アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
秋田巡礼でシュテーリン神父様がなさった霊的講話その4をご紹介いたします。ここで、シュテーリン神父様は、原点に戻って「インマクラータよ、無原罪の御方よ、あなたは一体どなたですか」に戻って、天主の第二のペルソナであるイエズス・キリストは、ご自分の贖いの事業をいつもマリア様と共に行うことを望んでいること、また、聖霊は、マリア様を通して、霊魂を動かそうとしていることを説明します。私たちは、聖霊の息吹を全て受けなければならないこと、そのために、私たちはマリア様を通して聖霊に心を開かなければならないことを教えてくれます。
どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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2015年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話4
同時通訳:小野田圭志神父様
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖霊来たり給え、信者の心に充ち給え、▲主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。
主よ、聖霊を遣わし給え、しかしてよろずの物は造られん。▲地の表は新たにならん。
祈願、聖霊の光をもって信者の心を照らし給いし天主、同じく聖霊を以ってわれらに正しき事を悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。われらの主キリストによりて、願い奉る。▲アーメン。
めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御体内の御子イエズスも祝せられたもう。▲天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。
至聖なるイエズスの聖心▲われらを憐れみ給え。
聖マリアの汚れ無き御心▲われらのために祈り給え。
聖ヨゼフ▲われらのために祈り給え。
聖モニカ▲われらのために祈り給え。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
私たちの考察、つまり私たちの母であり、そして元后であり、女王であり、そして私たちの総指揮官であるマリア様について、もっとその考察を深める為には、最初の原点に戻らなければなりません。つまり、「おお、インマクラータよ、無原罪の御方よ、あなたは一体どなたですか」という問いです。
インマクラータの、つまり無原罪のマリア様の、私たちの救霊に於ける役割をよく理解する為には、天主の第二のペルソナが、つまりイエズス・キリストが、いつもマリア様と共にその救霊の事業を行い、マリア様と共に在し、そして全てをマリア様と共に行う、という事を為し、それが御自分の意志であったという事を理解しなければなりません。
イエズス様は、イエズス・キリストは、御自分の御母としてマリア様を選びました。そしてこの世に、マリア様を通して来る事を、御望みになりました。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「マリア様を通して、私たちを統治し、そしてマリア様を通して、私たちを指導して導きたい。と、願っている。」と、言います。単にイエズス・キリストの母、天主の御母、また私たちの母のみならず、それだけではなく、イエズス・キリストの助け手として、新しいエヴァとして、新しいアダムのすぐ隣にいる助け手としてのエヴァとして、新しいエヴァとして二人が共に、新しい贖われた人類を、つまり教会を、私たちを、産み出す事になるのです。
天主御父は、この世を救う為に、贖う為に、御子を送りました。それは、贖いの業を達成する為です。この事を私たちは、御子の派遣、と言います。御子がこの世に送られた事です。これが天主様のジェスタ、天主様の行いで、天主様のなされた事です。つまり、無に等しい私たちを、「天主の子」という、ものすごい高みまで高める、御子を派遣する事により高める、というそのジェスタです、その行いです。この天主様の大事業、ジェスタは、聖マキシミリアノ・コルベによると、「インマクラータ、無原罪のマリア様を通してなされた。この事業が達成させられた。」と、言います。「Gesta Dei per Immaculatam.“天主の大事業は、無原罪のマリア様を通してなされた。”」
でも、これで天主様のなさった事が終わったわけではありません、もっとあります。天主様は御子をこの世に送り、贖いの事業をしたのみならず、天主御父と御子と共に、聖霊をこの世に送り、第二の派遣が、第二の発出がありました。つまり、この事をよく理解出来ると、三位一体、聖父・聖子・聖霊その三つのペルソナが全て、この無に等しい、全く塵芥のような私たちの救霊の為に、全力をかけて私たちを救って下さろう、贖って下さろうとしている事が分かります。
ですから、この事を知ると私たちは本当に、驚愕しなければ、ビックリして仰天驚いて、全くもう言葉を失うほどショックを受けるほどにならなければなりません。無限の全能の天主が、愛の大海原である、ものすごい無限の天主様が、全くの塵にすぎない、塵よりももっと汚い、小さな存在である私たちを、その高みまで上げて下さろう、敵であった、天主を侮辱して敵であった私たちを、天主の子供として下さるという事を、今一生懸命されている、という事を見て、これで驚かないでいる事ができるでしょうか。
よく理解して下さい。天主御父が、愛する御一人子、第二のペルソナを、人としてこの世に送り、そして天主御子は人となって、私たちの贖いの為に生まれ、そして人として30年間、謙遜の生活をして、3年間、御足で聖地を歩き、福音を告げ、そして奇跡を行い、そして遂には十字架に於いて、血を流して命を全て捧げて、そして復活して、私たちの贖いをされた、それで十分ではないでしょうか?
この答えは、イエズス様御自身が、昨日の聖福音の中で言っています、「私が父の元に行く事は良い事である。何故なら、私が行けば、父と私とはお前たちに、慰め主、パラクリトゥスとして、聖霊を送る事ができるからだ。」
では、私たちの救いに於いて、聖霊の役割とは何でしょうか?私たちが、「聖霊来たり給え」と、「Veni Creator」と、お祈りをする時に、その中で、「Altissimi donum Dei」という一節が出ます。これは、「天主のいと高き、極めて高い、贈り物」と、いう意味です。聖パウロによれば、「天主の愛が、聖霊を通して、私たちに与えられた。その聖霊は、私たちに与えられている。」と、言います。
私たちは、この聖パウロの言う、「天主の愛」と、いう事について、実はほんの少しも分かっていません。天主御父は御子を愛し、御子は天主御父を愛し、そしてその愛の交流が聖霊である。つまり聖三位一体のこの存在というのは、つまり愛の存在であって、天主は愛であって、その愛の他には何も存在していない、という事です。
では今から、イエズス・キリスト様の役割と聖霊の役割が、どのように私たちの救いに関わってあるかを説明します。非常に大切です。そして皆さんまず第一に、この自分たちが、聖霊についての専門家であり、聖霊についてよく知っている、聖霊の事をカリスマを受けた、というカリスマ運動をやっている人達の主張している事が、どれほど邪悪であって、間違っていて、もう破滅的であるかという事を理解して下さい。
そしてこのイエズス様と聖霊との役割、本当の役割を理解すると、プロテスタントが主張しているような何かカトリックに対する反論が、全く無効である事がよく分かります。
イエズス様はこの地上に来られて、「私は、道であり、真理であり、命である。」と、宣言されました。イエズス様は、私たちに真理を教えて下さる方であって、そのイエズス様の教える真理とは、福音の真理であります。聖なる福音の、良い訪れの福音です。イエズス様が私たちに教える福音とは、イエズス様が私たちの為に苦しまれ、そして十字架の上で血を流され、そして贖い、そして復活され、罪から私たちを解放された、という事です。
イエズス様は言います、「私は道である。」この道であるという事は、ここを通して行くものであり、イエズス様が私たちの指導者で導き手であり、そしてその先頭に立って行く王であり、私たちはその後を従う者である、そしてイエズス様は悪に対して戦い、そしてその目的地まで私たちを連れて行く、その道です。これがイエズス様の仕事です。イエズス様は、これを33年間この地上で行い、そして更には、教会を通してこの仕事を続けています。
このイエズス様の命が、この世の終わりまで続く事ができるように、イエズス様はミサの聖なる生贄を制定され、そしてミサが行われる度に、イエズス様の生贄が再現させられます、又この私たちの前で現存します。そしてイエズス様は、御自分の聖心を常に開いておられ、そしてその聖心からは天主様の聖寵が流れて、これは、イエズス様の私たちに対する贈り物であって、これは七つの運河となり、七つの秘跡となって、私たちにお恵みを与えます。
そして、イエズス様は、「私は命である。」と、言いますが、天主の命を私たちに上げそして与え、私たちを聖化する力を与えます。「munus sanctificationis.“聖化の権能”」これは、カトリック教会だけを通して、カトリック教会だけに与えられた権能です。
イエズス様は全ての真理を教え、そしてそれを教会に委ねました。これを「信仰の遺産」と言います。そしてこの信仰の遺産を受けた教会は、“教える権能”を持っています。そして教会は更に、人々を天国に導く為に、人々を統治する、“統治の権能”も受けました。これが、イエズス様が使徒を通して、教会に与えた権威です。
昔の教皇様の写真等をご覧になると、教皇様が三重の冠を冠っておられて、三つの冠が重なっているティアラというのですか、これは、教会の持つ三つの、三重の権能を表しています。
そして皆さんが教会の中で、カトリック教会で、カトリック司祭に出会い、カトリック司祭を通してのみ、ミサを捧げる、という事はつまり、天地の仲介者であるイエズス・キリストと出会う、という事です。ですから、ミサに与る時に、「あ、神父様の髪の毛がちょっとおかしいなあ。」とか、「耳が何か大きい。」とかそういう、「他の神父様は鼻が大きい。」などと、そういう所に関心を持ってはいけません。この道具を通してイエズス・キリストを見なければなりません。
またイエズス様は司祭に、非常に重大な、重い職務を与えたので、その事も考えなければなりません。もしも司祭が、イエズス様から与えられた職務を果たさなかったら、何かしない事があったら、それはイエズス様に対する裏切りであって、それなりの覚悟をしなければなりません。これがイエズス様の救いの業です。
そして、イエズス様は、33年間なさって成し遂げられたこの御業を、ミサの33分の間に皆さんに与えようとしています。でもこれでは十分ではないのです。何故十分ではないかというと、見て下さい、全世界から全世界へカトリック司祭は派遣されて、そしてイエズス・キリストの御業を続けようと今、一生懸命働いています、ミサをしています。そして、イエズス・キリストの仕事が全世界に亘るように、日本にまで宣教として司祭が来ていますが、しかし、世の人々は何もそれに応えていません。ですから、この司祭のミッションを遂行する為に、そしてそれが成功する為には、もう一つ別のミッションが、もう一つ別の派遣が必要なのです。これが、聖霊のミッションの役割です。
聖霊は世界に行って、人々の心の中に染み通り、そして罪に、罪の生活をしている人々の心に触れるのです。皆さんと私は、ある日突然目が覚めて、「あぁ、今こんな生活をして良いのだろうか。こんな、このような事をして一日を終わらせて良いのだろうか。これで本当に良いのだろうか。真理とは何なのか、イエズス・キリストとは何か、と思って、信仰を持ったのではないでしょうか。」これが、聖霊の働きです。
では、例をとります。今から2000年前、ちょうど聖金曜日で、私たちは今皆カルワリオの丘に居て、私たちの周りは皆ユダヤ人で、そして過ぎこし祭を祝おうとしています。そして、ある時突然、この皆群衆が、私たちの周りにいた大群衆が、「十字架に付けろ!!十字架に付けろ!!」と、叫び出すではないですか。ですから私たちは、「あれ?何だろうこれは?」と言って、周りをキョロキョロと見ます。そしてこう周りを見ると、皆がこう騒いで、「十字架に付けろ!」と、言っているのは、向こうにいる一人の人を指して、「十字架に付けろ!!十字架に付けろ!!」と、言っているではないですか。それで、「あれ?誰だろうなあ?」と見ると、それはもう全身傷だらけで、顔だか、傷だか、どこが目だかよく分からないような、血だらけの、傷だらけの人が立っているではないですか。「あれ?何でだろう?」そこで、隣にいる人に、「あれ誰?誰?誰?」と、聞きます。すると、「バカお前知らないのか。あれはねえ、この世で一番悪い奴だよ!ほら、十字架に付けろ!と、言え、言え!さあさあ!さあ、一万円やるから、さあ騒げ!さあ叫べ!」すると、お金をもらって、「あ、あ、そう、じゃあ十字架に付けろー。十字架に付けろー。」と、叫び出します。
その数時間後、私はその十字架につけろと叫んだその人が、十字架に本当につけられて亡くなるのを見ます。すると見て下さい。今まで本当に明るかった空は、真っ暗になるじゃないですか。人々は皆、恐れおののいています。すると皆恐れおののいて、家にこう帰って行きます。皆さんは、「えぇ、これは一体ちょっと…。」と言って、そこに留まっています。そして皆さんは、他の人が皆帰ってもまだそこに残って、十字架の方に、「ちょっと見てみよう。」と思って、見て行くと、その十字架の下には、そのお母さんが立っていて、そして弟子も立っています。そして、その十字架につけられたその隣には、二人の盗賊が、やっぱり十字架に付けられて、その内の一人が、「あなたが、天の王国に行った時、私を思い出して下さい。」という言葉を言うのを聞きます。そして皆さんは、その心の底から、その光景を見て、感動を受けて、「あぁ、そうだ、これだ。」そしてその心が揺れ動かされるのを思います。そして他の人々は皆家に帰っちゃうのですけれども、皆さんだけは、その感動を受けて、それを見て、「あぁ。」光を見ます、光を受けます。この光を与えたのは、感動させたのは、心に触れたのは、聖霊なのです。
イエズス様の贖いの事業というのは、客観的なものです。事実です。起こったという事です。もう出来事なのです。それを皆が信じようが信じまいが、受け入れようが受け入れまいが、起こってしまった事なのです。つまり、イエズス様は真理を教えて、イエズス様は私たちの為に十字架に付けられて亡くなって、そして、そのまま厳然としてその事実が残っています。
ところが、聖霊の役割というのは、私たちの心を動かす事です。この内面を動かす事です。主観的な役割があります。つまりどういう事かというと、私たちの心を開いて、開かせて、そして目を開かせて、イエズス・キリストのなさったその客観的な事実を受け入れさせて、そして心で、それに関心を持ってその方に向かって、それを理解して、それを受け入れる。そしてそのイエズス様の流された御血を、私の方に受ける、それを浴びる。それを私たちに内面的に動かしてくれるのが、聖霊の役割です。
そして、イエズス様の贖いの客観的な事実の出来事を、2000年の後も世の終わりまで続けるのが、カトリックの司祭です。司祭が、その司祭の職務を果たしながら、イエズス様のなさった事業を客観的に続けていきます。
ところが、心の内面から動かすミッションを続ける方がいます。聖霊の働きを2000年間、そして世の終わりまでずっと続ける道具があります。それが、聖霊の花嫁である、聖霊の淨配であるマリア様で、汚れ無きインマクラータです。
ですから聖霊は、マリア様を存在のその最初の瞬間から選び、選択したのです。聖霊は、マリア様が天主の御母となり、そしてイエズス様の贖いの事業を、主観的に内面から続ける道具として使われる事である、という事をよく知っていたので、聖霊はマリア様を、罪の汚れの無いものとして、自分の花嫁として、汚れ無きインマクラータとして受胎させて、「無原罪の御孕り」を達成させたのです。大天使聖ガブリエルがマリア様に挨拶された時に、何と言ったか知っていますか?「聖寵に充ち満てる御方よ挨拶します、Ave! gratia plena」と言いました。
聖寵に充ち満てる、gratia plenaというのはどういう事かというと、その聖寵の充満を、聖寵の全てを、完璧な全てを持って生まれて来たという事です。
先程この話の最初に、天主の最高の賜物、と言います、天主から私たちに与えられた最高の贈り物、プレゼントであると言いましたが、つまり聖霊は私たちに、天主の愛の充満と、その命の充満を、贈り物として賜物として送って下さったのです。聖霊を送って下さったのです。そして聖霊はこの賜物、愛の充満の恵みの充満を、私たちの心に浸透させ、全てを与えようとしています。聖霊は私たちに、自分の全て持てるものを、全て充満を与えよう与えよう、とするのですけれども、実は全ての人が全てを受けるわけではなくて、ただその全てを受けた人が、ほんの一人しかいません。何故かというとその方は、聖霊からの贈り物を拒む事が一つも無く、心を全て開いて、聖霊の与えるものを、全て完全に受け入れた方であるからです。そして、そのような広い純粋な愛の心は、この世に一つしかありませんでした。この霊魂は、この巨大な無限の愛の全部を、全くためらう事なく拒否する事なく全てを受けよう、と望んだ方が一人、一瞬たりとも拒む事も無く受けた事が一人おります。
あの私たちの場合には、聖霊が、(コンコンとノックをして)「あの、入ってもいいですか?」と言うと、(ドアから少し顔を出して断る仕草)。何故かというと、私たちは自分の事でいっぱいなので、聖霊に入ってもらうと困る、と思っているからです。私たちの心には天主様の場所がありません。自分の罪でいっぱいです。私たちは、天主の真理から現実から目をそらして、「シッシッ。」と、言います。ですから聖霊は、その中に入る為に一生懸命、「入れてくれないか、入れてくれないか」と、一生懸命です。私たちはちょっと開けても、あんまり入ってこないようにこう(ドアを開めようと)やっているんですけれども、聖霊は、入ろう、入ろう入ろう、としています。
でもこの御方は、聖霊がノックすると、ドアをパァーッと開いて、「さあ、さあ来て下さい。全てを下さい。」と、開いて言った方がいます。この方が無原罪のマリア様です。ですから聖霊は、マリア様に全く一致してしまっているのです。ですから、教父は既にマリア様の事を、「聖霊の神殿」と、呼んでいます。また、「聖霊の淨配」とも呼んでいます。マリア様は聖霊と全く一致して、あたかも一であるか、一つであるかのようにもうなっているので、もうこの聖霊の神殿とか淨配とかいう言葉でも、それでも足りません。マリア様のお考えの一つも、言葉の一つも、行為の一つも、聖霊からの一致によって為されていないものは一つもありませんでした。ですから、マリア様の事は、聖霊が目に見えてこの世に現存している、その目に見える現存、と。もちろん、マリア様は天主様ではありません。もちろん、聖霊はマリア様とは別の御方です。しかし、マリア様と聖霊は余りにも一致してしまって、聖霊はマリア様の中に余りにも完璧に浸透してしまって、マリア様は御自分のものは全く一つもなかったので、あたかも聖霊がいるかのようでした。
また別の、それと反対の極もあります。それは、悪魔に取り憑かれた人です。それはこの人は悪魔に憑依されていると、口を通して悪魔の言葉を話し、行為をして悪魔のやる事を行います。そして、悪魔はそのような人の中に浸透して、その人を占領してしまいます。そして、悪魔がそのような事をやるのとは、もっと別の、もっと良い素晴らしいやり方で、そしてマリア様はそれと全く同意して、聖霊はマリア様の中に完璧に染み透るのです。
聖霊の役割というのが何か、というのは先程申しましたけれども、それは私たちの心に染み透って、そして心に影響を与えて、心に触ってそれに触れて、そしてそれを動かして、イエズス様のなさった客観的な贖いの業へと、それを連れて行く事です。ところで聖霊は、この霊魂に触れて、霊魂をイエズス様へと連れて行く、という事を、常に、いつも、必ず、マリア様を通してなさいます。それを通してなさらない事は、決してありません。
三つの例を挙げます。1492年、アメリカ大陸は発見されました。そして、その直後すぐに、宣教師たちがアメリカ大陸に派遣されて、そこに住むインディオたちを回心させようと一生懸命働きました。1516年、エルナン・コルテスはメキシコを征服します。もちろん、エルナン・コルテスはたくさんの宣教師を連れて来て、そのメキシコに住む多くのインディアンたちを改宗させようと、一生懸命頑張りました。もちろん宣教師たちは心から働いて、一生懸命昼なく夜なく働きました。綺麗な教会を建てました。ナワトル語も勉強して、非常に難しい言葉で、勉強して、そしてミサを捧げ、生贄を捧げ、そして真理を語り、福音を宣教し、もうメキシコ全土に行って、一生懸命インディアンの為に働きました。しかし、その間16年の間、誰も、ほとんど回心する人はいませんでした。無に等しかったです。もちろん、たくさんの理由もあったかもしれません。私はその歴史家として、たくさんの理由を挙げる事ができます。でもその宣教師たちは、一生懸命働いているにも関わらず誰も回心しない、という事で、絶望の淵にいました。
1531年12月9日、ホワンディエゴという、回心したほんの少数のうちの一人が、ある朝、教会に行こうとして歩いていました。その時にグァダルーペのマリア様が、朝ホワンディエゴにお現われになりました。そして第三回目の御出現の時には、ホワンディエゴの着ていたマントの上に、ご自分の姿を写しました。一年の間に、何百万というメキシコ人たちが回心しました。そしてその後、全メキシコが回心しました。そして20年後には、全アメリカ大陸が回心しました。
聖霊はマリア様を通して働いて、そのマリア様を通して、メキシコ人たちの心に触れて、そしてメキシコ人たちがそれに全く動かされて、そしてカトリックになりたい、と思って洗礼を受けました。
第二の例です。ラビの子供であり、フランス人の国籍のあるユダヤ人、アルフォンソ・ラティスボンというユダヤ人がいます。その兄弟はカトリックに回心して、司祭になりました。その兄弟であったアルフォンソ・ラティスボンは、それに驚きます。兄弟がカトリックになった、そしてカトリックに対して憎しみを持ちます。そしてアルフォンソはヨーロッパに旅行し、ローマに行って、綺麗な祭壇、教会や、綺麗な建築物を見ますけれども、何も興味を示しません。そして最後に、小さな教会に、薄暗い教会に行きます。するとその教会には、不思議のメダイのマリア様が描かれた絵がある教会に行って、光が射されました。そのマリア様を見て、アルフォンソは回心します。そして遂には司祭になって、そして罪人の回心の為の修道会を創ります。
第三の例です。日本です。16世紀に、カトリックの信仰が日本に伝えられます。それから大きな迫害があって、何万もの殉教者が出ます。250年の間、司祭も無ければ、教会も無ければ、何も残りませんでした。教皇様は、日本にはもうカトリックが残っていないと思っていました。そして19世紀に、宣教師が長崎に教会を建てます。すると突然人々がやって来て、250年の間、人々は信仰を守り続けました。それは、ロザリオのおかげです。聖霊はマリア様を通して、250年の間信仰を保存し、守らせる事に成功しています。このような事は全く例外的で、他にはない話です。
私はこのような例を、まだ一年間ずっとこの12月31日までずっと、毎日のようにずっと話し続ける事ができます。そしてそれを見ると、聖霊はマリア様を通して、そして必ずマリア様を通して私たちの心に触れて、イエズス様との親しい関係を作るように導いて下さる、と言う事がはっきりします。
ですから皆さん、この皆さん、このハリウッドの映画とかね、ボリウッドの映画とかヤリウッドの映画とかを見ているよりは、聖霊が歴史を通して、事実的に歴史的な史実として、救霊の為に何をしたか、という事を知る事は非常に重要な事です。
では10分休憩をしますので、どうぞ休んで下さい。また10分後にお話をします。
愛する兄弟姉妹の皆様、
秋田巡礼でシュテーリン神父様がなさった霊的講話その4をご紹介いたします。ここで、シュテーリン神父様は、原点に戻って「インマクラータよ、無原罪の御方よ、あなたは一体どなたですか」に戻って、天主の第二のペルソナであるイエズス・キリストは、ご自分の贖いの事業をいつもマリア様と共に行うことを望んでいること、また、聖霊は、マリア様を通して、霊魂を動かそうとしていることを説明します。私たちは、聖霊の息吹を全て受けなければならないこと、そのために、私たちはマリア様を通して聖霊に心を開かなければならないことを教えてくれます。
どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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2015年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話4
同時通訳:小野田圭志神父様
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖霊来たり給え、信者の心に充ち給え、▲主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。
主よ、聖霊を遣わし給え、しかしてよろずの物は造られん。▲地の表は新たにならん。
祈願、聖霊の光をもって信者の心を照らし給いし天主、同じく聖霊を以ってわれらに正しき事を悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。われらの主キリストによりて、願い奉る。▲アーメン。
めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御体内の御子イエズスも祝せられたもう。▲天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。
至聖なるイエズスの聖心▲われらを憐れみ給え。
聖マリアの汚れ無き御心▲われらのために祈り給え。
聖ヨゼフ▲われらのために祈り給え。
聖モニカ▲われらのために祈り給え。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
私たちの考察、つまり私たちの母であり、そして元后であり、女王であり、そして私たちの総指揮官であるマリア様について、もっとその考察を深める為には、最初の原点に戻らなければなりません。つまり、「おお、インマクラータよ、無原罪の御方よ、あなたは一体どなたですか」という問いです。
インマクラータの、つまり無原罪のマリア様の、私たちの救霊に於ける役割をよく理解する為には、天主の第二のペルソナが、つまりイエズス・キリストが、いつもマリア様と共にその救霊の事業を行い、マリア様と共に在し、そして全てをマリア様と共に行う、という事を為し、それが御自分の意志であったという事を理解しなければなりません。
イエズス様は、イエズス・キリストは、御自分の御母としてマリア様を選びました。そしてこの世に、マリア様を通して来る事を、御望みになりました。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「マリア様を通して、私たちを統治し、そしてマリア様を通して、私たちを指導して導きたい。と、願っている。」と、言います。単にイエズス・キリストの母、天主の御母、また私たちの母のみならず、それだけではなく、イエズス・キリストの助け手として、新しいエヴァとして、新しいアダムのすぐ隣にいる助け手としてのエヴァとして、新しいエヴァとして二人が共に、新しい贖われた人類を、つまり教会を、私たちを、産み出す事になるのです。
天主御父は、この世を救う為に、贖う為に、御子を送りました。それは、贖いの業を達成する為です。この事を私たちは、御子の派遣、と言います。御子がこの世に送られた事です。これが天主様のジェスタ、天主様の行いで、天主様のなされた事です。つまり、無に等しい私たちを、「天主の子」という、ものすごい高みまで高める、御子を派遣する事により高める、というそのジェスタです、その行いです。この天主様の大事業、ジェスタは、聖マキシミリアノ・コルベによると、「インマクラータ、無原罪のマリア様を通してなされた。この事業が達成させられた。」と、言います。「Gesta Dei per Immaculatam.“天主の大事業は、無原罪のマリア様を通してなされた。”」
でも、これで天主様のなさった事が終わったわけではありません、もっとあります。天主様は御子をこの世に送り、贖いの事業をしたのみならず、天主御父と御子と共に、聖霊をこの世に送り、第二の派遣が、第二の発出がありました。つまり、この事をよく理解出来ると、三位一体、聖父・聖子・聖霊その三つのペルソナが全て、この無に等しい、全く塵芥のような私たちの救霊の為に、全力をかけて私たちを救って下さろう、贖って下さろうとしている事が分かります。
ですから、この事を知ると私たちは本当に、驚愕しなければ、ビックリして仰天驚いて、全くもう言葉を失うほどショックを受けるほどにならなければなりません。無限の全能の天主が、愛の大海原である、ものすごい無限の天主様が、全くの塵にすぎない、塵よりももっと汚い、小さな存在である私たちを、その高みまで上げて下さろう、敵であった、天主を侮辱して敵であった私たちを、天主の子供として下さるという事を、今一生懸命されている、という事を見て、これで驚かないでいる事ができるでしょうか。
よく理解して下さい。天主御父が、愛する御一人子、第二のペルソナを、人としてこの世に送り、そして天主御子は人となって、私たちの贖いの為に生まれ、そして人として30年間、謙遜の生活をして、3年間、御足で聖地を歩き、福音を告げ、そして奇跡を行い、そして遂には十字架に於いて、血を流して命を全て捧げて、そして復活して、私たちの贖いをされた、それで十分ではないでしょうか?
この答えは、イエズス様御自身が、昨日の聖福音の中で言っています、「私が父の元に行く事は良い事である。何故なら、私が行けば、父と私とはお前たちに、慰め主、パラクリトゥスとして、聖霊を送る事ができるからだ。」
では、私たちの救いに於いて、聖霊の役割とは何でしょうか?私たちが、「聖霊来たり給え」と、「Veni Creator」と、お祈りをする時に、その中で、「Altissimi donum Dei」という一節が出ます。これは、「天主のいと高き、極めて高い、贈り物」と、いう意味です。聖パウロによれば、「天主の愛が、聖霊を通して、私たちに与えられた。その聖霊は、私たちに与えられている。」と、言います。
私たちは、この聖パウロの言う、「天主の愛」と、いう事について、実はほんの少しも分かっていません。天主御父は御子を愛し、御子は天主御父を愛し、そしてその愛の交流が聖霊である。つまり聖三位一体のこの存在というのは、つまり愛の存在であって、天主は愛であって、その愛の他には何も存在していない、という事です。
では今から、イエズス・キリスト様の役割と聖霊の役割が、どのように私たちの救いに関わってあるかを説明します。非常に大切です。そして皆さんまず第一に、この自分たちが、聖霊についての専門家であり、聖霊についてよく知っている、聖霊の事をカリスマを受けた、というカリスマ運動をやっている人達の主張している事が、どれほど邪悪であって、間違っていて、もう破滅的であるかという事を理解して下さい。
そしてこのイエズス様と聖霊との役割、本当の役割を理解すると、プロテスタントが主張しているような何かカトリックに対する反論が、全く無効である事がよく分かります。
イエズス様はこの地上に来られて、「私は、道であり、真理であり、命である。」と、宣言されました。イエズス様は、私たちに真理を教えて下さる方であって、そのイエズス様の教える真理とは、福音の真理であります。聖なる福音の、良い訪れの福音です。イエズス様が私たちに教える福音とは、イエズス様が私たちの為に苦しまれ、そして十字架の上で血を流され、そして贖い、そして復活され、罪から私たちを解放された、という事です。
イエズス様は言います、「私は道である。」この道であるという事は、ここを通して行くものであり、イエズス様が私たちの指導者で導き手であり、そしてその先頭に立って行く王であり、私たちはその後を従う者である、そしてイエズス様は悪に対して戦い、そしてその目的地まで私たちを連れて行く、その道です。これがイエズス様の仕事です。イエズス様は、これを33年間この地上で行い、そして更には、教会を通してこの仕事を続けています。
このイエズス様の命が、この世の終わりまで続く事ができるように、イエズス様はミサの聖なる生贄を制定され、そしてミサが行われる度に、イエズス様の生贄が再現させられます、又この私たちの前で現存します。そしてイエズス様は、御自分の聖心を常に開いておられ、そしてその聖心からは天主様の聖寵が流れて、これは、イエズス様の私たちに対する贈り物であって、これは七つの運河となり、七つの秘跡となって、私たちにお恵みを与えます。
そして、イエズス様は、「私は命である。」と、言いますが、天主の命を私たちに上げそして与え、私たちを聖化する力を与えます。「munus sanctificationis.“聖化の権能”」これは、カトリック教会だけを通して、カトリック教会だけに与えられた権能です。
イエズス様は全ての真理を教え、そしてそれを教会に委ねました。これを「信仰の遺産」と言います。そしてこの信仰の遺産を受けた教会は、“教える権能”を持っています。そして教会は更に、人々を天国に導く為に、人々を統治する、“統治の権能”も受けました。これが、イエズス様が使徒を通して、教会に与えた権威です。
昔の教皇様の写真等をご覧になると、教皇様が三重の冠を冠っておられて、三つの冠が重なっているティアラというのですか、これは、教会の持つ三つの、三重の権能を表しています。
そして皆さんが教会の中で、カトリック教会で、カトリック司祭に出会い、カトリック司祭を通してのみ、ミサを捧げる、という事はつまり、天地の仲介者であるイエズス・キリストと出会う、という事です。ですから、ミサに与る時に、「あ、神父様の髪の毛がちょっとおかしいなあ。」とか、「耳が何か大きい。」とかそういう、「他の神父様は鼻が大きい。」などと、そういう所に関心を持ってはいけません。この道具を通してイエズス・キリストを見なければなりません。
またイエズス様は司祭に、非常に重大な、重い職務を与えたので、その事も考えなければなりません。もしも司祭が、イエズス様から与えられた職務を果たさなかったら、何かしない事があったら、それはイエズス様に対する裏切りであって、それなりの覚悟をしなければなりません。これがイエズス様の救いの業です。
そして、イエズス様は、33年間なさって成し遂げられたこの御業を、ミサの33分の間に皆さんに与えようとしています。でもこれでは十分ではないのです。何故十分ではないかというと、見て下さい、全世界から全世界へカトリック司祭は派遣されて、そしてイエズス・キリストの御業を続けようと今、一生懸命働いています、ミサをしています。そして、イエズス・キリストの仕事が全世界に亘るように、日本にまで宣教として司祭が来ていますが、しかし、世の人々は何もそれに応えていません。ですから、この司祭のミッションを遂行する為に、そしてそれが成功する為には、もう一つ別のミッションが、もう一つ別の派遣が必要なのです。これが、聖霊のミッションの役割です。
聖霊は世界に行って、人々の心の中に染み通り、そして罪に、罪の生活をしている人々の心に触れるのです。皆さんと私は、ある日突然目が覚めて、「あぁ、今こんな生活をして良いのだろうか。こんな、このような事をして一日を終わらせて良いのだろうか。これで本当に良いのだろうか。真理とは何なのか、イエズス・キリストとは何か、と思って、信仰を持ったのではないでしょうか。」これが、聖霊の働きです。
では、例をとります。今から2000年前、ちょうど聖金曜日で、私たちは今皆カルワリオの丘に居て、私たちの周りは皆ユダヤ人で、そして過ぎこし祭を祝おうとしています。そして、ある時突然、この皆群衆が、私たちの周りにいた大群衆が、「十字架に付けろ!!十字架に付けろ!!」と、叫び出すではないですか。ですから私たちは、「あれ?何だろうこれは?」と言って、周りをキョロキョロと見ます。そしてこう周りを見ると、皆がこう騒いで、「十字架に付けろ!」と、言っているのは、向こうにいる一人の人を指して、「十字架に付けろ!!十字架に付けろ!!」と、言っているではないですか。それで、「あれ?誰だろうなあ?」と見ると、それはもう全身傷だらけで、顔だか、傷だか、どこが目だかよく分からないような、血だらけの、傷だらけの人が立っているではないですか。「あれ?何でだろう?」そこで、隣にいる人に、「あれ誰?誰?誰?」と、聞きます。すると、「バカお前知らないのか。あれはねえ、この世で一番悪い奴だよ!ほら、十字架に付けろ!と、言え、言え!さあさあ!さあ、一万円やるから、さあ騒げ!さあ叫べ!」すると、お金をもらって、「あ、あ、そう、じゃあ十字架に付けろー。十字架に付けろー。」と、叫び出します。
その数時間後、私はその十字架につけろと叫んだその人が、十字架に本当につけられて亡くなるのを見ます。すると見て下さい。今まで本当に明るかった空は、真っ暗になるじゃないですか。人々は皆、恐れおののいています。すると皆恐れおののいて、家にこう帰って行きます。皆さんは、「えぇ、これは一体ちょっと…。」と言って、そこに留まっています。そして皆さんは、他の人が皆帰ってもまだそこに残って、十字架の方に、「ちょっと見てみよう。」と思って、見て行くと、その十字架の下には、そのお母さんが立っていて、そして弟子も立っています。そして、その十字架につけられたその隣には、二人の盗賊が、やっぱり十字架に付けられて、その内の一人が、「あなたが、天の王国に行った時、私を思い出して下さい。」という言葉を言うのを聞きます。そして皆さんは、その心の底から、その光景を見て、感動を受けて、「あぁ、そうだ、これだ。」そしてその心が揺れ動かされるのを思います。そして他の人々は皆家に帰っちゃうのですけれども、皆さんだけは、その感動を受けて、それを見て、「あぁ。」光を見ます、光を受けます。この光を与えたのは、感動させたのは、心に触れたのは、聖霊なのです。
イエズス様の贖いの事業というのは、客観的なものです。事実です。起こったという事です。もう出来事なのです。それを皆が信じようが信じまいが、受け入れようが受け入れまいが、起こってしまった事なのです。つまり、イエズス様は真理を教えて、イエズス様は私たちの為に十字架に付けられて亡くなって、そして、そのまま厳然としてその事実が残っています。
ところが、聖霊の役割というのは、私たちの心を動かす事です。この内面を動かす事です。主観的な役割があります。つまりどういう事かというと、私たちの心を開いて、開かせて、そして目を開かせて、イエズス・キリストのなさったその客観的な事実を受け入れさせて、そして心で、それに関心を持ってその方に向かって、それを理解して、それを受け入れる。そしてそのイエズス様の流された御血を、私の方に受ける、それを浴びる。それを私たちに内面的に動かしてくれるのが、聖霊の役割です。
そして、イエズス様の贖いの客観的な事実の出来事を、2000年の後も世の終わりまで続けるのが、カトリックの司祭です。司祭が、その司祭の職務を果たしながら、イエズス様のなさった事業を客観的に続けていきます。
ところが、心の内面から動かすミッションを続ける方がいます。聖霊の働きを2000年間、そして世の終わりまでずっと続ける道具があります。それが、聖霊の花嫁である、聖霊の淨配であるマリア様で、汚れ無きインマクラータです。
ですから聖霊は、マリア様を存在のその最初の瞬間から選び、選択したのです。聖霊は、マリア様が天主の御母となり、そしてイエズス様の贖いの事業を、主観的に内面から続ける道具として使われる事である、という事をよく知っていたので、聖霊はマリア様を、罪の汚れの無いものとして、自分の花嫁として、汚れ無きインマクラータとして受胎させて、「無原罪の御孕り」を達成させたのです。大天使聖ガブリエルがマリア様に挨拶された時に、何と言ったか知っていますか?「聖寵に充ち満てる御方よ挨拶します、Ave! gratia plena」と言いました。
聖寵に充ち満てる、gratia plenaというのはどういう事かというと、その聖寵の充満を、聖寵の全てを、完璧な全てを持って生まれて来たという事です。
先程この話の最初に、天主の最高の賜物、と言います、天主から私たちに与えられた最高の贈り物、プレゼントであると言いましたが、つまり聖霊は私たちに、天主の愛の充満と、その命の充満を、贈り物として賜物として送って下さったのです。聖霊を送って下さったのです。そして聖霊はこの賜物、愛の充満の恵みの充満を、私たちの心に浸透させ、全てを与えようとしています。聖霊は私たちに、自分の全て持てるものを、全て充満を与えよう与えよう、とするのですけれども、実は全ての人が全てを受けるわけではなくて、ただその全てを受けた人が、ほんの一人しかいません。何故かというとその方は、聖霊からの贈り物を拒む事が一つも無く、心を全て開いて、聖霊の与えるものを、全て完全に受け入れた方であるからです。そして、そのような広い純粋な愛の心は、この世に一つしかありませんでした。この霊魂は、この巨大な無限の愛の全部を、全くためらう事なく拒否する事なく全てを受けよう、と望んだ方が一人、一瞬たりとも拒む事も無く受けた事が一人おります。
あの私たちの場合には、聖霊が、(コンコンとノックをして)「あの、入ってもいいですか?」と言うと、(ドアから少し顔を出して断る仕草)。何故かというと、私たちは自分の事でいっぱいなので、聖霊に入ってもらうと困る、と思っているからです。私たちの心には天主様の場所がありません。自分の罪でいっぱいです。私たちは、天主の真理から現実から目をそらして、「シッシッ。」と、言います。ですから聖霊は、その中に入る為に一生懸命、「入れてくれないか、入れてくれないか」と、一生懸命です。私たちはちょっと開けても、あんまり入ってこないようにこう(ドアを開めようと)やっているんですけれども、聖霊は、入ろう、入ろう入ろう、としています。
でもこの御方は、聖霊がノックすると、ドアをパァーッと開いて、「さあ、さあ来て下さい。全てを下さい。」と、開いて言った方がいます。この方が無原罪のマリア様です。ですから聖霊は、マリア様に全く一致してしまっているのです。ですから、教父は既にマリア様の事を、「聖霊の神殿」と、呼んでいます。また、「聖霊の淨配」とも呼んでいます。マリア様は聖霊と全く一致して、あたかも一であるか、一つであるかのようにもうなっているので、もうこの聖霊の神殿とか淨配とかいう言葉でも、それでも足りません。マリア様のお考えの一つも、言葉の一つも、行為の一つも、聖霊からの一致によって為されていないものは一つもありませんでした。ですから、マリア様の事は、聖霊が目に見えてこの世に現存している、その目に見える現存、と。もちろん、マリア様は天主様ではありません。もちろん、聖霊はマリア様とは別の御方です。しかし、マリア様と聖霊は余りにも一致してしまって、聖霊はマリア様の中に余りにも完璧に浸透してしまって、マリア様は御自分のものは全く一つもなかったので、あたかも聖霊がいるかのようでした。
また別の、それと反対の極もあります。それは、悪魔に取り憑かれた人です。それはこの人は悪魔に憑依されていると、口を通して悪魔の言葉を話し、行為をして悪魔のやる事を行います。そして、悪魔はそのような人の中に浸透して、その人を占領してしまいます。そして、悪魔がそのような事をやるのとは、もっと別の、もっと良い素晴らしいやり方で、そしてマリア様はそれと全く同意して、聖霊はマリア様の中に完璧に染み透るのです。
聖霊の役割というのが何か、というのは先程申しましたけれども、それは私たちの心に染み透って、そして心に影響を与えて、心に触ってそれに触れて、そしてそれを動かして、イエズス様のなさった客観的な贖いの業へと、それを連れて行く事です。ところで聖霊は、この霊魂に触れて、霊魂をイエズス様へと連れて行く、という事を、常に、いつも、必ず、マリア様を通してなさいます。それを通してなさらない事は、決してありません。
三つの例を挙げます。1492年、アメリカ大陸は発見されました。そして、その直後すぐに、宣教師たちがアメリカ大陸に派遣されて、そこに住むインディオたちを回心させようと一生懸命働きました。1516年、エルナン・コルテスはメキシコを征服します。もちろん、エルナン・コルテスはたくさんの宣教師を連れて来て、そのメキシコに住む多くのインディアンたちを改宗させようと、一生懸命頑張りました。もちろん宣教師たちは心から働いて、一生懸命昼なく夜なく働きました。綺麗な教会を建てました。ナワトル語も勉強して、非常に難しい言葉で、勉強して、そしてミサを捧げ、生贄を捧げ、そして真理を語り、福音を宣教し、もうメキシコ全土に行って、一生懸命インディアンの為に働きました。しかし、その間16年の間、誰も、ほとんど回心する人はいませんでした。無に等しかったです。もちろん、たくさんの理由もあったかもしれません。私はその歴史家として、たくさんの理由を挙げる事ができます。でもその宣教師たちは、一生懸命働いているにも関わらず誰も回心しない、という事で、絶望の淵にいました。
1531年12月9日、ホワンディエゴという、回心したほんの少数のうちの一人が、ある朝、教会に行こうとして歩いていました。その時にグァダルーペのマリア様が、朝ホワンディエゴにお現われになりました。そして第三回目の御出現の時には、ホワンディエゴの着ていたマントの上に、ご自分の姿を写しました。一年の間に、何百万というメキシコ人たちが回心しました。そしてその後、全メキシコが回心しました。そして20年後には、全アメリカ大陸が回心しました。
聖霊はマリア様を通して働いて、そのマリア様を通して、メキシコ人たちの心に触れて、そしてメキシコ人たちがそれに全く動かされて、そしてカトリックになりたい、と思って洗礼を受けました。
第二の例です。ラビの子供であり、フランス人の国籍のあるユダヤ人、アルフォンソ・ラティスボンというユダヤ人がいます。その兄弟はカトリックに回心して、司祭になりました。その兄弟であったアルフォンソ・ラティスボンは、それに驚きます。兄弟がカトリックになった、そしてカトリックに対して憎しみを持ちます。そしてアルフォンソはヨーロッパに旅行し、ローマに行って、綺麗な祭壇、教会や、綺麗な建築物を見ますけれども、何も興味を示しません。そして最後に、小さな教会に、薄暗い教会に行きます。するとその教会には、不思議のメダイのマリア様が描かれた絵がある教会に行って、光が射されました。そのマリア様を見て、アルフォンソは回心します。そして遂には司祭になって、そして罪人の回心の為の修道会を創ります。
第三の例です。日本です。16世紀に、カトリックの信仰が日本に伝えられます。それから大きな迫害があって、何万もの殉教者が出ます。250年の間、司祭も無ければ、教会も無ければ、何も残りませんでした。教皇様は、日本にはもうカトリックが残っていないと思っていました。そして19世紀に、宣教師が長崎に教会を建てます。すると突然人々がやって来て、250年の間、人々は信仰を守り続けました。それは、ロザリオのおかげです。聖霊はマリア様を通して、250年の間信仰を保存し、守らせる事に成功しています。このような事は全く例外的で、他にはない話です。
私はこのような例を、まだ一年間ずっとこの12月31日までずっと、毎日のようにずっと話し続ける事ができます。そしてそれを見ると、聖霊はマリア様を通して、そして必ずマリア様を通して私たちの心に触れて、イエズス様との親しい関係を作るように導いて下さる、と言う事がはっきりします。
ですから皆さん、この皆さん、このハリウッドの映画とかね、ボリウッドの映画とかヤリウッドの映画とかを見ているよりは、聖霊が歴史を通して、事実的に歴史的な史実として、救霊の為に何をしたか、という事を知る事は非常に重要な事です。
では10分休憩をしますので、どうぞ休んで下さい。また10分後にお話をします。