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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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霊的な生ぬるさに冒された霊魂にはどのような特徴があるか

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家の主人とぶどう畑のたとえについての短い説教(七旬節)

ドモルネ神父様
本日の福音のたとえについて少し考察しましょう。
1.福音のたとえの提示
家の主人は天主です。ぶどうの木は、二つのものを意味しています。まず、集会書が言っているように、私たちの霊魂のことです。「ぶどうの木として、私は心地よい香りをもたらした」(集会書24章23節)。
もう一つは、聖グレゴリオが言っているように、教会のことです(詩篇79章9節参照)。働く人を雇うために出かける家の主人は、愛徳というぶどう酒を造るために、私たちの霊魂を育て、教会で働くように私たちをお召しになっている天主であり、この愛徳によって、天主はすべてに超えて愛され、ほめたたえられるのです。働く人に与えられる賃金は、永遠の幸福という報酬です。
2.私たちの審判の基準
夕方に来た働く人は、朝から働いていた人たちと同じ賃金をもらいましたが、それは、彼らが最初の人たちよりも天主への奉仕に熱心で寛大だったからです。このことは、私たちの主イエズス・キリストの審判が、私たちの奉仕の長さよりも、私たちが天主のために尽くす熱意と完徳にかかるであろうことを示しています。
若い頃から天主の掟を守りながらも、福音的勧告の道において私たちの主に従うことを拒んだ金持ちの若者の態度と、公の罪人でありながら、回心後は十字架まで忠実に主に従った聖マリア・マグダレナの態度を思い出し、比較してみてください。
3.生ぬるさへの警告
本日の書簡と福音を通して、教会は私たちを霊的な熱意へ向かうよう奨励し、霊的な生ぬるさに陥らないよう警告しようと望んでいます。
霊的な生ぬるさに冒された霊魂にはどのような特徴があるでしょうか。それは、福音に不満を持った働く人に見られるものです。天主への生き生きとした内的な愛を持たずに、外見上の宗教的な義務を果たしていること、善き主が私たちに要求なさったことが難しくて疲れることを不満に思っていること、善き主が私たちに報酬として決して十分には与えてくださらないことを不満に思っていること、天主と隣人のために寛大かつ飽くことなく献身している人々をうらやましく、妬ましく思うことです。
4.霊的な生ぬるさへの薬
このような生ぬるさから抜け出すためにはどうすればよいのでしょうか。私たちは、このたとえの中で最後に来た働く人たちが示していることをまねるべきです。それは、天主に対して善意を捧げること、自分は役に立たないしもべであり、天国に招かれるにふさわしくないことをしばしば思い起こして謙遜でいること、他人から何の評価も期待せずに、彼らのために働いて助けること、聖パウロの言葉「受けるよりも与えることに幸せがある」(使徒行録20章35節)を思い起こすことです。
最後に、何よりも私たちの主イエズスのご受難をしばしば黙想することです。そこでは、愛徳の火が非常に強いため、私たち自身が火の中に入らずには近づけません。そこでは、私たちの主の寛大さは非常に英雄的であるため、私たちは自分の自己中心を恥じることしかできません。
共同受難の聖母が、天主への奉仕にさらに熱心であるよう私たちを導いてくださいますように。アーメン。



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