アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様がなさった2015年2月15日 大阪での「五旬節の主日」のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
親愛なる兄弟の皆さん、
きょう私たちは、聖パウロの愛についての驚くべき手紙を取り上げます。教会が朝課でアブラハムを読むことを知るのは有益です。アブラハムは、その驚くべき信仰によって諸国民の父、世界のあらゆる国において、ただ一つのまことの信仰を持つすべての人々の父となったのですから。アブラハムは天主について偉大なる信仰を持っていただけでなく、驚くべき愛をも持っていました。それは、天主への愛をほかのすべてのものより上に置いたこと、自分の子イサクよりも上に置いたことです。アブラハムは、天主の命令に従うため、イサクを燔祭のいけにえとして天主に捧げることをためらいませんでした。まことに、アブラハムは私たちの主が教えられたことを実践したのでした。「私よりも息子や娘を愛する者は私にふさわしくない」(マテオ10章37節)。アブラハムは、その偉大なる信仰と愛によって、私たちの主イエズス・キリストにふさわしい者であったのです。
さて私たちは、「信仰がなければ天主に嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)ということを知らなければなりません。しかしまた、愛がなければ、天主に嘉されることはできません。聖パウロは言います。「たとい私が山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント第一13章2節)。なぜ私たちには両方が必要なのでしょうか。根本的に、天主は「光」であるだけでなく、「愛」でもあるからです。実際、聖ヨハネは第一の手紙の中で、天主について二つの驚くべき「定義」を示します。まず「私たちがかれから聞いて、あなたたちに告げる便りは、こうである。天主は光であって、少しの闇もない」(ヨハネ第一1章5節)。それから、次に「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。
「天主は光である」。これは、天主が太陽から出るような物理的な光であることを意味しているのではなく、「すべての人を照らす」(ヨハネ1章9節)霊的な光、真理の光であると言っているのです。無知は心の闇であり、真理は心の光です。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。天主は至高の知性であり、かつ至高の真理なのです。この天主の真理は、私たちの本性をはるかに超えているため、聖パウロは、天主は「近づけぬ光のうちに住まわれる」(ティモテオ第一6章16節)と書きました。しかし天主は、顔と顔を合わせて天主を見ることができ、その光の中に入るという超自然の幸福に私たちをお呼びくださったのです。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)。美しい風景が私たちの感嘆を引き起こすのなら、天主を見ることはまことに美しいでしょうから、私たちの永遠の幸福となるのです。
天主はまた、愛でもあります。天主はエレミアを通じて私たちに言われました。「私は永遠の愛をもって愛し、おまえに私の慈悲を保つ」(エレミア31章3節)。天主は、最初の男女を地上の楽園に置かれただけでなく、人間の反抗ののちでさえ、御独り子そのものであるお方を贖い主として遣わされました。御独り子は、私たちの救いのために十字架上で御自らをいけにえとして捧げられました。これは驚くべきことに「善をもって悪に勝つ」(ローマ12章21節)ことなのです。「天主はその御独り子を与え給うほどこの世を愛された」(ヨハネ3章16節)。詩篇作者は、次のように喜びに満たされて言っています。「主の愛を永遠に歌おう」(詩篇88章2節)。また、主に愛された使徒ヨハネは書いています。「私たちが天主を愛したのではなく、天主が先に私たちを愛し、御子を私たちの罪の贖いのために遣わされたこと、ここに愛がある」(ヨハネ第一4章10節)。「私たちが天主を愛するのは、天主が先に私たちを愛し給うたからである」(ヨハネ第一4章19節)。
親愛なる兄弟の皆さん、私たちは天主ではなく、私たちだけで存在しているのでなく、天主が私たちをお創りになったのです。「主は天主であると知れ。主はわれらを創られた、われらは主のもの、主の民、その牧場の群れである」(詩篇99章3節)。このことは明らかでしょうし、実際、私たちが天主ではないという証拠です。しかし、現代社会における悲劇は、人間が自分を天主とすることです。人間は天主と関係ないつもりでおり、知性を天主の真理の光に従わせることを拒絶し、自分よりさらに天主を愛することを拒絶し、天主の法を拒絶し、人間がつくったのではないあらゆる法、あらゆる命令を拒絶しているのです。
例えば、「人間の本性」という概念を見てみましょう。天主は私たちを創られました。天主は私たちに、「人間の本性」を与えられました。霊魂と体を持ち、霊魂にも体にもそれぞれの能力があり、私たちが従うべき法を伴っています。その法とは、例えば、天主を礼拝すべきこと、体は霊魂に従うべきこと、感情を理性に従わせ、理性によって抑制すべきこと、感情の奴隷になってはならないことなどです。しかし現代人は、義務を伴うこの「人間の本性」という概念自体を拒絶しています。現代人はこれを強く拒絶し、現代の「ジェンダー」〔性的役割〕という理論で、誰もが自分の性的役割を選ぶことができるかのように考えています。これは、ばかげたことです。私たちの細胞のDNAが天性のものでないかのように考えること、これは選択の対象ではありません。ですから、現代人が人間の本性をこういうふうに拒絶することが、あらゆる種類の不自然な悪徳を引き起してしまうのです。
19世紀のまことに良き司祭、ゴーム神父はこう書きました。〔現代人向けに(革命家の名前などを)少し変更しています。原文は、フランス革命の歴史をよく知っているフランス人のために書かれました。〕「革命の仮面をはいで聞いてみよう。おまえは何者だ、と。すると、こう答えるだろう」。
「私は人々が考えているようなものではない。多くの人が私のことを語るが、ほとんどの人は私を知らない。私は、暴動ではなく、君主制から共和制への転覆でもなく、一つの王朝から他の王朝への転覆でもなく、一時的に治安を乱すことでもない。私は、反乱の叫びでもなく、革命家の怒りでもなく、バリケードで血を流して戦うことでもなく、プラハやアモイの戦車でもない。私は、ロベスピエールでもなく、レーニンでもなく、スターリンでもない。これらの男たちはわが子どもたちであるが、私ではない。これらの行いは私の業(わざ)であるが、私ではない。これらの男たちや出来事は過ぎ去るが、私は永遠の国家である」。
「私は、人がつくったものではないあらゆる秩序、人が王でありまた同時に天主であることのないあらゆる秩序への憎しみである。私は天主の権利を拒絶する人間の権利、人権の宣言なのである。私は、天主の意思の代わりに人間の意思を置く、宗教的、社会的国家の基礎である。私は、天主を玉座から引きずりおろし、その座に人間を置くことなのである。これが、私が革命、つまり物事をひっくり返してしまうこと、と呼ばれている理由なのである」。
ゴーム神父のこれらの言葉は、革命とは何であるかをまことによく表現しています。そして、革命が世界中に、共産主義の国家だけにとどまらず、いかに遠くまで広がっていったかを考えるのを助けてくれます。世界の国のほとんどが、天主の法について語ることはまったくありません。ほとんどの国は、国の法律において、天主の法によって明確に非難され禁じられている中絶のようなことを認めています。中には、「中絶の権利、同性愛の権利など」を主張するところまで進んでしまった国もあります。本質的に悪であることを行う権利が、いかにして存在し得るのでしょうか? 同じことが、正しいと同時に悪であることなどありえません。無実の者を殺すことは悪であると天主は言われましたが、人は中絶する権利があると言うのでしょうか? いわゆる「人権宣言」は、実際には「天主のいない人間の権利」への案内図、つまり「私は従わない、私は天主の法に服従しない」という叫びへの案内図なのです。
ですから、皆さんお分かりのように、世界では大きな霊的戦いが起きているのです。きょう始まったのではありません。ある意味で、「私は従わない」という悪魔の反乱とともに始まり、アダムとエバの罪によって地上に入り、世の終わりまで続くのです。天主ご自身が、次の美しい予言によって、両方の側について述べておられます。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏みくだき、おまえのすえは、女のすえのかかとを狙うであろう」(創世記3章15節)。
私たちは、どちらの側を選ぶのでしょうか? 私たちは無関心でいることはできません。天主に無関心であるという事実そのものが、天主への攻撃になるからです。洗礼によって、私たちはマリアの子となること、「女のすえ」になることを選びました。私たちはサタンと、そのすべての業、すべての誘惑、欺きやずる賢さなどを捨てました。私たちは、サタンの闇と憎しみの国を拒絶し、キリストとその光と愛の国を完全に選びました。私たちは、悪魔の頭を踏みくだく女とそのすえの陣営に属することを選びました。
しかしながら、言うのも悲しいことですが、この世に妥協する、この世の王に妥協する多くのカトリック信者がいるのです。彼らは、もう悪魔に対して戦うつもりはなく、天主とこの世に同時に仕えるつもりなのです。この世の精神とのこういう妥協は、第二バチカン公会議の特徴です。教皇パウロ六世自身が、公会議閉会のおり(1965年)12月7日に演説でそのことを述べました。「公会議が出会ったのは、次のものです。"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。何が起こったのでしょうか。衝突でしょうか。排斥でしょうか。これらが起こり得ました。しかし、これらはありませんでした。良きサマリア人の昔の話が公会議の光でした。すなわち、人間に対する限りない好感が…。私たちも、誰にもまして人間を礼拝するものなのです」。これらの言葉、特に最後の言葉はまことに恥ずべきものです。
それと反対に、私たちは、まことの宗教を完全に選びました。人間となった天主の宗教を、私たちの主イエズス・キリストがご托身になった宗教を選びました。ですから、私たちは、自らを天主とする人間の宗教を拒絶します。光は闇を払いのけます。私たちの主イエズス・キリストは世の光です(ヨハネ8章12節)。主は、不信仰の闇、罪の闇を払いのけてくださいます。主だけが、霊魂を闇と罪から癒やしてくださり、光と愛で私たちを満たしてくださいます。ですから主は、罪びとを憎むのではなく、罪を憎み、罪びとを罪から救うべく努めるように私たちにお教えになりました。「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、天主のために城塞を破るほどの力のあるものである。私たちは詭弁を破り、天主の知識に逆らって立つすべての砦を壊し、すべての考えを虜にしてキリストに従わせる」(コリント第二10章4―5節)。事のついでに、イスラムと真の宗教であるカトリックを比べてみます。イスラムは反対する人々を殺しますが、カトリックはキリストに反対する人々を改宗させようと努めます。私たちの主のように、改宗を得るために喜んでみずから犠牲となるのです。
この大いなる戦いにおいては、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とします。どのようにすればその恩寵を得られるのでしょうか。第一に、祈りと黙想によってです。光であり愛である天主を黙想することが必要です。天主の内的生命の神秘において、知性によって御子をお生みになる御父を黙想します。御父と御子から愛によって発出する聖霊を黙想します。この黙想をすることで、この偉大なる神秘を私たちに啓示してくださった私たちの主イエズス・キリストを通して、私たちは天主への愛で燃え上がるのです。この黙想自体が天主の賜物であり、私たちはそれを求めなければなりません。求めよ、さらば与えられん。私たちの主は、私たちが受けたいと思う以上のものさえも、私たちにお与えになります。主は、私たちの救いを望まれます、私たちが望む以上にです。主は、十字架上で私たちの救いのために亡くなられました。ですから私たちは、この戦いで私たちが必要とする恩寵を求めるのを恐れてはなりません。主は私たちをお助けになり、勝利をお与えになります。聖ジャンヌ・ダルクは言いました。兵士たちは戦い、天主が勝利をお与えになる。霊的戦いにおいては、これはさらに真実となります。ですから祈りは、私たちの救いのための霊的戦いにおいて、第一にして最も必要な武器なのです。
第二の武器は、祈りがあったうえで、霊魂を罪から解放するという堅い意志と熟慮の上の決心です。この決心は、いかなる条件も制限もない完全なものでなければなりません。罪はまったくの問題外です。聖パウロは「あなたがたの中では口にさえもするな」と言います。「聖徒にふさわしいように、あなたたちの中では、淫行、いろいろなけがれ、情欲は口にさえもするな」(エフェゾ5章3節)。私たちは、まず聖寵の状態でキリストと一致していなければ、従って罪との妥協が一切ない状態でなければ、周りに善をなすことはできません。罪は問題外です。完全に罪に対して「ノー」と言わなければなりません。この点で弱さを感じるのなら、直ちにお祈りをし、決意を強めてくださるよう善き主にこい願い、私たちがあきらめないように守ってくださるようこい願わねばなりません。私たちは、主がこの祈りを受け入れてくださるのだ、主の聖心には「私たちが聖となること」以上の大きな望みはないのだから、この祈りは主をお喜ばせするのだ、と確信しなければなりません。「実に天主のみ旨はあなたたちが聖となることにある」(テサロニケ第一4章3節)。
第三の武器は苦行です。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。四旬節が近づきました。すすんで苦行を行う大変重要な時期です。断食、徹夜、長い祈りや朗読などです。注意していただきたいのは、金曜日の小斎を四旬節の間だけでなく、一年を通してまもることです。「忘れていました…」と言う人がいますが、主が金曜日に亡くなられたのを、どうして忘れることができるのでしょうか。私たちは、いつも心の中で私たちの主イエズス・キリストのことを思い、主と共に生き、主を忘れることのないようにしなければなりません。
こういったすべてにおいて、私たちは、童貞聖マリアのマントのかげで、絶え間ない祈りによって聖母のそばにいて、聖母の御取り次ぎを信頼して、すべてを行うべきです。これが、確実な方法なのです。そうすれば、祈りの答えを得ることができ、常に心が清く、また自分の状態に応じた貞潔に忠実であることができ、謙遜で天主と私たちの主イエズス・キリストに忠実であることができるのです。聖母のマントのかげにいれば安全です。聖母が、かかとでヘビの頭を踏みくだいて悪魔に勝利することに、私たちを参加させてくださいますように。アーメン。
《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》
幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」
シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」
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愛する兄弟姉妹の皆様、
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親愛なる兄弟の皆さん、
きょう私たちは、聖パウロの愛についての驚くべき手紙を取り上げます。教会が朝課でアブラハムを読むことを知るのは有益です。アブラハムは、その驚くべき信仰によって諸国民の父、世界のあらゆる国において、ただ一つのまことの信仰を持つすべての人々の父となったのですから。アブラハムは天主について偉大なる信仰を持っていただけでなく、驚くべき愛をも持っていました。それは、天主への愛をほかのすべてのものより上に置いたこと、自分の子イサクよりも上に置いたことです。アブラハムは、天主の命令に従うため、イサクを燔祭のいけにえとして天主に捧げることをためらいませんでした。まことに、アブラハムは私たちの主が教えられたことを実践したのでした。「私よりも息子や娘を愛する者は私にふさわしくない」(マテオ10章37節)。アブラハムは、その偉大なる信仰と愛によって、私たちの主イエズス・キリストにふさわしい者であったのです。
さて私たちは、「信仰がなければ天主に嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)ということを知らなければなりません。しかしまた、愛がなければ、天主に嘉されることはできません。聖パウロは言います。「たとい私が山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント第一13章2節)。なぜ私たちには両方が必要なのでしょうか。根本的に、天主は「光」であるだけでなく、「愛」でもあるからです。実際、聖ヨハネは第一の手紙の中で、天主について二つの驚くべき「定義」を示します。まず「私たちがかれから聞いて、あなたたちに告げる便りは、こうである。天主は光であって、少しの闇もない」(ヨハネ第一1章5節)。それから、次に「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。
「天主は光である」。これは、天主が太陽から出るような物理的な光であることを意味しているのではなく、「すべての人を照らす」(ヨハネ1章9節)霊的な光、真理の光であると言っているのです。無知は心の闇であり、真理は心の光です。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。天主は至高の知性であり、かつ至高の真理なのです。この天主の真理は、私たちの本性をはるかに超えているため、聖パウロは、天主は「近づけぬ光のうちに住まわれる」(ティモテオ第一6章16節)と書きました。しかし天主は、顔と顔を合わせて天主を見ることができ、その光の中に入るという超自然の幸福に私たちをお呼びくださったのです。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)。美しい風景が私たちの感嘆を引き起こすのなら、天主を見ることはまことに美しいでしょうから、私たちの永遠の幸福となるのです。
天主はまた、愛でもあります。天主はエレミアを通じて私たちに言われました。「私は永遠の愛をもって愛し、おまえに私の慈悲を保つ」(エレミア31章3節)。天主は、最初の男女を地上の楽園に置かれただけでなく、人間の反抗ののちでさえ、御独り子そのものであるお方を贖い主として遣わされました。御独り子は、私たちの救いのために十字架上で御自らをいけにえとして捧げられました。これは驚くべきことに「善をもって悪に勝つ」(ローマ12章21節)ことなのです。「天主はその御独り子を与え給うほどこの世を愛された」(ヨハネ3章16節)。詩篇作者は、次のように喜びに満たされて言っています。「主の愛を永遠に歌おう」(詩篇88章2節)。また、主に愛された使徒ヨハネは書いています。「私たちが天主を愛したのではなく、天主が先に私たちを愛し、御子を私たちの罪の贖いのために遣わされたこと、ここに愛がある」(ヨハネ第一4章10節)。「私たちが天主を愛するのは、天主が先に私たちを愛し給うたからである」(ヨハネ第一4章19節)。
親愛なる兄弟の皆さん、私たちは天主ではなく、私たちだけで存在しているのでなく、天主が私たちをお創りになったのです。「主は天主であると知れ。主はわれらを創られた、われらは主のもの、主の民、その牧場の群れである」(詩篇99章3節)。このことは明らかでしょうし、実際、私たちが天主ではないという証拠です。しかし、現代社会における悲劇は、人間が自分を天主とすることです。人間は天主と関係ないつもりでおり、知性を天主の真理の光に従わせることを拒絶し、自分よりさらに天主を愛することを拒絶し、天主の法を拒絶し、人間がつくったのではないあらゆる法、あらゆる命令を拒絶しているのです。
例えば、「人間の本性」という概念を見てみましょう。天主は私たちを創られました。天主は私たちに、「人間の本性」を与えられました。霊魂と体を持ち、霊魂にも体にもそれぞれの能力があり、私たちが従うべき法を伴っています。その法とは、例えば、天主を礼拝すべきこと、体は霊魂に従うべきこと、感情を理性に従わせ、理性によって抑制すべきこと、感情の奴隷になってはならないことなどです。しかし現代人は、義務を伴うこの「人間の本性」という概念自体を拒絶しています。現代人はこれを強く拒絶し、現代の「ジェンダー」〔性的役割〕という理論で、誰もが自分の性的役割を選ぶことができるかのように考えています。これは、ばかげたことです。私たちの細胞のDNAが天性のものでないかのように考えること、これは選択の対象ではありません。ですから、現代人が人間の本性をこういうふうに拒絶することが、あらゆる種類の不自然な悪徳を引き起してしまうのです。
19世紀のまことに良き司祭、ゴーム神父はこう書きました。〔現代人向けに(革命家の名前などを)少し変更しています。原文は、フランス革命の歴史をよく知っているフランス人のために書かれました。〕「革命の仮面をはいで聞いてみよう。おまえは何者だ、と。すると、こう答えるだろう」。
「私は人々が考えているようなものではない。多くの人が私のことを語るが、ほとんどの人は私を知らない。私は、暴動ではなく、君主制から共和制への転覆でもなく、一つの王朝から他の王朝への転覆でもなく、一時的に治安を乱すことでもない。私は、反乱の叫びでもなく、革命家の怒りでもなく、バリケードで血を流して戦うことでもなく、プラハやアモイの戦車でもない。私は、ロベスピエールでもなく、レーニンでもなく、スターリンでもない。これらの男たちはわが子どもたちであるが、私ではない。これらの行いは私の業(わざ)であるが、私ではない。これらの男たちや出来事は過ぎ去るが、私は永遠の国家である」。
「私は、人がつくったものではないあらゆる秩序、人が王でありまた同時に天主であることのないあらゆる秩序への憎しみである。私は天主の権利を拒絶する人間の権利、人権の宣言なのである。私は、天主の意思の代わりに人間の意思を置く、宗教的、社会的国家の基礎である。私は、天主を玉座から引きずりおろし、その座に人間を置くことなのである。これが、私が革命、つまり物事をひっくり返してしまうこと、と呼ばれている理由なのである」。
ゴーム神父のこれらの言葉は、革命とは何であるかをまことによく表現しています。そして、革命が世界中に、共産主義の国家だけにとどまらず、いかに遠くまで広がっていったかを考えるのを助けてくれます。世界の国のほとんどが、天主の法について語ることはまったくありません。ほとんどの国は、国の法律において、天主の法によって明確に非難され禁じられている中絶のようなことを認めています。中には、「中絶の権利、同性愛の権利など」を主張するところまで進んでしまった国もあります。本質的に悪であることを行う権利が、いかにして存在し得るのでしょうか? 同じことが、正しいと同時に悪であることなどありえません。無実の者を殺すことは悪であると天主は言われましたが、人は中絶する権利があると言うのでしょうか? いわゆる「人権宣言」は、実際には「天主のいない人間の権利」への案内図、つまり「私は従わない、私は天主の法に服従しない」という叫びへの案内図なのです。
ですから、皆さんお分かりのように、世界では大きな霊的戦いが起きているのです。きょう始まったのではありません。ある意味で、「私は従わない」という悪魔の反乱とともに始まり、アダムとエバの罪によって地上に入り、世の終わりまで続くのです。天主ご自身が、次の美しい予言によって、両方の側について述べておられます。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏みくだき、おまえのすえは、女のすえのかかとを狙うであろう」(創世記3章15節)。
私たちは、どちらの側を選ぶのでしょうか? 私たちは無関心でいることはできません。天主に無関心であるという事実そのものが、天主への攻撃になるからです。洗礼によって、私たちはマリアの子となること、「女のすえ」になることを選びました。私たちはサタンと、そのすべての業、すべての誘惑、欺きやずる賢さなどを捨てました。私たちは、サタンの闇と憎しみの国を拒絶し、キリストとその光と愛の国を完全に選びました。私たちは、悪魔の頭を踏みくだく女とそのすえの陣営に属することを選びました。
しかしながら、言うのも悲しいことですが、この世に妥協する、この世の王に妥協する多くのカトリック信者がいるのです。彼らは、もう悪魔に対して戦うつもりはなく、天主とこの世に同時に仕えるつもりなのです。この世の精神とのこういう妥協は、第二バチカン公会議の特徴です。教皇パウロ六世自身が、公会議閉会のおり(1965年)12月7日に演説でそのことを述べました。「公会議が出会ったのは、次のものです。"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。何が起こったのでしょうか。衝突でしょうか。排斥でしょうか。これらが起こり得ました。しかし、これらはありませんでした。良きサマリア人の昔の話が公会議の光でした。すなわち、人間に対する限りない好感が…。私たちも、誰にもまして人間を礼拝するものなのです」。これらの言葉、特に最後の言葉はまことに恥ずべきものです。
それと反対に、私たちは、まことの宗教を完全に選びました。人間となった天主の宗教を、私たちの主イエズス・キリストがご托身になった宗教を選びました。ですから、私たちは、自らを天主とする人間の宗教を拒絶します。光は闇を払いのけます。私たちの主イエズス・キリストは世の光です(ヨハネ8章12節)。主は、不信仰の闇、罪の闇を払いのけてくださいます。主だけが、霊魂を闇と罪から癒やしてくださり、光と愛で私たちを満たしてくださいます。ですから主は、罪びとを憎むのではなく、罪を憎み、罪びとを罪から救うべく努めるように私たちにお教えになりました。「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、天主のために城塞を破るほどの力のあるものである。私たちは詭弁を破り、天主の知識に逆らって立つすべての砦を壊し、すべての考えを虜にしてキリストに従わせる」(コリント第二10章4―5節)。事のついでに、イスラムと真の宗教であるカトリックを比べてみます。イスラムは反対する人々を殺しますが、カトリックはキリストに反対する人々を改宗させようと努めます。私たちの主のように、改宗を得るために喜んでみずから犠牲となるのです。
この大いなる戦いにおいては、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とします。どのようにすればその恩寵を得られるのでしょうか。第一に、祈りと黙想によってです。光であり愛である天主を黙想することが必要です。天主の内的生命の神秘において、知性によって御子をお生みになる御父を黙想します。御父と御子から愛によって発出する聖霊を黙想します。この黙想をすることで、この偉大なる神秘を私たちに啓示してくださった私たちの主イエズス・キリストを通して、私たちは天主への愛で燃え上がるのです。この黙想自体が天主の賜物であり、私たちはそれを求めなければなりません。求めよ、さらば与えられん。私たちの主は、私たちが受けたいと思う以上のものさえも、私たちにお与えになります。主は、私たちの救いを望まれます、私たちが望む以上にです。主は、十字架上で私たちの救いのために亡くなられました。ですから私たちは、この戦いで私たちが必要とする恩寵を求めるのを恐れてはなりません。主は私たちをお助けになり、勝利をお与えになります。聖ジャンヌ・ダルクは言いました。兵士たちは戦い、天主が勝利をお与えになる。霊的戦いにおいては、これはさらに真実となります。ですから祈りは、私たちの救いのための霊的戦いにおいて、第一にして最も必要な武器なのです。
第二の武器は、祈りがあったうえで、霊魂を罪から解放するという堅い意志と熟慮の上の決心です。この決心は、いかなる条件も制限もない完全なものでなければなりません。罪はまったくの問題外です。聖パウロは「あなたがたの中では口にさえもするな」と言います。「聖徒にふさわしいように、あなたたちの中では、淫行、いろいろなけがれ、情欲は口にさえもするな」(エフェゾ5章3節)。私たちは、まず聖寵の状態でキリストと一致していなければ、従って罪との妥協が一切ない状態でなければ、周りに善をなすことはできません。罪は問題外です。完全に罪に対して「ノー」と言わなければなりません。この点で弱さを感じるのなら、直ちにお祈りをし、決意を強めてくださるよう善き主にこい願い、私たちがあきらめないように守ってくださるようこい願わねばなりません。私たちは、主がこの祈りを受け入れてくださるのだ、主の聖心には「私たちが聖となること」以上の大きな望みはないのだから、この祈りは主をお喜ばせするのだ、と確信しなければなりません。「実に天主のみ旨はあなたたちが聖となることにある」(テサロニケ第一4章3節)。
第三の武器は苦行です。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。四旬節が近づきました。すすんで苦行を行う大変重要な時期です。断食、徹夜、長い祈りや朗読などです。注意していただきたいのは、金曜日の小斎を四旬節の間だけでなく、一年を通してまもることです。「忘れていました…」と言う人がいますが、主が金曜日に亡くなられたのを、どうして忘れることができるのでしょうか。私たちは、いつも心の中で私たちの主イエズス・キリストのことを思い、主と共に生き、主を忘れることのないようにしなければなりません。
こういったすべてにおいて、私たちは、童貞聖マリアのマントのかげで、絶え間ない祈りによって聖母のそばにいて、聖母の御取り次ぎを信頼して、すべてを行うべきです。これが、確実な方法なのです。そうすれば、祈りの答えを得ることができ、常に心が清く、また自分の状態に応じた貞潔に忠実であることができ、謙遜で天主と私たちの主イエズス・キリストに忠実であることができるのです。聖母のマントのかげにいれば安全です。聖母が、かかとでヘビの頭を踏みくだいて悪魔に勝利することに、私たちを参加させてくださいますように。アーメン。
《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》
幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」
シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」
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