御公現後第三主日
信仰に関する近代主義者の原理についての説教
ドモルネ神父様
はじめに
本日の福音で、教会は私たちに、私たちの主イエズス・キリストの超越性について考えさせます。
主はらい病人を奇跡的に癒やされ、百夫長が主の前で深い敬意の念を持ってへりくだり、主は主の神性に信仰を持たない者は誰であれ地獄に落ちると宣言なさったのです。これらすべてのことは、私たちのうちに、私たちの主イエズスに対する畏敬の念を呼び起こすのにふさわしく、同時に私たちに対する主の大いなる御あわれみを示しています。
今日、私たちは、ひざまずいてご聖体を受けることを禁じる司教や司祭がいるというところまで来たカトリック教会を含めて、私たちの主イエズス・キリストがどれほどこの世で軽んじられているかを考えると、どのようにしてこのような状況にまで来てしまったのだろうかと思うかもしれません。
福音の百夫長の態度と、あまりにも多くの聖職者やカトリック信徒による私たちの主に対する態度は、完全に二分されています。前者には深い敬意とへりくだりがあり、後者には不注意と愚かな傲慢があります。その理由は、カトリックの聖職者と信者の多くを駄目にしてしまった近代主義の異端にあるのです。
1.不可知論
この異端の出発点は不可知論です。「不可知論」(Agnosticism)とは、否定を意味する「A」と、知るという行為を意味する「gnosis」に由来しています。したがって、「Agnosticism 不可知論」とは、「知ることができない」ことを意味します。不可知論とは、自分の外にあるものを知ることができないという誤った考えです。不可知論によれば、私たちは知覚や感覚を持っていますが、現実には何であるのかを知ることはできないとされます。例えば 、私が一切れの肉を見て、触って、匂いを嗅いで、食べます。私はさまざまな感覚を持っていて、私が見て、触って、匂いを嗅いで、食べるこの物体を「肉」と呼んでいるのですが、実際にはそれが現実に何なのか分からない、この物体が現実には何なのかを知ることができないと主張するのです。
多分、皆さんは、それは非常に奇妙な教えであると言うでしょうし、皆さんは正しいでしょう。なぜなら、それは不合理だからです! 誤謬には常に何らかの不合理がつきものです。だから、不可知論者にとって、私たちは自分自身の外側にあるものを知ることはできず、内面的に感じるものを知ることしかできないのです。言い換えれば、私たちは自分自身で考え、感じていること以外は何も知らないのです。ですから、不可知論者によれば、私たちは天主が存在するかどうかを知ることはできない、つまり、自分の周りにある被造物についての知識で推論し、それを使うことで天主が存在するかどうかを知ることはできないのです。
これは誤った教えです。なぜなら、人は自分の周りにあるものを本当に知り、この世にあるものを知ることによって天主を知るようになるからです。聖パウロはローマ人にこう言っています。「天主の不可見性は、世の創造の時以来、そのみわざについて考える人にとって見えるものである」(ローマ1章20節)。しかし、この不可知論こそが近代主義の教えの出発点なのです。
2.生命的内在
さて、第二段階に入ります。その問いはこうです。天主が存在するかどうかを、私たちの身の周りの被造物の知識で推論し、それを使うことで知ることが不可能であるならば、人間の生活における宗教の起源や存在をどのように説明することができるのでしょうか? 近代主義者の答えは、宗教とは、人間の霊魂の奥底に根ざした、ある種の自然な心の感情から来る生き方であり、知的な精神では触れることができないとされるのです。そして、その必要性は、人生におけるある決然とした好ましい状況の中で現れると答えています。
人間の霊魂の奥底から来るこの心の感情を、近代主義者たちは複雑な表現で「生命的内在」(Vital Immanence)と名付けました。つまり、この感情は人間の霊魂の中にひとりでに存在し、誰かや何かによって加えられるものではないのです。私たちは、宗教的生活のこの感情、この必要性を持って生まれてくるのです。
近代主義者のこの教えは誤りです。宗教が存在するのは、被造物である人間が創造主を敬うことが、自然で厳格な義務であるからです。
3.天主との一致は、生命的内在による(近代主義)
第三段階に移りましょう。近代主義者は、この生命的内在、この心の感情こそが天主との接点であると言います。私たちは理性では天主を知ることはできませんが、この心の感覚を通して天主に到達することができるのです。近代主義者によると、この感情を体験することによって、天主は天主ご自身を直接知らせてくださるのです。私たちがこの感情を経験したとき、私たちは信仰を持つことになります。
このようにして、近代主義者は、宗教を厳密に個人的で経験的な問題に矮小化します。近代主義者は、啓示をもはや天主から与えられ、教会によって伝達される客観的な教えではなく、人々の良心の中にある感情の表現とします。近代主義者は、信仰を、もはや天主から与えられた啓示を理性によって同意することではなく、宗教的な感情の経験とするのです。
4.近代主義による私たちの主イエズス・キリスト
こういったすべてにおいて、私たちの主イエズス・キリストについてはどうでしょうか?! さて、近代主義者によると、私たちの主は、実際にはただの人間であり、宗教的感情による無比の体験をした、並外れた才能のある人間であり、彼の死後、人々が彼の物語を理想化させ、天主の力と奇跡という並外れた行いを彼のものとする成功を収めて、彼の周りの人々に宗教的感情による無比の体験を感じさせました。そして、イエズスの宗教的な感覚の体験は、キリスト教と呼ばれる特定の宗教的な生き方を生んだのです。近代主義者によれば、「聖伝」とは、この経験の伝達を意味します。すなわち、イエズス・キリストが与えて下さった教えの伝達ではなく、イエズス・キリストが始められた宗教的感情の経験の伝達なのです。
このように、近代主義者は、私たちの主イエズス・キリストの神性を否定するようになり、キリスト教を宗教的な感情を経験する特殊な方法に過ぎないものとしてしまうのです。同じいのちの内在から来ているものとして、イスラム教、仏教、神道、ユダヤ教、ヒンドゥー教のような他の経験がありますが、近代主義者にとっては、すべてが根本的に同じなのです。近代主義者によれば、福音は、実際に起こり、多数の証人によって確認された事実を報告する歴史書ではなく、読み手の宗教的感情を刺激する意図を持つ黄金伝説にすぎないのです。
これらはすべて誤りであり、地上での私たちの主イエズス・キリストの統治を破壊しようと望む変質した心の実りでしかありません。本日の福音が私たちに思い起こさせてくれる単純な真理を、すぐに見てみましょう。
福音書は、イエズスが群衆に彼の教理の本質を説いた「山から下りられた」(マテオ8章1節)と書いています。
このことは、私たちの主イエズスが私たちに、霊と真理によって聖三位一体を礼拝するよう教えられるために、また天国への道を教えられるために、地上に降りられた天主の御子であることを思い起こさせてくれます。らい病人と百夫長の中風の下男の二つの癒やしは、私たちの主イエズスが、霊的に中風を起こしていて自分では天国に行くことができない私たちを、私たちの罪というらい病から清め、私たちに天国に行く能力を与えてくださる唯一のお方であることを思い起こさせてくれます。
しかし、気を付けていただきたいのは、私たちの主イエズス・キリストが二人の病人を癒やされたのは、彼らが主の神性に対する信仰を持っていたからだということです。私たちの主は、主の神性を信じる者だけを癒やすことがおできになり、へりくだって知性を主の教えに委ね、意思を主の掟に委ねる者だけを癒やすことがおできになります。これは、天主が確立され、聖パウロが次のように表現した法です。「天主はイエズスを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみなひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の光栄をあがめ、『主イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章9〜11節)。ユダヤのファリザイ人のように、私たちの主イエズス・キリストの神性を公言することを頑なに拒む者は誰でも、地獄に落ちることになります。「国の子らは外の闇に投げ出され、そこで泣いて歯ぎしりするだろう」(マテオ8章12節)。
結論
愛する信徒の皆さん、近代主義の異端が世界中でカトリック信仰を癌のように破壊しつつあり、私たちの主イエズスが多くの司祭や司教によって裏切られ、主の神性とその権利がすべての国によって拒否されているこの困難な時代において、教会の招きに応じて、本日、福音の百夫長に霊的に一致しましょう。
イエズスの前にへりくだってひれ伏し、イエズスの神性に対する私たちの信仰と、いかなる犠牲を払っても死に至るまで快くイエズスに従うことを堅く宣言しましょう。
そうすれば、イエズスは私たちの罪を清めてくださり、イエズスに倣う力を与えてくださいます。陣立てを整えた軍隊のように強い無原罪のマリア様が、私たちの模範となり、私たちの星となり、この人生とこの近代主義との戦いの間、私たちの支えとなってくださいますように。アーメン。
近代主義について詳しく知るには、聖ピオ十世教皇の回勅をご覧下さい。
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』近代主義の誤謬について聖ピオ十世教皇訳者聖ピオ十世司祭兄弟会尊敬する兄弟のみなさんに健康と使徒的祝福をおくります使徒座の責務1.主の群を養うという、天主から私に託された職務にキリストによって定め与えられた主要な責務の一つは、涜聖的な新しい言葉づかいと、誤って知識と呼ばれる異議異論とをしりぞけ、最大の注意を払って聖徒らに託された信仰の遺産を守ることです。最高の牧者である教皇におけるこのような警戒心が教会全体にとって必要でなかった時は、かって一度もありませんでした。なぜなら、人類の敵の働きのゆえに、「よこしまなことを語る人...回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』近代主義の誤謬について聖ピオ十世教皇(1)
信仰に関する近代主義者の原理についての説教
ドモルネ神父様
はじめに
本日の福音で、教会は私たちに、私たちの主イエズス・キリストの超越性について考えさせます。
主はらい病人を奇跡的に癒やされ、百夫長が主の前で深い敬意の念を持ってへりくだり、主は主の神性に信仰を持たない者は誰であれ地獄に落ちると宣言なさったのです。これらすべてのことは、私たちのうちに、私たちの主イエズスに対する畏敬の念を呼び起こすのにふさわしく、同時に私たちに対する主の大いなる御あわれみを示しています。
今日、私たちは、ひざまずいてご聖体を受けることを禁じる司教や司祭がいるというところまで来たカトリック教会を含めて、私たちの主イエズス・キリストがどれほどこの世で軽んじられているかを考えると、どのようにしてこのような状況にまで来てしまったのだろうかと思うかもしれません。
福音の百夫長の態度と、あまりにも多くの聖職者やカトリック信徒による私たちの主に対する態度は、完全に二分されています。前者には深い敬意とへりくだりがあり、後者には不注意と愚かな傲慢があります。その理由は、カトリックの聖職者と信者の多くを駄目にしてしまった近代主義の異端にあるのです。
1.不可知論
この異端の出発点は不可知論です。「不可知論」(Agnosticism)とは、否定を意味する「A」と、知るという行為を意味する「gnosis」に由来しています。したがって、「Agnosticism 不可知論」とは、「知ることができない」ことを意味します。不可知論とは、自分の外にあるものを知ることができないという誤った考えです。不可知論によれば、私たちは知覚や感覚を持っていますが、現実には何であるのかを知ることはできないとされます。例えば 、私が一切れの肉を見て、触って、匂いを嗅いで、食べます。私はさまざまな感覚を持っていて、私が見て、触って、匂いを嗅いで、食べるこの物体を「肉」と呼んでいるのですが、実際にはそれが現実に何なのか分からない、この物体が現実には何なのかを知ることができないと主張するのです。
多分、皆さんは、それは非常に奇妙な教えであると言うでしょうし、皆さんは正しいでしょう。なぜなら、それは不合理だからです! 誤謬には常に何らかの不合理がつきものです。だから、不可知論者にとって、私たちは自分自身の外側にあるものを知ることはできず、内面的に感じるものを知ることしかできないのです。言い換えれば、私たちは自分自身で考え、感じていること以外は何も知らないのです。ですから、不可知論者によれば、私たちは天主が存在するかどうかを知ることはできない、つまり、自分の周りにある被造物についての知識で推論し、それを使うことで天主が存在するかどうかを知ることはできないのです。
これは誤った教えです。なぜなら、人は自分の周りにあるものを本当に知り、この世にあるものを知ることによって天主を知るようになるからです。聖パウロはローマ人にこう言っています。「天主の不可見性は、世の創造の時以来、そのみわざについて考える人にとって見えるものである」(ローマ1章20節)。しかし、この不可知論こそが近代主義の教えの出発点なのです。
2.生命的内在
さて、第二段階に入ります。その問いはこうです。天主が存在するかどうかを、私たちの身の周りの被造物の知識で推論し、それを使うことで知ることが不可能であるならば、人間の生活における宗教の起源や存在をどのように説明することができるのでしょうか? 近代主義者の答えは、宗教とは、人間の霊魂の奥底に根ざした、ある種の自然な心の感情から来る生き方であり、知的な精神では触れることができないとされるのです。そして、その必要性は、人生におけるある決然とした好ましい状況の中で現れると答えています。
人間の霊魂の奥底から来るこの心の感情を、近代主義者たちは複雑な表現で「生命的内在」(Vital Immanence)と名付けました。つまり、この感情は人間の霊魂の中にひとりでに存在し、誰かや何かによって加えられるものではないのです。私たちは、宗教的生活のこの感情、この必要性を持って生まれてくるのです。
近代主義者のこの教えは誤りです。宗教が存在するのは、被造物である人間が創造主を敬うことが、自然で厳格な義務であるからです。
3.天主との一致は、生命的内在による(近代主義)
第三段階に移りましょう。近代主義者は、この生命的内在、この心の感情こそが天主との接点であると言います。私たちは理性では天主を知ることはできませんが、この心の感覚を通して天主に到達することができるのです。近代主義者によると、この感情を体験することによって、天主は天主ご自身を直接知らせてくださるのです。私たちがこの感情を経験したとき、私たちは信仰を持つことになります。
このようにして、近代主義者は、宗教を厳密に個人的で経験的な問題に矮小化します。近代主義者は、啓示をもはや天主から与えられ、教会によって伝達される客観的な教えではなく、人々の良心の中にある感情の表現とします。近代主義者は、信仰を、もはや天主から与えられた啓示を理性によって同意することではなく、宗教的な感情の経験とするのです。
4.近代主義による私たちの主イエズス・キリスト
こういったすべてにおいて、私たちの主イエズス・キリストについてはどうでしょうか?! さて、近代主義者によると、私たちの主は、実際にはただの人間であり、宗教的感情による無比の体験をした、並外れた才能のある人間であり、彼の死後、人々が彼の物語を理想化させ、天主の力と奇跡という並外れた行いを彼のものとする成功を収めて、彼の周りの人々に宗教的感情による無比の体験を感じさせました。そして、イエズスの宗教的な感覚の体験は、キリスト教と呼ばれる特定の宗教的な生き方を生んだのです。近代主義者によれば、「聖伝」とは、この経験の伝達を意味します。すなわち、イエズス・キリストが与えて下さった教えの伝達ではなく、イエズス・キリストが始められた宗教的感情の経験の伝達なのです。
このように、近代主義者は、私たちの主イエズス・キリストの神性を否定するようになり、キリスト教を宗教的な感情を経験する特殊な方法に過ぎないものとしてしまうのです。同じいのちの内在から来ているものとして、イスラム教、仏教、神道、ユダヤ教、ヒンドゥー教のような他の経験がありますが、近代主義者にとっては、すべてが根本的に同じなのです。近代主義者によれば、福音は、実際に起こり、多数の証人によって確認された事実を報告する歴史書ではなく、読み手の宗教的感情を刺激する意図を持つ黄金伝説にすぎないのです。
これらはすべて誤りであり、地上での私たちの主イエズス・キリストの統治を破壊しようと望む変質した心の実りでしかありません。本日の福音が私たちに思い起こさせてくれる単純な真理を、すぐに見てみましょう。
福音書は、イエズスが群衆に彼の教理の本質を説いた「山から下りられた」(マテオ8章1節)と書いています。
このことは、私たちの主イエズスが私たちに、霊と真理によって聖三位一体を礼拝するよう教えられるために、また天国への道を教えられるために、地上に降りられた天主の御子であることを思い起こさせてくれます。らい病人と百夫長の中風の下男の二つの癒やしは、私たちの主イエズスが、霊的に中風を起こしていて自分では天国に行くことができない私たちを、私たちの罪というらい病から清め、私たちに天国に行く能力を与えてくださる唯一のお方であることを思い起こさせてくれます。
しかし、気を付けていただきたいのは、私たちの主イエズス・キリストが二人の病人を癒やされたのは、彼らが主の神性に対する信仰を持っていたからだということです。私たちの主は、主の神性を信じる者だけを癒やすことがおできになり、へりくだって知性を主の教えに委ね、意思を主の掟に委ねる者だけを癒やすことがおできになります。これは、天主が確立され、聖パウロが次のように表現した法です。「天主はイエズスを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみなひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の光栄をあがめ、『主イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章9〜11節)。ユダヤのファリザイ人のように、私たちの主イエズス・キリストの神性を公言することを頑なに拒む者は誰でも、地獄に落ちることになります。「国の子らは外の闇に投げ出され、そこで泣いて歯ぎしりするだろう」(マテオ8章12節)。
結論
愛する信徒の皆さん、近代主義の異端が世界中でカトリック信仰を癌のように破壊しつつあり、私たちの主イエズスが多くの司祭や司教によって裏切られ、主の神性とその権利がすべての国によって拒否されているこの困難な時代において、教会の招きに応じて、本日、福音の百夫長に霊的に一致しましょう。
イエズスの前にへりくだってひれ伏し、イエズスの神性に対する私たちの信仰と、いかなる犠牲を払っても死に至るまで快くイエズスに従うことを堅く宣言しましょう。
そうすれば、イエズスは私たちの罪を清めてくださり、イエズスに倣う力を与えてくださいます。陣立てを整えた軍隊のように強い無原罪のマリア様が、私たちの模範となり、私たちの星となり、この人生とこの近代主義との戦いの間、私たちの支えとなってくださいますように。アーメン。
近代主義について詳しく知るには、聖ピオ十世教皇の回勅をご覧下さい。
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』近代主義の誤謬について聖ピオ十世教皇訳者聖ピオ十世司祭兄弟会尊敬する兄弟のみなさんに健康と使徒的祝福をおくります使徒座の責務1.主の群を養うという、天主から私に託された職務にキリストによって定め与えられた主要な責務の一つは、涜聖的な新しい言葉づかいと、誤って知識と呼ばれる異議異論とをしりぞけ、最大の注意を払って聖徒らに託された信仰の遺産を守ることです。最高の牧者である教皇におけるこのような警戒心が教会全体にとって必要でなかった時は、かって一度もありませんでした。なぜなら、人類の敵の働きのゆえに、「よこしまなことを語る人...回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』近代主義の誤謬について聖ピオ十世教皇(1)