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聖ピオ十世会 SSPX 大阪での復活の主日のミサ 【聖伝のミサ Latin Traditional Mass】 報告

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪での復活の主日のミサ聖祭のご報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 改めて、レネー神父様に感謝いたします。

 来る、金、土曜日と大阪で聖伝のミサがあります。また、主日には東京でいつもの通り聖伝のミサがあります。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】

Alleluia !

主のご復活のお慶びを申し上げます。

2015年4月5日 主のご復活の主日には、17人、
翌日6日 ご復活の月曜には9人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。 デオグラチアス!!

キリストの神秘体は、現在美しさや輝きを失い、惨めで軽蔑されてはいるけれども、それでも唯一まことの神秘体であるのだから、
受難の間も危機の時も最後まで聖母とともに忠実であり続け、主イエズス・キリストの権威のうちに私達も復活させて頂くよう願わなければならないと本日のお説教にありましたように、
私たちの今の状況は仮の聖堂、少人数で、まわりからはミサに列席する事を反対されたり文句を言 われたり、まったく惨めな神秘体のようでありますが、最後まで十字架の元にいらしたマリア様と一緒に信仰をたもち、十字架の友としてイエズス様に忠実でいられるようにとの決心を新たにいたしました。お説教を聞いていたのに、聖土曜日の「洗礼の約束の更新」をしたような気持ちになりました。

御ミサが終わってから神父様をかこんでささやかなご復活のお祝いパーティーをいたしました。ミサ会場と同じ場所でそのまま和やかな時間を過ごせて、コロナホテルでご復活の御ミサが出来て、良かったと思います。

お説教にもありましたように16世紀後半から世界中で色々な宣教会が活躍されましたが、まさに現代では、聖ピオ十世会の神父様方が多くの聖人、宣教師の意を継がれて働いて下さっているのだと思います。 

お説教は以下のとおりです。

2015年4月5日 御復活の主日の大阪での説教

親愛なる兄弟の皆さん、

アレルヤ! 私の司祭叙階の日である1982年6月29日、ルフェーブル大司教は、教会を十字架につけられたキリストの御体にたとえました。キリストの実在した御体はむちで引き裂かれ、茨やくぎで突き刺され、兵士たちによってつばをかけられ、たたかれ、(外見では)誰だかよく分からないようになりました。イザヤは言いました。「彼には、私たちの目を引くほどの美しさも輝きもなく、楽しめるほどの姿形もない。彼は人々から軽蔑され、捨てられた、苦しみの人、苦しみに慣れた人。見下され、無視された人」(イザヤ53章2-3節)。それでもキリストの御体であり、ほかの何物でもありませんでした。聖母、使徒のうちただ一人聖ヨハネ、そして数人の聖なる女性たちは忠実でした。この御体こそが復活の主日の朝、よみがえられたのです。同じように、現代主義者の醜聞(スキャンダル)と誤謬によって、キリストの神秘体は美しさや輝きを失い、惨めで軽蔑されるようになっています。それでもキリストの神秘体であり、ほかの何物でもありません。私たちは聖母と共に、唯一のまことの教会に忠実であり続けなければなりません。キリストの神秘体はほかにないのですから。この体こそが将来、私たちの主イエズス・キリストによって、美しさと活力を回復させていただくのですから。

教会の始まりのころ、天主の御子が苦しんだという十字架の醜聞(スキャンダル)に直面して、二つの異端が発生しました。最初の異端者たちは、キリストの天主の本性を否定しました。彼らは主の人間性を認めましたが、天主の本性を認めるのを拒絶しました。このように、この異端者たちにとっては天主の御子が苦しみを受けたこと(を認めるの)に困難はありませんでした。それは、彼らが、キリストが天主の御子だともはや信じなくなったからです。彼らはアリウス派でした。もう一つの異端者たちはキリストの御体が肉体として実在したことを否定し、キリストは苦しみを受けたように見えただけだと言いました。そして、キリストは霊にすぎないのであって苦しみは受けることができなかったと結論づ けてしまったのでした。彼らはキリストの人間性を否定したのです。彼らはグノーシス派でした。しかし教会は、天主の本性と人間性のどちらも真理と認めます。キリストがまことに天主の御子であって御父と等しく、まことにマリアの子であって本当の人間性を持っていたことを認めています。天主と人間の二つの本性が一つのペルソナ、天主の御子のペルソナで一つに結ばれているのです。

そののち、ルフェーブル大司教は、その話を私たちの時代に当てはめていきました。キリストの神秘体である教会の受難に直面して、教会の信仰が変えることのできないものであることを否定する人々がいます。彼らは、教会は世とともに変わるべきであると主張しています。彼らは現代主義者です。彼らは、キリストの神秘体である教会の超自然的な面を、実践において否定しています。他方で、そのような醜聞(スキャンダル)がキリストの教会に起こりうるはずがなく、教会は霊的であって実際にはもう目に見えないのだと結論づけ、その理由はもう教皇も司教もいないからだ、などと言う人々がいます。彼らは教皇聖座空位論者であり、「腐ったものはすべて」カトリックではありえないという口実のもと 、苦しむ教会を離れ、苦しむ教会と関係を持とうとしない人々なのです。

しかし、キリストは永遠ですし、教会には「地獄の門もこれに勝つことはできない」という約束がありますから、受難は決して永遠には続きません。受難ののちには復活がやって来ます。左や右に落ちてしまった人々は戻って来る必要があります。私たちの主イエズス・キリストの御復活は、私たちに希望を与えます。私たちは聖母と共に確実に知っています。忠実であることが報いを受けることと、私たちがもう一度、教会が現在の危機から脱出するのを見るだろうということを。例えば、日々のミサ典書にある聖人たちの生涯の生没年(生きた時代)を見れば、トレント公会議後の偉大な聖人たちの数の多さに感動するでしょう。十六世紀の後半には、実際にカトリック生活の素晴らしい刷新があったのです。 南アメリカへの福音宣教の開始、インドそして遠くは日本への新しい福音宣教。フランス革命ののち、フランスには多くの聖人たちが現れ、フランスは十九世紀の宣教において目立つ存在でした。それはアフリカ(聖霊修道会、白衣司祭会、リヨン宣教会)、アジア(朝鮮と中国でのパリ外国宣教会)、オセアニア(太平洋の島々とオーストラリア・ニュージーランドでのマリスト会による福音宣教)においてでした。

重要なことは、受難の間、危機の時代にも忠実であることです。右や左に落ちることなく、キリストの天主の本性や人間性を否定せず、教会を変えようとしたり教会との関係を拒絶して離れたりしないことです。天主は変わることがありません。信仰は変わりえず、天主の約束は真実で信頼できます。「私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ。私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。教会の歴史の中では危機があったのち、教会の中に祝福と聖人たちが見られました。高慢な反逆者たちは教会の外に落ちていきました。悪い枝は切り取られ、腐っていきました。良い木は生き残ってさらに生き生きとなりました。私たちは何としてでも木に残っていなければなりません。今、木に悪い枝があるからという口実のもとで、自分で自分を木から切り取ってしまうのは愚かなことです。

教会を愛さず、自分を教会から引きはがし、教会との一致を拒絶する人たちは、カトリックの教理に忠実ではありません。私たちの主イエズス・キリストは「教会を愛し、そのために命を与えられた。キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐことと、それに伴う言葉とによって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25-27節)。主は、教会のためにそのいと尊き御血を流されたのです。主はいかに教会を愛されたのでしょうか。

私たちの主イエズス・キリストの御復活は、私たちに希望を与えます。徳に対しては報いがあるのです。私たちの主イエズス・キリストは、十字架の死に至るまで御父に忠実でした。ですから、御体への報いをお受けになりました。栄光の御復活です。私たちも、キリストの神秘体のメンバーすべてに対する報いを信じています。キリストと共に死に至るまで忠実であるならば、キリストと共に栄光を受け、最後の日に栄光のうちによみがえり、キリストと共に天国で限りない幸せを得るのです。私たちの主イエズス・キリストは「万物を支配下に置くことによって、私たちの卑しい体を光栄の体のかたどりに変えられるであろう」(フィリッピ3章21節)。

これは信仰箇条です。「われは…肉身のよみがえりを信じ奉る」。ただ、私たちの主イエズス・キリストが言われたこと、復活には二種類あるということを知っておく必要があります。義人の復活は栄光の体と共に栄光に入ります。義人は「永遠の命」を得るのですから、主はそれを「命のよみがえり」と呼ばれます。しかし、復活にはもう一つあります。悪人の「罰のためのよみがえり」です。悪人の体は霊魂と再び結ばれますが、それは霊魂が罰を受け、地獄の宣告を受けるためです。これが完全な正義です。実際、その体は罪と共にあったため、罰と共にあるのが正義なのです。私たちの主イエズス・キリストのお言葉はこうです。「善を行った人は命のために、悪を行った人は永遠の罰のためによみがえる 」(ヨハネ5章29節)。

世のあらゆる不潔なことから自分の体を守ることは、栄光の復活に参加するために価値のあることなのです。世の誤った楽しみで自分の体を堕落させ、その報いを永遠に支払わねばならないのであれば、そんなことをする意味があるでしょうか。このように、童貞を捧げることは、天使の徳と呼ばれます。それは、もうすでに復活の命を実践しているからです。「復活の時の人間は、めとりもせず、嫁ぎもせず、天にいる天使と同じようなものになる」(マテオ22章30節)。

復活の時には、人は栄光の体を持ちますが、それだけでなく、天使たちや聖人たちとの交わることもできます。それは天国であってこの世ではありませんから、もはや善と悪が交じり合っているのではなく、善い者たち、聖人たちとのみ交わります。まことに驚くべきことです。この世での友との交わりが良いものであるならば、天国での聖人たちや天使たちとの交わりは実に素晴らしいものでしょう。

復活の時には、天主を見ることができます。これは聖人たちと交わるという喜びを無限に超えた喜びです。聖ヨハネは言います。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章1-3節)。さらに聖パウロは言います。「今私たちは鏡を見るようにぼんやりと見ている。だがそのときには顔と顔を合わせて見るであろう」(一コリント13章12節)。

私たちの主イエズス・キリストは私たちに、ご聖体により、この体を復活させてくださる美しい保証を与えてくださいました。復活された主の御体を実際に頂くことによって、私たちは主と共に復活するというしるしと保証を得るのです。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)。もちろん、ご聖体を頂くのにふさわしくなければなりません。なぜなら、ご聖体について乱用があるならば、正反対になってしまうからです。「主のお体をわきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばきを飲食することである」(一コリント11章29節)。

主は、いとも聖なる御母の御体を復活させることによって、私たちの体も復活させてくださるという二番目の保証をお与えになりました。聖母の被昇天において、主は、世の終わりに教会の残りの人々に対してなさるであろうことを、すでに聖母に対してなさいました。御体とご霊魂において、聖母はすでに地上でもっとも美しい女性でしたが、今やさらに美しい方となられました。聖母は地上において私たちの主イエズス・キリストを完全にまねておられたため、天において主と共に栄光を受けるべき方だったのです。

童貞聖マリアに祈りましょう。私たちの主イエズス・キリストの権威に信頼して、私たちが希望の徳を増し、聖母の復活と似た栄光の復活を私たちが望むよう、聖母が取り次いでくださいますように。この権威によって主はご自分の御体を復活なさいました。主はおっしゃいました。「私には私の命を与える権威があり、また取り戻す権威もある」(ヨハネ10章18節)。この権威によって主は聖母の御体を復活させられました。この同じ権威によって、主は私たちの体を復活させてくださるのです。聖母に祈りましょう。聖母が十字架の下から最後に至るまで主に忠実でおられたように、私たちもこの背教と裏切りの時代において私たちの主イエズス・キリストに忠実であり、全時代の信仰に忠実であり、聖人たちの道徳に忠実であり、聖人たちの典礼に忠実であるようお助けくださいますように。

アーメン。





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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