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【再掲】教会の一致とエキュメニズム:聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとの違い

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
【2009年に掲載した記事ですが、再掲いたします。】

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
 外部に目を向けて
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して第二バチカン公会議の文献に見えるエキュメニズムを分析
 次に内部に目を向けて
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?という点を考察しています。

 そこで、今回も、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのか、聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとがどう比較されるのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。

 昔からの聖伝の教えによれば、天主の国と教会とは同じ現実を意味している(特にマテオ16章15-19を見よ)。同じ現実であるが、将来の観点と現在の観点という違いがある。「天主の国」は戦闘の教会と凱旋の教会との両者を意味しうる。教導権はこれについて一致している。レオ十三世、ピオ十一世、ピオ十二世は、この二つの表現は同じ現実を意味すると言う。

 昔からの聖伝によれば、キリストの教会とはつまりカトリック教会である。

 聖フランシスコ・ザベリオや聖ペトロ・カニシウス、サレジオの聖フランシスコの燃えるような熱心は、ルターやカルヴァンによって失われた霊魂たちを真のカトリックの一致に呼び戻そうと燃え立たせた。離教や異端はむしろカトリック教会をして燃え立たせ、背教者や未信者をキリストへの信仰に回心させた。

 天主の御旨によれば、一致の第一原理は、カトリック教会の一致が信仰、秘跡、統治という超自然の一致に基づく。何よりもまずこの一致は、信仰の真理に基づかなければならない。この信仰の真理には、多少の程度の余地があることを許さない。一点一画も、一つのイオタであっても欠如してはならない。信仰が完全でないことは、信仰が全くないと同じである。何故なら、信仰の真理を啓示し給う天主の権威を否定することだからだ。

 一致の第二の原理は、イエズス・キリストが御自分の教会にお望みになった特徴である。イエズス・キリストは御自分の教会のしるしの一つとして一性(一つであること)を望まれた。イエズス・キリストの教会はカトリック教会であるから、カトリック教会だけが唯一この一性を固有のものとして持っている。レオ十三世教皇は、回勅「サティス・コニトゥム」(一八九六年)の中で詳しく説明している。また、このカトリック教会が固有に持つ一性は、失われることのない特徴である。カトリック教会を離れるものが、この一致を失うだけである。キリストの教会であるカトリック教会はこの一性を失ったことがない。従って、キリスト教徒の本当の一致、真の一致は、唯一の真のキリストの教会であるカトリック教会に帰正することを促進することによってのみ達成される(ピオ十一世:回勅「モルタリウム・アニモス」)。



 第二バチカン公会議によれば、次のようにまとめられる。

 人類は全て、天主によって天主の国に属するように選ばれている。この天主の国では、完全な自由という天主の似姿を充足させる。この天主の国は、兄弟愛(博愛)へと導く自由と平等という人間の価値が進歩することによって、人間がより人間らしくなり準備される。人間がいっそう人間らしくなるには人間しだいである。

 この進歩を促進するために、人間としてのキリストにおいてキリストの教会を制定した。キリストは人間をより人間らしくするために人間となったからである。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 「最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。・・・
 多くの苦難を通して悪と戦い、死を堪え忍ぶことは、確かにキリスト者にとって必要であり義務である。しかし、復活の秘義(Paschale Mysterium)に結ばれ、キリストの死に似た姿となるキリスト者は、希望に力づけられて復活に向かって進むであろう。このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。・・・ われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。・・・」

 人間をいっそう人間らしくするという人類の進歩促進のためにある教会は、天の国を先取りする特別な宗教的・司祭的召命をもった人々の集まりである。

『現代世界憲章』40
「教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。」

 この教会は、全人類を天主の国へと準備させる、天の国の効果的なしるしつまり秘跡である。

『教会憲章』 1(序文) 教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である

 この聖なるものとしての教会が自由・平等・博愛(兄弟愛)を実践しているのを俗なるものとしてのこの世が見て、この世は教会を真似しようと望むだろう。このようにして、キリストの司祭的使命が続けられる。

 天主に結合している全人類の一致の秘跡である教会とは、キリストの教会である。このキリストの教会にはカトリック教会と全ての宗教団体が含まれているからである。

 中世の教義主義はギリシア・ローマの神学を主張して教会を分裂させた。中世の教義主義に変わって、エキュメニズムがその場所を占めなければならない。従って、新教会は全てのカトリックと全てのキリスト教教団と全ての諸宗教とエキュメニズムをしなければならない。

 新しい教会が全人類を一致させ統一させることを意味しその効果をもたらすべく、新しく考え出された「秘跡」とは「対話」である。全ての人間を尊重し彼らと対話することによって一致をもたらすようにする。

 第二バチカン公会議によれば、カトリック教会は人間のペルソナの崇高な品位、人格の尊厳のために闘う人間性のイデオローグに変わり(『現代世界憲章』22、『信教の自由に関する宣言』1)、諸宗教との対話の使徒に変容すべきである。

『現代世界憲章』40(教会と世界との相互関係)
 人間の尊厳、人間の共同体、人間活動の深い意義について、われわれが述べたすべてのことは、教会と世界の相互関係の基礎ならびに両者の対話の根拠をなすものである。・・・
 天上の宝を目ざして互いに結ばれ、またそれによって富まされているこの家族は、キリストによって「社会として、この世の中に設立され組織された」ものであり、「見える社会的一致の適切な手段」を与えられている。したがって、教会は同時に「見える団体と霊的共同体」であり、全人類とともに歩み、世と同じ地上的なりゆきを経験する。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。

 同様に、座長としての教皇の下に世界教会の模範が示されなければならない。世界一致と統一の「秘跡」として、この世界教会がエキュメニズムを実践しているのを世俗の政府が見て、世界政府は世界教会を真似しようと望むだろう。

 第二バチカン公会議は、将来、教皇は、座長として、世界宗教連合協議会の賛助をえて、諸宗教の違いを尊重しながらその新しい「首位権」を行使するだろう、それにならって世界大統領は、国連の長として、民主主義的に、戦争を防止し人権を擁護するための武力を備えてその新しい「首位権」を行使するだろうことを想定しているようだ。

 何故なら、第二バチカン公会議は、教会あるいは教皇の聖なる権能を政治の分野で使うことを拒絶するからだ。教皇は平和のための仲立ち人にはなれない。第二バチカン公会議は、世俗の国際権威に平和の保証を求めなければならない。(『現代世界憲章』79,82)

 こうして、キリストのいない世界統一、カトリック的ではない世界統一、世界自由経済を追求するための世界統一を第二バチカン公会議は求めている。

 公会議閉会の直前、1965年10月4日、公会議の教父らの採決を待つまでもなく、パウロ6世はマンハッタンの国連において『人類についての専門家』として、こう演説した。
「皆さんは、国連で人間の基本的権利と義務、人間の尊厳、自由、特に信教の自由を宣言しています。皆さんは、人間の知恵の中で最も崇高なもの、あえて言えば、その聖なる性質の代表者です。」
 「この相互扶助の組織は、国連の最も人間味豊かな神聖な側面です。それは、人生の旅路において全人類が夢見る理想です。それは世界の人々の最も大きな希望です。」
「皆さん、もう一度、最後の言葉を言わせてください。皆さんが建設しているこの建造物は、ただ物的、地上的土台の上に立つものではありません。そうだとすれば、それは砂上の楼閣となるでしょう。むしろそれは、わたしたちの良心の上に立てられなければなりません。」
(中央出版社:『 歴史に輝く教会』416-426頁参照。)

 第二バチカン公会議は、キリストの上に成り立つのではない、人間の自由な良心と尊厳との上に成り立つ平和を求める。

 こうして第二バチカン公会議によれば、遂にキリストが来臨するとき、全て教会と世界とは一つとなり、全ての人間は一つとなる。

 しかし、真理と聖寵とがなければ、つまり真の教導権と秘跡の助けがなければ、個人も社会も同様に悪魔の虜となってしまう。

 全ての政治秩序には、その基礎に宗教がある。現在の非宗教的世界秩序の基礎にある「宗教」は世俗のヒューマニズムという人間中心の宗教、民主教である。

 新しいヒューマニズムによって構築され直した新しい教会の構造によれば、国連の世界最高権威が人類の霊的指導者となるだろう。教皇はその単なる下僕にすぎない。

 このような最高国際権威は、究極のところ天主からの最高権威者たる教皇に反対する権威として、立ち上がるだろう。キリストなしに作られた世界統一最高権威は、ついにはキリストに反対するものとして、反キリストの権威としてそびえ立つことであろう。

 何故なら「世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。・・・誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。・・・全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要だ」(ボニファチオ八世)からである

 こうして、キリストの来臨を待望するかわりに、反キリストの来臨を準備することとなってしまうであろう。


主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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