うことのないよう次の言葉をもって諭しておられます。「また祈るときにも、偽善者のように振る舞ってはならない。彼らは、人に見せようとして、好んで、会堂や町角に立って祈っている。まことに私は言う。その人たちはすでに報いを得たのである。86」
52.「あなたが祈るときには、自分の部屋に入り、戸を閉め、かくれておいでになるあなたの父に祈れ。そうすれば、隠れたことをご覧になるあなたの父が、報いてくださるだろう。87」ここで言われている「部屋」とは、人の心のことであると正しく解することができ、しかるに、祈る際には、この心に入るだけでは足りず、外部から祈りの純然さを害するものが忍び入らないよう、堅く閉じることが必要となります。このようにして初めて、各人の心と思いとを熟知される御父は、祈る者の願いをお聞き入れになるのです。
53.祈りがまた、忍耐強いものでなければないことを、天主の御子は、不正な裁判官の例をもってお示しになっておられます88。この、天主も人も恐れぬ裁判官は、やもめの我慢強くたゆまぬ願いに屈して、その求めることを聞き届けたのでした。したがって、辛抱強く天主に祈らなければならず、一度や二度祈った後、願うことを得られないのに落胆して祈るのをやめてしまう者たちに倣ってはなりません。主キリスト、および使徒らの権威が私たちに教える祈りの務めを果たすにあたって、飽き疲れるということがあってはなりません。そしてもし、時として私たちの意志が弱まるのを感じるならば、天主に、倦むことなく祈る力を祈り求めましょう。
54.天主の御子はまた、私たちの祈りがご自分の御名によって御父に達することをお望みになります。実際、この執り成し手の功徳と信用とによって、祈りは天の御父に聞き入れられるに値するものとなるのです。これは主が、ヨハネの福音書において述べておられることです。「まことに、まことに私は言う。あなたたちが父に求めることは、何でも、私の名によって与えてくださる。今まであなたたちは、何一つ私の名によって求めたことがないが、求めよ、そうすれば与えられる。そしてあなたたちの喜びは満たされる。89」また、「あなたたちが私の名によって何かを願うなら、私はこれを為す。90」
55.聖人らが祈りに注いだ、この上ない熱意をまねることにしましょう。また使徒たちの例に倣って、感謝を懇願の祈りに合わせましょう。かくのごとになすのが使徒らのならいであったことは、使徒パウロの書簡からうかがうことができます91。
56.さらに、断食と施しとを祈りに交えましょう。断食は祈りときわめてよく対を成すものです。なぜなら、飲食物で腹を十全に満たした者の精神は、天主を観想することも、祈りにおいて願うべき事物に思いをなすこともできぬほど鈍ってしまうからです。
57.施しもまた、祈りとたいへんよく調和するものです。実際、施しに頼る者を助ける財力を有しながら、当の隣人かつ兄弟に救いの手を差し伸べない者が、どうして愛徳を有していると言い得るでしょうか。また、愛徳を持たない者が、いかにして天主の助力を願い得るでしょうか。かかる者の祈りが聞き入れられるには、まず自らの罪の赦しを願い、同時に天主に愛徳の賜をへりくだって祈り求めることが必要です。
58.天主の御摂理は、人の救いがこの3つの手段によってとりはからわれることをお望みになりました。なぜなら、罪を犯すことをとおして、私たちは、あるいは天主に侮辱を加え、あるいは隣人に不正をなし、あるいはまた自分自身に危害を加えるのですが、聖なる祈りによって私たちは、天主の御心をなだめ、施しによって他人に加えた害の償いをなし、断食によって自らの生活の汚れを浄め落とすからです。この3つの救済手段が、全ての種類の罪に対して同様に有効であるとは言え、その各々は、先に述べたように、それに特別に当てはめ、意図された種類の罪に対応しています。
【脚注】
78 ヤコボの手紙 4章3節
79 ヨハネによる福音書 4章23節
80 霊と真理とをもって祈る、ということについてのより詳しい説明は、S.Cyril. Alexandr. per 17. libros integros ; S. Thom. <Summa theol.> 2. 1. quaest. 83 art.12を参照のこと。
81 サムエル記上 1章13節
82 詩編26 8節
83 マテオによる福音書 6章7節
84 ルカによる福音書 6章12節
85 マテオによる福音書 26章44節
86 マテオによる福音書 6章5節
87 マテオによる福音書 6章5節
88 ルカによる福音書 18章2節
89 ヨハネによる福音書 16章23節
90 ヨハネによる福音書 14章14節
91 例えばエフェゾ人への手紙 1章16節
トリエント公会議による公教要理 祈りについて (聖ピオ十世会訳)
1トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの必要性
2トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの実りと有用性 (聖ピオ十世会訳)
3トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの異なった部分および段階 (聖ピオ十世会訳)
4トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「祈りにおいて願うべきこと」 (聖ピオ十世会訳)
5トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「誰のために祈るべきか」 (聖ピオ十世会訳)
6トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「よく祈るために必要な心の状態」 (聖ピオ十世会訳)
この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。
《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》
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今回は、「いかに祈るべきか」についてです。祈りは善いもので、有益なものですが、もしも正しく祈らないならば、何の役にも立たないからです。
私たちはしばしば、ふさわしくない仕方で祈っています。です。ですから、私たちは、ふさわしい祈り方を知ることにしましょう。どうぞごゆっくりお読み下さい。
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トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
§ 8 いかに祈るべきか
44.しかるに、どのように祈りをなすべきかを知ることがきわめて重要です。なぜなら、祈りは善く、有益なものであるとは言え、もし正しくこれをなさないならば、およそ何の役にも立たないからです。
事実、往々にして私たちが祈り求めるものを得ないのは、「ふさわしくない仕方でこれを願うから78」です。したがって、教区司祭は信徒に、天主に願い求め、かつ私的に、あるいはまた公に共同で祈りをなす最善の方法を、他ならぬ私たちの主イエズス・キリストの教えにしたがって教えさとさなければなりません。
45.霊と真理とをもって祈らなければ79なりません。なぜなら、天の父は霊と真理とをもって祈る者をお求めにるからです80。
46.さて、霊と真理とをもって祈るとは、心の内奥から、熱い精神の注意を傾けて祈ることに他なりませんが、無論、口祷を当の霊的な祈りから除外すべきではありません。とは言え、内心からほとばしり出る祈り、人の隠れた思いを熟知される天主が(祈る者の)口に上ることなしに、お聞きになる祈りにこそ第一の座が与えられるべきです。
実際、主はサムエルの母アンナの、内的な祈りをお聞き入れになりました。
彼女が涙を流しながら、ただ[声を出さず]唇だけを動かして祈ったことが聖書中に述べられています81。
また、ダビドもこのような内的な仕方で祈りました。「あなたに私の心はこう言った。『主のみ顔を探せ』と。主よ、私はみ顔を探し求める。82」聖書中いたるところに、この種の祈りについて述べた箇所を見出すことができます。
47.しかるに、口祷も、それに固有の有用性ならびに必要性を有しています。なぜなら、口祷は霊魂の熱情をかき立て、敬虔心を燃え立たせるからです。これこそ、聖アウグスチヌスがプロパに宛てた書簡中で述べていることです。すなわち、往々にして言葉およびその他の印は、私たちの心をより強く駆り立て、聖なる望みを増大します。また時として、この種の望みおよび敬虔心の力強さのために、私たちは自らの思い、感ずるところを言葉にして表すのを余儀なくされます。心が喜びに打ちふるえるとき、唇もまた打ちふるえることは、しごく当然のことです。さらに、これは私たちの霊魂と身体とが天主に対して負うところの二重の犠牲を、この上なくふさわしいかたちで捧げる手段でもあります。実際、使徒たちがこのようにして祈るのが常であったことを、使徒行録と聖パウロの書簡中に見受けることができます。
48.しかるに、祈りには、私的な祈りと公的な祈りという2種類の祈りがあり、前者で言葉を用いるのは、内心の感情と敬虔心とを助けるために他なりませんが、信徒の信心を鼓舞するために定められた祈りである後者においては、一定の定められた時に、言葉を用いずに祈ることは、およそ不可能です。
49.[言葉を用いずになされる]内的な祈りは、キリスト教信者に固有の祈りであり、異教徒はこれをいささかもなさないことを、主の次のみ言葉が示しています。「祈りの時に、異邦人のように無駄言を言ってはならない。異邦人は、言葉さえ多ければ、聞き入れてもらえる、と考えている。彼らのまねをしてはならない。あなたたちの父は、あなたたちが必要なものを、願わぬ先に知っておられる83。」
50.しかしながら、このように祈りにおける多弁を戒めておられる主が、強い持続的な心情から生じ来る長い祈りを禁じておられるのでは到底ないことは、他ならぬ主ご自身の例から明らかです。事実主は、しばしば夜を徹して祈られた84ばかりでなく、三度同じ言葉をもって祈られました85。したがって、結論として言えることは、[心の伴わない]むなしい言葉の音声のみでは、天主の御心を動かし得ないということにすぎません。
51.偽善者もまた、心からの祈りをなさないのであり、主は、彼らの悪習に倣うことのないよう次の言葉をもって諭しておられます。「また祈るときにも、偽善者のように振る舞ってはならない。彼らは、人に見せようとして、好んで、会堂や町角に立って祈っている。まことに私は言う。その人たちはすでに報いを得たのである。86」
52.「あなたが祈るときには、自分の部屋に入り、戸を閉め、かくれておいでになるあなたの父に祈れ。そうすれば、隠れたことをご覧になるあなたの父が、報いてくださるだろう。87」ここで言われている「部屋」とは、人の心のことであると正しく解することができ、しかるに、祈る際には、この心に入るだけでは足りず、外部から祈りの純然さを害するものが忍び入らないよう、堅く閉じることが必要となります。このようにして初めて、各人の心と思いとを熟知される御父は、祈る者の願いをお聞き入れになるのです。
53.祈りがまた、忍耐強いものでなければないことを、天主の御子は、不正な裁判官の例をもってお示しになっておられます88。この、天主も人も恐れぬ裁判官は、やもめの我慢強くたゆまぬ願いに屈して、その求めることを聞き届けたのでした。したがって、辛抱強く天主に祈らなければならず、一度や二度祈った後、願うことを得られないのに落胆して祈るのをやめてしまう者たちに倣ってはなりません。主キリスト、および使徒らの権威が私たちに教える祈りの務めを果たすにあたって、飽き疲れるということがあってはなりません。そしてもし、時として私たちの意志が弱まるのを感じるならば、天主に、倦むことなく祈る力を祈り求めましょう。
54.天主の御子はまた、私たちの祈りがご自分の御名によって御父に達することをお望みになります。実際、この執り成し手の功徳と信用とによって、祈りは天の御父に聞き入れられるに値するものとなるのです。これは主が、ヨハネの福音書において述べておられることです。「まことに、まことに私は言う。あなたたちが父に求めることは、何でも、私の名によって与えてくださる。今まであなたたちは、何一つ私の名によって求めたことがないが、求めよ、そうすれば与えられる。そしてあなたたちの喜びは満たされる。89」また、「あなたたちが私の名によって何かを願うなら、私はこれを為す。90」
55.聖人らが祈りに注いだ、この上ない熱意をまねることにしましょう。また使徒たちの例に倣って、感謝を懇願の祈りに合わせましょう。かくのごとになすのが使徒らのならいであったことは、使徒パウロの書簡からうかがうことができます91。
56.さらに、断食と施しとを祈りに交えましょう。断食は祈りときわめてよく対を成すものです。なぜなら、飲食物で腹を十全に満たした者の精神は、天主を観想することも、祈りにおいて願うべき事物に思いをなすこともできぬほど鈍ってしまうからです。
57.施しもまた、祈りとたいへんよく調和するものです。実際、施しに頼る者を助ける財力を有しながら、当の隣人かつ兄弟に救いの手を差し伸べない者が、どうして愛徳を有していると言い得るでしょうか。また、愛徳を持たない者が、いかにして天主の助力を願い得るでしょうか。かかる者の祈りが聞き入れられるには、まず自らの罪の赦しを願い、同時に天主に愛徳の賜をへりくだって祈り求めることが必要です。
58.天主の御摂理は、人の救いがこの3つの手段によってとりはからわれることをお望みになりました。なぜなら、罪を犯すことをとおして、私たちは、あるいは天主に侮辱を加え、あるいは隣人に不正をなし、あるいはまた自分自身に危害を加えるのですが、聖なる祈りによって私たちは、天主の御心をなだめ、施しによって他人に加えた害の償いをなし、断食によって自らの生活の汚れを浄め落とすからです。この3つの救済手段が、全ての種類の罪に対して同様に有効であるとは言え、その各々は、先に述べたように、それに特別に当てはめ、意図された種類の罪に対応しています。
【脚注】
78 ヤコボの手紙 4章3節
79 ヨハネによる福音書 4章23節
80 霊と真理とをもって祈る、ということについてのより詳しい説明は、S.Cyril. Alexandr. per 17. libros integros ; S. Thom. <Summa theol.> 2. 1. quaest. 83 art.12を参照のこと。
81 サムエル記上 1章13節
82 詩編26 8節
83 マテオによる福音書 6章7節
84 ルカによる福音書 6章12節
85 マテオによる福音書 26章44節
86 マテオによる福音書 6章5節
87 マテオによる福音書 6章5節
88 ルカによる福音書 18章2節
89 ヨハネによる福音書 16章23節
90 ヨハネによる福音書 14章14節
91 例えばエフェゾ人への手紙 1章16節
トリエント公会議による公教要理 祈りについて (聖ピオ十世会訳)
1トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの必要性
2トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの実りと有用性 (聖ピオ十世会訳)
3トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの異なった部分および段階 (聖ピオ十世会訳)
4トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「祈りにおいて願うべきこと」 (聖ピオ十世会訳)
5トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「誰のために祈るべきか」 (聖ピオ十世会訳)
6トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「よく祈るために必要な心の状態」 (聖ピオ十世会訳)
この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。
《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》
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