十 一 日 聖母の代願の象徴なるエステル
エステル王の御前(みまえ)に進みし時・・王は怒(いか)れる顔を上げしが・・天主は
忽ち彼の心を和(やわ)らげ給えり。 (エステル書十五。九の一 一)
ペルシャ国王アスエロは、ユデア人を憎むアアマン宰相(さいしょう)の奸(わる)計(だくみ)に乗せられ、遂に国中(くにじゅう)のユデア人を一日の内に皆殺しにせよとの厳命(げんめい)を発した。
所がその皇后のエステルは、矢張りユデア人の中から迎えられた婦人であったから、同胞の不幸を黙視(もくし)するに忍(しの)びず、彼等を救う為に、招きを受けずに王の居間に入る者は何人と雖(いえど)も殺されるという、厳(きび)しい掟(おきて)があるにも拘(かか)わらず、敢然(かんぜん)進んで王の前に立ち、憐(あわ)れみを乞おうとした。その時王は憤(いかり)の形相(ぎょうそう)物凄(ものすご)く顔を上げたが、天主は其の瞬間急に其の心を和(やわ)らげ給うた、というのが冒頭(はじめ)に記(しる)した言葉である。
このエステルは云うまでもなく聖マリアの象徴(かたどり)であった。彼女が国王に同胞(どうほう)の命乞(いのちご)いをした如く、聖母も我等不幸な人類を憐(あわ)れみ、いつも主の玉座(ぎょくざ)の御前(みまえ)に代願(だいがん)し給うのである。
こう云うと我等の為天主御父(おんちち)に取りなして下さる方は救い主イエズス・キリストではないかと疑(うたが)う人もあろう。成る程天主御父は人類を救う為に御独子(おんひとりご)を世に遣(つか)わし給うた。そして之を信ずる者は聖書にもある如く、確(たし)かに永遠の生命を受ける。けれども浅ましい我等は救い主の御慈悲(おんいつくしみ)を軽蔑(けいべつ)したり、その御旨(みむね)に反抗(はんこう)したりして罪を犯(おか)し、自分に与えられる主の御苦難御死去の功徳(くどく)を踏(ふ)みにじり、永遠の生命を失う危険に瀕(ひん)することが度々(たびたび)ある。
イエズスは天主であって無限の慈悲(いつくしみ)と共に無限の正義も有し給い,公(こう)審判(しんぱん)の折には審判者となられるお方(かた)である。それで我等がかような不心得(ふこころえ)を働いた時には、その正義から咎(とが)め給わぬ訳には行かぬ。かような場合、主の御怒りを宥(なだ)め参らせて、我等の為に憐(あわ)れみを乞(こ)うて下さるのは何方(どなた)であるか。それは聖母
マリアの外(ほか)にはない。
聖マリアはエステル皇后のように、主の御招きを待ち給う必要がない。天の元后(げんこう)として常に三位(さんみ)一体(いったい)の御側(おそば)においでになる。そしてかのカルワリオ山の上、十字架のもとに立ち給うた時から、地上に於いて天主を父として認め、キリストを兄弟として信ずる者を悉(ことごと)く御自分の愛子(あいし)として、その為に祈り給うのである。故(ゆえ)にその代願(だいがん)には元后(げんこう)としての権利(けんり)と慈母(じぼ)としての限りなき愛が含まれている。その権利の為に聖母の代願は此の上もなく効果があり、その愛の為に聖母は如何(いか)なる罪人もお見捨てにならぬ。寧(むし)ろ重い罪人ほど余計に同情を寄せ給う事は、恰(あたか)も母親が不幸な子ほど不愍(ふびん)に思うようなものである。
そして縋(すが)り奉る者は、善人なるか悪人なるかを問わず、必ず助けてくださるのである。
されば天主に対して「我を憐(あわ)れみ給え」と祈る事が出来ぬ場合には、臆(おく)せず速(すみ)やかに聖母の御許(みもと)に馳(は)せ寄り「慈悲(いつくしみ)深き御母、我を助け給え!」と願うがよい。そうすれば大いなる慰(なぐさ)めを得(え)、再び希望と信頼とを恵(めぐ)まれるであろう。
なお、我等も聖母に倣(なら)い、友の為にも敵の為にも、我等によき人にも悪(あ)しき人にも、隔(へだ)たりを置かず、彼等の報(むく)いを求めず、祈祷(いのり)の効果如何に頓着(とんちゃく)せず、唯(ただ)ひたすら真心(まごころ)を尽くして祈ろう。
かように励(はげ)むならば、生涯、殊に臨終(りんじゅう)の時、天の元后(げんこう)に特別な御扶助(おたすけ)を蒙(こうむ)る事は疑(うたが)いない。
祈 願
ああ我等の代願者なる聖マリアよ、望(のぞ)むらくは我等をして明らかに己が欠点を知り、心より罪を悔(く)やみ、友を助け敵を愛し、罪を償(つぐな)い、もって善(よ)き終わりを遂(つ)ぐるの恵を得(え)させ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。
(天使祝詞 三度)
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エステル王の御前(みまえ)に進みし時・・王は怒(いか)れる顔を上げしが・・天主は
忽ち彼の心を和(やわ)らげ給えり。 (エステル書十五。九の一 一)
ペルシャ国王アスエロは、ユデア人を憎むアアマン宰相(さいしょう)の奸(わる)計(だくみ)に乗せられ、遂に国中(くにじゅう)のユデア人を一日の内に皆殺しにせよとの厳命(げんめい)を発した。
所がその皇后のエステルは、矢張りユデア人の中から迎えられた婦人であったから、同胞の不幸を黙視(もくし)するに忍(しの)びず、彼等を救う為に、招きを受けずに王の居間に入る者は何人と雖(いえど)も殺されるという、厳(きび)しい掟(おきて)があるにも拘(かか)わらず、敢然(かんぜん)進んで王の前に立ち、憐(あわ)れみを乞おうとした。その時王は憤(いかり)の形相(ぎょうそう)物凄(ものすご)く顔を上げたが、天主は其の瞬間急に其の心を和(やわ)らげ給うた、というのが冒頭(はじめ)に記(しる)した言葉である。
このエステルは云うまでもなく聖マリアの象徴(かたどり)であった。彼女が国王に同胞(どうほう)の命乞(いのちご)いをした如く、聖母も我等不幸な人類を憐(あわ)れみ、いつも主の玉座(ぎょくざ)の御前(みまえ)に代願(だいがん)し給うのである。
こう云うと我等の為天主御父(おんちち)に取りなして下さる方は救い主イエズス・キリストではないかと疑(うたが)う人もあろう。成る程天主御父は人類を救う為に御独子(おんひとりご)を世に遣(つか)わし給うた。そして之を信ずる者は聖書にもある如く、確(たし)かに永遠の生命を受ける。けれども浅ましい我等は救い主の御慈悲(おんいつくしみ)を軽蔑(けいべつ)したり、その御旨(みむね)に反抗(はんこう)したりして罪を犯(おか)し、自分に与えられる主の御苦難御死去の功徳(くどく)を踏(ふ)みにじり、永遠の生命を失う危険に瀕(ひん)することが度々(たびたび)ある。
イエズスは天主であって無限の慈悲(いつくしみ)と共に無限の正義も有し給い,公(こう)審判(しんぱん)の折には審判者となられるお方(かた)である。それで我等がかような不心得(ふこころえ)を働いた時には、その正義から咎(とが)め給わぬ訳には行かぬ。かような場合、主の御怒りを宥(なだ)め参らせて、我等の為に憐(あわ)れみを乞(こ)うて下さるのは何方(どなた)であるか。それは聖母
マリアの外(ほか)にはない。
聖マリアはエステル皇后のように、主の御招きを待ち給う必要がない。天の元后(げんこう)として常に三位(さんみ)一体(いったい)の御側(おそば)においでになる。そしてかのカルワリオ山の上、十字架のもとに立ち給うた時から、地上に於いて天主を父として認め、キリストを兄弟として信ずる者を悉(ことごと)く御自分の愛子(あいし)として、その為に祈り給うのである。故(ゆえ)にその代願(だいがん)には元后(げんこう)としての権利(けんり)と慈母(じぼ)としての限りなき愛が含まれている。その権利の為に聖母の代願は此の上もなく効果があり、その愛の為に聖母は如何(いか)なる罪人もお見捨てにならぬ。寧(むし)ろ重い罪人ほど余計に同情を寄せ給う事は、恰(あたか)も母親が不幸な子ほど不愍(ふびん)に思うようなものである。
そして縋(すが)り奉る者は、善人なるか悪人なるかを問わず、必ず助けてくださるのである。
されば天主に対して「我を憐(あわ)れみ給え」と祈る事が出来ぬ場合には、臆(おく)せず速(すみ)やかに聖母の御許(みもと)に馳(は)せ寄り「慈悲(いつくしみ)深き御母、我を助け給え!」と願うがよい。そうすれば大いなる慰(なぐさ)めを得(え)、再び希望と信頼とを恵(めぐ)まれるであろう。
なお、我等も聖母に倣(なら)い、友の為にも敵の為にも、我等によき人にも悪(あ)しき人にも、隔(へだ)たりを置かず、彼等の報(むく)いを求めず、祈祷(いのり)の効果如何に頓着(とんちゃく)せず、唯(ただ)ひたすら真心(まごころ)を尽くして祈ろう。
かように励(はげ)むならば、生涯、殊に臨終(りんじゅう)の時、天の元后(げんこう)に特別な御扶助(おたすけ)を蒙(こうむ)る事は疑(うたが)いない。
祈 願
ああ我等の代願者なる聖マリアよ、望(のぞ)むらくは我等をして明らかに己が欠点を知り、心より罪を悔(く)やみ、友を助け敵を愛し、罪を償(つぐな)い、もって善(よ)き終わりを遂(つ)ぐるの恵を得(え)させ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。
(天使祝詞 三度)
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