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【拡散希望】ヴィガノ大司教とタウシグ司教との二つのパレーシア(臆することなく発言すること):ヴィガノ大司教のサン・ラファエル教区の神学校の閉鎖に関する手紙

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年7月30日付でヴィガノ大司教はタウシグ司教に手紙を書きました。

【手紙の背景:手による聖体拝領の強制:サン・ラファエル司教区の神学校の閉鎖】


アルゼンチンのメンドーサ州、サン・ラファエル司教区のエドゥアルド・マリア・タウシグ(Eduardo Maria Taussig)司教は、アルゼンチンで一番神学生が多い保守的な神学校を廃校にすることを決定しました。

タウシグ司教は、コロナウイルスによる教会閉鎖が終わって、教会が再開された時に、コロナウイルスを口実に、聖体拝領は手だけに与えることを命じました。しかし、サン・ラファエルの神学校では150以上の家族と神学生たちは手による聖体拝領を拒否しました。神学校校長は神学生たちには口で聖体拝領をする当然の権利があると、跪いて口による聖伝のやり方を弁護しました。そこで、司教は校長の司祭を解任して復讐し、さらに他の教授の司祭たちも口に聖体拝領を授けているので、「聖座からの指導に従い」、2020年末に「天主の御母聖マリア神学校」を廃止することを7月27日に発表しました。

サン・ラファエル司教区長は、廃校までの間、一時的にビクトル・トレス・ホルダン(Víctor Torres Jordán)神父を新しい校長として任命しました。

この神学校は1984年に創立され、現在39名の神学生がおり、アルゼンチンでは、Instituto del Verbo Encarnado修道会の神学校の次に、大きい神学校です。この神学校で学んだ司祭たちは、司祭職を辞める人の率が最低で、過去15年でたった一人のケースだけでした。

口による聖体拝領を許していた問題で、サン・ラファエル司教区近隣の司教がつい最近そのポストを失ったので、タウシグ司教はそれを恐れているのかもしれません。手による聖体拝領を押し付けるために神学校を閉じさせる、それが「聖座からの指導」つまり「憐み」の聖マルタの家からの命令だったのでしょう。(1976年にも似たようなことがエコンの神学校にもあったことを思い出します。)「手による聖体拝領」が、教会改革を推進する人々にとって、どれほど最重要課題なのかを、垣間見ることができます。

(上の写真は、司教に懇願する信徒たち)

【手紙の内容】
そのショッキングなニュースを受けて、ヴィガノ大司教はタウシグ司教に手紙を書きました。イタリア語版は、いくつかのウェブサイトなどで読むことができます。英語版はここにあります。

ヴィガノ大司教は、手紙の中で、パレーシア(これはギリシア語で、危険を冒してもあえて話すことを含め、包み隠さず、全てを"臆することなく話す"(使徒行録4:13)こと)という単語を出して、パレーシアをしていてそれは良いことであるとタウシグ司教を褒めます。

元駐米教皇大使は、最高の玉座に座すフランシスコ教皇から、私たちがパレーシアを実行するように招かれていることを想起させ、教皇がこのパレーシアによって聖職者中心主義を打ち砕き、教会をもっと改革するように進めておられることにも触れています。

まさに、このパレーシアこそ、この手紙のキーワードだと思います。

ヨハネ・パウロ二世は1986年のアシジの諸宗教の集まりこそが、第二バチカン公会議を正しく理解するためのイラストレーションである、と言いました。

ブラジルの引退司教クラウジオ・ウミス(Cláudio Hummes)は、アマゾン・シノドスが第二バチカン公会議の結論であると説教で説明しました。

教皇フランシスコは、アブダビ宣言の「文書は第二バチカン公会議から一ミリもずれていない、この文書は第二バチカン公会議の精神において作られた」と包み隠すことなくはっきり言い、パレーシアを実践しました。“dal punto di vista cattolico il documento non è andato di un millimetro oltre il Concilio Vaticano II. Niente. Il documento è stato fatto nello spirito del Vaticano II”

【教皇フランシスコとアル=アズハルの大イマームが署名した世界平和と共存のための人類の兄弟愛に関する文書、いわゆるアブダビ宣言には、天主が性別(人間の本性に基づく)を欲するように、宗教の多様性も欲する、「宗教の多元性と多様性」が「天主の知恵深い御旨」である、という天主の第一戒に反する内容がある。】

たとえ第二バチカン公会議の中に明記されていなくとも、たとえそれが第二バチカン公会議以降、例外事項として特例として許されている事柄であったとしても、第二バチカン公会議の正しい解釈の仕方が何かを、実際の行動で示しそれを強制することもパレーシアです。

本当は違法なのだけれど、本当はカトリック教会がかつては禁止してきたことだけれども、その違法と禁止条項を行うことこそが、第二バチカン公会議の精神による正しい行いであって、いままでのような信仰は、「考え方」を変えなければならない、とはっきり力づくで押し付けるパレーシアです。第二バチカン公会議は過去と断絶しているものだとはっきり言うボローニャ学派の主張です。この主張は「連続の解釈学」ではなく「断絶の解釈学」です。

いままでは、「一部の司教や司祭の権力の乱用」だとか、「第二バチカン公会議を誤解」しているとか、ごまかしていたけれども、じつは乱用でも誤解でもなく、第二バチカン公会議後の新しい教会は、乱用とか誤解と思われていたことをしなければならない、それが公会議後の、with公会議の「新しいノーマル」だ、「教会は元には戻らない」ということを臆面もなく言い放つパレーシアです。たとえば、口による聖体拝領はもう終わった、と。

フランシスコ教皇は、現在はC6と呼ばれている六名の枢機卿たちを顧問としたグループを任命していますが、教会の行政機構をもとに戻すことができないほど変更させると言っています。教会は、「健全な非中央集権化」され「交わりのプラットフォーム」「情報・意見交換のためのフォールム」となる、と言われています。

第二バチカン公会議後、カトリック信仰の正統性については、ますます重要性を失わされてきています。例えば、第二バチカン公会議により、公会議以前にはもっとも重要であった検邪聖省(Holy Office)が教理省になり下がりました。第二バチカン公会議の正しい理解をはっきりと示すために、パレーシアを実践するために、もしかしたら、「教理省」はもっとその力を弱めるようになるかもしれません。もしかしたら、将来、例えば、タグレ枢機卿(ボローニャ学派と言われている)が現在長官である「福音宣教省」に飲み込まれてしまう、とか。あるいは、平信徒(女性を含める)が、司祭の代わりに小教区を運営する、とか。

だから、アルゼンチンのタウシグ司教は、神学校廃校をもってそのパレーシアを実践しました。

だから、スイスのバーゼル教区のフェリックス・グミュール司教は、女性が祭服を着て「ミサの真似」を定期的に行っていても、何の処罰も受けないのです。これもパレーシアの実践です。

だから、日本でも、いろいろな口実を使って手による聖体拝領が強制させられ、もしも、誰かが新しいミサの最中に跪くのならば罰を受けるのです。これも第二バチカン公会議後のやり方は過去とは断絶してこれからは新しい教会、「手作りの教会」を作るのだから、おまえらは新しい宗教についてこい、と行動をもって発言しているパレーシアです。

だから、ヴィガノ大司教もパレーシアを実践します。聖霊にみたされたペトロが、ユダヤ人のかしらたち、長老たち、律法学士たちに対して「臆することなく話した」ように、空気を読むことなく、ヴィガノ大司教は言うべきことをズバリと言います。

● 手による聖体拝領を拒否した平信徒や神学生たちは、福音が「羊は彼の声を知っている」と言う良き牧者たちに従っている。

● 手による聖体拝領を強制するのは「羊のことを心にかけぬ」雇い人であり、そのような司教には、彼らは従わない。

● 雇い人のような司教らにとっては、手による聖体拝領を強制して御聖体を冒涜しても、たいしたことではないし、定期的に不正かつ冒涜的に女性が「ミサを挙行」しても、同じくどうでもいい問題だ。

● 手による聖体拝領を拒否した平信徒や神学生たちがいるということは、教会において聖霊が働いていることを証明している。慰め主なる聖霊は、謙遜な人々や弱い人々に剛毅の賜物を注入し、御聖体への信仰を明らかに宣言させている。

● 手による聖体拝領の強制には、父や兄弟として気遣いも無ければ、まことの愛徳もまったく存在していない。そこには善と真理とがないからだ。キリストの教会の破壊に参加していることだからだ。

● 手による聖体拝領を強制することは、重大な悪であり、重大な償いの義務を課す。


では、次に日本語訳をご紹介いたします。

ヴィガノ大司教のタウシグ司教への手紙

2020年7月30日

司教様、

サン・ラファエル教区の神学校を閉鎖し、同校の校長アレハンドロ・ミゲル・シアロッチ神父(Fr. Alejandro Miguel Ciarrocchi)を解任するという決定について国際的な報道で知って、私は戸惑い、心を痛めています。

この決定は、あなたの熱心な求めにより、ローマの聖職者聖省によってなされたと言われています。ローマの聖職者聖省は、あなたの裁治権下にある一部の聖職者たちが、いとも聖なる御聖体を、舌の代わりに手に授けたり受けたりするのを拒否しているのが容認できないと考えた、と。サン・ラファエル司教区の司祭たち、聖職者たち、信徒たちの称賛に値する首尾一貫した態度を絶好の口実にして、アルゼンチン最大規模の神学校を閉鎖し、他の場所で、あまりにも模範的なために今では空っぽになっているいろいろな神学校で神学生らを再教育するために彼らを散り散りにさせたのではないかと、私は思いました。司教様は、パレーシア[parrhesia]【訳注:危険を冒してもあえて話すのを含め、包み隠さず洗いざらい全てを"臆することなく話す"(使徒行録4:13)こと】への招きを実際の行動に移すという非常によい仕事をされています。私たちは、そのパレーシアの名によって、最高の玉座【教皇】によって糾弾された聖職者主義という災いを打ち負かすこととされていますから。

過去数十年の間にわたって行われてきた超近代主義者による教化という弛まぬ叩き込みにもかかわらず、司教の宮廷への臣下の服従を優先させるよりは、御聖体が当然受けるべき敬意を払う勇気ある司祭たちや聖職者たちがいまだに存在するのを見て、あなたが失望したのを私は理解できます。また「アンデスのヴァンデ」【訳注:フランス革命時のカトリック王党派による革命に反対したヴァンデ地方の民衆になぞらえている】と呼ばれてきた地域の平信徒や全家族さえもが、福音が「羊は彼の声を知っている」と言う良き牧者たちに従い、「羊のことを心にかけぬ」(ヨハネ10:4,13)雇い人たちには従わないのを見たことによる、あなたのいらだちを私は想像することができます。

これらのエピソードは、教会における聖霊の働きを裏付けています。慰め主なる聖霊が謙遜な人々や弱い人々に剛毅の賜物を注入し、高慢な人々や権力を持つ人々を戸惑わせ、一方では祭壇の至聖なる御聖体の秘蹟への信仰を明らかにし、他方では世間体による罪深い冒涜を明白にします。この世の考え方に従うことで、司教様は教会の敵による安易で利己的な喝采を得るかもしれません。しかし、良き人々が全員一致で認めないことは避けられないでしょうし、御聖体のベールの下に御自身の御体、御血、御霊魂、御神性においてまことに現存され、聖なる牧者たちに御自分の証人となることを、御自身への裏切り者や迫害者ではなく証人となることをお求めになる天主の御裁きをも避けられないでしょう。

司教様、あなたが司教の紋章にお選びになった標語「Paterna Atque Fraterna Charitate(父として、兄弟としての愛徳)」とあなたの行動とには一種の矛盾がある、と私が指摘することを司教様は許してくださることでしょう。聖なるホスチアを冒涜したくない司祭を罰することについては、父として気遣いは何もありませんし、また、不当な命令に従わなかった人々へのまことの愛徳も、いかなる形であれ何もありません。
愛徳とは、善と真理のために行使されるものです。もしそれが誤謬を起源とし、悪を目的とするならば、それは聖徳の奇怪な猿真似にすぎません。王の中の王に帰されるべき名誉を擁護し、この崇高な目的のために努力する人々を称賛する代わりに、栄えている神学校を閉鎖し、公に自分の聖職者を叱責するまでに至った司教は、愛徳の行為ではなく、むしろ嘆くべき虐待を行っているのであり、天主の御裁きの座の前で責任を問われるでしょう。
永遠の観点のもとで(sub specie aeternitatis)その行為自体において、更にまた、その行為が小さき人々につまずきを起こしているという理由で、あなたの行為がどれほど深刻なものであるかをあなたが理解なさることを私は祈っています。教皇庁立聖トマス・アクィナス大学(Angelicum)であなたは学んだのですから、司教様の健全な悔い改めのわざの助けになるはずですし、この悔い改めは、[司教様に]重大な(sub gravi)償いの義務も課します。

報道によると、バーゼル教区[スイス]のリギ・カルトバート教会では、祭服を着た女性が、叙階された司祭の不在の中、聖変化の言葉のみを省略しつつ、ミサの挙行の模倣を定期的に行っているとのことです。バーゼルのフェリックス・グミュール司教は、ローマの聖省に依頼して、ミサの冒涜的な模倣を模範的に処罰することで、あなたが持っておられるのと同じような熱意を持って、功績を挙げてくださるのでしょうか。

しかし、私は、あなたに従わない義務を果たした司祭らを罰するためにあなたが示した柔軟性のなさを、スイスでは競ってやろうとはしないと思います。確かに、もしある司祭がリギ・カルトバートの同じ祭壇でトリエント典礼のミサを挙行していたならば、教区長の矢が彼を射って撃ち落するのはすぐになされたでしょうが、不正かつ冒涜的に「ミサを挙行する」女性は、今日では、たいしたことではなく、ちょうど祭壇の聖なる秘蹟である御聖体を冒涜するのと同じように無視できるものと考えられているのです。

あなたが不当に処罰し、重大な侮辱を与えた教区の聖職者たちや信徒たちとともに、司教様、私はあなたのために、また聖座の高官たちのために、そして特に、ベニアミノ・ステラ枢機卿のために祈ります。
私はこの枢機卿のことを、私が教皇使節代理の資格でコロンビアのボゴタを訪問した時、熱心な司祭であり忠実な教皇大使として知っていました。彼はかつて私の友人でした。私は何年にもわたって彼とともに国務省で働いていました。残念なことに、今やもうこの頃では、彼がキリストの教会の破壊に参加しているために、私は彼をもはや昔のままの彼を認めることができません。

私たちは、あなたの回心のために祈ります。その回心は、私たち全員が呼ばれているものですから。しかし、天主の栄光のためというよりも霊魂たちの善に反し教会の名誉に反して働いている人々にとっては、この回心をもはや先延ばしにすべきではありません。

司教様、あなたが宣戦布告なさったサン・ラファエルの神学生と信徒のために私たち全員で祈りましょう。
真理において、兄弟の愛をもって

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ


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