アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
大阪での聖伝のミサについて、次のような報告を頂きました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介することをお許し下さい。レネー神父様のお説教についてはお知らせしましたが、もう一度掲載いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
大阪での5月の主日の御ミサの報告です。
5月17日 御昇天後の主日の歌ミサには18名が、 5月18日 月曜日 殉教者聖ヴェナンチオのミサには12名が御ミサに与る御恵みをいただきました。 デオグラチアス! 主日の御ミサの後、聖霊降臨を迎える準備として聖霊の役割について公教要理をして頂きました。 月曜日は朝6時半からの早朝の御ミサでしたが、12名が与ることが出来て片づけも大変スムーズに終わりました。(12名は全てM.I の騎士たちでした!) 過酷なスケジュールのなか日本へ宣教 に来て下さる神父様がたに感謝いたします。 この度ふと思ったのですが、こんな少数の羊たちの為に大きな犠牲を払ってくださる神父様方のお姿を通して、イエズス様とマリア様は私達一人一人の霊魂の事を本当に愛して救おうとして下さっているのだなと感じました。ですから私達も頂いたおおきな御恵みを精一杯受けて、マリア様を通して全てをお返ししなければと思いました。 レネー神父様の主日のお説教と公教要理は以下のとおりです。 主の御昇天後の主日の説教―大阪 「私は父から出て世に来たが、 今や世を去って父のもとに行く」 (ヨハネ16章28節) 最後の晩餐の間に、私たちの主イエズス・キリストはこの言葉を言われました。これによって、主は御昇天を予言なさったのです。単純で理解しやすいように思えますが、これは偉大な神秘であり、黙想するのにふさわしい美しさがあります。 表面的に理解するのなら、故郷の町を離れて友を訪ね、そして故郷に帰る人のようだと考えられるでしょう。しかし、これはまさに世俗的な理解に過ぎません。実際、天主は霊的でどこにでもおられます。では、「私は父から出て」とはどういう意味でしょうか。また御父はどこにでもおられるのですから、「父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか。 聖ヨハネ福音書(3章)の最初のニコデモとの会話の中にある、私たちの主イエズス・キリストのもう一つの言葉が、おそらくこの初めの「私は父から出て」という言葉を理解するのを助けてくれるでしょう。イエズスは言われました。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。主はまた、後にファリザイ人に言われました。「あなたたちは下からの者であり、私は上からの者である」(ヨハネ8章23節)。 私たちは皆、天主によって造られましたが、私たちの主イエズス・キリストは、まったく違った方法で御父から来られました。私たちは「天主によって無から造られ」ました。私たちの主イエズス・キリストは、私たちが信経で言うように、「造られずして[御父から]生まれ」た天主の御子です。主の本性そのものは御父の本性から来ているのであり、その本性は造られたのではありません。さて、天主は本質的に霊的であり、「切り分け」られませんから、御父が天主の本性の「一部」を御子にお与えになることはできませんでした。つまり御父は御子に天主の本性全体をお与えになったのです。ですから、「御父から生まれ」たというのは、御父の天主の本性全体を受けたとい うことであり、ですから御父と等しいということです。これが、主が「私は父から出た」という言葉でおっしゃっていることなのです。私は父の愛する独り子、永遠において父から生まれたのである、ということです。 実際、天主にとっては時間というものはありません。永遠の中のある瞬間、常に現在であって過ぎ去ることは決してない安定したある瞬間、その瞬間において御父はみ言葉を発し給い、御子をお生みになり、御子は天主の本性をすべて所有し、御父と等しい者として、完璧にお生まれになったのです。聖パウロが言うように、キリストは、「天主と等しい」(フィリッピ2章6節)ことを固持しようとされませんでした。ファリザイ人たちはこのことをよく理解していましたから、「自分を天主と等しい者としたという理由で」主を石殺しにしようとしました。彼らは信じることを拒絶しましたが、主が言われたことをよく理解していたのです。ですから反対に、主は彼らに、ご自分のことを誤解しているとは言われませんでした。 御父は御子を物質的な方法ではお生みになりません。天主は純粋な霊です。御子は「天主のみ言葉」です。実際、霊の最初の活動は考えることであり、私たちでさえそうです。天主は私たちに知性をお与えになりました。私たちが考えるとき、心の中で自分に話しかけます。それを、「概念、英語ではコンセプト(concept)」、つまり考えを持つ、と言います。そのような考えを「コンセプト(concept)」と呼ぶのは、私たちがそれを孕む(英語ではconceiveという)からです。しかし私たちにとっては、私たちの考えが非常に小さいため、むしろ、英語で同じように「コンセプト(concept)」と呼ばれる小さな胎児のようなものです。ですから私たちは、私たちの周りの世界をもう少し理解するためにもたくさんの考えを必要とします。しかし天主は完全です。天主はすべてのものを一度に理解しておられ、天主が知っておられることのすべて、天主が天主であることのすべてを十分に言い表す一つの完全な言葉によって、天主の無限の知識全体を表現されたのです。これこそが天主のみ言葉です。この天主のみ言葉はまことに完全ですから、小さな「コンセプト」ではなく、完全に大人に成長した御子であって御父と等しい御者です。実際、天主が何者であるかを的確に表現しうるのは、天主をおいてありません。御子は永遠の知恵のみ言葉、それによってすべてのものが造られた 全能のみ言葉、すべてを包み込むみ言葉です。これが、イエズスが「私は父から出た」と言われた意味なのです。預言者は叫びます。「誰がその行く末のために悲しむだろう?」(イザヤ53章8節)。 天主は愛です。このことから、聖トマス・アクィナスが言うように、天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」です。御父と御子はお互いを完全に愛するがゆえに、この燃え上がる火から第三のペルソナが、愛の炎、天主の愛の炎として発出するのです。これが聖霊です。聖霊は聖性の霊であり、実際、聖性はすべてを超えて天主を愛することにあるのです。ですから、その愛も永遠で全能であり、すべてを包み込むのです。 このように、天主の御子は御父のもとから来られました。この世に入って来られたのです。これがご托身です。御子は、童貞聖マリアのいとも清らかなご胎内で、聖霊の御働きによって肉体をお取りになりました。「み言葉は人となって、私たちのうちに住まわれた。(私たちはその栄光を見た。それは、御独り子として御父から受けられた栄光であって、)恩寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)。これを書いた人は祝されて直接の証人になり、私たちの主イエズス・キリストを見て、声を聞いて、お体に触れることさえしました。彼は書簡で言います。「初めからあったこと、私たちの聞いたこと、目で見たこと、眺めて手で触れたこと、すなわち命のみ言葉について―そうだ、この命は現れた、私たちはそれを証明する。御父のみもとにあっていま私たちに現れた永遠の命をあなたたちに告げる―、あなたたちを私たちに一致させるために、私たちは見たこと聞いたことを告げる。私たちのこの一致は、御父と御子イエズス・キリストのものである。私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る」(ヨハネ第一1章1-4節)。これがご托身です。ご托身の目的は次のように美しく述べられます。天主との友好関係、つまり「御父と御子のものである一致」を回復させるためである、と。 この目的を達成することが、まさに贖いのわざなのです。イエズスは救うために来られました。「彼は罪から民を救う方だからである」(マテオ1章21節)。イエズスは十字架によって私たちをお救いになりました。またこれは、「今や世を去って」という一節が意味するところでもあります。実際、私たちは「世を去った霊魂」と言います。死はこの世を去る確実な方法です。このことは、ご自分の死を支配しておられた私たちの主イエズス・キリストにずっとよく当てはまります。ですから主は言われました。「私が命を再び取り戻せるよう自分の命を与えるからである。その命は私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権威があり、また取り戻す権威もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章17-18節)。 しかし、主はその死のすぐあとの三日目に復活されましたから、「いまや世を去って」という言葉を御昇天にも適用できるのではないでしょうか。実際、御昇天の日は、使徒たちが肉体の目で主を見た最後の日でした。主は使徒たちを祝福しながら天に昇られ、雲に包まれ、使徒たちはもう主を見なくなりました。ですから、主はこの世を去られたのです。 聖トマス・アクィナスは、御昇天は多くの点で私たちに有益であったと教えています。第一に、御昇天は私たちの心を天のものに引きつけてくれます。「あなたの宝のあるところには、あなたの心もある」(マテオ6章21節)。私たちの宝は私たちの主イエズス・キリストであり、今や主は天におられます。ですから、私たちの心は天にあるべきです。聖パウロは言います。「あなたたちがキリストと共によみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座し給う。地上のことではなく上のことを慕え。あなたたちは[罪に/この世界に]死んだ者であって、その命はキリストと共に天主の国の中に隠されているからである」(コロサイ3章1-3節)。 第二に、御昇天は信仰に対するより大きな功徳を与えてくれます。もし、私たちが地上のどこかへ行って、復活してまだ生きておられるキリストを見ることができるとすれば、私たちの信仰が受ける功徳は今よりずっと小さくなることでしょう。しかし、今は「私を見ずに信じる人は幸いである」(ヨハネ20章29節)。 第三に、御昇天は私たちのキリストに対する崇敬を増加させます。それは、主が今「全能の御父である天主の右に座し」ておられるからです。そのため、主に対する愛をも増加させるのです。 第四に、主が「私はあなたたちのために場所を準備しに行く。そして、行って場所を準備したら、あなたたちを共に連れていくために帰ってくる。私のいる所にあなたたちも来させたいからである」(ヨハネ14章2-3節)と言われたように、主は私たちのための場所を準備なさっているからです。 最後に大切なことですが、御父の右で、主は聖パウロが言うように「私たちのために取り次ごうとして常に生き」(ヘブライ7章25節)ておられるからです。 このように、「今やこの世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16章28節)というのは、御昇天を表しています。しかし、御昇天には二つの側面があります。一つはこの世からの出発であり、これは目に見え、理解しやすいものです。もう一つは到着です。これは理解するのは簡単ではありません。実際、天主はどこにでもおられるのですから、「私は父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか? 聖トマス・アクィナスがすでに説明したように、私たちの主イエズス・キリストは天主の本性ばかりでなく、人間の本性においてもすべての被造物、最も高位の天使たちをも超えておられるということを意味しているのは確実です。これが「全能の父なる天主の右に座し給う」ことの意味していることです。主の栄光は、主の犠牲に対する報いであり、贖いのわざへの報いです。聖パウロはいいます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで天主はキリストを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも皆ひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の光栄をあがめ、『イエズ ス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章8-11節)。 しかし私は、この「父のもとに帰る」にはさらに意味があると思います。聖パウロはコリント人へ言います。「すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る。そかしそこに順序があり、まず初穂であるキリスト、次に、来臨の時キリストの者である人々が続く。そして終わりが来る。そのときキリストはすべての権勢、能力、権力を倒し、父なる天主に国を渡される。キリストはすべての敵をその足の下に置くまで支配せねばならぬ。最後の敵として倒されるのは死である。『天主は、すべてをその足の下に置き給うた』からである。…すべてのものがその下に置かれるとき、子自らもすべてをご自分の下に置いたお方に服従するであろう。それは天 主がすべてにおいてすべてとなるためである」(コリント第一15章22-28節)。 この「初穂」という言葉そのものが、いけにえの意味を背景にしていることを示しています。すべての木や動物の初穂は、旧約においては天主に捧げられねばなりませんでした。今ここで聖パウロが言うのは、キリストは(その人間の本性において)天主に捧げられた人類の「初穂」として最初に復活し、その後、キリストの神秘体のメンバー、そしてほかのすべての人々が復活するということです。その後、キリストは「父なる天主に国を渡される」のです。これも捧げものをすることであり、キリストがこの世から御父のもとへお戻りになるのは、お一人だけでなく、天主の栄光への捧げものとしてキリストの神秘体のメンバーと共にお戻りになるのです。実際、イエズスはニコデモに言われました 。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。これは、誰も天に昇る者はいないという意味でしょうか? 聖アウグスティヌスは言います。「主はお一人で天から下って来られたが、天に戻られるのはキリストの神秘体、すなわち教会のメンバー、その良きメンバーと共にである。その前に主は、世の終わりの大審判において、ご自分の国から恥ずべきことをすべて洗い流される」。 ですから、天の聖人たちは「御父に渡され、捧げられ」ています。聖人たちは永遠に生きますが、自分たちのためではなく、いとも聖なる三位一体の栄光のために生きるのです。ここにこそ、聖人たちの至福、終わりなき幸いがあるのであり、至高なる善(である天主)における喜びがあるのです。自分たちのために生きるのではなく、天主のために生き、天主において喜ぶのです。 御昇天においては、この側面が大変重要だと私は思います。キリストはその任務を果たされ、御父のもとに戻られます。しかし、お一人だけではありません。その戦利品である聖人たちと共に戻られます。そして、彼らを御父にお捧げになるのです。主は彼らを祝福し、御父と顔と顔を合わせて見るように、み言葉を聞くように、聖霊の愛と共に永遠に燃えるようにさせてくださるのです。このように、御昇天が完成するのは、キリストの神秘体全体がそのかしらと共にいるようになるときです。主が、次の驚くべき祈りをなさったように。「父よ、あなたの与え給うた人々が、私のいる所に、私と共にいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた光栄を、彼らに見せるためであります。あな たは、世の始まるよりも前に、私を愛し給いました」(ヨハネ17章24節)。 親愛なる兄弟の皆さん、キリストにおける贖いという天主のご計画を理解しましょう。そして、地上のものごとすべてを忘れ去ることよって、また心のすべてでこの天の目的を追求することによって、キリストと共にあり、永遠にその栄光を見るというこのご計画に完全に入っていきましょう。そのために、王の右にいる王妃(詩篇44章参照)として、すでにそこにおられる童貞聖マリアに乞い求めましょう。私たちが主イエズス・キリストとその掟に忠実に生き、信仰を守り実践するために全力を尽くし、その結果、天国でのこの究極の目的に到達することができますように。アーメン。御昇天後の主日の 5月17日 大阪 公教要理 親愛なる信者の皆さん、 御昇天の後、教会は聖霊降臨を待ち望んでいます。聖霊はいとも聖なる三位一体の第三のペルソナです。聖霊はまことの天主であります。実際、人は天主に捧げる神殿しか建てることが許されていません。ところで、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント第一3章16節)。その少しあとで、聖パウロはこれをさらにはっきりとさせます。「あなたたちの体はその内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか。まことにあなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント第一6章19-20節)。 私たちの主イエズス・キリストは言われました。「子が何者かを知っているのは父のほかになく、父が何者かを知っているのは、子と子が示しを与えた人のほかにはありません」(マテオ11章27節)。しかし聖パウロは言います。「霊は天主の深みまですべてを見通す」(コリント第一2章10節)と。聖霊はまことの天主であって、御父と御子に等しい者であるがゆえに、天主としてのすべての知識を持っておられるのです。 教会の完全に一致した教えによれば、聖霊は愛によって、愛の炎として御父と御子から発出するとされてます。聖霊は御父と御子の霊です。聖霊は御父によって、そして御子によって送られます。私たちの主イエズス・キリストは、言葉にしがたい聖霊の発出について次のように教えてくださいます。「父のものはすべて私のものである。だから私は、彼[すなわち聖霊」が私のものを受けて、それをあなたたちに知らせると言ったのである」(ヨハネ16章15節)。聖霊は言葉にしがたい方法で御父と御子をつなぐ唯一の愛なのです。 この天主の愛が、天主のみわざすべての原理です(天主が私たちをお造りになったのは、天主が善であり、愛のゆえなのです)。またこの天主の愛が、天主のみわざすべて、特にその最も偉大なみわざであるご托身と贖いの究極の目的です。ですから、童貞聖マリアが私たちの主イエズス・キリストを受胎なさったのは聖霊によってであり、これがイエズスの地上での生涯の始まりでした。その生涯の終わりには、また聖霊によって、主はご自分を十字架上でお捧げになりました。聖パウロは言います。「ましてや永遠の[聖]霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか」( ヘブライ9章14節)。 聖霊は聖性の霊です。聖霊は私たちの心を聖性への望みで燃え上がらせてくださいます。聖性は本質的に愛です。「あなたはすべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて主なる天主を愛せよ。また隣人を自分と同じように愛せよ」(ルカ10章27節)。 聖霊は「真理の霊」(ヨハネ14章17節、15章26節、ヨハネ第一4章6節)です。すなわち、聖霊は真理への愛を私たちにお与えになります(従って、誤謬は真理を台無しにするがゆえに、聖霊は誤謬への嫌悪をも、私たちにお与えになります)。聖霊は新しいことを教えることはなく、むしろ「弁護者すなわち父が私の名によって送り給うた聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。聖霊は新しいことを明らかにされるのではなく、むしろ、私たちの主イエズス・キリストがすでに明らかになさり、使徒たちとその後継者たちが私たちの主イエズス・キリストから継承してきたこと、つまり聖伝を、私たちが思い出し、保持するのを助けてくださるのです。教皇ピオ九世が教皇の不可謬権を定義したとき、「聖霊がペトロとその後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって新しい真理を明らかにするためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝承してきた啓示と信仰の遺産を彼らが聖なるものとして保護し、忠実に説明するためである」(デンツィンガー1836)と述べました。 聖霊の恩寵があるため、真理に苦さはなく、隣人を攻撃するために真理を使うことはありません。むしろ、隣人が真理の光に向かうようやさしく助けるのです。実際、聖パウロは言います。天主は「すべての人が救われて真理を知ることを望まれる」(ティモテオ第一2章4節)のですが、すべての人が真理を知るわけではなく、一部の人は「たえず聖霊に逆らっています」(使徒行録7章51節)。しかし、天主は彼ら全てが真理を知ることを望んでおられ、そのため多くの人々をお助けになるので、天主の恩寵によって多くの人が真理を知るに至るのです。ですから宣教師が必要です。聖霊の炎を至る所で燃え立たせる宣教師です。ルフェーブル大司教は、公会議前には最大の宣教会だった「聖霊修道会」の一員でした。教会の宣教師の召命のために祈りましょう。 聖霊が私たちになされる素晴らしいみわざは、私たちの霊魂に天主の愛を注いでくださることです。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)のです。この愛は霊魂の命です。実際、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)のですが、どんな信仰でもいいのではなく、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)によってです。実際、「善業のない信仰はむなしいもの」(ヤコボ2章20節)なのです。ですから、聖霊は「命の与え主」であり、私たちに愛を与えてくださるので、その愛によって私たちは霊的に生きており、律法を守っているのです。実に、「したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。 あまりにも多くの人々が、愛とはただ愛するというような良い感情だとか、慈善の行いにすぎない、と思っています。これは大変な誤りです。聖ヨハネが「天主は愛である」(ヨハネ第一4章8節)と言うことができたのなら、明らかに愛はそんな感情をずっと超えたものです。私たちの心にある愛は、人を根本から変えてしまうエネルギーであって、聖霊降臨のときのはげしい風のように聖霊から来るのであり、全生涯をかけるところまで霊魂を燃え上がらせ、キリストのために殉教し、命を捧げるほどの用意を私たちにさせるのです。 聖霊は霊的な全生涯にわたって私たちと共にいてくださいます。それは「水と聖霊によって」(ヨハネ3章5節)新たに生まれたときに始まり、そのとき、命の与え主である聖霊はキリストの命にこうして参加させてくださるのです。 愛が私たちの心に及ぼす最初の効果は、私たちが天主に対して自分の心の中で第一の場所をお与えし、すべての活動をこの究極の目的に向けることです。この愛の最初の段階は、「禁欲[、あるいは『浄化』]の生活」にあります。これは、私たちの主イエズス・キリストをおよろこばせしないあらゆるものから、霊魂を浄化するためです。罪とその悪への傾きに対する戦いは愛するための必要条件の一つです。もし人が罪を憎んでいないなら、もし罪の機会を避けることに忠実でないなら、本当に天主を愛してはいません。実際、「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人をうとんずるかである。天主とマンモンとにともに仕 えることはできぬ」(マテオ6章24節)。 私たちは、聖霊の促しに進んでお応えしなければなりません。この聖霊の促しは、どのようにしたら分かるのでしょうか?その促しが私たちを罪から離すのなら(私たちを罪から離そうとしない促しは、聖霊からのものではないのは確実です)、その促しが私たちを私たちの主イエズス・キリストの道に従わせようとするなら、特に謙遜、貞潔、清貧、忍耐など、この世が愛さない主の徳に従わせようとするなら(、それは聖霊の促しです)。 このことを本当に理解した人なら、キリストのためにすべてを捧げるのをためらいません。主は言われました。「イエズスは彼をじっと見つめ、慈しんでこういわれた。『あなたには一つだけ足りない。帰って自分の持ち物をみな売り、貧しい人々に与えよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい』」(マルコ10章21節)。このため教会は、修道生活はキリスト的生活の完成であると教えています。 愛の第二段階は、「照らし(照明)の生活」にあります。照明の生活においては、習慣となった罪を断ち切って、いつも成聖の状態で生き、私たちの主イエズス・キリストをさらに知りさらに愛することに集中します。また徳の実践において主をまねるのです。つまり、主が望まれることを、主が望まれるように、主が望まれるから、行うのです。この水準になると、私たちは「霊の実である愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔」(ガラツィア5章22-23節)を持つようになります。 愛の第三段階は、「一致の生活」です。一致の生活においては、私たちの主イエズス・キリストをもっと完全に愛することに集中し、すべてを通して、特に黙想によって愛を強めるのです。アヴィラの聖テレジアのような偉大な黙想家たちは、この水準で生きていました。聖パウロは、そのような黙想について述べています。「そこで私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように、主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント第二3章18節)。聖霊は、私たちが望むよりずっと高い聖性を私たちが持つよう望んでおられます。聖霊に従いましょう。 聖霊とミサの聖なるいけにえの間には特別な関係があります。実際、愛には二つの側面があります。与えることと一致することです。自分自身を天主へのいけにえとするところまで完全に与えることと、また永遠に天主と完全に一致することです!私たちは、この二つの側面をミサの聖なるいけにえの中に見いだします。いけにえが捧げられる聖変化のとき、私たちは主イエズス・キリストと共に自分自身を捧げます。また聖体拝領のとき、私たちの霊魂は最も深く天主と一致するのです。この一致は人を根本的に変えてしまうもので、永遠において完成することになるのです。 最後に大事なことですが、聖霊と童貞聖マリアの間には大変深い一致があります。「聖霊があなたに下り、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」(ルカ1章35節)。そして実際、聖霊は聖母と共におられます。聖母がエリザベトの家に到着して挨拶されると、「なんとしたことでしょう。あなたの挨拶のみ声が私の耳に入ると、私の子は胎内で喜びおどりました。―エリザベトは聖霊に満たされた」(ルカ1章44、41節)。聖母が奉献のため神殿に行かれたとき、聖霊の導きで聖シメオンは聖母に会いました(ルカ2章27節)。ですから、聖霊が来られるのにふさわしく準備するために、使徒たちや最初の弟子たちは、御昇天から聖霊降臨の間の九日間、聖母の周りに集まっていたのです。 「霊妙なる器」いや、むしろ「聖霊の器」である童貞聖マリアのお助けによって、私たちが聖霊のことをもっとよく知り、豊かな聖霊の賜物を得、聖霊の愛に満たされ、ついには天国へ行くことができますように。 アーメン。
[1] Mt. 10:20, Jn. 14:26, 15:26, Act. 2:33, Rom. 8:11. [2] Mk. 2:8, Act. 16:7, Rom. 8:9, Gal. 4:6, Phil. 1:19, 2 Thess. 2:8, 1 Pet. 1:11. [3] Jn. 14:16, 14:26
[4] Jn. 15:26, 16:7