離教にあらず、破門にあらず
Courrier de Rome, 1988年9月号より
引き裂かれたカトリック信者たち
第二バチカン公会義以来、カトリック信者たちは真理と「従順」とを選ぶ必要に迫られている。つまり言い換えると、異端となるべきか、それとも離教徒となるべきか、との選択である。
従って、例えば、カトリック信者は聖ピオ十世の回勅Pascendiと現在のあからさまな現代主義な教会の指針とを選ばなければならない。 現代主義をすべての異端の汚水溜めだと言って排斥した聖ピオ十世か、現在の現代主義と現代主義者とを称えて止まず、聖ピオ十世を軽んじている今の教皇庁か、を。聖ピオ十世の回勅は、その死後70周年を記念して、こう言われた。 「歴史的観点から捉えることもしなかった単なる暴き立て」であると。
または、テイヤールドシャルダンを排斥した1962年の教皇庁の警告を選ぶか、又は、現在の教会の風潮を選ぶかである。1962年の排斥警告書によれば、彼の論文などの書き物は「全くあいまいな表現が使ってあり、誤謬に満ちている。 それは、あまりにもひどいもので、カトリックの教えを傷つけている」と言うのに、今では教皇聖下の演説の中でさえも彼の書いたものを引用するのに何もためらうことがない。 この背教者の生誕100周年記念には、聖座国務政事官カザロリ枢機卿は、「彼の考えの豊かさ」と「他に例を見ない宗教情熱」とを賛美し、ある一部の枢機卿らの反対をさえ呼び起こした。
あるいは、既に明らかにされた英国聖公会の司祭叙階が無効であることを信ずるか、あるいは現今の教会の風潮を信じるか、である。1982年には、教皇は歴代始まって以来カンタベリーのカテドラルで聖公会の典礼に与かり、この異端かつ離教の分派の平信徒の最高長上とともに王冠を祝福した。この最高長上は、自分のことを「カトリック英国」のカトリックの宣教者であるカンタベリーの聖アウグスチヌスの後継者としてはばからなかった。この歓迎の演説を聞いておられた教皇は何の反対もされなかった。
更には、マルチン・ルターを不可謬的に(ex cathedra)排斥したレオ十三世を選ぶか、現今の教会の風潮を選ぶかのどちらかである。現在の教会では、このドイツの異端者の生誕500周年を祝い、教皇聖下ヨハネ・パウロ二世はその手紙の中で、「カトリックとプロテスタントとの学者らの共同の研究により、ルターの深い宗教性が現れてきた。」とはっきり言っている。
我々はまた、聖福音が歴史的に真理を語っていると信じるか、それとも、現今の教会の指針に従い、声高らかにそのことを否定するか、のどちらかである。「聖にして母なる公教会が決定的にかつ絶対的に、常に変わらず肯定して来た」ように聖福音が歴史的に真理であることを認めるべきか、それとも、ユダヤ教徒との宗教関係に関する、教皇庁立委員会が1985年6月24日に発表したように、それを否定するべきなのか。
聖福音に従い無信仰のユダヤ教を「天主から憎まれたもの」と宣言する聖書を取るか、あるいはユダヤ会堂を歴代最初に訪れた教皇聖下の演説にあるとおりに、無知なるカトリックの「兄」と呼ぶのか。
あるいは天主の十戒の最初の戒律である「汝我が前に異国の神々をもつなかれ。」を選ぶか、それとも、アシジのカトリック教会においてなされたように、ひどいことにも、迷信さえも含めたすべての形式の礼拝を認めるべきなのか。すなわち、この聖寵の満ちみてる新約の時代において、キリストを否定していながらも真の天主を礼拝しているとうそぶく偽りのユダヤの礼拝を認めるべきなのか。御聖体ランプが灯り、主の現存が明らかなのにもかかわらず、仏像を祭壇に載せることを許し、仏教徒がその己の偶像を礼拝するのを認めるべきなのか。
「教会の外に救いなし」とする聖会の教義を信ずるか、それとも、非キリスト教さえも天主への運河であり、多神教さえも敬うべしとする今の教会の指針に従うべきか。
《異端者》、あるいは/かつ、《破門されたもの》は「カトリック教会の外にいる」のか、それとも、「さまざまなキリスト教と呼ばれる団体」は「深さが」異なるのみで、全き交わりの中にいるのか。したがって、これらさまざまな異端の、あるいは/かつ、破門された党派も、「教会として、又は、教会的団体として」「尊敬すべき」なのか。
ここらで、もう列挙するのをやめなければならない。一々挙げていたら、きりがないからである。この現代における異端については、Romano Amerioと言う人が、636ページにわたるIota Unumという本を書いている。
「信仰の感覚」(Sensus Fidei)の選択
「従順」と真理との見かけ上の葛藤において、少しよく知っているカトリック信者は自分のもつ、「信仰の感覚」によって、安心して真理を選んだ。なぜなら、真理こそが「目に見えない教会の頭」であるキリストとの一致を確実にするからである。
「聖伝支持のカトリック信者」として、「使徒伝来の神的聖伝」と「人間の伝承」とが区別できないとされ、不従順に問われている。彼らは聖会の聖伝の中で変わり得るものと変わり得ないものこの区別がつかないとされ、教会の教義が内容を変えずに発展することと、内容を変えつつ進化することとの区別がつかないとされている。更には、今日では、彼らは離教者として破門されている。しかし、彼らは、これらのことが何一つとして現実と真理とに一致していないとよく知っている。
まず、彼らは自分たちが離教者ではないとよく知っている。─── すなわち、"Volentes per se ecclesiam constituere singularem" (注1)ではないことをよく知っている。彼らは自分自身のためにもう一つ別の教会を作ろうなどとはまったく考えていないからである。反対に、キリストの教会、唯一のキリストの教会に留まるために現在の教会の指針に抵抗しているのである。「全体の一部として行動することを拒み」「教会の中で教会に従って、考え、祈り、行動し、つまり一言で言えば、生きること」を望まないものは、彼らの中にだれもいない。彼らは自分の施行、祈り、行動の規律を自分自身で決めようとする言わば自治体ではない。むしろ、「教会の中で教会に従って、考え、祈り、行動し、つまり一言で言えば、生きること」を絶やさないようにするためにこそ、教会によって守られ、伝え続けられてきた教義と信仰の実践から逸れる限りにおいて、今の新しい教会の指針、風潮に抵抗しているのみである。
更に、subesse capiti (注2) することを、つまり「教会の頭に服すこと」を拒むものではない。何故なら、こうすることによって離教徒になってしまいうるからである。むしろ反対に、まさに目に見えない「教会の頭」に従順であるために彼らは今の教会の指針に抵抗している。(この教会の指針が教皇によって許されていようと、励まされていようと、求められていようと今ここでは問題ではない。)彼らはそうして、教義上のいかなる点においても妥協することなく、現在の教会位階制度、特にキリストの代理者との一致が一刻も早く実現されることを願って止まない。
(続く)
(注1) :聖トマス・アクィナスが「離教」Schism の定義として使った表現。 "Volentes per se ecclesiam constituere singularem" とは、「自分自身のためにもう一つ別の教会を作ろうと欲する」ということ。Saint Thomas : in IV Sent., dist. XIII q. II a 1 ad 2.
(注2):聖トマス・アクイナスは別のところでは、subesse renuunt summo pontifici (教皇に服することを拒む) を「離教」Schism の定義として使っている。Saint Thomas, IIa-IIae q. 39, a. 1.
Ni schismatiques, ni excommuniés
Article du « Courrier de Rome » N° 285 - Septembre 1988
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