アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
昨日3月27日の金曜日は、共同受難の聖母マリアの記念でした。レネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げて下さり、素晴らしいお説教をして下さいました。
神父様ははっきりと私たちに教えてくださいます。私たちの主イエズス・キリストの御受難を黙想するための最も良い方法の一つは、聖母と共にいることだ、と。何故なら、童貞聖マリア以上に深く、私たちの主イエズス・キリストと共にいる人は誰もいないからです。聖母マリアさまのように、主の御受難に完全に参加した人は誰もいないからです。
いばらの冠をかぶせられたイエズスをご覧になって、聖母はどう感じられたのでしょうか。
「十字架につけよ、十字架につけよ」という恐ろしい叫びを聞いて、聖母はどう感じられたでしょうか。
臆病なピラトが手を洗い、主に重い十字架を担わせたのを見て、聖母はどう感じられたでしょうか。
群衆の後ろからイエズスに十字架が近づくのをご覧になり、聖母はどう感じられたでしょうか。
衣服を脱がされていたイエズスを見て、むち打ちの広がった跡を見て、イエズスの御体がくぎでつるされているのを見て、聖母はどう感じられたでしょうか。
12歳のイエズスが聖母マリアに言われた言葉、「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」(ルカ2章49節)、聖母は、この言葉をよく覚えておられました。長い間、この言葉を黙想し、理解しておられました。
「われをして御悲しみのほどを感ぜしめ給え!」(スタバト・マーテル)
共同受難の聖母についてのレネー神父様の素晴らしいお説教をお読みください!涙無しには、読むことが出来ません。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
大阪の説教―共同受難の聖母
親愛なる兄弟の皆さん、
聖週間に祈るための、私たちの主イエズス・キリストの御受難を黙想するための最も良い方法の一つは、聖母と共にいることです。童貞聖マリア以上に深く、私たちの主イエズス・キリストと共にいる人は誰もいません。私たちの主の御受難に聖母ほど完全に参加した人はほかに誰もいません。ですから教会は、枝の主日の前の金曜日、聖金曜日の一週間前に、共同受難の聖母の祝日を祝うのです。
御受難の際の出来事を思い出しましょう。聖母は、最後の晩餐のあった高間の家におられませんでした。福音書(マテオ26章20節、マルコ14章17節、ルカ22章14節)によると、主と共に食卓についたのは十二人の弟子だけでした。そして、ユダは食事の終わる前に家を出ました。その後、イエズスは十一人の弟子と共にオリーブの園に行かれました。そこで、主は逮捕されました。福音書は言います。「そのとき弟子たちはみな、イエズスを捨てて逃げ去った」(マテオ26章56節)。弟子たちはどこへ行ったのでしょうか。聖ペトロは遠くからイエズスに付いていこうとしました。聖ヨハネも多分同様にしました。それは、自分が「大司祭の知り合いだった」からであり、大司祭の中庭に入って聖ペトロをそこに入れるためでした(ヨハネ18章15―16節)。フルトン・シーン司教は、おそらく「ゼベダイ漁業会社」は大司祭の料理人たちによく知られた魚売りだったのではと言っています。その後、私たちが聖ヨハネを見ることができるのは、聖母と共に十字架の下にいるところなのです。
ですからこう考えられます。大司祭たちによるイエズスの死刑宣告の後、聖ヨハネは聖母に何が起こっているか知らせに行ったのです。逃げるのではなく、聖母は、聖ヨハネと聖母と確かに一緒にいたであろう聖なる婦人たちにこう言われたに違いありません。「行ってイエズスと共にいましょう」。そして、聖なる童貞、聖ヨハネ、聖なる婦人たちは全員で一緒にピラトの法廷に行きました。聖ヨハネは、この裁判を詳しく思い出しています。聖ヨハネは目撃証人でした。聖母がついに私たちの主イエズス・キリストをご覧になったのは、ピラトが「見よ、この人を」と言って群衆にイエズスを見せたときでした。いばらの冠をかぶせられたイエズスをご覧になって、聖母はどう感じられたのでしょうか。聖母はお気づきになったはずです。主が頬を打たれ、兵士につばをかけられたことを。それは、主が経験なさった試練を示していました。聖母は、ファリザイ人の高まった憎しみをご覧になれたでしょう。聖母はどう感じられたでしょうか、次の恐ろしい叫びが起きたときに。「十字架につけよ、十字架につけよ」。これらの叫びは聖母の御心を貫くつるぎのようでした。
それから聖母は、臆病なピラトを目撃しました。つまり手を洗い、主に重い十字架を担わせたのです。聖母はご自分たちの仲間に、行って途中でイエズスに会うよう指示なさいました。いまでもエルザレムには、カルワリオへの道に「聖母の失神」と呼ばれるところがあります。聖母は群衆の後ろからイエズスに十字架が近づくのをご覧になりました。ついに聖母は、近づいてくるイエズスをご覧になるのですが、しかし突然十字架が見えなくなりました。イエズスがお倒れになったのです。そのとき、聖母はイエズスを近くからご覧になりました。そして悲しみで胸が張り裂けそうでした。しかし、逃げるのではなく、聖母は仲間たちに、ひき続きイエズスに最後まで付いていくよう勧め、聖ヨハネが思い出しているように、十字架の下に最初に到着なさいました。
十字架の近くに着いたとき彼らが見たのは、衣服を脱がされていたイエズスでした。むち打ちの広がった跡が見られ、全身が革のむちで傷つけられ、ただ大きな痛みがあるだけでした。イザヤが「足の裏から頭まで、健やかなところはない。手当もせず、巻きもせず、油を塗りもしない、生傷と、打ち身と、ただれ」(イザヤ1章6節)と預言したように。彼らはくぎを見て、イエズスの御体がどのようにそのくぎでつるされているのか、そして一回ずつ息をしようとするたびにいかに痛みを感じておられるかを見たのでした。
主が聖母を苦しませられたのは、これが最初ではありませんでした。それはもっと前、私たちの主イエズス・キリストが十二歳のとき、御母と聖ヨゼフから行方知れずになられたときでした。主がおられなくなったため、お二人は三日間、深い悲しみの中で主をお捜しになりました。神殿で主を発見されたとき、聖なる童貞は御子に言われました。「私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ご覧、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ」(ルカ2章48節)。さて、息子が犯罪者として死刑を宣告されているなら、母親は家族にとって恥だと感じて、「なぜこんなことをしたのですか」と言うのではないでしょうか。しかし、聖母は二回目のその質問はなさいませんでした。聖母は主が完全に無罪だとご存じだったのです。主が同じ答えをなさるであろうことをご存じだったのです。「私は父のことに従事すべきです」(ルカ2章49節)と。
十字架の上で主は、聖金曜日の聖歌にあるように「御受難をすすんでお受けになります」。つまり、すすんで御父のことに従事なさいます。御父のご意志は、主が十字架上のいけにえによって世を救うことです。実際、聖イグナチオが言うように、キリストは御苦しみを望まれます、私たちを救われたいからです。これは主が御父からお受けになった命令、主が私たちのためにご自分の命をお与えになるようにとの命令です。「その命は私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権利があり、また取り戻す権利もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章18節)。主はこの御父の命令に「死ぬまで、十字架上に死ぬまで」(フィリッピ2章8節)従われました。
聖アウグスチノは美しく言っています。キリストが気にかけておられたのは、ご自分が彼らによって、ファリザイ人によって、ローマ人によって、私たちによって苦しむという事実よりもむしろ、彼らのために、ローマ人や私たちすべての改心のために、さらにはファリザイ人の改心のためにさえ苦しむという事実だったのです。これが、主が天から下って来られた目的でした。「人の子は魂を滅ぼすためではなく救うために来たのだ」(ルカ9章56節)。これが「この時」(ヨハネ12章27節)、すなわち人類と全世界の歴史全体の頂点でした。礼拝、感謝、償い、祈願を行う至高のいけにえを捧げる瞬間、霊魂の贖い、悪に対する善の最大の勝利、天主の御子が私たちの罪よる悪をそのままになさらず、ご自分を罪の代償とし、主が霊魂にお許しになるすべての恩寵に値するその瞬間でした。
これこそが(従事すべき)御父のことでした。「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」(ルカ2章49節)。聖母は、そのことをお忘れではありませんでした。聖母は長い間、このお答えを黙想しておられ、今や、聖母は理解しておられたのです。イエズスはここ十字架の上で、御父のご意志を完全に実現し、御父のことに完全な方法で従事してそれを成し遂げ、世を贖われたということを。聖母はこの贖いの神秘を確実に理解しておられました。聖母は、ご自分にとっても大きなこの苦しみに完全に同意し、それを受け入れられました。天主が(イサクを殺そうと、つるぎを持った)アブラハムの腕を最後の瞬間に止めたときのアブラハム以上のことを聖母はなさいました。しかし、カルワリオの丘には、このいけにえの行いを止める天使はいなかったのでした。なぜなら、ここには完全な天主の小羊、世の罪を除き給う小羊がいたからです。この小羊は、私たちの救いのために、いけにえとして捧げられなければならなかったからです。
親愛なる兄弟の皆さん、童貞聖マリアにお願いしましょう。偉大なる救いの神秘、私たちの贖いの神秘を理解するためにお助けくださいますように、またそれを理解するだけでなく、聖母がなさったように深くその神秘に入っていくようお助けくださいますように。私たちがこの神秘に入っていくのは、自分に対して死んだとき、「天主に対して生きるため罪に対して死ぬ」(ローマ6章11節)とき、私たちがイエズスと共によみがえるためにイエズスと共にいけにえになるときです。私たちは「キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章17節)。スタバト・マーテルで歌うように、「われをして御悲しみのほどを感ぜしめ給え」と聖母にお願いしましょう。
親愛なる兄弟の皆さん、人類の歴史におけるこの最も重要な瞬間のことを忘れてはなりません。天主の御子が私たちの救いのために十字架上で亡くなられたのです。そして三日目に復活なさいました。主はどれほど私たちのことを思ってくださっていることでしょうか。私たちのことがどれほど主の聖心にとめられていることでしょうか。「あなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント前書6章20節)。「あなたたちが祖先から受け継いだむなしい生活から贖われたのは、金銀などの朽ちる物によるのではなく、傷もしみもない小羊のようなキリストの尊い御血によるのである」(ペトロ前書1章18―19節)。
主の十字架を目の前に、心の目の前に置いておくなら、私たちは罪を犯さないでしょう。そのような善なる天主を、私たちの罪を償うほど私たちを愛してくださった天主を、あえて攻撃することなど、どうしてできるでしょうか。主の御苦しみにあえて付け加えることなど、どうしてできるでしょうか。そんな大きな恩寵を無視することが惨めさの原因です。エレミアは言います。「全地は荒らされているのに、誰もそれを心にとめない」(エレミア12章11節)。
十字架が重要であることは、ミサが重要であることの深い理由です。私たちの主イエズス・キリストの十字架上での聖なるいけにえは、人類の歴史全体の、天地創造全体の頂点そのものです。このいけにえは、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血の完全ないけにえ、十字架上のいけにえ、すべてのミサで捧げられるいけにえを通して、天主に、聖三位一体に戻るのです。そのため、一つ一つのミサがどれほど重要かが分かるのです。荘厳ミサの美しい儀式がない読誦ミサであっても、まことに本質的に十字架上のいけにえと同じなのです。ミサは聖三位一体に無限の栄光を捧げ、私たちの霊魂に十字架上のいけにえの全功徳を与えるのです。ミサは、私たちを十字架上のイエズスと一致させますが、それは次の世で私たちを栄光のイエズスと一致させるためです。
ですから、ミサのいけにえとしての性質が隠され、無視され、時には否定さえされるとき、教会に対して害が与えられたことがはっきりと分かります。典礼における変更はすべて、いけにえを明白に示す点を減少させました。ミサを食事に、共同体の食事のようにしてしまい、償い、贖い、礼拝、感謝の最も聖なるいけにえでなくしてしまうのです。そうすると、霊魂はもう豊かな恩寵を受けることができなくなります。恩寵の源が隠されてしまったからです。悪魔は知っています。ミサを攻撃するとき、攻撃すべきものが何であるかを。悪魔は知っています。自分が十字架によって敗北したのを。悪魔は十字架のいけにえに我慢できません。悪魔は大きな「イエズスの十字架の敵」(フィリッピ3章18節)です。ミサの変更の中に、悪魔のしるしがあるのです。
十字架の聖なるいけにえ、ミサの聖なるいけにえ、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血のいけにえに対する深い理解と信心が私たちに与えられるよう、童貞聖マリアに、共同受難の聖母に祈りましょう。私たちが本当に、聖ルイ・マリー・グリニョン・モンフォールの言う「十字架の友」、イエズスのまことの友になるように、十字架につけられたイエズスへの大きな愛、より大きな愛を常に聖母に乞い求めましょう。
アーメン。
《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》
シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」
「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」
ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。
「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」
「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」
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いばらの冠をかぶせられたイエズスをご覧になって、聖母はどう感じられたのでしょうか。
「十字架につけよ、十字架につけよ」という恐ろしい叫びを聞いて、聖母はどう感じられたでしょうか。
臆病なピラトが手を洗い、主に重い十字架を担わせたのを見て、聖母はどう感じられたでしょうか。
群衆の後ろからイエズスに十字架が近づくのをご覧になり、聖母はどう感じられたでしょうか。
衣服を脱がされていたイエズスを見て、むち打ちの広がった跡を見て、イエズスの御体がくぎでつるされているのを見て、聖母はどう感じられたでしょうか。
12歳のイエズスが聖母マリアに言われた言葉、「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」(ルカ2章49節)、聖母は、この言葉をよく覚えておられました。長い間、この言葉を黙想し、理解しておられました。
「われをして御悲しみのほどを感ぜしめ給え!」(スタバト・マーテル)
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大阪の説教―共同受難の聖母
親愛なる兄弟の皆さん、
聖週間に祈るための、私たちの主イエズス・キリストの御受難を黙想するための最も良い方法の一つは、聖母と共にいることです。童貞聖マリア以上に深く、私たちの主イエズス・キリストと共にいる人は誰もいません。私たちの主の御受難に聖母ほど完全に参加した人はほかに誰もいません。ですから教会は、枝の主日の前の金曜日、聖金曜日の一週間前に、共同受難の聖母の祝日を祝うのです。
御受難の際の出来事を思い出しましょう。聖母は、最後の晩餐のあった高間の家におられませんでした。福音書(マテオ26章20節、マルコ14章17節、ルカ22章14節)によると、主と共に食卓についたのは十二人の弟子だけでした。そして、ユダは食事の終わる前に家を出ました。その後、イエズスは十一人の弟子と共にオリーブの園に行かれました。そこで、主は逮捕されました。福音書は言います。「そのとき弟子たちはみな、イエズスを捨てて逃げ去った」(マテオ26章56節)。弟子たちはどこへ行ったのでしょうか。聖ペトロは遠くからイエズスに付いていこうとしました。聖ヨハネも多分同様にしました。それは、自分が「大司祭の知り合いだった」からであり、大司祭の中庭に入って聖ペトロをそこに入れるためでした(ヨハネ18章15―16節)。フルトン・シーン司教は、おそらく「ゼベダイ漁業会社」は大司祭の料理人たちによく知られた魚売りだったのではと言っています。その後、私たちが聖ヨハネを見ることができるのは、聖母と共に十字架の下にいるところなのです。
ですからこう考えられます。大司祭たちによるイエズスの死刑宣告の後、聖ヨハネは聖母に何が起こっているか知らせに行ったのです。逃げるのではなく、聖母は、聖ヨハネと聖母と確かに一緒にいたであろう聖なる婦人たちにこう言われたに違いありません。「行ってイエズスと共にいましょう」。そして、聖なる童貞、聖ヨハネ、聖なる婦人たちは全員で一緒にピラトの法廷に行きました。聖ヨハネは、この裁判を詳しく思い出しています。聖ヨハネは目撃証人でした。聖母がついに私たちの主イエズス・キリストをご覧になったのは、ピラトが「見よ、この人を」と言って群衆にイエズスを見せたときでした。いばらの冠をかぶせられたイエズスをご覧になって、聖母はどう感じられたのでしょうか。聖母はお気づきになったはずです。主が頬を打たれ、兵士につばをかけられたことを。それは、主が経験なさった試練を示していました。聖母は、ファリザイ人の高まった憎しみをご覧になれたでしょう。聖母はどう感じられたでしょうか、次の恐ろしい叫びが起きたときに。「十字架につけよ、十字架につけよ」。これらの叫びは聖母の御心を貫くつるぎのようでした。
それから聖母は、臆病なピラトを目撃しました。つまり手を洗い、主に重い十字架を担わせたのです。聖母はご自分たちの仲間に、行って途中でイエズスに会うよう指示なさいました。いまでもエルザレムには、カルワリオへの道に「聖母の失神」と呼ばれるところがあります。聖母は群衆の後ろからイエズスに十字架が近づくのをご覧になりました。ついに聖母は、近づいてくるイエズスをご覧になるのですが、しかし突然十字架が見えなくなりました。イエズスがお倒れになったのです。そのとき、聖母はイエズスを近くからご覧になりました。そして悲しみで胸が張り裂けそうでした。しかし、逃げるのではなく、聖母は仲間たちに、ひき続きイエズスに最後まで付いていくよう勧め、聖ヨハネが思い出しているように、十字架の下に最初に到着なさいました。
十字架の近くに着いたとき彼らが見たのは、衣服を脱がされていたイエズスでした。むち打ちの広がった跡が見られ、全身が革のむちで傷つけられ、ただ大きな痛みがあるだけでした。イザヤが「足の裏から頭まで、健やかなところはない。手当もせず、巻きもせず、油を塗りもしない、生傷と、打ち身と、ただれ」(イザヤ1章6節)と預言したように。彼らはくぎを見て、イエズスの御体がどのようにそのくぎでつるされているのか、そして一回ずつ息をしようとするたびにいかに痛みを感じておられるかを見たのでした。
主が聖母を苦しませられたのは、これが最初ではありませんでした。それはもっと前、私たちの主イエズス・キリストが十二歳のとき、御母と聖ヨゼフから行方知れずになられたときでした。主がおられなくなったため、お二人は三日間、深い悲しみの中で主をお捜しになりました。神殿で主を発見されたとき、聖なる童貞は御子に言われました。「私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ご覧、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ」(ルカ2章48節)。さて、息子が犯罪者として死刑を宣告されているなら、母親は家族にとって恥だと感じて、「なぜこんなことをしたのですか」と言うのではないでしょうか。しかし、聖母は二回目のその質問はなさいませんでした。聖母は主が完全に無罪だとご存じだったのです。主が同じ答えをなさるであろうことをご存じだったのです。「私は父のことに従事すべきです」(ルカ2章49節)と。
十字架の上で主は、聖金曜日の聖歌にあるように「御受難をすすんでお受けになります」。つまり、すすんで御父のことに従事なさいます。御父のご意志は、主が十字架上のいけにえによって世を救うことです。実際、聖イグナチオが言うように、キリストは御苦しみを望まれます、私たちを救われたいからです。これは主が御父からお受けになった命令、主が私たちのためにご自分の命をお与えになるようにとの命令です。「その命は私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権利があり、また取り戻す権利もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章18節)。主はこの御父の命令に「死ぬまで、十字架上に死ぬまで」(フィリッピ2章8節)従われました。
聖アウグスチノは美しく言っています。キリストが気にかけておられたのは、ご自分が彼らによって、ファリザイ人によって、ローマ人によって、私たちによって苦しむという事実よりもむしろ、彼らのために、ローマ人や私たちすべての改心のために、さらにはファリザイ人の改心のためにさえ苦しむという事実だったのです。これが、主が天から下って来られた目的でした。「人の子は魂を滅ぼすためではなく救うために来たのだ」(ルカ9章56節)。これが「この時」(ヨハネ12章27節)、すなわち人類と全世界の歴史全体の頂点でした。礼拝、感謝、償い、祈願を行う至高のいけにえを捧げる瞬間、霊魂の贖い、悪に対する善の最大の勝利、天主の御子が私たちの罪よる悪をそのままになさらず、ご自分を罪の代償とし、主が霊魂にお許しになるすべての恩寵に値するその瞬間でした。
これこそが(従事すべき)御父のことでした。「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」(ルカ2章49節)。聖母は、そのことをお忘れではありませんでした。聖母は長い間、このお答えを黙想しておられ、今や、聖母は理解しておられたのです。イエズスはここ十字架の上で、御父のご意志を完全に実現し、御父のことに完全な方法で従事してそれを成し遂げ、世を贖われたということを。聖母はこの贖いの神秘を確実に理解しておられました。聖母は、ご自分にとっても大きなこの苦しみに完全に同意し、それを受け入れられました。天主が(イサクを殺そうと、つるぎを持った)アブラハムの腕を最後の瞬間に止めたときのアブラハム以上のことを聖母はなさいました。しかし、カルワリオの丘には、このいけにえの行いを止める天使はいなかったのでした。なぜなら、ここには完全な天主の小羊、世の罪を除き給う小羊がいたからです。この小羊は、私たちの救いのために、いけにえとして捧げられなければならなかったからです。
親愛なる兄弟の皆さん、童貞聖マリアにお願いしましょう。偉大なる救いの神秘、私たちの贖いの神秘を理解するためにお助けくださいますように、またそれを理解するだけでなく、聖母がなさったように深くその神秘に入っていくようお助けくださいますように。私たちがこの神秘に入っていくのは、自分に対して死んだとき、「天主に対して生きるため罪に対して死ぬ」(ローマ6章11節)とき、私たちがイエズスと共によみがえるためにイエズスと共にいけにえになるときです。私たちは「キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章17節)。スタバト・マーテルで歌うように、「われをして御悲しみのほどを感ぜしめ給え」と聖母にお願いしましょう。
親愛なる兄弟の皆さん、人類の歴史におけるこの最も重要な瞬間のことを忘れてはなりません。天主の御子が私たちの救いのために十字架上で亡くなられたのです。そして三日目に復活なさいました。主はどれほど私たちのことを思ってくださっていることでしょうか。私たちのことがどれほど主の聖心にとめられていることでしょうか。「あなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント前書6章20節)。「あなたたちが祖先から受け継いだむなしい生活から贖われたのは、金銀などの朽ちる物によるのではなく、傷もしみもない小羊のようなキリストの尊い御血によるのである」(ペトロ前書1章18―19節)。
主の十字架を目の前に、心の目の前に置いておくなら、私たちは罪を犯さないでしょう。そのような善なる天主を、私たちの罪を償うほど私たちを愛してくださった天主を、あえて攻撃することなど、どうしてできるでしょうか。主の御苦しみにあえて付け加えることなど、どうしてできるでしょうか。そんな大きな恩寵を無視することが惨めさの原因です。エレミアは言います。「全地は荒らされているのに、誰もそれを心にとめない」(エレミア12章11節)。
十字架が重要であることは、ミサが重要であることの深い理由です。私たちの主イエズス・キリストの十字架上での聖なるいけにえは、人類の歴史全体の、天地創造全体の頂点そのものです。このいけにえは、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血の完全ないけにえ、十字架上のいけにえ、すべてのミサで捧げられるいけにえを通して、天主に、聖三位一体に戻るのです。そのため、一つ一つのミサがどれほど重要かが分かるのです。荘厳ミサの美しい儀式がない読誦ミサであっても、まことに本質的に十字架上のいけにえと同じなのです。ミサは聖三位一体に無限の栄光を捧げ、私たちの霊魂に十字架上のいけにえの全功徳を与えるのです。ミサは、私たちを十字架上のイエズスと一致させますが、それは次の世で私たちを栄光のイエズスと一致させるためです。
ですから、ミサのいけにえとしての性質が隠され、無視され、時には否定さえされるとき、教会に対して害が与えられたことがはっきりと分かります。典礼における変更はすべて、いけにえを明白に示す点を減少させました。ミサを食事に、共同体の食事のようにしてしまい、償い、贖い、礼拝、感謝の最も聖なるいけにえでなくしてしまうのです。そうすると、霊魂はもう豊かな恩寵を受けることができなくなります。恩寵の源が隠されてしまったからです。悪魔は知っています。ミサを攻撃するとき、攻撃すべきものが何であるかを。悪魔は知っています。自分が十字架によって敗北したのを。悪魔は十字架のいけにえに我慢できません。悪魔は大きな「イエズスの十字架の敵」(フィリッピ3章18節)です。ミサの変更の中に、悪魔のしるしがあるのです。
十字架の聖なるいけにえ、ミサの聖なるいけにえ、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血のいけにえに対する深い理解と信心が私たちに与えられるよう、童貞聖マリアに、共同受難の聖母に祈りましょう。私たちが本当に、聖ルイ・マリー・グリニョン・モンフォールの言う「十字架の友」、イエズスのまことの友になるように、十字架につけられたイエズスへの大きな愛、より大きな愛を常に聖母に乞い求めましょう。
アーメン。
《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》
シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」
「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」
ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。
「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」
「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」
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