アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年3月15日、レネー神父様の大阪でのお説教(四旬節第四主日)をご紹介します。
レネー神父様は、このお説教で、キリストの真の教会がカトリック教会であること、プロテスタントの主張の誤りであること、を丁寧に説明して下さっています。どうぞ深く味わって下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年3月15日、レネー神父様の大阪でのお説教(四旬節第四主日)
親愛なる兄弟の皆さん、
きょうの典礼は、聖にして母なる教会の神秘、新しいエルザレムを黙想させてくれます。入祭文は、天のエルザレムの喜びを歌います。そこでは、天主が聖人たちを言い表せないほどの素晴らしい方法で慰めてくださいます。しかし、ここ地上においても、すでに私たちは「希望の喜びを持」(ローマ12章12節)っています、詩篇作者が「『主の家へ上ろう』と言われたので、私は喜んだ」(詩篇121章1節)と言うように。天主の家へ向かう正しい道にいるというまさにその事実が、非常に大きな喜びなのです。この詩篇にあるこれらの言葉は、フランス王聖ルイが死の瞬間に言った最後の言葉でした。
この書簡の中で聖パウロは、シナゴーグ(衆議所)と教会、旧約と新約を、アブラハムの妻たちのハガルとサラに例えています。聖パウロは言います。「上にあるエルザレムは自由であって、私たちの母であ」(ガラツィア4章26節)り、私たちの聖にして母なる教会です。私たちは、主イエズス・キリストの恩寵によって、(サラの子である)「約束の子」であるのです。
美しい昇階誦は入祭文の節を繰り返し、同じ詩篇の中の別の節で終わります。「『主の家へ上ろう』と言われたので、私は喜んだ。…平安は御身の要塞の中にあり、そこは安全である」(詩篇121章1、7節)。天の平和は、永遠の喜び、至福直観であふれており、言い表すことができないほど素晴らしいものです。聖体拝領の交唱は、同じ詩篇のもう一つの節を引用します。「エルザレムは町のように立ち、しっかり固まっている。そこにはもろもろの民が、主の民が上る。そこで主のみ名をたたえる」(詩篇121章3―4節)。教会は、天主の国であり、そこで、天主は地上のすべての種族によって、あふれんばかりの喜びをもって、まことに讃美されます。旧約におけるエルザレムは、単にその象徴、前 表でしかありません。
また、福音において主はパンを増やされましたが、これはご聖体の象徴を示されたのです。聖ヨハネ福音書の中には、私たちの主イエズス・キリストがパンを増やしたあと、教会の最も偉大な宝であるご聖体を告知する長い説教をされます。
キリストがお建てになった教会は、聖なるカトリック教会です。実際、カトリック教会は、キリストと歴史的な結びつきがあり、絶えることのない使徒継承を持つ唯一つの教会です。この歴史的結びつきがないいかなる教会も「キリスト教(の教会)」と名乗る資格はありません。もしそのような教会が「キリスト教(の教会)」であるならば、私たちの主が嘘つきになってしまいます。なぜなら、主は「見よ、私は世の終わりまで常におまえたちと共にいる」(マテオ28章20節)と言われたからです。主は、ルター以前にはどこにおられたのでしょうか。また、ほかの多くのプロテスタント教会は、さらに最近になってできました。それらの教会は設立が遅すぎるため、「キリスト教(の教会)」と名乗ることはできません。 そうするのは名前の「不正使用」です。
しかしさらに根本的に言えば、プロテスタントの信仰は偽物です。彼らの誤りは、「~のみ」という一つの言葉に要約できます。彼らは「信仰のみ」と主張して、善い行いを拒絶します。彼らは「聖書のみ」と主張して、教父や教会の教導権を拒絶します。彼らは「キリストのみ」と主張して、聖人たちを拒絶し、特にキリストの御母マリアを拒絶します。つまり、教会を拒絶するのです。これらすべてにおいて、彼らは大きくだまされているのです。(だましているとは言いません。)彼らの宣伝にだまされないようにするのは重要です。そして、彼らの信仰がいかに大きく間違っているかを理解することも重要です。彼らの改宗のために祈りましょう。彼らがまことにキリストによる救いを見いだす ためには、改宗することが必要だからです。
彼らの「~のみ」はすべて、愛の拒絶なのです。
実際、彼らが「私たちは信仰のみで救われる」と言うのに対し、聖パウロは言います。「キリスト・イエズスにおいては、割礼を受けることもなく受けないこともいずれも価値がなく、愛によって働く信仰だけに価値がある」(ガラツィア5章6節)。愛を通して働く信仰、これこそが「価値がある」もの、すなわち、救いのために意味があり、その益となるものです。このことは、よく理解できます。私たちがキリストを愛するならば、私たちが天主を愛するならば、私たちは主を喜ばせたいと思います。主のために何かをしたいと思います。ところで私たちには、天主がお持ちでないもので差し上げられるものがありません。ですから、どのようにすれば天主になにかを差し上げることができるので しょうか。主はすでに、私たちに答えをくださっています。「あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)。言い換えれば、善い行いによって、私たちは天主を本当にお喜ばせするのです。そうすれば、これらの善きわざに対して、報いとして永遠の至福が与えられます。「父に祝された者よ、来て、世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。なぜなら、あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅にいたときに宿らせ…」(マテオ25章34―35節)。鍵になる言葉は「なぜなら」です。善い行いは、まことに永遠の至福を得る理由なのです。救いは善い行いへの報いなので す。
それと反対に、「行いのない信仰」を持つ人々、聖ヤコブが「死んでいる」(ヤコブ2章20、26節)と呼んだ人々は、左側に行きます。彼らは地獄を宣告されます。なぜならば、善い行いがなかったからです。「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ。なぜならば、あなたたちは私が飢えていたのに食べさせず、渇いていたのに飲ませず、…」(マテオ25章41―42節)。福音書のほかの部分では、主は次のようにはっきりと言われます。「私に向かって『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る。その日、多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によ って悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章21―23節)。彼らは信仰を持っていて、「主よ、主よ」と呼びかけました。彼らは、主の御名によって奇蹟を行うほどの信仰を持っていました。でも、その悪い行いのため、地獄の宣告を受けるのです。
さて、善い行いということを正しく理解しなければなりません。自分の力では、私たちは何もできません。実際、主は言われました。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように、私にとどまる者は多くの実を結ぶ。私がいないと、あなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章5節)。
この美しい文章は、真理が持つ二つの側面を述べています。一つは、私たちの主イエズス・キリストにおいて、その恩寵によって、私たちは多くの実を結ぶことができ、また結ばなければならないことです。しかし、もう一つは、主がいなければ、私たちは救いへ向けた善いことを何もできないことです。主は、私たちの救いの第一の原因であり、私たちは私たちの救いの第二の 原因にしか過ぎません。プロテスタントの人々は、天主であるキリストが私たちの救いの第一の原因である事実を強く主張するあまり、私たちがそれに協力すること、つまり私たちが私たちの救いの第二の原因であるということを無視しています。これは大変な誤りです。実際、天主は至高の善なのです。天主のみが、どこであっても至高なのです。天主のみ、ご自身そのものが善なのです。しかし、天主はまた、被造物の善の原因でもあるのです。被造物をねたむどころか、天主こそが被造物に善をお与えになったお方なのです。天主は被造物に善をお与えになっただけでなく、いくつかの被造物を、他の被造物の善の第二の原因となるようになさいました。同様に、天主は命です。天主のみ、ご自身そのもの が命です(ヨハネ5章26節)。しかし、天主はいくつかの被造物に命をお与えになり、さらに言えば、主は被造物に、他の被造物に命を伝える能力さえお与えになったのです。
このように、天主のみが救いの第一の原因です。しかし、天主は私たちを、私たちの救いのための第二の原因になるようになさいました。私たちは、救いに到達するために善い行いをすることによって、天主の恩寵に、キリストの恩寵に協力しなければなりません。「よい土地にまかれたのは、言葉を聞いて悟り、あるいは百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍もの実を結ぶ人のことである」(マテオ13章23節)。協力を拒絶する人は、究極の実りである救いを獲得しないでしょう。「よい実を結ばぬ木は、切り取られて火に投げ入れられる」(マテオ3章10節)。
聖トマス・アクィナスは、功徳と豊かな霊的実りの根本は愛である、と説明します。霊魂は、成聖の恩寵を信仰と希望と愛と共に持つときに生きています。愛がなければ霊魂は霊的には死んでいるのです。しかし、愛それ自体は「私たちに与えられた聖霊によって、私たちの心に注がれた」(ローマ5章5節)のです。「信仰のみによって」私たちは救われると主張することにより、プロテスタントの人々は愛の必要性を台無しにしているのです。
全部ではありませんが、プロテスタントの人々の中には時に、私たちは善い行いをすべきだが、それによって救われるのではない、と主張する人々がいます。これでは、天主が不正義になってしまいます。実際、天主は、悪い行いを罰するでしょうが、善い行いに報いを与えないのでしょうか。また、このことは、善い行いをするための動機そのものを台無しにしています。彼らがそのような善い行いをするのは、天主を喜ばせるためではなく、「自分たちが義とされるのだということをみずから証明するため」だからです。これは、自己中心の動機であり、もはや愛という動機ではありません。
さて、聖パウロは言います。「人が義とされるのは律法の行いによってではなく、信仰によってであると私たちは思う」(ローマ3章28節)。皆さん今お気づきのように、聖パウロは非常に明確に言っています。「律法の行いによってではなく」、すなわち割礼や旧約にある他の形式的な規則によるのではないと言っているのです。聖パウロは、行いをともなわない信仰を持てと言っているのではありません。
聖パウロの文章には第二の側面があります。聖パウロは、「救い」についてではなく、「義化」について話します。この二つの違いはこうです。義化とは、罪の状態から義の状態、つまり成聖の恩寵の状態へ移ることです。これはキリスト教生活の始まりです。救いとは、本来の意味ではキリスト教生活の目的、終着点です。キリストは言われます。「終わりまで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ10章22節、マテオ24章13節)。救いとは、地上における成聖の恩寵の状態から、天の栄光の状態に移ることです。さて、義化以前には、人は罪びとでした。人にふさわしいのは、恩寵ではなく罰せられることでした。それまで人には、義とされるべき何の功徳もありませんでした。しかし、天へ入る前には、人 は義とされねばならず、かつ善い行いをしなければなりません(少なくとも大人にとっては。洗礼を受けた幼子なら、理性を働かせるようになる前に死んで、このような個人的な功徳がないとしても救われます)。善い行いをするところは、義化と救いの間、つまりこの地上におけるキリスト教生活の始まりと、地上におけるキリスト教生活の終わりの間です。善い行いを実り豊かに行なうことは、キリスト教生活のあるべき姿です。聖パウロは言います。「私たちは天主に創られた者であり、天主があらかじめ備えられた善業を行うために、キリスト・イエズスにおいて創造された」(エフェゾ2章10節)。これがカトリック生活、まことのキリスト教生活です。善い行いの必要性を拒絶することによって、 プロテスタントはキリスト教生活を完全に変質させました。死んだ状態になるのです。もはやまったく生きてはいないのです。
プロテスタントの人々の二番目の言葉である「聖書のみ」は、また命と愛を拒絶することです。実際、聖パウロは書いています。「文字は殺し、霊は生かす」(コリント後書3章6節)。文字のみ、聖書のみを取り上げるなら、それは死んでいるのであり、死をもたらすものです。霊が、聖霊が必要です。そして、この霊が見いだされるのは…教会の中なのです。キリストの御体の中でなければ、キリストの霊によって力づけられることはありません。なぜなら、キリストと聖霊のペルソナの間に対立はないからです。聖パウロは言います。「それゆえ信仰は宣教(聞くこと)により、宣教(聞くこと)はキリストのみ言葉による」(ローマ10章17節)。聖パウロは、信仰は読むことによって来るのであり、聞 くことによってではない、とは言いませんでした。「まだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう」(ローマ10章14節)。天主のみ言葉は、本質的には話された言葉であり、書かれた言葉ではありません。旧約、新約の両方の形で天主のみ言葉の一部が書かれましたが、やはりそれは話された言葉のままでした。何かを書き残したごく少数の使徒たちも、その短い文章を書いた後も、説教をやめませんでした。使徒たちの話したことは、書いたもの以上にずっとたくさんありました。さらに言えば、キリストは使徒たちに、聖書(つまり旧約聖書)の中身を明らかにしました。旧約聖書のこれらすべての説明は、使徒たちがキリストから聞いて、初期のキリスト教徒に確 実に伝えたものですが、それらはどこで見いだされるのでしょうか。新約聖書にはほんのわずかしかありません。(しかし、少しはあります。)私たちが使徒たちの話したことの多くを見いだすのは、教父たちの書物の中です。彼らは、教会の命の証人であり、使徒たちの説教の証人なのです。このように、聖書のみを取り上げることは、死んだ文字を取り上げることであり、教会の命を拒絶し、使徒たちの話したことを正確に聞いた人々を生き生きとさせた命を拒絶することなのです。教会の命である愛を拒絶することなのです。
さらに、これは大きな高慢です。それは、これら偉大なる教会博士や教父たちよりも自分たちが聖書をよく理解しているかのように主張するからです。
最後に、これは、私たちの主イエズス・キリストが教会にお与えになった、聖書を権威をもって解釈する権威に逆らうことです。実際、主は使徒たちとその後継者たちに言われました。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを拒む人は、わたしを拒む人である。そして、私を拒む人は、私を送ったお方を拒むのである」(ルカ10章16節)。
さて、プロテスタントの人々の言う最後の「~のみ」に移ります。彼らは「キリストのみ」と言います。そのため、聖人たちや教会、特にマリア様を拒絶します。しかし、彼らは自分自身を欺いているのです。教会なしでキリストのみとすることは不可能です。私たちの主イエズス・キリストは、キリストの体である教会から頭(かしら)であるキリストを切り離すこと、花嫁である教会から花婿であるキリストを切り離すことをお許しになりません。体から頭を切り離すことは、私たちの主イエズス・キリストの首を切り落とすことと同じです。これがキリストを喜ばせることはありえません。キリストを教会から分離することは、キリストに愛する浄配と離婚するよう要求することです。それは決してあ りません。「人は、天主が合わせられたものを離してはならぬ」(マテオ19章6節)。私たちの主イエズス・キリストは「教会を愛し、そのために命を与えられた。水を注ぐことと、それに伴う言葉によって教会を清め聖とするためであり、また汚点もしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25―27節)。キリストは、ご自身の教会のためにその貴い御血を流されました。そのキリストの犠牲はあまりに大きかったのですから、教会からキリストを分離することをお許しになることなど決してありません。プロテスタントの人々が教会を求めないのならば、彼らはキリストを得ることはないでしょう。
最後の「~のみ」が愛を拒絶することであるのは、どのようにしてなのかを見てみましょう。偉大なる聖心の愛をほとんど分かち合うことのないプロテスタントの人々が、いかにしてキリストを愛すると言うのでしょうか。また、キリストが教会の内の罪びとをも含む全教会を愛されるのならば、キリストは聖人たちを、また特に、愛する御母である童貞聖マリアをいかにより多く愛されることでしょうか。「互いに主イエズス・キリストの心を心とせよ」(フィリッピ2章5節)。確かに、キリストは「なんじの父母を敬え」という戒めに完全に従われました。このように、キリストがマリア様を敬われたのならば、マリア様を敬うことを拒絶しているプロテスタントの人々はキリストの心を持っていません。そ のうえ彼らは、キリストが御母を通して私たちに与えようと望んでおられるすべての賜物、特に、それがなければ天主の国に入ることができない(マテオ18章3節)謙遜の賜物、「幼子」になる賜物を、自分自身から奪っているのです。
この長くなった説教の最後のポイントになりました。ご聖体です。プロテスタントの人々は、ご聖体にキリストがまことに現存すること、「全実体変化」を拒絶しています。しかし、これこそが恐らく、私たちの主イエズス・キリストがご自身の教会のためになされたもっとも偉大なる驚異、主の愛のもっとも偉大なる証明でしょう。主はほかのすべての賜物をご聖体に集中させられました。主が私たちにお与えになることができたもので、主ご自身以上のものがあるでしょうか。主がおつくりになったもので、これ以上の近しい一致があり得るでしょうか。「私の肉を食べ私の血を飲む者は私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章56節)。
プロテスタントの人々は聖書を信じると言いますが、私たちの主イエズス・キリストが「これは私の体である」(マテオ26章26節)と言われたことを信じていません。彼らは、私たちの主イエズス・キリストが「これは、多くの人のために、罪のゆるしを得させるために流す新約の私の血である」(マテオ26章28節)と言われたことを信じていません。彼らは、私たちの主イエズス・キリストが「私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ私の血を飲む者は私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章55―56節)と言われたことを信じていません。
親愛なる兄弟の皆さん、忠実である恩寵を乞い求めましょう。カトリック教会のこの信仰を、救いのために必要な唯一のまことの信仰を、私たちが保つことができますように。そして、プロテスタントの人々の改宗のために祈りましょう。実際、彼らはたくさんいます。しかし、彼らには改宗が必要です。教父たちの信仰を、カトリック教会の信仰を受け入れることが必要です。彼らを改宗に導かないエキュメニズムであるならば、偽りのエキュメニズムなのです。
私たちが救いを見いだすことができ、私たちがキリストの賜物、特にすべてに超えて偉大な、いとも聖なるご聖体の豊かさを見いだす唯一の場所、キリストの神秘体である教会への大きな愛を、童貞聖マリアが私たちにお与えくださいますように。その結果、私たちの主イエズス・キリストにふさわしい生活、善い行いに満ちた生活を送り、永遠の報いを得ることができますように。
アーメン
《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》
幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」
シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」
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公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解
ローマ公教要理 【使徒信経の部】
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年3月15日、レネー神父様の大阪でのお説教(四旬節第四主日)をご紹介します。
レネー神父様は、このお説教で、キリストの真の教会がカトリック教会であること、プロテスタントの主張の誤りであること、を丁寧に説明して下さっています。どうぞ深く味わって下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年3月15日、レネー神父様の大阪でのお説教(四旬節第四主日)
親愛なる兄弟の皆さん、
きょうの典礼は、聖にして母なる教会の神秘、新しいエルザレムを黙想させてくれます。入祭文は、天のエルザレムの喜びを歌います。そこでは、天主が聖人たちを言い表せないほどの素晴らしい方法で慰めてくださいます。しかし、ここ地上においても、すでに私たちは「希望の喜びを持」(ローマ12章12節)っています、詩篇作者が「『主の家へ上ろう』と言われたので、私は喜んだ」(詩篇121章1節)と言うように。天主の家へ向かう正しい道にいるというまさにその事実が、非常に大きな喜びなのです。この詩篇にあるこれらの言葉は、フランス王聖ルイが死の瞬間に言った最後の言葉でした。
この書簡の中で聖パウロは、シナゴーグ(衆議所)と教会、旧約と新約を、アブラハムの妻たちのハガルとサラに例えています。聖パウロは言います。「上にあるエルザレムは自由であって、私たちの母であ」(ガラツィア4章26節)り、私たちの聖にして母なる教会です。私たちは、主イエズス・キリストの恩寵によって、(サラの子である)「約束の子」であるのです。
美しい昇階誦は入祭文の節を繰り返し、同じ詩篇の中の別の節で終わります。「『主の家へ上ろう』と言われたので、私は喜んだ。…平安は御身の要塞の中にあり、そこは安全である」(詩篇121章1、7節)。天の平和は、永遠の喜び、至福直観であふれており、言い表すことができないほど素晴らしいものです。聖体拝領の交唱は、同じ詩篇のもう一つの節を引用します。「エルザレムは町のように立ち、しっかり固まっている。そこにはもろもろの民が、主の民が上る。そこで主のみ名をたたえる」(詩篇121章3―4節)。教会は、天主の国であり、そこで、天主は地上のすべての種族によって、あふれんばかりの喜びをもって、まことに讃美されます。旧約におけるエルザレムは、単にその象徴、前 表でしかありません。
また、福音において主はパンを増やされましたが、これはご聖体の象徴を示されたのです。聖ヨハネ福音書の中には、私たちの主イエズス・キリストがパンを増やしたあと、教会の最も偉大な宝であるご聖体を告知する長い説教をされます。
キリストがお建てになった教会は、聖なるカトリック教会です。実際、カトリック教会は、キリストと歴史的な結びつきがあり、絶えることのない使徒継承を持つ唯一つの教会です。この歴史的結びつきがないいかなる教会も「キリスト教(の教会)」と名乗る資格はありません。もしそのような教会が「キリスト教(の教会)」であるならば、私たちの主が嘘つきになってしまいます。なぜなら、主は「見よ、私は世の終わりまで常におまえたちと共にいる」(マテオ28章20節)と言われたからです。主は、ルター以前にはどこにおられたのでしょうか。また、ほかの多くのプロテスタント教会は、さらに最近になってできました。それらの教会は設立が遅すぎるため、「キリスト教(の教会)」と名乗ることはできません。 そうするのは名前の「不正使用」です。
しかしさらに根本的に言えば、プロテスタントの信仰は偽物です。彼らの誤りは、「~のみ」という一つの言葉に要約できます。彼らは「信仰のみ」と主張して、善い行いを拒絶します。彼らは「聖書のみ」と主張して、教父や教会の教導権を拒絶します。彼らは「キリストのみ」と主張して、聖人たちを拒絶し、特にキリストの御母マリアを拒絶します。つまり、教会を拒絶するのです。これらすべてにおいて、彼らは大きくだまされているのです。(だましているとは言いません。)彼らの宣伝にだまされないようにするのは重要です。そして、彼らの信仰がいかに大きく間違っているかを理解することも重要です。彼らの改宗のために祈りましょう。彼らがまことにキリストによる救いを見いだす ためには、改宗することが必要だからです。
彼らの「~のみ」はすべて、愛の拒絶なのです。
実際、彼らが「私たちは信仰のみで救われる」と言うのに対し、聖パウロは言います。「キリスト・イエズスにおいては、割礼を受けることもなく受けないこともいずれも価値がなく、愛によって働く信仰だけに価値がある」(ガラツィア5章6節)。愛を通して働く信仰、これこそが「価値がある」もの、すなわち、救いのために意味があり、その益となるものです。このことは、よく理解できます。私たちがキリストを愛するならば、私たちが天主を愛するならば、私たちは主を喜ばせたいと思います。主のために何かをしたいと思います。ところで私たちには、天主がお持ちでないもので差し上げられるものがありません。ですから、どのようにすれば天主になにかを差し上げることができるので しょうか。主はすでに、私たちに答えをくださっています。「あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)。言い換えれば、善い行いによって、私たちは天主を本当にお喜ばせするのです。そうすれば、これらの善きわざに対して、報いとして永遠の至福が与えられます。「父に祝された者よ、来て、世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。なぜなら、あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅にいたときに宿らせ…」(マテオ25章34―35節)。鍵になる言葉は「なぜなら」です。善い行いは、まことに永遠の至福を得る理由なのです。救いは善い行いへの報いなので す。
それと反対に、「行いのない信仰」を持つ人々、聖ヤコブが「死んでいる」(ヤコブ2章20、26節)と呼んだ人々は、左側に行きます。彼らは地獄を宣告されます。なぜならば、善い行いがなかったからです。「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ。なぜならば、あなたたちは私が飢えていたのに食べさせず、渇いていたのに飲ませず、…」(マテオ25章41―42節)。福音書のほかの部分では、主は次のようにはっきりと言われます。「私に向かって『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る。その日、多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によ って悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章21―23節)。彼らは信仰を持っていて、「主よ、主よ」と呼びかけました。彼らは、主の御名によって奇蹟を行うほどの信仰を持っていました。でも、その悪い行いのため、地獄の宣告を受けるのです。
さて、善い行いということを正しく理解しなければなりません。自分の力では、私たちは何もできません。実際、主は言われました。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように、私にとどまる者は多くの実を結ぶ。私がいないと、あなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章5節)。
この美しい文章は、真理が持つ二つの側面を述べています。一つは、私たちの主イエズス・キリストにおいて、その恩寵によって、私たちは多くの実を結ぶことができ、また結ばなければならないことです。しかし、もう一つは、主がいなければ、私たちは救いへ向けた善いことを何もできないことです。主は、私たちの救いの第一の原因であり、私たちは私たちの救いの第二の 原因にしか過ぎません。プロテスタントの人々は、天主であるキリストが私たちの救いの第一の原因である事実を強く主張するあまり、私たちがそれに協力すること、つまり私たちが私たちの救いの第二の原因であるということを無視しています。これは大変な誤りです。実際、天主は至高の善なのです。天主のみが、どこであっても至高なのです。天主のみ、ご自身そのものが善なのです。しかし、天主はまた、被造物の善の原因でもあるのです。被造物をねたむどころか、天主こそが被造物に善をお与えになったお方なのです。天主は被造物に善をお与えになっただけでなく、いくつかの被造物を、他の被造物の善の第二の原因となるようになさいました。同様に、天主は命です。天主のみ、ご自身そのもの が命です(ヨハネ5章26節)。しかし、天主はいくつかの被造物に命をお与えになり、さらに言えば、主は被造物に、他の被造物に命を伝える能力さえお与えになったのです。
このように、天主のみが救いの第一の原因です。しかし、天主は私たちを、私たちの救いのための第二の原因になるようになさいました。私たちは、救いに到達するために善い行いをすることによって、天主の恩寵に、キリストの恩寵に協力しなければなりません。「よい土地にまかれたのは、言葉を聞いて悟り、あるいは百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍もの実を結ぶ人のことである」(マテオ13章23節)。協力を拒絶する人は、究極の実りである救いを獲得しないでしょう。「よい実を結ばぬ木は、切り取られて火に投げ入れられる」(マテオ3章10節)。
聖トマス・アクィナスは、功徳と豊かな霊的実りの根本は愛である、と説明します。霊魂は、成聖の恩寵を信仰と希望と愛と共に持つときに生きています。愛がなければ霊魂は霊的には死んでいるのです。しかし、愛それ自体は「私たちに与えられた聖霊によって、私たちの心に注がれた」(ローマ5章5節)のです。「信仰のみによって」私たちは救われると主張することにより、プロテスタントの人々は愛の必要性を台無しにしているのです。
全部ではありませんが、プロテスタントの人々の中には時に、私たちは善い行いをすべきだが、それによって救われるのではない、と主張する人々がいます。これでは、天主が不正義になってしまいます。実際、天主は、悪い行いを罰するでしょうが、善い行いに報いを与えないのでしょうか。また、このことは、善い行いをするための動機そのものを台無しにしています。彼らがそのような善い行いをするのは、天主を喜ばせるためではなく、「自分たちが義とされるのだということをみずから証明するため」だからです。これは、自己中心の動機であり、もはや愛という動機ではありません。
さて、聖パウロは言います。「人が義とされるのは律法の行いによってではなく、信仰によってであると私たちは思う」(ローマ3章28節)。皆さん今お気づきのように、聖パウロは非常に明確に言っています。「律法の行いによってではなく」、すなわち割礼や旧約にある他の形式的な規則によるのではないと言っているのです。聖パウロは、行いをともなわない信仰を持てと言っているのではありません。
聖パウロの文章には第二の側面があります。聖パウロは、「救い」についてではなく、「義化」について話します。この二つの違いはこうです。義化とは、罪の状態から義の状態、つまり成聖の恩寵の状態へ移ることです。これはキリスト教生活の始まりです。救いとは、本来の意味ではキリスト教生活の目的、終着点です。キリストは言われます。「終わりまで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ10章22節、マテオ24章13節)。救いとは、地上における成聖の恩寵の状態から、天の栄光の状態に移ることです。さて、義化以前には、人は罪びとでした。人にふさわしいのは、恩寵ではなく罰せられることでした。それまで人には、義とされるべき何の功徳もありませんでした。しかし、天へ入る前には、人 は義とされねばならず、かつ善い行いをしなければなりません(少なくとも大人にとっては。洗礼を受けた幼子なら、理性を働かせるようになる前に死んで、このような個人的な功徳がないとしても救われます)。善い行いをするところは、義化と救いの間、つまりこの地上におけるキリスト教生活の始まりと、地上におけるキリスト教生活の終わりの間です。善い行いを実り豊かに行なうことは、キリスト教生活のあるべき姿です。聖パウロは言います。「私たちは天主に創られた者であり、天主があらかじめ備えられた善業を行うために、キリスト・イエズスにおいて創造された」(エフェゾ2章10節)。これがカトリック生活、まことのキリスト教生活です。善い行いの必要性を拒絶することによって、 プロテスタントはキリスト教生活を完全に変質させました。死んだ状態になるのです。もはやまったく生きてはいないのです。
プロテスタントの人々の二番目の言葉である「聖書のみ」は、また命と愛を拒絶することです。実際、聖パウロは書いています。「文字は殺し、霊は生かす」(コリント後書3章6節)。文字のみ、聖書のみを取り上げるなら、それは死んでいるのであり、死をもたらすものです。霊が、聖霊が必要です。そして、この霊が見いだされるのは…教会の中なのです。キリストの御体の中でなければ、キリストの霊によって力づけられることはありません。なぜなら、キリストと聖霊のペルソナの間に対立はないからです。聖パウロは言います。「それゆえ信仰は宣教(聞くこと)により、宣教(聞くこと)はキリストのみ言葉による」(ローマ10章17節)。聖パウロは、信仰は読むことによって来るのであり、聞 くことによってではない、とは言いませんでした。「まだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう」(ローマ10章14節)。天主のみ言葉は、本質的には話された言葉であり、書かれた言葉ではありません。旧約、新約の両方の形で天主のみ言葉の一部が書かれましたが、やはりそれは話された言葉のままでした。何かを書き残したごく少数の使徒たちも、その短い文章を書いた後も、説教をやめませんでした。使徒たちの話したことは、書いたもの以上にずっとたくさんありました。さらに言えば、キリストは使徒たちに、聖書(つまり旧約聖書)の中身を明らかにしました。旧約聖書のこれらすべての説明は、使徒たちがキリストから聞いて、初期のキリスト教徒に確 実に伝えたものですが、それらはどこで見いだされるのでしょうか。新約聖書にはほんのわずかしかありません。(しかし、少しはあります。)私たちが使徒たちの話したことの多くを見いだすのは、教父たちの書物の中です。彼らは、教会の命の証人であり、使徒たちの説教の証人なのです。このように、聖書のみを取り上げることは、死んだ文字を取り上げることであり、教会の命を拒絶し、使徒たちの話したことを正確に聞いた人々を生き生きとさせた命を拒絶することなのです。教会の命である愛を拒絶することなのです。
さらに、これは大きな高慢です。それは、これら偉大なる教会博士や教父たちよりも自分たちが聖書をよく理解しているかのように主張するからです。
最後に、これは、私たちの主イエズス・キリストが教会にお与えになった、聖書を権威をもって解釈する権威に逆らうことです。実際、主は使徒たちとその後継者たちに言われました。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを拒む人は、わたしを拒む人である。そして、私を拒む人は、私を送ったお方を拒むのである」(ルカ10章16節)。
さて、プロテスタントの人々の言う最後の「~のみ」に移ります。彼らは「キリストのみ」と言います。そのため、聖人たちや教会、特にマリア様を拒絶します。しかし、彼らは自分自身を欺いているのです。教会なしでキリストのみとすることは不可能です。私たちの主イエズス・キリストは、キリストの体である教会から頭(かしら)であるキリストを切り離すこと、花嫁である教会から花婿であるキリストを切り離すことをお許しになりません。体から頭を切り離すことは、私たちの主イエズス・キリストの首を切り落とすことと同じです。これがキリストを喜ばせることはありえません。キリストを教会から分離することは、キリストに愛する浄配と離婚するよう要求することです。それは決してあ りません。「人は、天主が合わせられたものを離してはならぬ」(マテオ19章6節)。私たちの主イエズス・キリストは「教会を愛し、そのために命を与えられた。水を注ぐことと、それに伴う言葉によって教会を清め聖とするためであり、また汚点もしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25―27節)。キリストは、ご自身の教会のためにその貴い御血を流されました。そのキリストの犠牲はあまりに大きかったのですから、教会からキリストを分離することをお許しになることなど決してありません。プロテスタントの人々が教会を求めないのならば、彼らはキリストを得ることはないでしょう。
最後の「~のみ」が愛を拒絶することであるのは、どのようにしてなのかを見てみましょう。偉大なる聖心の愛をほとんど分かち合うことのないプロテスタントの人々が、いかにしてキリストを愛すると言うのでしょうか。また、キリストが教会の内の罪びとをも含む全教会を愛されるのならば、キリストは聖人たちを、また特に、愛する御母である童貞聖マリアをいかにより多く愛されることでしょうか。「互いに主イエズス・キリストの心を心とせよ」(フィリッピ2章5節)。確かに、キリストは「なんじの父母を敬え」という戒めに完全に従われました。このように、キリストがマリア様を敬われたのならば、マリア様を敬うことを拒絶しているプロテスタントの人々はキリストの心を持っていません。そ のうえ彼らは、キリストが御母を通して私たちに与えようと望んでおられるすべての賜物、特に、それがなければ天主の国に入ることができない(マテオ18章3節)謙遜の賜物、「幼子」になる賜物を、自分自身から奪っているのです。
この長くなった説教の最後のポイントになりました。ご聖体です。プロテスタントの人々は、ご聖体にキリストがまことに現存すること、「全実体変化」を拒絶しています。しかし、これこそが恐らく、私たちの主イエズス・キリストがご自身の教会のためになされたもっとも偉大なる驚異、主の愛のもっとも偉大なる証明でしょう。主はほかのすべての賜物をご聖体に集中させられました。主が私たちにお与えになることができたもので、主ご自身以上のものがあるでしょうか。主がおつくりになったもので、これ以上の近しい一致があり得るでしょうか。「私の肉を食べ私の血を飲む者は私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章56節)。
プロテスタントの人々は聖書を信じると言いますが、私たちの主イエズス・キリストが「これは私の体である」(マテオ26章26節)と言われたことを信じていません。彼らは、私たちの主イエズス・キリストが「これは、多くの人のために、罪のゆるしを得させるために流す新約の私の血である」(マテオ26章28節)と言われたことを信じていません。彼らは、私たちの主イエズス・キリストが「私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ私の血を飲む者は私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章55―56節)と言われたことを信じていません。
親愛なる兄弟の皆さん、忠実である恩寵を乞い求めましょう。カトリック教会のこの信仰を、救いのために必要な唯一のまことの信仰を、私たちが保つことができますように。そして、プロテスタントの人々の改宗のために祈りましょう。実際、彼らはたくさんいます。しかし、彼らには改宗が必要です。教父たちの信仰を、カトリック教会の信仰を受け入れることが必要です。彼らを改宗に導かないエキュメニズムであるならば、偽りのエキュメニズムなのです。
私たちが救いを見いだすことができ、私たちがキリストの賜物、特にすべてに超えて偉大な、いとも聖なるご聖体の豊かさを見いだす唯一の場所、キリストの神秘体である教会への大きな愛を、童貞聖マリアが私たちにお与えくださいますように。その結果、私たちの主イエズス・キリストにふさわしい生活、善い行いに満ちた生活を送り、永遠の報いを得ることができますように。
アーメン
《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》
幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」
シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」
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