2014年10月26日(主日)王たるキリストの大祝日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)
「私は王である。私は真理を証明する為に、この世にやって来た。そして真理の者は、私の声を聞く。」
聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は王たるキリストの大祝日です。
このミサの直後に退場の歌の前に、教皇ピオ十一世の意向に従って、イエズスの聖心に、王たるキリストに人類を奉献する祈りを唱えたいと思いますので、皆さんどうぞ心を合わせて唱えて下さい。
今日は王たるキリストの祝日ですので、では、私たちにとって「イエズス様が王である」というのはどういう事なのか?一体どんな意味があるのか?一体イエズス様が王であるという事は、私たちの生活にどんな影響を与えるのか?私たちは口で、「イエズス様、王様、万歳!」と言えばそれで良いのか?という事を黙想してみる事を提案します。
⑴そこで今日はまず、「イエズス様が王である」とは一体何なのか?一体何で王と言えるのか?王であるという事はどういう事か?という事を見て、
⑵では、イエズス様を王でないとする人は、一体どんな事を主張して、どんなプログラムを立てているのか?
⑶では私たちは、もしイエズス様を王とするならば、どんなプログラムがあるのか?そして、じゃあそのプログラムに従って私たちは、どんな生活を毎日送っていかなければならないのか?という事を黙想します。
⑴では第1番目に、イエズス様は何で一体王なのでしょうか?王というのはどういう意味を持っているのでしょうか?
「イエズス様が王である」というのは、聖書にも書かれている事ですし、そしてイエズス様も御自身で仰った事です。では、これがどういう意味かという事は、その理由が2つあります。
1つは、「イエズス様は本性によって天主である」という事によって。つまり、「この全てを創造した創造主である」「その創造主が人となった」という事によって。「創造主としてイエズス・キリスト様は、創造主としての権利を持っている」という事です。
つまり、「全てのものを支配している、全てのものを所有している天主として、王である」という事です。
もう1つの理由があります。イエズス・キリスト様は、人間として、ただし、「私たちの霊魂を贖った贖い主として、霊魂の王である」という事です。
イエズス様は私たち罪人の為に、悪魔の罪の奴隷であった私たちの為に、この私たちを悪魔の王国から、悪魔の奴隷状態から、悪魔の支配下にあった、死の影にあった私たちを光の国に戻す、導き出す為に、戻す為に、御自分の天主としての血潮を流して、私たちの為に、金や銀を遥かに超える、天主のいと貴き代価を払って、苦しみの代価を払って、私たちの霊魂を買い戻した、そして贖い主として、つまり、「悪魔の手から私たちを奪い取った、征服王として」私たちの王であります。 ですから、私たちがイエズス・キリストの事を、「王様のようなものである」と言うと、これは間違いになります。イエズス様は、描写あるいは比喩としての王ではなくて、まさに私たちの霊魂を本当の意味で買い取って、本当の意味で私たちがその悪魔の支配からイエズス・キリストの支配の下にいる、イエズス・キリストのしもべ、という意味で、真にイエズス様は私たちの霊魂の王なのです。
私たちはその事を洗礼の時に約束しました、「私たちは、悪魔と、その業と、その栄華を全て捨てる。そしてイエズス・キリストのしもべになる。イエズス・キリストの永遠の命の国に入る」という事を約束しました。
そしてそれ以後、私たちはイエズス・キリストを真に王として、贖い主として認め、その臣下に入った者です。
その時に、私たちは単なる王のしもべとなっただけではありません。イエズス様の特別の御計らいと、憐れみと、寛大な聖心によって、私たちの霊魂に、王の特権が、王の家族の一員であるという身分が、そして私たちの血潮には、御聖体拝領によって、王の御血が流れるようになったのです。
考えてもみて下さい。私たちは、私たちがもしも天皇陛下から、「皇室に来て欲しい、皇族の後継ぎになって欲しい」と言われた時の事を考えて下さい。
しかし、「イエズス様の王の下にあり、王の血潮が私たちの動脈に、心臓を打つ動脈に流れている」という事を考えると、「私たちが王の子供となった、養子となった」という事を考えると、私たちにとってどれほど、この王家というものがどれほど素晴らしいか、「この地上の王家を遥かに超える、天主を王とする者になった」という事は、どれほどの事かと想像できると思います。
私たちは、イエズス様を王として仰ぐ、そして私たちが王の家族になっただけではありません。
私たちはしたがって、歴代の教皇様の教えによれば、「イエズス・キリストを王として、私たちの生活から切り離してはならない」と教えています。つまり、「私たちはちょうど霊魂と、」教皇様の比喩によれば、「霊魂と肉体を決して分離する事ができないように(もしも分離してしまうと、肉体は亡んでしまうので)、私たちの生活からイエズス・キリストが王である、という事を決して離してはならない。それと同じく、社会生活からもキリストを離してはならない。教会と国家とも離してはならない」と教えています。
ちょうど今日のミサの集祷文にもあるように、つまり集祷文にはこうあります、“Omnipotens sempiterne Deus, qui in dilecto Filio Tuo, universorum Rege, omnia instaurare voluisti : concede propitius; ut cunctae familiae gentium, peccati vulnere disgregatae, ejus suavissimo subdantur imperio : Qui Tecum…”「全能永遠の天主よ、御身は愛する御一人子、宇宙の王において、全てを集めることを望まれ給いし。罪の傷によって分離した各々の民族の家族が、主のいとも甘美なる御国に従属せんことを、御慈悲によりて与え給え。」
御身は愛する御一人子、宇宙の王において、全てを集めることを、omnia instaurare、望まれ給い。
私たちは、一つになってなければならないものを、決して分離してはなりません。イエズス・キリストは、全てにおいて全てとならなければなりません。私たちの全てとならなければなりません。
これが、「イエズス・キリストが私たちにとって王である」という意味です。
⑵では、私たちの敵は、イエズス・キリストを王と認めないような人たちは、どんな事を計画するでしょうか?
イエズス・キリストを王として認めないという人たちは、いわば闇の勢力は、サタンの勢力は、イエズス・キリストが私たちの霊魂から王でないように、教会においてイエズス・キリストが王でないように、そして国家において王でないように、そのプログラムを作りました。
それによれば、まず、国家を無宗教化させる。キリストのない国家を作る。
第2に、ミサからますますキリストを除外して、人間中心にさせる。キリストの方ではなく、人間に目を向けさせる。そしてこの地上に、この地上の事だけに関心を向けさせる。
第3に、個人においては、ますます罪を犯す機会を増やして、イエズス・キリストの聖寵を霊魂から取り除く。霊魂を非キリスト化させる、反キリスト化させる。そしてイエズス・キリストとその聖寵に無関心の、イエズス・キリストの事を知らない、イエズス・キリストの事を愛さない霊魂たちを作る、というプログラムです。
残念ながら第二バチカン公会議では、このプログラムがまさに成就しつつあります。「イエズス・キリスト様が統治するのは、今ではなく、世の終わりだ」という事で、王たるキリストの祝日が、典例暦年の最終主日にまわされました。
あるいは、『信教の自由』という名前で、今まで国家が、「カトリック教会を国家の宗教としている」という国々があったのですが、しかしそれがもう、「カトリックの宗教を、自分の国の宗教としない」と、バチカンによって宣言させられました。
あるいは、新しいミサによって、「イエズス様、イエズス・キリストの十字架」ではなく、「人間とこの世」を中心にする、ますます関心が向けられるようになっています。
そしてこの世の現代社会は、ますます罪の機会を私たちに提供しようとしています。ポルノやあるいは映画やテレビやインターネットや、あるいは色々な法律などによって、罪を犯すのがますます簡単なように、罪が公認化されつつあります。
⑶では、私たちはそのような今の現代社会に、イエズス・キリストが私たちの霊魂の王であり、私たちがそのイエズス様を王であるとする為に、どうしなければならないのでしょうか?
ルフェーブル大司教様はある日、ラッツィンガー枢機卿にこう言いました。「私たちにとって、イエズス・キリストは全てです(これはちょうど、今日の集祷文と同じです。“全てをキリストにおいて集める。omnia instaurare Christ”)。全ては、私たちにとって全てはイエズス・キリストです。イエズス・キリストは私たちの命です。教会とは私たちの主イエズス・キリストです。司祭とは第2のキリストです。ミサ聖祭とは十字架におけるイエズス・キリストの勝利です。私たちの神学校では全てがイエズス・キリストの統治へと向かっています。しかし枢機卿様、第二バチカン公会議であなたは、その反対をしています。『イエズス・キリストが社会の統治をすることが出来ないし、してはならない』と私に証明しようとしています。『国家は【真の天主を】知らないから』と、不可知論の国家、不可知論の市民社会について私に言います。しかし、私たちにとって、イエズス・キリストは全てです。聖ピオ十世教皇様のモットーに従って全てです。」
ですから私たちも、ルフェーブル大司教様のように、それに倣って、フリーメイソンの全く反対を行くプログラムを、私たちも今でも持つべきです。
つまり第1に、大罪を犯す機会を避けて、イエズス・キリストの聖寵を私たちの良心において、霊魂において保ち続ける、霊魂をますますイエズス・キリストにおいて聖化させる、そして「イエズス・キリストと、成聖の恩寵が、私たちの人生の全てである」という霊魂を作る事です。
また、イエズス・キリストの勝利である、十字架の勝利である「聖伝のミサ」を愛する、イエズス・キリストへと向いている聖伝のミサ聖祭によって、教会をますます聖なるものとする、天主を中心とする、永遠の命をまず大切にする、救霊をまず最優先する、教会を復興させる、という事です。
第3に、イエズス・キリストを信じている、またイエズス・キリストを愛する霊魂たちがますます多くなる事によって、そしてますます多くの大多数の方々がイエズス・キリストを愛するように、信じるようになって、カトリック信仰へと導かれる事によって、国家全てがイエズス・キリストの掟に従う、イエズス・キリストが罪だと定めるものを罪とする国家となるように、そして遂には、天主様の御恵みと憐れみによって、イエズス・キリストが王として公式に認められる国家へと、聖なる国へとなりますように、私たちはそれをプログラムと持たなければなりません。
ちょうど昨日、二年前の実は聖ピオ十世会の総会の決議を読んでいて、この事が高らかに謳えられていたのを見て、「ルフェーブル大司教様の声が総会に生きている」とますます確信致しました。
総会では、「ローマ・カトリック教会が、イエズス・キリストが創立した唯一の教会。それ以外には救霊も、救霊に導くいかなる手段もない教会に対する、ローマ・カトリック教会に対する信仰」を宣言する。
そして「イエズス・キリスト御自身が望んだ、君主的である教会、また地上における代理者である教皇様だけが、普遍的教会を統治する最高の至高の権力を持っている」という信仰を表明して、
そして第3番目に最後に、「自然の秩序と超自然の秩序の全ての創造主であり、全人類と全社会が服従すべき、私たちの主イエズス・キリストの宇宙的王権における私たちの信仰」を表明しています。
私たちもこの総会の宣言にも合わせて、今日のこの聖伝の王たるキリストの信仰にも合わせて、まさに、「私たちの個人も、社会も、全宇宙が服従すべき方は、私たちの主イエズス・キリスト、創造主であり、救世主である、贖い主であるイエズス・キリストである」という事を高らかに宣言しなければなりません。
では、私たちは口でそれを言えば良いのでしょうか?そうではありません。私たちはまず霊魂において、イエズス・キリストが王であるという事を、信仰の実践をしなければなりません。イエズス・キリストの王家に属するものとして、私たちは生活しなければなりません。
私たちが、オリンピックで私たちの祖国の国旗が、金メダルであるいはメダルを取ってこう揚げられると、「あぁ、」誇らしく嬉しく思うように、私たちも王の御旗の下に前進しなければなりません。私たちの王の旗は、「十字架の旗」です。
もしも私たちが本当にイエズス・キリストを王とするならば、単なる口先だけではなく、本当にイエズス様を王として、その臣下として、しもべとして、その子供として生活しなければなりません。イエズス・キリストに本当に従順でなければなりません。そしてイエズス・キリスト様が私たちに与えた、代理者である目上に従順でなければなりません。
もしも本当に私たちの王であるならば、日常の生活も、王の子として、王のしもべとして、その御旗を隠すことなく、私たちはそれを実践しなければなりません。
例えば、食前・食後のお祈りをするとか、あるいはそしてイエズス様に感謝して生活をするとか、あるいは金曜日に小斎を守るとか、あるいは子供たちにイエズス様の教えを教える、その為に犠牲を払うとか。
あるいは、王の御旗に逆らうものは、私たちから遠ざけなければなりません。例えば、悪しき交際や、悪しき画像や、動画、ちまたに溢れるわいせつなもの等を、私たちは遠ざけなければなりません。王の聖心に逆らうようなものを、私たちから遠ざけなければなりません。
もしも本当に、私たちが本当に王のしもべであるならば、王の通る道を、私たちも通っていかなければなりません。すなわち、イエズス様が先頭を切って通る王の道は、「十字架の道」であります。「十字架」という隠された永遠の宝を見出さなければなりません。「十字架」という王の旗を愛さなければなりません。
王の敵は、「この世とこの世の精神」と、「悪魔」と、「肉欲」です。三つの仇を十字架によって勝たなければなりません。謙遜によって傲慢に勝ち、清貧によって貪欲に勝ち、苦しみを愛する事によって官能の情欲を打ち負かさなければなりません。
では最後に、私たちはイエズス様を王としてどのように生活しているでしょうか?罪の機会をどのように避けているでしょうか?イエズス・キリストに背いてはいないでしょうか?キリストのしもべらしく生活しているでしょうか?
この王たるキリストの祝日において、私たちはこれを考えて、一つ、イエズス様の聖心に適う何か遷善の決心を立てる事に致しましょう。
私たちの女王であり、母であり、そしていつもイエズス様を離れる事のないマリア様が、願わくは私たちを助けて、イエズス様をいつも王として生きる御恵みを取り次いで下さいますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)
「私は王である。私は真理を証明する為に、この世にやって来た。そして真理の者は、私の声を聞く。」
聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は王たるキリストの大祝日です。
このミサの直後に退場の歌の前に、教皇ピオ十一世の意向に従って、イエズスの聖心に、王たるキリストに人類を奉献する祈りを唱えたいと思いますので、皆さんどうぞ心を合わせて唱えて下さい。
今日は王たるキリストの祝日ですので、では、私たちにとって「イエズス様が王である」というのはどういう事なのか?一体どんな意味があるのか?一体イエズス様が王であるという事は、私たちの生活にどんな影響を与えるのか?私たちは口で、「イエズス様、王様、万歳!」と言えばそれで良いのか?という事を黙想してみる事を提案します。
⑴そこで今日はまず、「イエズス様が王である」とは一体何なのか?一体何で王と言えるのか?王であるという事はどういう事か?という事を見て、
⑵では、イエズス様を王でないとする人は、一体どんな事を主張して、どんなプログラムを立てているのか?
⑶では私たちは、もしイエズス様を王とするならば、どんなプログラムがあるのか?そして、じゃあそのプログラムに従って私たちは、どんな生活を毎日送っていかなければならないのか?という事を黙想します。
⑴では第1番目に、イエズス様は何で一体王なのでしょうか?王というのはどういう意味を持っているのでしょうか?
「イエズス様が王である」というのは、聖書にも書かれている事ですし、そしてイエズス様も御自身で仰った事です。では、これがどういう意味かという事は、その理由が2つあります。
1つは、「イエズス様は本性によって天主である」という事によって。つまり、「この全てを創造した創造主である」「その創造主が人となった」という事によって。「創造主としてイエズス・キリスト様は、創造主としての権利を持っている」という事です。
つまり、「全てのものを支配している、全てのものを所有している天主として、王である」という事です。
もう1つの理由があります。イエズス・キリスト様は、人間として、ただし、「私たちの霊魂を贖った贖い主として、霊魂の王である」という事です。
イエズス様は私たち罪人の為に、悪魔の罪の奴隷であった私たちの為に、この私たちを悪魔の王国から、悪魔の奴隷状態から、悪魔の支配下にあった、死の影にあった私たちを光の国に戻す、導き出す為に、戻す為に、御自分の天主としての血潮を流して、私たちの為に、金や銀を遥かに超える、天主のいと貴き代価を払って、苦しみの代価を払って、私たちの霊魂を買い戻した、そして贖い主として、つまり、「悪魔の手から私たちを奪い取った、征服王として」私たちの王であります。 ですから、私たちがイエズス・キリストの事を、「王様のようなものである」と言うと、これは間違いになります。イエズス様は、描写あるいは比喩としての王ではなくて、まさに私たちの霊魂を本当の意味で買い取って、本当の意味で私たちがその悪魔の支配からイエズス・キリストの支配の下にいる、イエズス・キリストのしもべ、という意味で、真にイエズス様は私たちの霊魂の王なのです。
私たちはその事を洗礼の時に約束しました、「私たちは、悪魔と、その業と、その栄華を全て捨てる。そしてイエズス・キリストのしもべになる。イエズス・キリストの永遠の命の国に入る」という事を約束しました。
そしてそれ以後、私たちはイエズス・キリストを真に王として、贖い主として認め、その臣下に入った者です。
その時に、私たちは単なる王のしもべとなっただけではありません。イエズス様の特別の御計らいと、憐れみと、寛大な聖心によって、私たちの霊魂に、王の特権が、王の家族の一員であるという身分が、そして私たちの血潮には、御聖体拝領によって、王の御血が流れるようになったのです。
考えてもみて下さい。私たちは、私たちがもしも天皇陛下から、「皇室に来て欲しい、皇族の後継ぎになって欲しい」と言われた時の事を考えて下さい。
しかし、「イエズス様の王の下にあり、王の血潮が私たちの動脈に、心臓を打つ動脈に流れている」という事を考えると、「私たちが王の子供となった、養子となった」という事を考えると、私たちにとってどれほど、この王家というものがどれほど素晴らしいか、「この地上の王家を遥かに超える、天主を王とする者になった」という事は、どれほどの事かと想像できると思います。
私たちは、イエズス様を王として仰ぐ、そして私たちが王の家族になっただけではありません。
私たちはしたがって、歴代の教皇様の教えによれば、「イエズス・キリストを王として、私たちの生活から切り離してはならない」と教えています。つまり、「私たちはちょうど霊魂と、」教皇様の比喩によれば、「霊魂と肉体を決して分離する事ができないように(もしも分離してしまうと、肉体は亡んでしまうので)、私たちの生活からイエズス・キリストが王である、という事を決して離してはならない。それと同じく、社会生活からもキリストを離してはならない。教会と国家とも離してはならない」と教えています。
ちょうど今日のミサの集祷文にもあるように、つまり集祷文にはこうあります、“Omnipotens sempiterne Deus, qui in dilecto Filio Tuo, universorum Rege, omnia instaurare voluisti : concede propitius; ut cunctae familiae gentium, peccati vulnere disgregatae, ejus suavissimo subdantur imperio : Qui Tecum…”「全能永遠の天主よ、御身は愛する御一人子、宇宙の王において、全てを集めることを望まれ給いし。罪の傷によって分離した各々の民族の家族が、主のいとも甘美なる御国に従属せんことを、御慈悲によりて与え給え。」
御身は愛する御一人子、宇宙の王において、全てを集めることを、omnia instaurare、望まれ給い。
私たちは、一つになってなければならないものを、決して分離してはなりません。イエズス・キリストは、全てにおいて全てとならなければなりません。私たちの全てとならなければなりません。
これが、「イエズス・キリストが私たちにとって王である」という意味です。
⑵では、私たちの敵は、イエズス・キリストを王と認めないような人たちは、どんな事を計画するでしょうか?
イエズス・キリストを王として認めないという人たちは、いわば闇の勢力は、サタンの勢力は、イエズス・キリストが私たちの霊魂から王でないように、教会においてイエズス・キリストが王でないように、そして国家において王でないように、そのプログラムを作りました。
それによれば、まず、国家を無宗教化させる。キリストのない国家を作る。
第2に、ミサからますますキリストを除外して、人間中心にさせる。キリストの方ではなく、人間に目を向けさせる。そしてこの地上に、この地上の事だけに関心を向けさせる。
第3に、個人においては、ますます罪を犯す機会を増やして、イエズス・キリストの聖寵を霊魂から取り除く。霊魂を非キリスト化させる、反キリスト化させる。そしてイエズス・キリストとその聖寵に無関心の、イエズス・キリストの事を知らない、イエズス・キリストの事を愛さない霊魂たちを作る、というプログラムです。
残念ながら第二バチカン公会議では、このプログラムがまさに成就しつつあります。「イエズス・キリスト様が統治するのは、今ではなく、世の終わりだ」という事で、王たるキリストの祝日が、典例暦年の最終主日にまわされました。
あるいは、『信教の自由』という名前で、今まで国家が、「カトリック教会を国家の宗教としている」という国々があったのですが、しかしそれがもう、「カトリックの宗教を、自分の国の宗教としない」と、バチカンによって宣言させられました。
あるいは、新しいミサによって、「イエズス様、イエズス・キリストの十字架」ではなく、「人間とこの世」を中心にする、ますます関心が向けられるようになっています。
そしてこの世の現代社会は、ますます罪の機会を私たちに提供しようとしています。ポルノやあるいは映画やテレビやインターネットや、あるいは色々な法律などによって、罪を犯すのがますます簡単なように、罪が公認化されつつあります。
⑶では、私たちはそのような今の現代社会に、イエズス・キリストが私たちの霊魂の王であり、私たちがそのイエズス様を王であるとする為に、どうしなければならないのでしょうか?
ルフェーブル大司教様はある日、ラッツィンガー枢機卿にこう言いました。「私たちにとって、イエズス・キリストは全てです(これはちょうど、今日の集祷文と同じです。“全てをキリストにおいて集める。omnia instaurare Christ”)。全ては、私たちにとって全てはイエズス・キリストです。イエズス・キリストは私たちの命です。教会とは私たちの主イエズス・キリストです。司祭とは第2のキリストです。ミサ聖祭とは十字架におけるイエズス・キリストの勝利です。私たちの神学校では全てがイエズス・キリストの統治へと向かっています。しかし枢機卿様、第二バチカン公会議であなたは、その反対をしています。『イエズス・キリストが社会の統治をすることが出来ないし、してはならない』と私に証明しようとしています。『国家は【真の天主を】知らないから』と、不可知論の国家、不可知論の市民社会について私に言います。しかし、私たちにとって、イエズス・キリストは全てです。聖ピオ十世教皇様のモットーに従って全てです。」
ですから私たちも、ルフェーブル大司教様のように、それに倣って、フリーメイソンの全く反対を行くプログラムを、私たちも今でも持つべきです。
つまり第1に、大罪を犯す機会を避けて、イエズス・キリストの聖寵を私たちの良心において、霊魂において保ち続ける、霊魂をますますイエズス・キリストにおいて聖化させる、そして「イエズス・キリストと、成聖の恩寵が、私たちの人生の全てである」という霊魂を作る事です。
また、イエズス・キリストの勝利である、十字架の勝利である「聖伝のミサ」を愛する、イエズス・キリストへと向いている聖伝のミサ聖祭によって、教会をますます聖なるものとする、天主を中心とする、永遠の命をまず大切にする、救霊をまず最優先する、教会を復興させる、という事です。
第3に、イエズス・キリストを信じている、またイエズス・キリストを愛する霊魂たちがますます多くなる事によって、そしてますます多くの大多数の方々がイエズス・キリストを愛するように、信じるようになって、カトリック信仰へと導かれる事によって、国家全てがイエズス・キリストの掟に従う、イエズス・キリストが罪だと定めるものを罪とする国家となるように、そして遂には、天主様の御恵みと憐れみによって、イエズス・キリストが王として公式に認められる国家へと、聖なる国へとなりますように、私たちはそれをプログラムと持たなければなりません。
ちょうど昨日、二年前の実は聖ピオ十世会の総会の決議を読んでいて、この事が高らかに謳えられていたのを見て、「ルフェーブル大司教様の声が総会に生きている」とますます確信致しました。
総会では、「ローマ・カトリック教会が、イエズス・キリストが創立した唯一の教会。それ以外には救霊も、救霊に導くいかなる手段もない教会に対する、ローマ・カトリック教会に対する信仰」を宣言する。
そして「イエズス・キリスト御自身が望んだ、君主的である教会、また地上における代理者である教皇様だけが、普遍的教会を統治する最高の至高の権力を持っている」という信仰を表明して、
そして第3番目に最後に、「自然の秩序と超自然の秩序の全ての創造主であり、全人類と全社会が服従すべき、私たちの主イエズス・キリストの宇宙的王権における私たちの信仰」を表明しています。
私たちもこの総会の宣言にも合わせて、今日のこの聖伝の王たるキリストの信仰にも合わせて、まさに、「私たちの個人も、社会も、全宇宙が服従すべき方は、私たちの主イエズス・キリスト、創造主であり、救世主である、贖い主であるイエズス・キリストである」という事を高らかに宣言しなければなりません。
では、私たちは口でそれを言えば良いのでしょうか?そうではありません。私たちはまず霊魂において、イエズス・キリストが王であるという事を、信仰の実践をしなければなりません。イエズス・キリストの王家に属するものとして、私たちは生活しなければなりません。
私たちが、オリンピックで私たちの祖国の国旗が、金メダルであるいはメダルを取ってこう揚げられると、「あぁ、」誇らしく嬉しく思うように、私たちも王の御旗の下に前進しなければなりません。私たちの王の旗は、「十字架の旗」です。
もしも私たちが本当にイエズス・キリストを王とするならば、単なる口先だけではなく、本当にイエズス様を王として、その臣下として、しもべとして、その子供として生活しなければなりません。イエズス・キリストに本当に従順でなければなりません。そしてイエズス・キリスト様が私たちに与えた、代理者である目上に従順でなければなりません。
もしも本当に私たちの王であるならば、日常の生活も、王の子として、王のしもべとして、その御旗を隠すことなく、私たちはそれを実践しなければなりません。
例えば、食前・食後のお祈りをするとか、あるいはそしてイエズス様に感謝して生活をするとか、あるいは金曜日に小斎を守るとか、あるいは子供たちにイエズス様の教えを教える、その為に犠牲を払うとか。
あるいは、王の御旗に逆らうものは、私たちから遠ざけなければなりません。例えば、悪しき交際や、悪しき画像や、動画、ちまたに溢れるわいせつなもの等を、私たちは遠ざけなければなりません。王の聖心に逆らうようなものを、私たちから遠ざけなければなりません。
もしも本当に、私たちが本当に王のしもべであるならば、王の通る道を、私たちも通っていかなければなりません。すなわち、イエズス様が先頭を切って通る王の道は、「十字架の道」であります。「十字架」という隠された永遠の宝を見出さなければなりません。「十字架」という王の旗を愛さなければなりません。
王の敵は、「この世とこの世の精神」と、「悪魔」と、「肉欲」です。三つの仇を十字架によって勝たなければなりません。謙遜によって傲慢に勝ち、清貧によって貪欲に勝ち、苦しみを愛する事によって官能の情欲を打ち負かさなければなりません。
では最後に、私たちはイエズス様を王としてどのように生活しているでしょうか?罪の機会をどのように避けているでしょうか?イエズス・キリストに背いてはいないでしょうか?キリストのしもべらしく生活しているでしょうか?
この王たるキリストの祝日において、私たちはこれを考えて、一つ、イエズス様の聖心に適う何か遷善の決心を立てる事に致しましょう。
私たちの女王であり、母であり、そしていつもイエズス様を離れる事のないマリア様が、願わくは私たちを助けて、イエズス様をいつも王として生きる御恵みを取り次いで下さいますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。