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聖ピオ十世会 レネー神父様 聖伝のミサ 復活祭のお説教 SSPX Fr Laisney's Sermon on Easter Sunday

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が御復活の主日に、大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。その中でなさったお説教は、ルフェーブル大司教さまの思い出です。ルフェーブル大司教さまがなさった考察、カトリック教会の危機と、イエズス・キリストの御受難との比較の考察です。

 御受難を苦しむキリストの体は、本当の天主の体だと認識するのが難しいほどでした。しかし、この死を身に受けた体が復活しました。

 現在、キリストの神秘体も美しさを失いつつありますが、それでもキリストの神秘体であり、唯一のまことの教会でありつづけています。しかし、教会の危機もある日終わりを告げるでしょう。カトリック教会は、かならず栄光ある体に復活します。

 私たちは、今ここで危機に苦しんでいる一致し、この教会を愛し、この教会を救うために私たちに出来ることを全てしようとします。

 願わくは、天主の聖母、終生童貞なる聖マリアが、私たちの主イエズス・キリストの権威にたいする信頼を増し、希望の徳を増し、聖母の復活と似た栄光の復活を私たちが望むよう、取り次いでくださいますように。

 願わくは、聖母が十字架の足下で、最後まで主に忠実でおられたように、私たちもこの背教と裏切りの時代において私たちの主イエズス・キリストに忠実でありますように!

 どうぞレネー神父様のお説教をお読み下さい。

 レネー神父様を日本に送って下さっている天主様に感謝します。レネー神父様に感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年4月5日 御復活の主日の大阪での説教

親愛なる兄弟の皆さん、

アレルヤ! 私の司祭叙階の日である1982年6月29日、ルフェーブル大司教は、教会を十字架につけられたキリストの御体にたとえました。キリストの実在した御体はむちで引き裂かれ、茨やくぎで突き刺され、兵士たちによってつばをかけられ、たたかれ、(外見では)誰だかよく分からないようになりました。イザヤは言いました。「彼には、私たちの目を引くほどの美しさも輝きもなく、楽しめるほどの姿形もない。彼は人々から軽蔑され、捨てられた、苦しみの人、苦しみに慣れた人。見下され、無視された人」(イザヤ53章2-3節)。それでもキリストの御体であり、ほかの何物でもありませんでした。聖母、使徒のうちただ一人聖ヨハネ、そして数人の聖なる女性たちは忠実でした。この御体こそが復活の主日の朝、よみがえられたのです。同じように、現代主義者の醜聞(スキャンダル)と誤謬によって、キリストの神秘体は美しさや輝きを失い、惨めで軽蔑されるようになっています。それでもキリストの神秘体であり、ほかの何物でもありません。私たちは聖母と共に、唯一のまことの教会に忠実であり続けなければなりません。キリストの神秘体はほかにないのですから。この体こそが将来、私たちの主イエズス・キリストによって、美しさと活力を回復させていただくのですから。

教会の始まりのころ、天主の御子が苦しんだという十字架の醜聞(スキャンダル)に直面して、二つの異端が発生しました。最初の異端者たちは、キリストの天主の本性を否定しました。彼らは主の人間性を認めましたが、天主の本性を認めるのを拒絶しました。このように、この異端者たちにとっては天主の御子が苦しみを受けたこと(を認めるの)に困難はありませんでした。それは、彼らが、キリストが天主の御子だともはや信じなくなったからです。彼らはアリウス派でした。もう一つの異端者たちはキリストの御体が肉体として実在したことを否定し、キリストは苦しみを受けたように見えただけだと言いました。そして、キリストは霊にすぎないのであって苦しみは受けることができなかったと結論づけてしまったのでした。彼らはキリストの人間性を否定したのです。彼らはグノーシス派でした。しかし教会は、天主の本性と人間性のどちらも真理と認めます。キリストがまことに天主の御子であって御父と等しく、まことにマリアの子であって本当の人間性を持っていたことを認めています。天主と人間の二つの本性が一つのペルソナ、天主の御子のペルソナで一つに結ばれているのです。

そののち、ルフェーブル大司教は、その話を私たちの時代に当てはめていきました。キリストの神秘体である教会の受難に直面して、教会の信仰が変えることのできないものであることを否定する人々がいます。彼らは、教会は世とともに変わるべきであると主張しています。彼らは現代主義者です。彼らは、キリストの神秘体である教会の超自然的な面を、実践において否定しています。他方で、そのような醜聞(スキャンダル)がキリストの教会に起こりうるはずがなく、教会は霊的であって実際にはもう目に見えないのだと結論づけ、その理由はもう教皇も司教もいないからだ、などと言う人々がいます。彼らは教皇聖座空位論者であり、「腐ったものはすべて」カトリックではありえないという口実のもと、苦しむ教会を離れ、苦しむ教会と関係を持とうとしない人々なのです。

しかし、キリストは永遠ですし、教会には「地獄の門もこれに勝つことはできない」という約束がありますから、受難は決して永遠には続きません。受難ののちには復活がやって来ます。左や右に落ちてしまった人々は戻って来る必要があります。私たちの主イエズス・キリストの御復活は、私たちに希望を与えます。私たちは聖母と共に確実に知っています。忠実であることが報いを受けることと、私たちがもう一度、教会が現在の危機から脱出するのを見るだろうということを。例えば、日々のミサ典書にある聖人たちの生涯の生没年(生きた時代)を見れば、トレント公会議後の偉大な聖人たちの数の多さに感動するでしょう。十六世紀の後半には、実際にカトリック生活の素晴らしい刷新があったのです。南アメリカへの福音宣教の開始、インドそして遠くは日本への新しい福音宣教。フランス革命ののち、フランスには多くの聖人たちが現れ、フランスは十九世紀の宣教において目立つ存在でした。それはアフリカ(聖霊修道会、白衣司祭会、リヨン宣教会)、アジア(朝鮮と中国でのパリ外国宣教会)、オセアニア(太平洋の島々とオーストラリア・ニュージーランドでのマリスト会による福音宣教)においてでした。

重要なことは、受難の間、危機の時代にも忠実であることです。右や左に落ちることなく、キリストの天主の本性や人間性を否定せず、教会を変えようとしたり教会との関係を拒絶して離れたりしないことです。天主は変わることがありません。信仰は変わりえず、天主の約束は真実で信頼できます。「私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ。私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。教会の歴史の中では危機があったのち、教会の中に祝福と聖人たちが見られました。高慢な反逆者たちは教会の外に落ちていきました。悪い枝は切り取られ、腐っていきました。良い木は生き残ってさらに生き生きとなりました。私たちは何としてでも木に残っていなければなりません。今、木に悪い枝があるからという口実のもとで、自分で自分を木から切り取ってしまうのは愚かなことです。

教会を愛さず、自分を教会から引きはがし、教会との一致を拒絶する人たちは、カトリックの教理に忠実ではありません。私たちの主イエズス・キリストは「教会を愛し、そのために命を与えられた。キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐことと、それに伴う言葉とによって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25-27節)。主は、教会のためにそのいと尊き御血を流されたのです。主はいかに教会を愛されたのでしょうか。

私たちの主イエズス・キリストの御復活は、私たちに希望を与えます。徳に対しては報いがあるのです。私たちの主イエズス・キリストは、十字架の死に至るまで御父に忠実でした。ですから、御体への報いをお受けになりました。栄光の御復活です。私たちも、キリストの神秘体のメンバーすべてに対する報いを信じています。キリストと共に死に至るまで忠実であるならば、キリストと共に栄光を受け、最後の日に栄光のうちによみがえり、キリストと共に天国で限りない幸せを得るのです。私たちの主イエズス・キリストは「万物を支配下に置くことによって、私たちの卑しい体を光栄の体のかたどりに変えられるであろう」(フィリッピ3章21節)。

これは信仰箇条です。「われは…肉身のよみがえりを信じ奉る」。ただ、私たちの主イエズス・キリストが言われたこと、復活には二種類あるということを知っておく必要があります。義人の復活は栄光の体と共に栄光に入ります。義人は「永遠の命」を得るのですから、主はそれを「命のよみがえり」と呼ばれます。しかし、復活にはもう一つあります。悪人の「罰のためのよみがえり」です。悪人の体は霊魂と再び結ばれますが、それは霊魂が罰を受け、地獄の宣告を受けるためです。これが完全な正義です。実際、その体は罪と共にあったため、罰と共にあるのが正義なのです。私たちの主イエズス・キリストのお言葉はこうです。「善を行った人は命のために、悪を行った人は永遠の罰のためによみがえる」(ヨハネ5章29節)。

世のあらゆる不潔なことから自分の体を守ることは、栄光の復活に参加するために価値のあることなのです。世の誤った楽しみで自分の体を堕落させ、その報いを永遠に支払わねばならないのであれば、そんなことをする意味があるでしょうか。このように、童貞を捧げることは、天使の徳と呼ばれます。それは、もうすでに復活の命を実践しているからです。「復活の時の人間は、めとりもせず、嫁ぎもせず、天にいる天使と同じようなものになる」(マテオ22章30節)。

復活の時には、人は栄光の体を持ちますが、それだけでなく、天使たちや聖人たちと交わることもできます。それは天国であってこの世ではありませんから、もはや善と悪が交じり合っているのではなく、善い者たち、聖人たちとのみ交わります。まことに驚くべきことです。この世での友との交わりが良いものであるならば、天国での聖人たちや天使たちとの交わりは実に素晴らしいものでしょう。

復活の時には、天主を見ることができます。これは聖人たちと交わるという喜びを無限に超えた喜びです。聖ヨハネは言います。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章1-3節)。さらに聖パウロは言います。「今私たちは鏡を見るようにぼんやりと見ている。だがそのときには顔と顔を合わせて見るであろう」(一コリント13章12節)。

私たちの主イエズス・キリストは私たちに、ご聖体により、この体を復活させてくださる美しい保証を与えてくださいました。復活された主の御体を実際に頂くことによって、私たちは主と共に復活するというしるしと保証を得るのです。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)。もちろん、ご聖体を頂くのにふさわしくなければなりません。なぜなら、ご聖体について乱用があるならば、正反対になってしまうからです。「主のお体をわきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばきを飲食することである」(一コリント11章29節)。

主は、いとも聖なる御母の御体を復活させることによって、私たちの体も復活させてくださるという二番目の保証をお与えになりました。聖母の被昇天において、主は、世の終わりに教会の残りの人々に対してなさるであろうことを、すでに聖母に対してなさいました。御体とご霊魂において、聖母はすでに地上でもっとも美しい女性でしたが、今やさらに美しい方となられました。聖母は地上において私たちの主イエズス・キリストを完全にまねておられたため、天において主と共に栄光を受けるべき方だったのです。

童貞聖マリアに祈りましょう。私たちの主イエズス・キリストの権威に信頼して、私たちが希望の徳を増し、聖母の復活と似た栄光の復活を私たちが望むよう、聖母が取り次いでくださいますように。この権威によって主はご自分の御体を復活なさいました。主はおっしゃいました。「私には私の命を与える権威があり、また取り戻す権威もある」(ヨハネ10章18節)。この権威によって主は聖母の御体を復活させられました。この同じ権威によって、主は私たちの体を復活させてくださるのです。聖母に祈りましょう。聖母が十字架の下から最後に至るまで主に忠実でおられたように、私たちもこの背教と裏切りの時代において私たちの主イエズス・キリストに忠実であり、全時代の信仰に忠実であり、聖人たちの道徳に忠実であり、聖人たちの典礼に忠実であるようお助けくださいますように。

アーメン。

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Be Faithful to the Holy Church, and The Joy of The Heaven(The Resurrection Day 2015-04-05)

My dear brethren,

Alleluia! On the day of my ordination, 29th June 1982, Archbishop Lefebvre compared the Church to the body of Christ crucified: the physical body of Christ had been lacerated by the whips, pierced by the thorns and nails, spit upon and hit by the solders, and had become somehow unrecognisable, as Isaias said: “there is no beauty in him, nor comeliness: and we have seen him, and there was no sightliness, that we should be desirous of him: despised, and the most abject of men, a man of sorrows, and acquainted with infirmity: and his look was as it were hidden and despised,"(Is. 53:2-3).

Yet it was the Body of Christ, and there was no other: Our Lady, one apostle St John, and a few holy women remained faithful. And it was THIS BODY that rose again on Easter morning. In a similar way, by the scandals and errors of the modernists the mystical body of Christ has somehow lost its beauty and comeliness, and has become abject and despised. Yet it is the mystical Body of Christ, and there is no other. We must with Our Lady remain faithful to that One True Church, for there is no other mystical Body of Christ! And it will be THIS BODY that will be restored to beauty and vigour by our Lord Jesus Christ!

At the beginning of the Church, faced with the scandal of the Cross, the sufferings of the Son of God, there were two kinds of heretics; the first denied the divinity of Christ: they acknowledged His human nature, but refused to acknowledge His Divine Nature; thus there was no longer a difficulty with the sufferings of the Son of God, since they no longer believed that Christ was Son of God. These were the Arians.

And there were other heretics who denied his physical body, saying that he merely seemed to suffer: thus they ended up by saying that he was just a ghost and could not suffer; they denied the humanity of Christ: these were the Gnostics. The Church held both truths, that Christ was truly the Son of God, equal with the Father, and truly son of Mary, with a real human nature: two natures, the Divine and the human, in the unity of one Person, the Person of the Son of God.

Archbishop Lefebvre then went on to develop a parallel with our times: faced with the Passion of the Church, the mystical Body of Christ, there are some who deny that the Church’s Faith is unchangeable, they claim that the Church should change with the world: they are the modernists.

They practically deny the supernatural dimension of the Church, as Mystical Body of Christ. On the other hand, there are those who, saying that such scandals could not happen to the Church of Christ, conclude to a ghostly church, practically no longer visible, since it would have no pope, no bishop, etc. These are the sedevacantists and all those who leave the suffering Church and want no relation with the suffering Church under the pretext that “all that rot” could not be Catholic.

But as Christ is eternal, the Church has the promises that the gates of hell shall not prevail against her, and the passion never lasts for ever: after the Passion comes the resurrection. And those who have fallen on the left or on the right need to come back.

The Resurrection of our Lord Jesus Christ gives us hope: we know for certain, with Our Lady, that fidelity will be rewarded and that we will see again the Church come out of this crisis. For instance, if you look at the dates of Saints’ lives in your daily missal, you will be impressed by the number of great Saints after the Council of Trent: there was really a great renewal of Catholic life in the second half of the 16th century, and the beginning of the evangelisation of South America, a new evangelisation of India and as far as Japan.

Also after the French revolution, there were many Saints in France and France was prominent in the missionary work in the XIX century, in Africa (the Holy Ghost Fathers, the White Fathers, the Missions of Lyon), in Asia (the MEP in Korea and China) and in Oceania (Pacific islands and Australia/New Zealand, evangelised by the Marist Fathers).

The important thing is to remain faithful during the Passion, in the time of crisis, neither falling on the left nor on the right, neither denying the Divinity of Christ nor His humanity, neither changing the Church nor leaving the Church by refusing relations with the Church.

God does not change; the Faith cannot change and His Promises are true and reliable. “These things I have spoken to you, that in me you may have peace. In the world you shall have distress: but have confidence, I have overcome the world” (Jn. 16:33).

After each crisis in the Church’s history, there were blessings and Saints IN the Church – and the proud rebels had fallen outside the Church. The bad branches had been cut off, and were decomposing; the good tree survived and was more vigorous. We must at all cost remain in the tree: we would be fool to cut ourselves off under the pretext that there are presently some bad branches in the tree.

They are not faithful to the Catholic Doctrine, those who do not love the Church and fear not to tear themselves apart from her, refusing communion with her. Our Lord Jesus Christ “loved the church, and delivered himself up for it: That he might sanctify it, cleansing it by the laver of water in the word of life: That he might present it to himself a glorious church, not having spot or wrinkle, or any; such thing; but that it should be holy, and without blemish” (Eph. 5:25-27). He shed His most Precious Blood for her! That is how much He loved her.

The Resurrection of our Lord Jesus Christ gives us hope: there is a reward for virtue! Our Lord Jesus Christ was faithful to His Father up to the death on the Cross, and now He received the reward for His Body: the glorious resurrection! We believe also that for all the members of His Mystical Body, if they are with Him faithful until death, they will also be glorified with Him, will rise glorious in the last day and be infinitely happy with Him in Heaven. Our Lord Jesus Christ “will reform the body of our lowness, made like to the body of his glory, according to the operation whereby also he is able to subdue all things unto himself” (Phil. 3:21).

This is an article of Faith: “I believe… in the resurrection of the dead.” Yet we need to know what our Lord Jesus Christ said, that there will be two kinds of resurrections: the resurrection of the just will be unto glory, with a glorious body, and our Lord calls it the “resurrection of life” because they will have “life everlasting”; but there is also another resurrection, the “resurrection of judgement” for the wicked: their body will be reunited with their soul, but in order to share the punishment and condemnation of the soul.

This is perfect justice: indeed the body has shared in the sin, it is just that it shares in the punishment. These are the words of our Lord Jesus Christ: “they that have done good things, shall come forth unto the resurrection of life; but they that have done evil, unto the resurrection of judgment” (Jn. 5:29).

It is worth keeping our body away from all the uncleanness of the world, in order to have part in the glorious resurrection! What does it serve to corrupt one’s body with the false pleasures of the world, if one will have to pay for eternity? Thus consecrated virginity is called an angelic virtue, because it already practices now the risen life: “in the resurrection they shall neither marry nor be married; but shall be as the angels of God in heaven”(Mt. 22:30).

In the Resurrection, one enjoys not only a glorious body, but even more the company of the Angels and of the Saints, and there – in heaven, not on earth – there will no longer be a mixture of good and evil, but there will be only the company of the good ones, of the Saints! This will be truly marvellous: if friendship on earth is already a good thing, that heavenly friendship of the Saints and angels will be a most wonderful thing!

In the Resurrection, one enjoys the vision of God, which will be a joy infinitely above even that of the company of the Saints. St John says: “Behold what manner of charity the Father hath bestowed upon us, that we should be called, and should be the sons of God. Therefore the world knoweth not us, because it knew not him. Dearly beloved, we are now the sons of God; and it hath not yet appeared what we shall be. We know, that, when he shall appear, we shall be like to him: because we shall see him as he is. And every one that hath this hope in him, sanctifieth himself, as he also is holy” (1 Jn. 3:1-3). And St Paul says: “We see now through a glass in a dark manner; but then face to face” (1 Cor. 13:12).


Our Lord Jesus Christ has given us a beautiful guarantee of that Resurrection of the body in the holy Eucharist itself: by eating really His Body, which is risen, we have a token and guarantee of rising with Him: “He that eateth my flesh, and drinketh my blood, hath everlasting life: and I will raise him up in the last day” (Jn. 6:55). This must of course be a worthy reception of the Holy Eucharist, because if one abuses of the holy Eucharist, one ends up at the opposite, “for he that eateth and drinketh unworthily, eateth and drinketh judgment to himself, not discerning the body of the Lord”(1 Cor. 11:29).

He also gave us a second guarantee of the resurrection of our body by rising the body of His most holy Mother: in her Assumption, Our Lord has already done for her what He will do for the rest of the Church at the end of the world. She was already the most beautiful woman on earth, she is now even more beautiful, in her body and soul. Because she imitated our Lord Jesus Christ perfectly on earth, she deserved to be glorified with Him in Heaven.

Let us pray to the Blessed Virgin Mary that she may obtain for us an increase of the virtue of HOPE, to desire the glorious resurrection similar to hers with confidence in the power of our Lord Jesus Christ. By this power He rose his own body, as He said: “I have power to lay [my life] down: and I have power to take it up again”(Jn. 10:18).

By this power Our Lord rose her body; by this same power He will rise our body. Let us pray to our Lady that she may help us to remain faithful to our Lord Jesus Christ in this time of apostasy and betrayal, faithful to the faith of all times, faithful to the morals of the Saints, faithful to the Liturgy of the Saints as she remained faithful at the foot of the Cross until the end. Amen.

Fr. F. Laisney (FSSPX)





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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