アルド・マリア・ヴァッリ「正しい教理を守り広めるための厳しさは、霊魂の救いを目的とするのですから最高の形のあわれみなのです。」
「信徒の群れの多くは、自分たちには案内人がいないと感じています。誰もが神学的な背景を持っているわけではありませんが、信仰の感覚(sensus fidei)によって、多くの人が、何が間違っているのかを知ることができます。パチャママの偶像崇拝は、本当の驚きを生み出しました。教皇ベルゴリオが南スーダンの支配者の足に頭を下げて接吻したときには、混乱の感覚が広がりました。また、アブダビ宣言に署名したことも戸惑いを起こしました。いわゆるLGBTの権利に寛容であることについては言うまでもありません。」
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ジャーナリストであるアルド・マリア・ヴァッリは、イタリアの公共放送局(RAI)の重要なチャンネルのバチカン専門家としてはたらいていました。ヴァッリは、2021年2月27日にラジオ・スパダでインタビューを行い、自分がいかにして聖伝を発見したかについて、そして第二バチカン公会議が教会の生活に与えた影響について説明しています。
How Amoris Lætitia Opened the Eyes of a Journalist About the Council
「アモーリス・レティチア」は公会議に関して一人のジャーナリストの目をいかにして開かせたか
2021年4月7日 FSSPX.NEWSサイト
バチカン専門家(Vaticanist)のアルド・マリア・ヴァッリは、2021年2月27日にラジオ・スパダのインタビューを受けました。インタビューの中で、自分がいかにして聖伝を発見したかについて、そして第二バチカン公会議が教会の生活に与えた影響について説明しています。この勇気ある証言の中から、最も重要な部分を抜粋してご紹介します。
【ラジオ・スパダ】第二バチカン公会議が教会にとって歴史的な出来事であったこと、そしてその結果について、あなたの立場を数行でまとめなければならないとしたら、どうお話しになりますか?
【アルド・マリア・ヴァッリ】私は、公会議の総会で活躍した多くの立役者たちに敬意を抱いてきましたし、御摂理によってそのうちの何人かを個人的に知ることができました。彼らの教会に対する情熱と愛を私はいつも高く評価してきました。
公会議後の教会で育った私(私の場合はミラノで)は、長い間、公会議が神学的・司牧的な進化の種を、さらに悪いことには、聖伝や信仰の遺産に関して逸脱の種を内包しているのではないか、と疑うことすらもありませんでした。バチカン専門家としてヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世の教皇在位期間中を見ていた何年かの間、私は「継続性の解釈学」と呼ばれるもののビジョンを受け入れていました。
私が最初に戸惑ったのは、仕事上の理由でミラノからローマに移った前世紀の90年代半ばにさかのぼります。逆説的に思えるかもしれませんが、私はまさにローマにおいて、劣化の症状を、とりわけ典礼について感じたのです。それによって、私はいくつか疑問を抱くようになったのです。
そして2000年の大聖年に、初めて巡礼中の聖ピオ十世会の司祭たちの様子を観察し彼らを知る機会があり、私は教えを受けたように感じました。それ以来、公会議に関する私の立場は、ますます批判的になり、フランシスコの在位期間中には、内部の矛盾をすべて目にするようになりました。
まとめると、聖伝に対する根本的な矛盾は、ヨハネ二十三世の公会議の開会演説「ガウデット・マーテル・エクレジア」(Gaudet Mater Ecclesia)の中にすでに見いだすことができると私は思います。同教皇は、公会議の任務は確実かつ不変の教理を守り広めることであると断言したまさにその瞬間に、「今のところ、キリストの浄配は、厳しさという薬よりもあわれみという薬を使うことを好みます」と述べています。
ここに問題があります。キリスト教的観点では、「あわれみ」と「厳しさ」を対立させることには意味がありません。それどころか、正しい教理を守り広めるための厳しさは、霊魂の救いを目的とするのですから、最高の形のあわれみなのです。
公会議の開会から開いていたこの抜け道を通って、相対主義が教会に忍び込み、乱用や裏切りが教会に入り込んできました。つまり、この世が入り込み、人間が天主の座に就けられたのです。もちろん、転覆活動はずっと前から始まっていましたが、公会議が一つの起爆剤となったのは、現代的なものに対する根拠のない楽観主義のせいでもあります。
【ラジオ・スパダ】この数年間で、これらの問題に対するあなたの立場は、ジャーナリズム的な用語では、「伝統主義」と定義される(そして単純化される)ものに徐々に近づいてきました。このように考えるようになったのは、何かきっかけとなった出来事があったのでしょうか?
【ヴァッリ】きっかけとなった出来事は、2016年に「アモーリス・レティチア」(Amoris lætitia)が発表されたことです。今世紀の初めにはすでに疑問があって、フランシスコが選出された2013年以降、それが徐々に増していったのだとすれば、使徒的勧告「On Love in the Family」【アモーリス・レティチアの副題】は決定的に私の目を開かせてくれました。
私が注目しなければならなかったのは、今日に至るまで、曖昧さや相対主義が、教会の中に入り込んでいるだけでなく、教導権の形を取っているという事実でした。「アモーリス・レティチア」が出されたとき、最初はとても信じられず、その明白な事実をはっきりと拒否したと言うしかありません。しかし、何度も読み直しているうちに、ついには悲しみを感じつつ現実を受け入れなければなりませんでした。
この文書には、改宗を必要とせずに、天主には赦す義務があり、人間には赦される権利が存在するという考えが盛り込まれています。永遠の天主の法は、いわゆる人間の自立性に従わされているのです。
洞察力という概念は、罪を免れるための道具にされています。「アモーリス・レティチア」はすでに起こっていた革命に効力を与えたと言えるでしょう。この革命は、パラダイム・シフト(転覆を正当化するために使われる曖昧な表現)ではなく、内容においても方法においても近代主義者のビジョンの勝利なのです。
【ラジオ・スパダ】教皇ベルゴリオが行っていることを超えて、私たちが第二バチカン公会議が原因となった危機に直面しているという認識は、どの程度存在している、あるいは進展しているとお考えですか?
【ヴァッリ】全体像を描くのは難しいですね。というのも、それぞれの立場が非常に異なっているからです。まず、公会議を教義のように扱ったうえで、公会議の行き詰まり(aporia)に光を当てようとするすべての人々を攻撃するというイデオロギー信奉者たち、近代主義者たちがいます。
信念からではなく、それがもたらす利益を得るために近代主義のビジョンに従う日和見主義者もいます。問題を認識していても、黙っていることを好み、祈ることしかできないようなふりをしながら、嵐が終わるのを待っている人々もいます。徐々に目が開けてきたものの、どう行動していいか分からない人々もいます。
一般的に、私のように公会議後の教会で育った人々の間では、心理的な問題が広く存在していることに気がつきました。奉献された人々や信徒の中には、ベールを裂く【本当のことを認める】ことが困難な人が多くいます。それは、自分の全生涯が逸脱した教会に費やされていたことを認めることに等しいからです。
私は彼らのことを理解しています。私自身、「(公会議の教会の相対主義の適用において【編集者注】)私があまりうまくいっていない時こそ、私は良かった」と自分について言うことができます。典礼の乱用、教義の逸脱、この世への譲歩、信仰の裏切りに直面して、今日、しばしば私を捉えている苦さや落胆を、まだ意識していない時には感じなかったのです。
しかし、真理は分裂の原因になります。イエズスははっきりとこう言われます。「私は平和ではなく、剣(つるぎ)をもってきた」(マテオ10章34節)。平和と愛ばかり、砂糖ばかりの教会は、聖書にもキリスト教文明の歴史にもそれに相当するものがない、精神的・文化的に構築されたものなのです。
[このインタビューの中で、アルド・マリア・ヴァッリは、2021年2月20日に自身のブログ「Duc in altum」に掲載した「教皇のいないローマ。ベルゴリオはそこにいるが、ペトロはいない」という記事を明確化しています(2021年2月26日のFSSPX.News参照)。【Crididimus Caritati 記事:教皇のいないローマ。ベルゴリオはそこにいるが、ペトロはいない(教皇フランシスコのたくさんの活動にもかかわらず、「キリストの代理者」と「普遍的な牧者」の任務を実際には放棄している)】]
私は教皇座空位論の誘惑とは無縁であり、フランシスコが教皇であると信じています。ベネディクト十六世の辞任につながったとされる圧迫についての疑念や、フランシスコの選出の正確さについての疑念は、教皇座空位論の何の証拠にもつながっていません。疑念はあっても証拠はないのです。ヨゼフ・ラッツィンガーが行った選択については、私はリークだったと考えています。
フランシスコに関しては、たとえ教皇であっても、教皇として行動していないと私は考えています。ですから、私の評価の理由は神学的なものです。フランシスコは、聖書の天主を私たちに提示しているのではなく、混ぜ物をされた神、人間の自負に合わせた神、罪を赦すのではなく罪を免除する神を提示しているのです。
私の記事で書いたように、何よりもこの神は人間の罪を免除することに全力を注ぎ、酌量すべき情状を探し求めるこの神、命令することを控えて理解することを好むこの神、「子守唄を歌っている母親のように私たちの近くにいる」この神、裁くのではなく「近くにいる」この神、罪ではなく人間の「弱さ」を語るこの神、「司牧的な伴奏」の論理に夢中のこの神は、聖書の天主の戯画(カリカチュア)なのです。
なぜなら、天主は、聖書の天主は、確かに忍耐強いお方ですが、手ぬるいお方ではなく、確かに愛のあるお方ですが、自由放任になさるお方ではなく、確かに思いやりのあるお方ですが、もてなしてくださるお方ではないからです。つまり、天主は、この【父という】言葉の最も完全で最も真正な意味での父でいらっしゃるのです。
教皇ベルゴリオが採用した視点は、その反対に、この世の視点であるように見えます。天主という概念を完全に拒絶するのではなくとも、横行している自由放任とあまり調和していない特徴を拒絶することがしばしばあるのです。
この世が求めているのは、愛しておられるが裁いてもおられる、まことの父ではなく、ボーイフレンドであり、もう少し良く言えば、したいようにさせてくれ、「私は誰を裁くのか?【誰も裁かない】」と言ってくれる旅仲間なのです。ですから、フランシスコは、父ではなく、旅仲間であるこの神をまさにこの世に提示しているのです。
こういう訳で、私はフランシスコが教皇のように行動していないと主張するのです。なぜなら、彼は信仰において兄弟を固めていないからです。その証拠に、彼は、疎遠であることが確実だと感じている距離のある人々(信仰や教会から距離のある人々)から拍手を受けている一方で、その曖昧さや逸脱によって近くにいる人々を当惑させているのです。
さて問題は、教皇のように行動しないことが、教皇でないことをも意味するのかどうかです。私の意見では、そうではありません。フランシスコは教皇ですが、それでも彼は間違っています。「聖霊の御助けがあるのだから、あり得ない」と言う人々がいます。
しかし、聖霊の御助けは、受け入れようとしなければならないのです。受け入れることを拒否するなら、誤謬や罪が広まってしまいます。なぜなら、主は、私たちの意志に反した行為を強要することによって、私たちの自主選択能力を侵害することは決してなさらないからです。
無限の御あわれみという逆説の中で、天主は、私たちが天主に従わず、自分自身を呪うことも、永遠の至福を拒否することも自由にお任せになっています。もしそうでなければ、人間は天主とその律法を選び、サタンとその欺瞞を捨てることに何の功績もないことになるからです。
私が観察しているところでは、(一部はブログ「Duc in altum」を通して、一部は一般の信徒の生活を通して)ますます困惑と苦しみが増しているのが分かります。たとえ攻撃な性格で問題を起こす人々には事欠かないとしても、教皇を愛し、教皇のために祈る多くの善きカトリック教徒を目にしますし、特にお会いすることもあります。しかし、彼らは、教皇が信仰において自分たちを固めずに、国連の所属司祭(チャプレン)のように行動し、政治的な正しさ(political correctness)を支持し、教理や道徳の問題で曖昧な態度を取り、牧者というよりも政治家のように動き、論じる印象を与えるというところまで自らを貶めているという、まさにその理由により、彼らは苦しんでいるのです。
信徒の群れの多くは、自分たちには案内人がいないと感じています。誰もが神学的な背景を持っているわけではありませんが、信仰の感覚(sensus fidei)によって、多くの人が、何が間違っているのかを知ることができます。パチャママの偶像崇拝は、本当の驚きを生み出しました。教皇ベルゴリオが南スーダンの支配者の足に頭を下げて接吻したときには、混乱の感覚が広がりました。また、アブダビ宣言に署名したことも戸惑いを起こしました。いわゆるLGBTの権利に寛容であることについては言うまでもありません。
(Source : Radio Spada – trad. à partir de benoitetmoi/DICI n°406 – FSSPX.Actualités)
【参考資料】
ヴィガノ大司教「エキュメニズムが聖母を貶めたり真理を黙殺するなら、天主をお喜ばせしない。世界中で秘蹟やミサが奪われているのは、教会での汚聖、手による聖体拝領による冒涜などのための罰である。」
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