アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
タルチシオ菊地大司教様へのお手紙の続きを分かち合わせてください。
今回の事態を機会に教会共同体の意味を再考することを私たちに促してくださったことを、大司教様に、心から感謝いたします。
昨日は、最初の考察(1)「すべてのいのちを守る」ということの意味、
を一緒に考えましたので、今回は、大司教様のお言葉に従って、
(2)「教会の共同体としての一致」の意味
について考えたいと思います。
「教会の共同体としての一致」についても、二つの観点から黙想してみました。
ひとつは、「キリストの超自然の神秘体」という観点です。
もう一つは、「"意識"としての"霊的なきずな"における一致」という観点です。
それでは第二の考察を分かち合いたいと思います。
(2)「教会の共同体としての一致」
【キリストの超自然の神秘体】
私たち個々のキリスト信者は、カトリック教会というイエズス・キリストの神秘体の一員です。
使徒信経にも「われは一、聖、公、使徒継承の教会を信じ」とありますが、教会が一であるというのは、場所、時間、国民や民族を超えて同じものだということです。
教会は場所を超えて一つです。バチカンにおいて信じられていることも、 アフリカにおいて信じられていることも、日本において信じられていることも100%同じでなくてはなりません。言い換えれば、バチカンではこう信じているが、日本ではそうは信じていない、というのはカトリックではありません。
教会は時間を超えて一つです。イエズス様と一緒にいたペトロやヨハネが信じていたことと、鹿児島に来たフランシスコ・ザビエルが信じていたことと、私たちが今日信じていることは100%同じでなければならない、ということです。言い換えれば、50年前の信者はこう信じていたが、今の信者はそうは信じていない、というのはカトリックではありません。
教会は国民や民族を超えて一つです。教皇様が信じていることも、スイスの司教が信じていることも、アメリカの神父が信じていることも、日本の信徒が信じていることも100%同じでなくてはなりません。言い換えれば、ある国のある司教はこう信じているが、別の国のある信徒はそうは信じていない、というのはカトリックではありません。
この一致は、時代と国を超えた信仰の一致のうちに、統治の一致のうちに、典礼の一致のうちに、見出されます。
特に、二千年間にわたって、その本質において時代を通して変わらずに、全世界で万国共通の礼拝として捧げ続けられている十字架上の犠牲の再現であるラテン語の聖伝のミサにおいて、この一致が如実に表されています。真理は変わらないからです。昨日正しかったことは、今日も正しく、明日も正しいからです。教会は、人間が勝手につくった「伝統式にこだわって固執している」のではなく、天主であるイエズス・キリストが教えられた真理に忠実であろうとしているから、初めから同じものを続けていて、そして今もこの伝統を大切に守っています。
5世紀に生きたレランの聖ヴィンチェント(Vincentius Lerinsis)も、有名なコンモニトリウムでこう言っています。
「カトリック教会自体でも、最大の注意が払われ、私たちが、どこででも、常に、すべての信者によって、信じられていたことを保持するようにしなければなりません。それは本当に、最も厳密な意味で、カトリックであることだからです。」
"In ipsa item Catholica Ecclesia magnopere curandum est ut id teneamus quod ubique, quod semper, quod ab omnibus creditum est. Hoc est etenim vere proprieque catholicum, quod ipsa vis nominis ratioque declarat..."
(In the Catholic Church itself, all possible care must be taken, that we hold that faith which has been believed everywhere, always, by all. For that is truly and in the strictest sense Catholic...)
【「意識」としての「霊的なきずな」における一致】
もしもこれまで述べてきたような、信仰が超自然なものであるという観点、またその永遠性の観点において教会共同体を理解しなければ、「一致」が、目に見える「教区共同体」、「小教区共同体」という民の一員という「意識」だけになってしまう危険があります。言い換えると「霊的」とは「意識」と同意語として使われるにすぎないということです。
そうなると、「共同体という意識をもって、同じことをする」ことが「一致」ということになり、今、ここだけの、過去と未来と全世界から切り離されたものとなってしまうことでしょう。すると、皆と同じことをするというのは、物理的に教会という建物に集まることだけではなく、皆が集まらなければ私も集まらない、日本ではミサの時には立ったままで決して跪かない、日本では御聖体拝領は手でする、日本ではこうする、ということになります。
これが日本におけるいわゆる「霊的なきずなにおける一致」の正体のようです。しかし、永遠の観点を抜きに、皆と同じ外的行動だけを強要するというのでは、「霊的なきずなにおける一致」というのは名ばかりのもので、「この世のきずな(意識)における一致」にすぎなくなります。
しかしそれさえしていれば、御聖体を未信者に配ろうがかまわない(全ての人は無名のキリスト者でありすでに救われているとされるのだからというカール・ラーナーの理論で)、あるいは聖母の終生童貞性を否定しようが、ミサをどれほど創造性豊かに、独自に捧げようが、あっちこっちのミサをしようが、禅のミサをしようが、ミサの時にダンスを踊ろうが、LGBTを推進するミサだろうがかまわない、などとなってしまう危険があります。
全世界でどれほど違ったことが行われていても、教会がずっと大切にし続けてきたこととまったく違っていても、それが良いことだとされる危険があります。カトリック教会が二千年間保ち続けてきた、時代と国を超えた信仰の一致が失われてしまいます。つまり、相対的価値が教会内を支配してしまうことになります。もしもそうなってしまうなら、教会は現代一般世俗社会と同化してしまいます。そうなった時、大司教様もおっしゃる通り、教会共同体はその存在の意味を失ってしまいます。
私たちは、超自然な意味における、時代と民族と国を超えた信仰における一致、典礼における一致、それを保証すべき統治の一致を、天主の御助けによって守るべきだと確信しております。私たちは本当の一致を守るために、昔ながらの聖伝のミサを捧げ続けるべきであると深く信じております。
ベネディクト十六世は、2007年7月7日に全世界の司教たちに向けてこう訴えられています。
「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」
先に申し上げたロドリゴの例ではありませんが、日本では御聖体の前で跪いてはならない、跪きは禁止だ、御聖体は手で拝領するべきだというのは、その態度と印が意味するところにおいて、私たちにとっては現代の踏み絵に等しいものです。
特に、秘蹟は印であり、その意味するところの超自然の聖寵を与えます。人間の生活は印で成り立っています。言語もそうですし、意志や考えを伝えるいろいろな印があります。服やジェスチャーや姿勢、旗や信号、などなどです。従って、秘蹟を信じるということは、イエズス・キリストの制定する印を信じるということです。秘蹟は旧約・新約の聖書的な深い意味を持っているので、聖書的な意味を軽んじることはできません。「ひざまずくことは、どこかの文化から由来したものではありません。それは聖書と聖書が伝える天主の認識から来たものです。」「キリスト教典礼は、十字架につけられ、高められた主の前にひざをかがめることによって、まさしく宇宙的典礼となるのです。これが本当の"文化"、真理の文化の核心なのです。私たちが主の足元にひれ伏すという謙遜な姿勢は、私たちを宇宙の真の生命軌道の中に組み入れます。」(ベネディクト十六世『典礼の精神』より)
同じベネディクト十六世の『典礼の精神』にはこうもあります。
「信じることを学んだ者は、ひざまずくことも学びます。そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。ひざまずくことが失われたところでは、再び学ばなければなりません。それによって私たちは使徒たちや殉教者たちと共に、宇宙全体と共に、イエズス・キリストご自身との一致のうちにとどまるのです。」(サンパウロ pp210-211)
フェレイラがどんなに立派な管区長であり、自分の長上であったとしても、部下のイエズス会士たちはフェレイラに従わず殉教を望み、むしろ、フェレイラの立ち戻りと回心を祈ったように、私たちも、もしもそのような状況におかれた場合には、天主のお恵みにより、列聖や列福されたキリシタンたちに倣うべきだと信じております。