アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
昨日2015年5月17日の大阪で、レネー神父様がなさって下さった公教要理のお話をご紹介します。
特に、今回は、聖霊について、聖霊とは何か、聖霊が天主の愛であるとどう言うことか、についてお話があります。
聖性の霊、「真理の霊」である聖霊の、私たちの心に及ぼす影響、霊的生活の段階、愛の段階についてお話し下さいます。
また、聖霊とミサの聖なるいけにえとの特別な関係、聖霊と童貞聖マリアの間の深い一致についてもお話しされます。
どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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御昇天後の主日の公教要理(大阪)
親愛なる信者の皆さん、
御昇天の後、教会は聖霊降臨を待ち望んでいます。聖霊はいとも聖なる三位一体の第三のペルソナです。聖霊はまことの天主であります。実際、人は天主に捧げる神殿しか建てることが許されていません。ところで、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント第一3章16節)。その少しあとで、聖パウロはこれをさらにはっきりとさせます。「あなたたちの体はその内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか。まことにあなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント第一6章19-20節)。
私たちの主イエズス・キリストは言われました。「子が何者かを知っているのは父のほかになく、父が何者かを知っているのは、子と子が示しを与えた人のほかにはありません」(マテオ11章27節)。しかし聖パウロは言います。「霊は天主の深みまですべてを見通す」(コリント第一2章10節)と。聖霊はまことの天主であって、御父と御子に等しい者であるがゆえに、天主としてのすべての知識を持っておられるのです。
教会の完全に一致した教えによれば、聖霊は愛によって、愛の炎として御父と御子から発出するとされています。聖霊は御父と御子の霊です。聖霊は御父によって、そして御子によって送られます。私たちの主イエズス・キリストは、言葉にしがたい聖霊の発出について次のように教えてくださいます。「父のものはすべて私のものである。だから私は、彼[すなわち聖霊」が私のものを受けて、それをあなたたちに知らせると言ったのである」(ヨハネ16章15節)。聖霊は言葉にしがたい方法で御父と御子をつなぐ唯一の愛なのです。
この天主の愛が、天主のみわざすべての原理です(天主が私たちをお造りになったのは、天主が善であり、愛のゆえなのです)。またこの天主の愛が、天主のみわざすべて、特にその最も偉大なみわざであるご托身と贖いの究極の目的です。ですから、童貞聖マリアが私たちの主イエズス・キリストを受胎なさったのは聖霊によってであり、これがイエズスの地上での生涯の始まりでした。その生涯の終わりには、また聖霊によって、主はご自分を十字架上でお捧げになりました。聖パウロは言います。「ましてや永遠の[聖]霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか」(ヘブライ9章14節)。
聖霊は聖性の霊です。聖霊は私たちの心を聖性への望みで燃え上がらせてくださいます。聖性は本質的に愛です。「あなたはすべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて主なる天主を愛せよ。また隣人を自分と同じように愛せよ」(ルカ10章27節)。
聖霊は「真理の霊」(ヨハネ14章17節、15章26節、ヨハネ第一4章6節)です。すなわち、聖霊は真理への愛を私たちにお与えになります(従って、誤謬は真理を台無しにするがゆえに、聖霊は誤謬への嫌悪をも、私たちにお与えになります)。聖霊は新しいことを教えることはなく、むしろ「弁護者すなわち父が私の名によって送り給うた聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。聖霊は新しいことを明らかにされるのではなく、むしろ、私たちの主イエズス・キリストがすでに明らかになさり、使徒たちとその後継者たちが私たちの主イエズス・キリストから継承してきたこと、つまり聖伝を、私たちが思い出し、保持するのを助けてくださるのです。教皇ピオ九世が教皇の不可謬権を定義したとき、「聖霊がペトロとその後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって新しい真理を明らかにするためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝承してきた啓示と信仰の遺産を彼らが聖なるものとして保護し、忠実に説明するためである」(デンツィンガー1836)と述べました。
聖霊の恩寵があるため、真理に苦さはなく、隣人を攻撃するために真理を使うことはありません。むしろ、隣人が真理の光に向かうようやさしく助けるのです。実際、聖パウロは言います。天主は「すべての人が救われて真理を知ることを望まれる」(ティモテオ第一2章4節)のですが、すべての人が真理を知るわけではなく、一部の人は「たえず聖霊に逆らっています」(使徒行録7章51節)。しかし、天主は彼ら全てが真理を知ることを望んでおられ、そのため多くの人々をお助けになるので、天主の恩寵によって多くの人が真理を知るに至るのです。ですから宣教師が必要です。聖霊の炎を至る所で燃え立たせる宣教師です。ルフェーブル大司教は、公会議前には最大の宣教会だった「聖霊修道会」の一員でした。教会の宣教師の召命のために祈りましょう。
聖霊が私たちになされる素晴らしいみわざは、私たちの霊魂に天主の愛を注いでくださることです。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)のです。この愛は霊魂の命です。実際、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)のですが、どんな信仰でもいいのではなく、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)によってです。実際、「善業のない信仰はむなしいもの」(ヤコボ2章20節)なのです。ですから、聖霊は「命の与え主」であり、私たちに愛を与えてくださるので、その愛によって私たちは霊的に生きており、律法を守っているのです。実に、「したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。
あまりにも多くの人々が、愛とはただ愛するというような良い感情だとか、慈善の行いにすぎない、と思っています。これは大変な誤りです。聖ヨハネが「天主は愛である」(ヨハネ第一4章8節)と言うことができたのなら、明らかに愛はそんな感情をずっと超えたものです。私たちの心にある愛は、人を根本から変えてしまうエネルギーであって、聖霊降臨のときのはげしい風のように聖霊から来るのであり、全生涯をかけるところまで霊魂を燃え上がらせ、キリストのために殉教し、命を捧げるほどの用意を私たちにさせるのです。
聖霊は霊的な全生涯にわたって私たちと共にいてくださいます。それは「水と聖霊によって」(ヨハネ3章5節)新たに生まれたときに始まり、そのとき、命の与え主である聖霊はキリストの命にこうして参加させてくださるのです。
愛が私たちの心に及ぼす最初の効果は、私たちが天主に対して自分の心の中で第一の場所をお与えし、すべての活動をこの究極の目的に向けることです。この愛の最初の段階は、「禁欲[、あるいは『浄化』]の生活」にあります。これは、私たちの主イエズス・キリストをおよろこばせしないあらゆるものから、霊魂を浄化するためです。罪とその悪への傾きに対する戦いは愛するための必要条件の一つです。もし人が罪を憎んでいないなら、もし罪の機会を避けることに忠実でないなら、本当に天主を愛してはいません。実際、「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人をうとんずるかである。天主とマンモンとにともに仕えることはできぬ」(マテオ6章24節)。
私たちは、聖霊の促しに進んでお応えしなければなりません。この聖霊の促しは、どのようにしたら分かるのでしょうか?その促しが私たちを罪から離すのなら(私たちを罪から離そうとしない促しは、聖霊からのものではないのは確実です)、その促しが私たちを私たちの主イエズス・キリストの道に従わせようとするなら、特に謙遜、貞潔、清貧、忍耐など、この世が愛さない主の徳に従わせようとするなら(、それは聖霊の促しです)。
このことを本当に理解した人なら、キリストのためにすべてを捧げるのをためらいません。主は言われました。「イエズスは彼をじっと見つめ、慈しんでこういわれた。『あなたには一つだけ足りない。帰って自分の持ち物をみな売り、貧しい人々に与えよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい』」(マルコ10章21節)。このため教会は、修道生活はキリスト的生活の完成であると教えています。
愛の第二段階は、「照らし(照明)の生活」にあります。照明の生活においては、習慣となった罪を断ち切って、いつも成聖の状態で生き、私たちの主イエズス・キリストをさらに知りさらに愛することに集中します。また徳の実践において主をまねるのです。つまり、主が望まれることを、主が望まれるように、主が望まれるから、行うのです。この水準になると、私たちは「霊の実である愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔」(ガラツィア5章22-23節)を持つようになります。
愛の第三段階は、「一致の生活」です。一致の生活においては、私たちの主イエズス・キリストをもっと完全に愛することに集中し、すべてを通して、特に黙想によって愛を強めるのです。アヴィラの聖テレジアのような偉大な黙想家たちは、この水準で生きていました。聖パウロは、そのような黙想について述べています。「そこで私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように、主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント第二3章18節)。聖霊は、私たちが望むよりずっと高い聖性を私たちが持つよう望んでおられます。聖霊に従いましょう。
聖霊とミサの聖なるいけにえの間には特別な関係があります。実際、愛には二つの側面があります。与えることと一致することです。自分自身を天主へのいけにえとするところまで完全に与えることと、また永遠に天主と完全に一致することです!私たちは、この二つの側面をミサの聖なるいけにえの中に見いだします。いけにえが捧げられる聖変化のとき、私たちは主イエズス・キリストと共に自分自身を捧げます。また聖体拝領のとき、私たちの霊魂は最も深く天主と一致するのです。この一致は人を根本的に変えてしまうもので、永遠において完成することになるのです。
最後に大事なことですが、聖霊と童貞聖マリアの間には大変深い一致があります。「聖霊があなたに下り、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」(ルカ1章35節)。そして実際、聖霊は聖母と共におられます。聖母がエリザベトの家に到着して挨拶されると、「なんとしたことでしょう。あなたの挨拶のみ声が私の耳に入ると、私の子は胎内で喜びおどりました。―エリザベトは聖霊に満たされた」(ルカ1章44、41節)。聖母が奉献のため神殿に行かれたとき、聖霊の導きで聖シメオンは聖母に会いました(ルカ2章27節)。ですから、聖霊が来られるのにふさわしく準備するために、使徒たちや最初の弟子たちは、御昇天から聖霊降臨の間の九日間、聖母の周りに集まっていたのです。
「霊妙なる器」いや、むしろ「聖霊の器」である童貞聖マリアのお助けによって、私たちが聖霊のことをもっとよく知り、豊かな聖霊の賜物を得、聖霊の愛に満たされ、ついには天国へ行くことができますように。
アーメン。
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Sermon on 17th May 2015, Sunday after the Ascension
My dear brethren,
After the Ascension, the Church is expecting the coming of the Holy Ghost. He is the Third Person of the Most Holy Trinity; He is true God: indeed one may build a temple only to God, now St Paul says: “Know you not, that you are the temple of God, and that the Spirit of God dwelleth in you?” (1 Cor. 3:16). And a little later he is even clearer: “Or know you not, that your members are the temple of the Holy Ghost, who is in you, whom you have from God; and you are not your own? For you are bought with a great price. Glorify and bear God in your body” (1 Cor. 6:19-20).
Our Lord Jesus Christ had said: “no one knoweth the Son, but the Father: neither doth any one know the Father, but the Son, and he to whom it shall please the Son to reveal him” (Mt. 11:27). Yet St Paul tells us: “the Spirit searcheth all things, yea, the deep things of God” (1 Cor. 2:10). The Holy Ghost has that thorough knowledge of God only be because He is true God, equal with the Father and the Son.
The unanimous teaching of the Church is that He proceeds from the Father and the Son by way of love, as a flame of love. The Holy Ghost is the Spirit of the Father and of the Son . He is sent by the Father and by the Son . Our Lord Jesus Christ tells us about that ineffable procession of the Holy Ghost in these words: “All things whatsoever the Father hath, are mine. Therefore I said, that He [the Holy Ghost] shall receive of mine, and shew it to you” (Jn. 16:15). He is the One Love binding them in an effable way.
This Divine love is the principle of all His works (God created us because He is good, out of love), and the ultimate goal of all His works, especially the greatest of all works, the Incarnation and Redemption. Thus it is by the Holy Ghost that the Blessed Virgin Mary conceived our Lord Jesus Christ, at the beginning of the life of Jesus on earth; and at its end, our Lord offered Himself on the Cross also by the Holy Ghost, as St Paul says: “How much more shall the blood of Christ, who by the Holy Ghost offered himself unspotted unto God, cleanse our conscience from dead works, to serve the living God?” (Heb. 9:14).
The Holy Ghost is the Spirit of Holiness; He inflames our heart with the desire for holiness, and holiness essentially consists in charity: “Thou shalt love the Lord thy God with thy whole heart, and with thy whole soul, and with all thy strength, and with all thy mind: and thy neighbour as thyself” (Lk. 10:27).
The Holy Ghost is the “Spirit of Truth” (Jn. 14:17, 15:26, 1Jn 4:6), that is, He gives us the LOVE of the Truth (and hence the detestation of error, since error destroys truth); He does NOT teach NOVELTIES, but rather “the Paraclete, the Holy Ghost, whom the Father will send in my name, he will teach you all things, and bring all things to your mind, whatsoever I shall have said to you” (Jn. 14:26). He does not reveal novelties, but rather helps us to remember and keep that which our Lord Jesus Christ has already revealed, that which has been handed down from our Lord Jesus Christ by the Apostles and their successors: Tradition! When Pope Pius IX defined the infallibility of the Pope, he said that “the Holy Ghost was promised to Peter and his successors, not so that by his revelation new truth may be revealed, but that by His help they might guard sacredly the revelation transmitted through the apostles and the deposit of faith, and might faithfully set it forth” (Dz 1836).
With the grace of the Holy Ghost, there is no bitterness in truth, one does not use truth to crush one’s neighbour, but rather to gently help our neighbour to come to the light of the truth. Indeed St Paul says that God “will have all men to be saved, and to come to the knowledge of the truth” (1 Tim. 2:4), not that all men actually come, some “always resist the Holy Ghost” (Acts 7:51). But God wants them all to come to the truth, and He does help and through His grace many do come. There is need of missionaries, to kindle everywhere the flames of the Holy Ghost: Archbishop Lefebvre was a member of the “Holy Ghost Fathers”, the largest missionary order before the Council. Let us pray for missionary vocations in the Church.
The great work of the Holy Ghost for us is to pour divine Charity in our souls: “the charity of God is poured forth in our hearts, by the Holy Ghost, who is given to us” (Rom. 5:5). This charity is the life of the soul; indeed “The just man liveth by faith” (Rom. 1:17), but not any faith, rather “faith that worketh by charity” (Gal. 5:6); indeed “faith without works is dead?” (Jac. 2:20); therefore the Holy Ghost is the “Life-giver”, giving us charity by which we are spiritually living and fulfil the law, indeed “Love therefore is the fulfilling of the law” (Rom. 13:10).
Too many people think that charity is just a certain nice feeling of love, or certain alms-giving and nothing more. This is a great error! If St John could say: “God is charity” (1 Jn. 4:8), it is evident that charity is much more than such feeling. Charity in our heart is a transforming energy that comes from the Holy Ghost like the great wind of Pentecost, and inflames the soul to the point of taking over our whole life, and makes us ready even to suffer martyrdom and give our life for Christ!
The Holy Ghost accompanies us through our whole spiritual life: it all starts with the new birth “from the water and the Holy Ghost” (Jn. 3:5), in which He, the Life-giver, gives us this participation in the life of Christ.
The first effect of Charity in our heart is to give to God the first place in our heart, and direct everything activity to that ultimate goal. The first degree of that charity is in the “ascetic life”, to clean up our soul from anything that would displease our Lord Jesus Christ: the fight against sin and its evil inclinations is a requirement of charity. One does not really love God if he does not hate sin, if he is not faithful to avoid the occasions of sin. Indeed “No man can serve two masters. For either he will hate the one, and love the other: or he will sustain the one, and despise the other. You cannot serve God and mammon” (Mt. 6:24).
We must respond with generosity to the promptings of the Holy Ghost. How to recognise these promptings? If they detach us from sin (any prompting that does not detach us from sin is surely NOT of the Holy Ghost), if they make us follow the path of our Lord Jesus Christ, especially His virtues that the world does not love, such as humility, chastity, poverty, patience…
The one who has really understood this does not hesitate to give up everything for Christ’s sake, as He said: “Jesus looking on him, loved him, and said to him: One thing is wanting unto thee: go, sell whatsoever thou hast, and give to the poor, and thou shalt have treasure in heaven; and come, follow me” (Mk. 10:21). Hence the Church teaches that religious life is the perfection of the Christian life.
The second degree of charity is in the “illuminative life”, when one has already cut off the habits of sin, and lives habitually in the state of grace, and focuses on knowing and loving better our Lord Jesus Christ, and imitating Him in the practice of virtue: doing what He wants, as He wants, and because He wants it. At that level, we develop “the fruit of the Spirit: charity, joy, peace, patience, benignity, goodness, longanimity, Mildness, faith, modesty, continency, chastity” (Gal. 5:22-23).
The third degree of charity is in the unitive life, when one focuses on loving more perfectly our Lord Jesus Christ, intensifying charity through all, especially in contemplation. Great contemplatives such as St Theresa of Avila were living at that level. St Paul says of such contemplation: “we all beholding the glory of the Lord with open face, are transformed into the same image from glory to glory, as by the Spirit of the Lord” (2 Cor. 3:18). The Holy Ghost wants for us heights of holiness much more than we want it: let us be docile to Him!
There is a special relation between the Holy Ghost and the Holy Sacrifice of the Mass. Charity indeed has two aspects: to give and to unite. To give oneself to God totally to the point of sacrifice of self, and to unite also totally with God for eternity! We find these two aspects in the Holy Sacrifice of the Mass, with the consecration where the Sacrifice is offered – and we offer ourselves to God with our Lord Jesus Christ – and the Communion in which we enter into the most intimate union of our soul with God, a transforming union that will be consummated in eternity!
Last but not least, there is a very intimate union of the Holy Ghost and the Blessed Virgin Mary: “The Holy Ghost shall come upon thee, and the power of the most High shall overshadow thee” (Lk. 1:35). And indeed, the Holy Ghost accompanies her: she arrives at Elisabeth’s house and salutes her, and behold “behold as soon as the voice of thy salutation sounded in my ears, the infant in my womb leaped for joy - And Elizabeth was filled with the Holy Ghost:” (Lk. 1:44,41). When she goes to the Temple for the presentation, the Holy Ghost led St Simeon to meet her (Lk. 2:27). Thus in order to prepare themselves properly for the coming of the Holy Ghost, the Apostles and first disciples were gathered around our Lady for these nine days between the Ascension and Pentecost.
May the Blessed Virgin Mary, “Spiritual Vessel” – or rather “Vase of the Holy Ghost”, help us to know better the Holy Ghost, and obtain for us an abundance of His gifts, to be filled with His charity, so that we may go to Heaven!
Amen.
愛する兄弟姉妹の皆様、
昨日2015年5月17日の大阪で、レネー神父様がなさって下さった公教要理のお話をご紹介します。
特に、今回は、聖霊について、聖霊とは何か、聖霊が天主の愛であるとどう言うことか、についてお話があります。
聖性の霊、「真理の霊」である聖霊の、私たちの心に及ぼす影響、霊的生活の段階、愛の段階についてお話し下さいます。
また、聖霊とミサの聖なるいけにえとの特別な関係、聖霊と童貞聖マリアの間の深い一致についてもお話しされます。
どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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御昇天後の主日の公教要理(大阪)
親愛なる信者の皆さん、
御昇天の後、教会は聖霊降臨を待ち望んでいます。聖霊はいとも聖なる三位一体の第三のペルソナです。聖霊はまことの天主であります。実際、人は天主に捧げる神殿しか建てることが許されていません。ところで、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント第一3章16節)。その少しあとで、聖パウロはこれをさらにはっきりとさせます。「あなたたちの体はその内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか。まことにあなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント第一6章19-20節)。
私たちの主イエズス・キリストは言われました。「子が何者かを知っているのは父のほかになく、父が何者かを知っているのは、子と子が示しを与えた人のほかにはありません」(マテオ11章27節)。しかし聖パウロは言います。「霊は天主の深みまですべてを見通す」(コリント第一2章10節)と。聖霊はまことの天主であって、御父と御子に等しい者であるがゆえに、天主としてのすべての知識を持っておられるのです。
教会の完全に一致した教えによれば、聖霊は愛によって、愛の炎として御父と御子から発出するとされています。聖霊は御父と御子の霊です。聖霊は御父によって、そして御子によって送られます。私たちの主イエズス・キリストは、言葉にしがたい聖霊の発出について次のように教えてくださいます。「父のものはすべて私のものである。だから私は、彼[すなわち聖霊」が私のものを受けて、それをあなたたちに知らせると言ったのである」(ヨハネ16章15節)。聖霊は言葉にしがたい方法で御父と御子をつなぐ唯一の愛なのです。
この天主の愛が、天主のみわざすべての原理です(天主が私たちをお造りになったのは、天主が善であり、愛のゆえなのです)。またこの天主の愛が、天主のみわざすべて、特にその最も偉大なみわざであるご托身と贖いの究極の目的です。ですから、童貞聖マリアが私たちの主イエズス・キリストを受胎なさったのは聖霊によってであり、これがイエズスの地上での生涯の始まりでした。その生涯の終わりには、また聖霊によって、主はご自分を十字架上でお捧げになりました。聖パウロは言います。「ましてや永遠の[聖]霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか」(ヘブライ9章14節)。
聖霊は聖性の霊です。聖霊は私たちの心を聖性への望みで燃え上がらせてくださいます。聖性は本質的に愛です。「あなたはすべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて主なる天主を愛せよ。また隣人を自分と同じように愛せよ」(ルカ10章27節)。
聖霊は「真理の霊」(ヨハネ14章17節、15章26節、ヨハネ第一4章6節)です。すなわち、聖霊は真理への愛を私たちにお与えになります(従って、誤謬は真理を台無しにするがゆえに、聖霊は誤謬への嫌悪をも、私たちにお与えになります)。聖霊は新しいことを教えることはなく、むしろ「弁護者すなわち父が私の名によって送り給うた聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。聖霊は新しいことを明らかにされるのではなく、むしろ、私たちの主イエズス・キリストがすでに明らかになさり、使徒たちとその後継者たちが私たちの主イエズス・キリストから継承してきたこと、つまり聖伝を、私たちが思い出し、保持するのを助けてくださるのです。教皇ピオ九世が教皇の不可謬権を定義したとき、「聖霊がペトロとその後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって新しい真理を明らかにするためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝承してきた啓示と信仰の遺産を彼らが聖なるものとして保護し、忠実に説明するためである」(デンツィンガー1836)と述べました。
聖霊の恩寵があるため、真理に苦さはなく、隣人を攻撃するために真理を使うことはありません。むしろ、隣人が真理の光に向かうようやさしく助けるのです。実際、聖パウロは言います。天主は「すべての人が救われて真理を知ることを望まれる」(ティモテオ第一2章4節)のですが、すべての人が真理を知るわけではなく、一部の人は「たえず聖霊に逆らっています」(使徒行録7章51節)。しかし、天主は彼ら全てが真理を知ることを望んでおられ、そのため多くの人々をお助けになるので、天主の恩寵によって多くの人が真理を知るに至るのです。ですから宣教師が必要です。聖霊の炎を至る所で燃え立たせる宣教師です。ルフェーブル大司教は、公会議前には最大の宣教会だった「聖霊修道会」の一員でした。教会の宣教師の召命のために祈りましょう。
聖霊が私たちになされる素晴らしいみわざは、私たちの霊魂に天主の愛を注いでくださることです。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)のです。この愛は霊魂の命です。実際、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)のですが、どんな信仰でもいいのではなく、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)によってです。実際、「善業のない信仰はむなしいもの」(ヤコボ2章20節)なのです。ですから、聖霊は「命の与え主」であり、私たちに愛を与えてくださるので、その愛によって私たちは霊的に生きており、律法を守っているのです。実に、「したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。
あまりにも多くの人々が、愛とはただ愛するというような良い感情だとか、慈善の行いにすぎない、と思っています。これは大変な誤りです。聖ヨハネが「天主は愛である」(ヨハネ第一4章8節)と言うことができたのなら、明らかに愛はそんな感情をずっと超えたものです。私たちの心にある愛は、人を根本から変えてしまうエネルギーであって、聖霊降臨のときのはげしい風のように聖霊から来るのであり、全生涯をかけるところまで霊魂を燃え上がらせ、キリストのために殉教し、命を捧げるほどの用意を私たちにさせるのです。
聖霊は霊的な全生涯にわたって私たちと共にいてくださいます。それは「水と聖霊によって」(ヨハネ3章5節)新たに生まれたときに始まり、そのとき、命の与え主である聖霊はキリストの命にこうして参加させてくださるのです。
愛が私たちの心に及ぼす最初の効果は、私たちが天主に対して自分の心の中で第一の場所をお与えし、すべての活動をこの究極の目的に向けることです。この愛の最初の段階は、「禁欲[、あるいは『浄化』]の生活」にあります。これは、私たちの主イエズス・キリストをおよろこばせしないあらゆるものから、霊魂を浄化するためです。罪とその悪への傾きに対する戦いは愛するための必要条件の一つです。もし人が罪を憎んでいないなら、もし罪の機会を避けることに忠実でないなら、本当に天主を愛してはいません。実際、「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人をうとんずるかである。天主とマンモンとにともに仕えることはできぬ」(マテオ6章24節)。
私たちは、聖霊の促しに進んでお応えしなければなりません。この聖霊の促しは、どのようにしたら分かるのでしょうか?その促しが私たちを罪から離すのなら(私たちを罪から離そうとしない促しは、聖霊からのものではないのは確実です)、その促しが私たちを私たちの主イエズス・キリストの道に従わせようとするなら、特に謙遜、貞潔、清貧、忍耐など、この世が愛さない主の徳に従わせようとするなら(、それは聖霊の促しです)。
このことを本当に理解した人なら、キリストのためにすべてを捧げるのをためらいません。主は言われました。「イエズスは彼をじっと見つめ、慈しんでこういわれた。『あなたには一つだけ足りない。帰って自分の持ち物をみな売り、貧しい人々に与えよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい』」(マルコ10章21節)。このため教会は、修道生活はキリスト的生活の完成であると教えています。
愛の第二段階は、「照らし(照明)の生活」にあります。照明の生活においては、習慣となった罪を断ち切って、いつも成聖の状態で生き、私たちの主イエズス・キリストをさらに知りさらに愛することに集中します。また徳の実践において主をまねるのです。つまり、主が望まれることを、主が望まれるように、主が望まれるから、行うのです。この水準になると、私たちは「霊の実である愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔」(ガラツィア5章22-23節)を持つようになります。
愛の第三段階は、「一致の生活」です。一致の生活においては、私たちの主イエズス・キリストをもっと完全に愛することに集中し、すべてを通して、特に黙想によって愛を強めるのです。アヴィラの聖テレジアのような偉大な黙想家たちは、この水準で生きていました。聖パウロは、そのような黙想について述べています。「そこで私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように、主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント第二3章18節)。聖霊は、私たちが望むよりずっと高い聖性を私たちが持つよう望んでおられます。聖霊に従いましょう。
聖霊とミサの聖なるいけにえの間には特別な関係があります。実際、愛には二つの側面があります。与えることと一致することです。自分自身を天主へのいけにえとするところまで完全に与えることと、また永遠に天主と完全に一致することです!私たちは、この二つの側面をミサの聖なるいけにえの中に見いだします。いけにえが捧げられる聖変化のとき、私たちは主イエズス・キリストと共に自分自身を捧げます。また聖体拝領のとき、私たちの霊魂は最も深く天主と一致するのです。この一致は人を根本的に変えてしまうもので、永遠において完成することになるのです。
最後に大事なことですが、聖霊と童貞聖マリアの間には大変深い一致があります。「聖霊があなたに下り、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」(ルカ1章35節)。そして実際、聖霊は聖母と共におられます。聖母がエリザベトの家に到着して挨拶されると、「なんとしたことでしょう。あなたの挨拶のみ声が私の耳に入ると、私の子は胎内で喜びおどりました。―エリザベトは聖霊に満たされた」(ルカ1章44、41節)。聖母が奉献のため神殿に行かれたとき、聖霊の導きで聖シメオンは聖母に会いました(ルカ2章27節)。ですから、聖霊が来られるのにふさわしく準備するために、使徒たちや最初の弟子たちは、御昇天から聖霊降臨の間の九日間、聖母の周りに集まっていたのです。
「霊妙なる器」いや、むしろ「聖霊の器」である童貞聖マリアのお助けによって、私たちが聖霊のことをもっとよく知り、豊かな聖霊の賜物を得、聖霊の愛に満たされ、ついには天国へ行くことができますように。
アーメン。
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Sermon on 17th May 2015, Sunday after the Ascension
My dear brethren,
After the Ascension, the Church is expecting the coming of the Holy Ghost. He is the Third Person of the Most Holy Trinity; He is true God: indeed one may build a temple only to God, now St Paul says: “Know you not, that you are the temple of God, and that the Spirit of God dwelleth in you?” (1 Cor. 3:16). And a little later he is even clearer: “Or know you not, that your members are the temple of the Holy Ghost, who is in you, whom you have from God; and you are not your own? For you are bought with a great price. Glorify and bear God in your body” (1 Cor. 6:19-20).
Our Lord Jesus Christ had said: “no one knoweth the Son, but the Father: neither doth any one know the Father, but the Son, and he to whom it shall please the Son to reveal him” (Mt. 11:27). Yet St Paul tells us: “the Spirit searcheth all things, yea, the deep things of God” (1 Cor. 2:10). The Holy Ghost has that thorough knowledge of God only be because He is true God, equal with the Father and the Son.
The unanimous teaching of the Church is that He proceeds from the Father and the Son by way of love, as a flame of love. The Holy Ghost is the Spirit of the Father and of the Son . He is sent by the Father and by the Son . Our Lord Jesus Christ tells us about that ineffable procession of the Holy Ghost in these words: “All things whatsoever the Father hath, are mine. Therefore I said, that He [the Holy Ghost] shall receive of mine, and shew it to you” (Jn. 16:15). He is the One Love binding them in an effable way.
This Divine love is the principle of all His works (God created us because He is good, out of love), and the ultimate goal of all His works, especially the greatest of all works, the Incarnation and Redemption. Thus it is by the Holy Ghost that the Blessed Virgin Mary conceived our Lord Jesus Christ, at the beginning of the life of Jesus on earth; and at its end, our Lord offered Himself on the Cross also by the Holy Ghost, as St Paul says: “How much more shall the blood of Christ, who by the Holy Ghost offered himself unspotted unto God, cleanse our conscience from dead works, to serve the living God?” (Heb. 9:14).
The Holy Ghost is the Spirit of Holiness; He inflames our heart with the desire for holiness, and holiness essentially consists in charity: “Thou shalt love the Lord thy God with thy whole heart, and with thy whole soul, and with all thy strength, and with all thy mind: and thy neighbour as thyself” (Lk. 10:27).
The Holy Ghost is the “Spirit of Truth” (Jn. 14:17, 15:26, 1Jn 4:6), that is, He gives us the LOVE of the Truth (and hence the detestation of error, since error destroys truth); He does NOT teach NOVELTIES, but rather “the Paraclete, the Holy Ghost, whom the Father will send in my name, he will teach you all things, and bring all things to your mind, whatsoever I shall have said to you” (Jn. 14:26). He does not reveal novelties, but rather helps us to remember and keep that which our Lord Jesus Christ has already revealed, that which has been handed down from our Lord Jesus Christ by the Apostles and their successors: Tradition! When Pope Pius IX defined the infallibility of the Pope, he said that “the Holy Ghost was promised to Peter and his successors, not so that by his revelation new truth may be revealed, but that by His help they might guard sacredly the revelation transmitted through the apostles and the deposit of faith, and might faithfully set it forth” (Dz 1836).
With the grace of the Holy Ghost, there is no bitterness in truth, one does not use truth to crush one’s neighbour, but rather to gently help our neighbour to come to the light of the truth. Indeed St Paul says that God “will have all men to be saved, and to come to the knowledge of the truth” (1 Tim. 2:4), not that all men actually come, some “always resist the Holy Ghost” (Acts 7:51). But God wants them all to come to the truth, and He does help and through His grace many do come. There is need of missionaries, to kindle everywhere the flames of the Holy Ghost: Archbishop Lefebvre was a member of the “Holy Ghost Fathers”, the largest missionary order before the Council. Let us pray for missionary vocations in the Church.
The great work of the Holy Ghost for us is to pour divine Charity in our souls: “the charity of God is poured forth in our hearts, by the Holy Ghost, who is given to us” (Rom. 5:5). This charity is the life of the soul; indeed “The just man liveth by faith” (Rom. 1:17), but not any faith, rather “faith that worketh by charity” (Gal. 5:6); indeed “faith without works is dead?” (Jac. 2:20); therefore the Holy Ghost is the “Life-giver”, giving us charity by which we are spiritually living and fulfil the law, indeed “Love therefore is the fulfilling of the law” (Rom. 13:10).
Too many people think that charity is just a certain nice feeling of love, or certain alms-giving and nothing more. This is a great error! If St John could say: “God is charity” (1 Jn. 4:8), it is evident that charity is much more than such feeling. Charity in our heart is a transforming energy that comes from the Holy Ghost like the great wind of Pentecost, and inflames the soul to the point of taking over our whole life, and makes us ready even to suffer martyrdom and give our life for Christ!
The Holy Ghost accompanies us through our whole spiritual life: it all starts with the new birth “from the water and the Holy Ghost” (Jn. 3:5), in which He, the Life-giver, gives us this participation in the life of Christ.
The first effect of Charity in our heart is to give to God the first place in our heart, and direct everything activity to that ultimate goal. The first degree of that charity is in the “ascetic life”, to clean up our soul from anything that would displease our Lord Jesus Christ: the fight against sin and its evil inclinations is a requirement of charity. One does not really love God if he does not hate sin, if he is not faithful to avoid the occasions of sin. Indeed “No man can serve two masters. For either he will hate the one, and love the other: or he will sustain the one, and despise the other. You cannot serve God and mammon” (Mt. 6:24).
We must respond with generosity to the promptings of the Holy Ghost. How to recognise these promptings? If they detach us from sin (any prompting that does not detach us from sin is surely NOT of the Holy Ghost), if they make us follow the path of our Lord Jesus Christ, especially His virtues that the world does not love, such as humility, chastity, poverty, patience…
The one who has really understood this does not hesitate to give up everything for Christ’s sake, as He said: “Jesus looking on him, loved him, and said to him: One thing is wanting unto thee: go, sell whatsoever thou hast, and give to the poor, and thou shalt have treasure in heaven; and come, follow me” (Mk. 10:21). Hence the Church teaches that religious life is the perfection of the Christian life.
The second degree of charity is in the “illuminative life”, when one has already cut off the habits of sin, and lives habitually in the state of grace, and focuses on knowing and loving better our Lord Jesus Christ, and imitating Him in the practice of virtue: doing what He wants, as He wants, and because He wants it. At that level, we develop “the fruit of the Spirit: charity, joy, peace, patience, benignity, goodness, longanimity, Mildness, faith, modesty, continency, chastity” (Gal. 5:22-23).
The third degree of charity is in the unitive life, when one focuses on loving more perfectly our Lord Jesus Christ, intensifying charity through all, especially in contemplation. Great contemplatives such as St Theresa of Avila were living at that level. St Paul says of such contemplation: “we all beholding the glory of the Lord with open face, are transformed into the same image from glory to glory, as by the Spirit of the Lord” (2 Cor. 3:18). The Holy Ghost wants for us heights of holiness much more than we want it: let us be docile to Him!
There is a special relation between the Holy Ghost and the Holy Sacrifice of the Mass. Charity indeed has two aspects: to give and to unite. To give oneself to God totally to the point of sacrifice of self, and to unite also totally with God for eternity! We find these two aspects in the Holy Sacrifice of the Mass, with the consecration where the Sacrifice is offered – and we offer ourselves to God with our Lord Jesus Christ – and the Communion in which we enter into the most intimate union of our soul with God, a transforming union that will be consummated in eternity!
Last but not least, there is a very intimate union of the Holy Ghost and the Blessed Virgin Mary: “The Holy Ghost shall come upon thee, and the power of the most High shall overshadow thee” (Lk. 1:35). And indeed, the Holy Ghost accompanies her: she arrives at Elisabeth’s house and salutes her, and behold “behold as soon as the voice of thy salutation sounded in my ears, the infant in my womb leaped for joy - And Elizabeth was filled with the Holy Ghost:” (Lk. 1:44,41). When she goes to the Temple for the presentation, the Holy Ghost led St Simeon to meet her (Lk. 2:27). Thus in order to prepare themselves properly for the coming of the Holy Ghost, the Apostles and first disciples were gathered around our Lady for these nine days between the Ascension and Pentecost.
May the Blessed Virgin Mary, “Spiritual Vessel” – or rather “Vase of the Holy Ghost”, help us to know better the Holy Ghost, and obtain for us an abundance of His gifts, to be filled with His charity, so that we may go to Heaven!
Amen.