アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年5月4日、秋田巡礼でのシュテーリン神父様霊的講話その6をご紹介します。シュテーリン神父様は、この日の午前中に3回に分けて聖母マリア様が私たちの救いに対するやくわりを語って下さいました。
疲れたような顔をしている私たちをご覧になってか(?)、ご自分の講話(lecture)のことを拷問(torture)だと言って私たちを笑わせてから、お始めになりました。
今回は本当の隣人愛とはということについてお話し下さいます。ごゆっくりお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話6
同時通訳:小野田圭志神父
それでは、3回目の拷問(講話)を始めます(^^
私が黙想会をすれば、普通は5回か6回の拷問があります。今回は3回だけで済んでいます(^^
今まで説明した事を、また別の言葉で言い換えてみます。イエズス様は私たちに、新しい、良き、偉大な掟を与えて下さいました。その偉大な掟とは、『天主を、お前たちの心を尽くして、力を尽くして、精神を尽くして愛せ。そして隣人を我が身の如く愛せ。』これです。イエズス・キリストの私に対する、ものすごい巨大な愛に対する応えとして、イエズス様が私たちからの期待している応えとはこれです。『力を尽くし、心を尽くし、精神を尽くして主なる天主を愛し、隣人を我が身の如く愛せよ。』これです。
今までかつて、この地上で最も賢い賢者と言われる人であっても、天主の私たち人類に対するそれほどの巨大な愛を、想像さえする事ができませんでした。しかし天主は、その巨大なものすごい愛は、はかり知れないほどの愛は、私たちに御子を自ら与え、そしてその御子は私たちの為に、その最後の一滴まで血潮を流し、そして命を与えた。これでした。そして、「御父、御子よ、あなたは私に、天主の愛そのものである聖霊を、私に、私の為に与えて下さいました。そしてこの三位一体は私たちに、最も愛する母親であり、更に愛する母親であるマリア様を私に下さいました。」
そのような現実、そのような事実を前にして、皆さんの応えは何でしょうか?皆さんの応えは、「はい、私は御身を愛します。愛に愛を以って返します。」これでなければなりません。「私は御身を賛美したい。そしてもうこれ以上罪を犯して、御身を汚す事、犯す事がないように望みます。私は、そのようなはかり知れない愛に対して、無関心や、或いは冷淡で応えようなどと思ってもいません。そのような贈り物を頂きながら、私が今までやったように、御身を犯したり、御身に対して反抗したりするような事はしたいと思いません。」
もしも皆さんがそう思うならば、私たちにはマリア様が必要です。もしもマリア様がなかったとしたら、マリア様が助けて下さらなかったとしたら、今まであったと同じ様に、全く悲惨な応えとなった事でしょう。
マリア様が私たちを助けて下さるからこそ、私たちを導いて教えて下さいます。母として私の手を取って、天主へと導いて下さいます。マリア様は私たちを天主へと導く為に、罪と悪から解放して下さいます。ですから、その事ができる為にも、どうしてもマリア様に私たち自身を、子供として、奴隷として、奉献しなければなりません。何故かというと、マリア様だけが一人で、蛇の頭を踏み砕いたからです。もしもマリア様がいなければ、霊的に悪魔は私たちを、簡単に殺してしまう事ができます。
私たちは皆、誘惑とは一体何かよく知っています、罪とは何かよく知っています。マリア様は私たちを決して一人ぼっちにさせません。例え私たちが倒れたとしても、マリア様に付いてマリア様に助けを求めれば、すぐにマリア様は助けに来て下さるからです。そしてすぐに引き起こして、私たちを保護して下さるからです。
しかし私たちにはそれだけでは足りません、私たちには更に必要です。何故かというと、私たちの人生というのは、ただ単にこの天主に対して向かっていれば、天主に対するだけ、ではないからです。何故かというと天主様は、私たちに第二の掟も与えて下さいました。天主様に私たち自身が、私が立ち戻る回心する以外の、別の任務を受けています。私たちが、私が、天主様に戻るという事だけを祈るのでは不十分だと言います。私たちが、マリア様とイエズス様に信心を持つだけでは足りないと言います。私が全ての信心をしている、というだけでは足りません。私がミサを通して、主の全てのお恵みと、憐れみを受けるだけを望んでいるのではありません。更に何を望んでおられるのでしょうか?「主よ、主よ、と、口先だけで私を呼ぶ者ではなく、天主御父の御旨を果たす者が、本当に私を愛するのだ。」と、言います。では、御父の御旨とは一体何でしょうか?
隣人を愛する、という事です。我が身の如く、隣人を愛する事です。これは何を意味するのでしょうか?皆さんには人生に於いて、果たさなければならない使命とか、任務があります。私たちのまず果たさなければならない任務は、天主との関係です。それからその次に、天主は私たちが、その周囲の隣人に対して注意を払う事を望んでいます。
皆さんは家族の中にお生まれになりました。お父さんとお母さんがいらっしゃいます。そして、その他の方と一緒に生活していらっしゃいます。天主様はそれを望んでいるのです。天主様が私たちに与えた仕事とは、隣人に善を為すという事です。ですからこそ、皆さんはこのような国に、皆さんのそのような状況で、今のこの時代に、生まれて来たのです。
その隣人を愛する為に、皆さんは特別の、何がしかの特別なタレントを、特別なその能力を持って生まれて来ました。皆さんが持っている特別な能力というのは、天主様から受けた贈り物です。中には、外国語とか、他の国の言葉を勉強する事ができない人もいます。でもみなさんの中には20の言葉を話す人もいるじゃないですか。でも何の為に?
天主様の為に、そのような能力を受けています。皆さんが受けた、天主様から頂いたすごい素晴らしい能力は、天主様の為にあります。ところで、20の言葉を、天主様を賛美し、そして感謝する為に別の言語で言う必要はありません。ロザリオを唱えるのに、コンピューターの天才である必要はありません。そして天主様を賛美して、「ハレルヤ!」と歌う為に、その星座の一つ一つの名前を覚えて、その構造とかその神秘を知っている必要はありません。でも皆さんは、そのような知識とかそのような能力とか、そのような特別な天才的なものを持っていますが、一体何の為に与えられたのでしょうか?
天主様の御摂理によれば、たまたまとか偶然とかそういうものはありません。もちろん皆さんは、それを以って天主様を賛美する為に、与えられたのですけれども、その他にも、隣人を愛する、という掟を達成させる為にも、そのような特別の才能が与えられています。
私は、皆さんの人生に於いて、天主が何を求めているかを言います。まず、この天主が望んでいる全ての事を成し遂げて下さい。そして突然、マリア様が皆さんの前に立って、マリア様こそ全て私たちの恩人として、全ての恩を受けたその恩人である、母であるマリア様が立っています。マリア様はお話をします、「我が子よ、お願いがあります。私を助けて下さい。」「え!?」「我が子よ、私を助けてくれる事ができますか?」「マリア様、私こそがあなたの助けを必要とするのであって、あなたは私にどんな助けがありますか?私は本当にもう役立たずで、どんな事をする事ができるでしょうか?御身一人でサタンの頭を踏み砕く方はないですか。もしも私が、何かあなたの近くにいたら、邪魔をするだけです。私はいつもあなたの子供です、と言いながらも、その手を引っ張って、他の方に行こうとしています。私は本当にもう迷惑ばっかりかけたもういたずらっ子で、何ができるでしょうか?それでもあなたは私に、何か助けて下さいと言うのですか?」
でも天主様は、皆さんがマリア様を助ける事を望んでいます。これこそが、天主が皆さんに望む仕事です。マリア様を助ける、という事です。
皆さんは、天主様の定めた、永遠の決して変わる事のない法則というものを知らなければなりません。天主様の定めた法則とは、天主がこの被造の世界で働く時に、決して御一人では働かずに、必ず道具を使うという規則があります。
天主様というのは、全く天才的な画家、絵を描く方のようです。そして、素晴らしい芸術作品を描き出します。もしも皆さんが、「おお天主様、素晴らしい芸術作品をここで描き出して下さい。」と言うとします。
すると天主様は、「じゃあ、筆と絵の具を下さい。」皆さんは、「それじゃあ、あなたは天才ですから、素手で描いて下さい。」と、言う事ができるかもしれません。でも、レンブランドとか、レオナルド・ダヴィンチとか、世界中の歴史的な芸術家であれば、「あなたはきっとちょっと頭がおかしいんじゃない?」道具が必要です。ペンが、筆が必要です。それがなければいくら才能のある天才的な画家でも何も描けません。
確かに天主は、アダムとエヴァを直接創りました。誰にも助けられずに創りました。しかしその以後は、天主のお望みは、道具を通して、子供が生まれるという事です。もちろん天主様は、皆さんと私を創造されました、造り出されましたけれども、両親を通して、私たちを産み出しました。イエズス・キリスト様は、十字架の上で御自分を捧げて、私たちを救って下さいました。しかし、この世の終わりまで、イエズス様はその自分のお恵みと功徳を、司祭を通してのみ与えようとしています。ですから司祭が大切なのです。何故かというと、道具が無ければ絵を描く事もできないからです。司祭が無ければ、ミサも無ければ、お恵みも無いからです。「主よ、われらに聖なる多くの司祭を与え給え。」
それと同じ事が隣人愛にも言う事ができます。皆さんは、天主の御手に於ける道具とならなければなりません。善をなす道具とならなければなりません。それは隣人が幸せである事ができるように、私の何かの奉献をしなければなりません。ではどうしたら幸せにしてあげる事ができるでしょうか?この地上ではそれができません。ですから、「幸せでありますように。」と、言いますけれども、ポーランドでは非常に有名な、「幸せでありますように。」という表現があります。
ところで、この「幸せでありますように。」とは一体どういう意味でしょうか?幸せという事は、お金を貰う事かなあ?お金を稼ぐことかなあ?富と健康とこの世の快楽、これは本当の幸せではありません。本当の幸せというのは、ずっといつまでも続くものです。健康はこの世で終わってしまいますし、お金もすぐなくなってしまいます。家も貯金通帳もそうです。ですから本当の幸せとは、永遠の価値でなければなりません。これこそが、皆さんを永遠に永久に幸せにするものです。本当の幸せとは、永遠の幸せであって、天国の幸せです。
これが第二の、つまり、隣人の霊魂を救う、という事が命じられています。つまり私たちの隣人が、最も素晴らしい贈り物を得て、つまり、最高の本当の幸せを得て、永遠に幸せであって、永遠に天主の命を生きる、救霊を全うする、という事の為に、働かなければなりません。
皆さんの知っているように、二つしか道がありません。天国か地獄です。ですから第二の掟は、人々を天国に連れて行きなさい、という事です。これが隣人愛です。ところでイエズス様はこの第二の掟に、もっと正確に掟を設定します、『お前たちは互いに愛し合いなさい。“私がお前たちを愛したように、愛し合いなさい。” 』
イエズス様は、私たち一人一人の為に、御自身の命さえも与えてしまいました。イエズス様は私たちの霊魂を救う為に、全て命を、御血を流して捧げました。もしも私たちが、イエズス様が愛したと同じように隣人を愛するのならば、隣人の救霊の為に、愛に燃えなければなりません。第一に隣人の救霊を求めて、求めて求め尽くさなければなりません
この今日の午後、またマリア様の元に行って膝をかがめます。この霊的に心の中で、マリア様が涙を流されるのを考えます。そしてマリア様は私たちの心の中に、こう語りかける事でしょう、「私が今泣いているのは、涙を流しているのは、私の子らが皆、地獄に突き進んでいるからです。私が今涙を流しているのは、彼らが今滅亡の道を辿っているからです。」
しおりの7ページと8ページを見て下さい、マリア様のメッセージが書かれています。マリア様は恐れおののいています。人々が天主を全く忘れて打ち捨てて、そして地獄へと突き進んで走って、滅亡へとなだれ込んでいるからです。マリア様は、このような人々を彼らを愛しています。何故ならば、彼らの母でもあるからです。マリア様が十字架の下に佇んだ時に、この悪人、罪人、そしてフリーメイソン、そして全ての人々の母となりました。そして、イエズス様が愛すると同じ様に、マリア様も彼らを愛しています。
しかも、マリア様はただ御像で涙を流すのみならず、その彼らを回心させる事のできる全てのお恵みを手に持って、そして待っているのです。そして、「よく聞いて下さい。お願いだから助けてください。私には道具が必要です。私は画家です、絵を描く事ができます。私は多くの霊魂を回心させる事を望んでいます。彼らの為に、ものすごい御恵みが私の汚れ無き御心の中に蓄えられています。誰かがそれを使って、それを届けなければなりません。誰か、この私の御心から彼らの心まで届ける、導管とならなければなりません。そのような導く導管となるあなたが必要です。もちろん、あなたがもうどうしようもない罪人であるという事は知っています。あなたよりも私の方が、あなたがどれほど下らない罪人か知っています。でも、私があなたを必要としている、と言った時に、自分の意味している事が何か知っています。もしも私の元にやって来て、私を助けてくれるならば、隣人愛の掟を果たす事ができます。私の汚れ無き御心の道具となればなるほど、良き道具となればなるほど、隣人愛をより良く果たす事ができます。そうすれば私はあなたを、天国に行く為により良く助ける事ができます。」
そしてマリア様はこの事を、この神秘を、マキシミリアノ・コルベ神父様に教えてくれました。コルベ神父様は、汚れ無き聖母の騎士となる事はつまり、マリア様の道具なって、このマリア様を助ける、という事であるという事を深く理解しました。このコルベ神父様が理解した、このマリア様の道具となる、という事については、今日、そして明日話します。そしてそれは水曜日の朝、マリア様の良き道具となって、隣人愛を果たす事ができるように準備する為です。ですから今、二つの事だけ考察してみます。
天主様はこの事を定めました、これは天主様の御旨で、それを望んでいます。私たちの隣人が救われるか救われないかは、私たちがそれに同意するかしないかに懸っている、という事です。私たちの隣人が救われる為に、天主様は私たちに才能を与えます。この隣人が救われる為に、私たちは昔ではなく、未来ではなく、今この時、この状況で、この国に、こうやって生まれています。そしてこの隣人たちを救う為に、敢えて御摂理によって、皆さんをそこの家族で、そこの場所で、そこの状況で生活する事を定めました。
そして天主様は言います、「あなたは自分の霊魂の救いを望みますか?私を愛しなさい。私の御旨を果たしなさい。そして彼らを愛しなさい。彼らの救霊の為に何かをしなさい。彼らの永遠の事を考えなさい。もしも、かれらの救霊の事を考えないならば、彼らを愛してはいないことになります。」
では、今から良心の糾明をなさって下さい。彼らの、私の隣人の救霊の為に、私たちは今まで何をしてきたかという事を。イエズス・キリスト様が愛したそれと同じ様に、私たちは今まで隣人を愛してきたでしょうか?この私たちの周りにいる人々を見て下さい、この周囲にいる人々を見て下さい、隣人を見て下さい。彼らの救霊の事を考えてきたでしょうか?
多くの人々が今います。ところで、この多くの人々の救霊というよりは、何人いるかとか、救霊以外のことにしか、私たちには興味が無かったかもしれません。もしかしたら、何百万人という人々が、東京の大都会に住んでいるのですけれども、地獄に行こうが天国に行こうが、全く私は自分の仕事でいっぱいだ!と、思っているかもしれません。私にとっては無関係で、関心も無かったかもしれません。つまり、隣人愛がなかったという事です。もしかしたら、私が会った事がある、知っている人はそう思ったかもしれません、救霊の事を思ったかもしれません。もちろん、私の知っている人々の救霊を考えたかもしれませんけれども、非常にしばしば、彼らは私の邪魔であって、私に迷惑ばっかりかけていて、本当にこういう人がいなかったら良いなあ、と思ってそれしか思っていなかったかもしれません。私の愛すべき人々、私の同情とか好感を与えるべき人については、別の事は、この地上の事は何か思ったかもしれませんけれども、最も大切な、唯一の救霊の事については、考えも及ばなかったかもしれません。私の子供や、兄弟たちに対しては、「あぁ、お金が儲かりますように。」とか、「健康でありますように。」とか、「仕事が成功しますように。試験が合格するように。」と、思ったかもしれませんけれども、霊魂の救いについては考えた事が無かったかもしれません。
ポーランドで、すごい熱心な信者さん達が、「あぁ神父様!神父様が健康である事をお祈りします。健康がやっぱり第一!やっぱり体の健康が、健康が、健康が…。」ですから、私はそういう話をたくさん聞くと、「ありがとうございます。はい、健康が大切だとは知っていますけれども、それが一番ではありません。」と、答えています。
私たちの隣人にとって、一番大切なものは何だと考えているでしょうか?健康ですか?それとも救霊でしょうか。もしも私たちが、隣人の救霊の事を考えずにいたのだとしたら、私たちはつまり、隣人愛の掟を守っていない事になります。つまり、天主の私たちに与えた任務を果たしていない事に、天主の御旨を果たしていない事になります。今までは時間を無駄に使ってきた事になります。私に与えられたこの時間、更には、才能は、この隣人の救霊の為です、無駄に使ってはいけません。天主様は御摂理により、私たちはこの人と知り合いになり、この人と近付きになった。そしてこの世の人々をよく見て下さい。天主様から頂いた時とか時間とか才能をどうやって使っているでしょうか?自分の利己主義とか、自分の傲慢の為とか、自分の名誉とか野心の為にやって、それは私と同じです。
イエズス様は言います、「私は、お前たちが行って実を結ぶ事を望む。そして実を見て木がどのようなものであるかを判断する。永遠の実りをもたらせ。」
幼きイエズスの聖テレジアは、「この世の終わりには、愛によって裁きを受けるでしょう。」
人生の終わりに、皆さんの肉体が虫とか蛆の餌となります。私の人生で一体何が残るでしょうか?その時に私たちに残っているものは、天主に対してなされた愛と隣人愛、それしかありません。ですから、真剣に一生懸命真面目に考えなければなりません。今まで、隣人の救霊の為に、霊魂の救いの為に、今まで何をしてきただろうか?それの為にもマリア様の助けが必要です。天主を愛する、という為にはマリア様が必要だったように、隣人を愛する、という掟の為にマリア様が必要です。
「我が母にして元后なるマリア様、私の目を覚まさして下さい!ちょうどこの野良犬がこう駆け回っているかのように、何も思わず、何の考えもなく、この世をグルグルグルグルと回ってきたかのようです。私の友人、私の隣人たちに対する、あなたの愛を、私の心にも分けて下さい。もしも、私が一人でいるのであれば、私の手を取って、私が御身の良き道具としてあるように導いて下さい。そして、私をあなたの騎士として使って下さい。道具として使って下さい。」
では、今日今から、明日の私の話の時まで、この本を是非読んで下さい。英語版も持ってきました。
では、お祈りします。
天の元后喜び給え。アレルヤ。▲御身に宿り給いし者は。アレルヤ。
のたまえる如くよみがえり給えり。アレルヤ。▲われらの為に天主に祈り給え。アレルヤ。
童貞マリア喜び給え。アレルヤ。▲主まことによみがえり給いたればなり、アレルヤ。
祈願、御子イエズス・キリストの御復活を以って世界を喜ばしめ給いし天主、願わくは、その御母童貞聖マリアによりて、終わりなき命の喜びをわれらに得しめ給え。この我らの主、イエズス・キリストによりて願いたてまつる。▲アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年5月4日、秋田巡礼でのシュテーリン神父様霊的講話その6をご紹介します。シュテーリン神父様は、この日の午前中に3回に分けて聖母マリア様が私たちの救いに対するやくわりを語って下さいました。
疲れたような顔をしている私たちをご覧になってか(?)、ご自分の講話(lecture)のことを拷問(torture)だと言って私たちを笑わせてから、お始めになりました。
今回は本当の隣人愛とはということについてお話し下さいます。ごゆっくりお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話6
同時通訳:小野田圭志神父
それでは、3回目の拷問(講話)を始めます(^^
私が黙想会をすれば、普通は5回か6回の拷問があります。今回は3回だけで済んでいます(^^
今まで説明した事を、また別の言葉で言い換えてみます。イエズス様は私たちに、新しい、良き、偉大な掟を与えて下さいました。その偉大な掟とは、『天主を、お前たちの心を尽くして、力を尽くして、精神を尽くして愛せ。そして隣人を我が身の如く愛せ。』これです。イエズス・キリストの私に対する、ものすごい巨大な愛に対する応えとして、イエズス様が私たちからの期待している応えとはこれです。『力を尽くし、心を尽くし、精神を尽くして主なる天主を愛し、隣人を我が身の如く愛せよ。』これです。
今までかつて、この地上で最も賢い賢者と言われる人であっても、天主の私たち人類に対するそれほどの巨大な愛を、想像さえする事ができませんでした。しかし天主は、その巨大なものすごい愛は、はかり知れないほどの愛は、私たちに御子を自ら与え、そしてその御子は私たちの為に、その最後の一滴まで血潮を流し、そして命を与えた。これでした。そして、「御父、御子よ、あなたは私に、天主の愛そのものである聖霊を、私に、私の為に与えて下さいました。そしてこの三位一体は私たちに、最も愛する母親であり、更に愛する母親であるマリア様を私に下さいました。」
そのような現実、そのような事実を前にして、皆さんの応えは何でしょうか?皆さんの応えは、「はい、私は御身を愛します。愛に愛を以って返します。」これでなければなりません。「私は御身を賛美したい。そしてもうこれ以上罪を犯して、御身を汚す事、犯す事がないように望みます。私は、そのようなはかり知れない愛に対して、無関心や、或いは冷淡で応えようなどと思ってもいません。そのような贈り物を頂きながら、私が今までやったように、御身を犯したり、御身に対して反抗したりするような事はしたいと思いません。」
もしも皆さんがそう思うならば、私たちにはマリア様が必要です。もしもマリア様がなかったとしたら、マリア様が助けて下さらなかったとしたら、今まであったと同じ様に、全く悲惨な応えとなった事でしょう。
マリア様が私たちを助けて下さるからこそ、私たちを導いて教えて下さいます。母として私の手を取って、天主へと導いて下さいます。マリア様は私たちを天主へと導く為に、罪と悪から解放して下さいます。ですから、その事ができる為にも、どうしてもマリア様に私たち自身を、子供として、奴隷として、奉献しなければなりません。何故かというと、マリア様だけが一人で、蛇の頭を踏み砕いたからです。もしもマリア様がいなければ、霊的に悪魔は私たちを、簡単に殺してしまう事ができます。
私たちは皆、誘惑とは一体何かよく知っています、罪とは何かよく知っています。マリア様は私たちを決して一人ぼっちにさせません。例え私たちが倒れたとしても、マリア様に付いてマリア様に助けを求めれば、すぐにマリア様は助けに来て下さるからです。そしてすぐに引き起こして、私たちを保護して下さるからです。
しかし私たちにはそれだけでは足りません、私たちには更に必要です。何故かというと、私たちの人生というのは、ただ単にこの天主に対して向かっていれば、天主に対するだけ、ではないからです。何故かというと天主様は、私たちに第二の掟も与えて下さいました。天主様に私たち自身が、私が立ち戻る回心する以外の、別の任務を受けています。私たちが、私が、天主様に戻るという事だけを祈るのでは不十分だと言います。私たちが、マリア様とイエズス様に信心を持つだけでは足りないと言います。私が全ての信心をしている、というだけでは足りません。私がミサを通して、主の全てのお恵みと、憐れみを受けるだけを望んでいるのではありません。更に何を望んでおられるのでしょうか?「主よ、主よ、と、口先だけで私を呼ぶ者ではなく、天主御父の御旨を果たす者が、本当に私を愛するのだ。」と、言います。では、御父の御旨とは一体何でしょうか?
隣人を愛する、という事です。我が身の如く、隣人を愛する事です。これは何を意味するのでしょうか?皆さんには人生に於いて、果たさなければならない使命とか、任務があります。私たちのまず果たさなければならない任務は、天主との関係です。それからその次に、天主は私たちが、その周囲の隣人に対して注意を払う事を望んでいます。
皆さんは家族の中にお生まれになりました。お父さんとお母さんがいらっしゃいます。そして、その他の方と一緒に生活していらっしゃいます。天主様はそれを望んでいるのです。天主様が私たちに与えた仕事とは、隣人に善を為すという事です。ですからこそ、皆さんはこのような国に、皆さんのそのような状況で、今のこの時代に、生まれて来たのです。
その隣人を愛する為に、皆さんは特別の、何がしかの特別なタレントを、特別なその能力を持って生まれて来ました。皆さんが持っている特別な能力というのは、天主様から受けた贈り物です。中には、外国語とか、他の国の言葉を勉強する事ができない人もいます。でもみなさんの中には20の言葉を話す人もいるじゃないですか。でも何の為に?
天主様の為に、そのような能力を受けています。皆さんが受けた、天主様から頂いたすごい素晴らしい能力は、天主様の為にあります。ところで、20の言葉を、天主様を賛美し、そして感謝する為に別の言語で言う必要はありません。ロザリオを唱えるのに、コンピューターの天才である必要はありません。そして天主様を賛美して、「ハレルヤ!」と歌う為に、その星座の一つ一つの名前を覚えて、その構造とかその神秘を知っている必要はありません。でも皆さんは、そのような知識とかそのような能力とか、そのような特別な天才的なものを持っていますが、一体何の為に与えられたのでしょうか?
天主様の御摂理によれば、たまたまとか偶然とかそういうものはありません。もちろん皆さんは、それを以って天主様を賛美する為に、与えられたのですけれども、その他にも、隣人を愛する、という掟を達成させる為にも、そのような特別の才能が与えられています。
私は、皆さんの人生に於いて、天主が何を求めているかを言います。まず、この天主が望んでいる全ての事を成し遂げて下さい。そして突然、マリア様が皆さんの前に立って、マリア様こそ全て私たちの恩人として、全ての恩を受けたその恩人である、母であるマリア様が立っています。マリア様はお話をします、「我が子よ、お願いがあります。私を助けて下さい。」「え!?」「我が子よ、私を助けてくれる事ができますか?」「マリア様、私こそがあなたの助けを必要とするのであって、あなたは私にどんな助けがありますか?私は本当にもう役立たずで、どんな事をする事ができるでしょうか?御身一人でサタンの頭を踏み砕く方はないですか。もしも私が、何かあなたの近くにいたら、邪魔をするだけです。私はいつもあなたの子供です、と言いながらも、その手を引っ張って、他の方に行こうとしています。私は本当にもう迷惑ばっかりかけたもういたずらっ子で、何ができるでしょうか?それでもあなたは私に、何か助けて下さいと言うのですか?」
でも天主様は、皆さんがマリア様を助ける事を望んでいます。これこそが、天主が皆さんに望む仕事です。マリア様を助ける、という事です。
皆さんは、天主様の定めた、永遠の決して変わる事のない法則というものを知らなければなりません。天主様の定めた法則とは、天主がこの被造の世界で働く時に、決して御一人では働かずに、必ず道具を使うという規則があります。
天主様というのは、全く天才的な画家、絵を描く方のようです。そして、素晴らしい芸術作品を描き出します。もしも皆さんが、「おお天主様、素晴らしい芸術作品をここで描き出して下さい。」と言うとします。
すると天主様は、「じゃあ、筆と絵の具を下さい。」皆さんは、「それじゃあ、あなたは天才ですから、素手で描いて下さい。」と、言う事ができるかもしれません。でも、レンブランドとか、レオナルド・ダヴィンチとか、世界中の歴史的な芸術家であれば、「あなたはきっとちょっと頭がおかしいんじゃない?」道具が必要です。ペンが、筆が必要です。それがなければいくら才能のある天才的な画家でも何も描けません。
確かに天主は、アダムとエヴァを直接創りました。誰にも助けられずに創りました。しかしその以後は、天主のお望みは、道具を通して、子供が生まれるという事です。もちろん天主様は、皆さんと私を創造されました、造り出されましたけれども、両親を通して、私たちを産み出しました。イエズス・キリスト様は、十字架の上で御自分を捧げて、私たちを救って下さいました。しかし、この世の終わりまで、イエズス様はその自分のお恵みと功徳を、司祭を通してのみ与えようとしています。ですから司祭が大切なのです。何故かというと、道具が無ければ絵を描く事もできないからです。司祭が無ければ、ミサも無ければ、お恵みも無いからです。「主よ、われらに聖なる多くの司祭を与え給え。」
それと同じ事が隣人愛にも言う事ができます。皆さんは、天主の御手に於ける道具とならなければなりません。善をなす道具とならなければなりません。それは隣人が幸せである事ができるように、私の何かの奉献をしなければなりません。ではどうしたら幸せにしてあげる事ができるでしょうか?この地上ではそれができません。ですから、「幸せでありますように。」と、言いますけれども、ポーランドでは非常に有名な、「幸せでありますように。」という表現があります。
ところで、この「幸せでありますように。」とは一体どういう意味でしょうか?幸せという事は、お金を貰う事かなあ?お金を稼ぐことかなあ?富と健康とこの世の快楽、これは本当の幸せではありません。本当の幸せというのは、ずっといつまでも続くものです。健康はこの世で終わってしまいますし、お金もすぐなくなってしまいます。家も貯金通帳もそうです。ですから本当の幸せとは、永遠の価値でなければなりません。これこそが、皆さんを永遠に永久に幸せにするものです。本当の幸せとは、永遠の幸せであって、天国の幸せです。
これが第二の、つまり、隣人の霊魂を救う、という事が命じられています。つまり私たちの隣人が、最も素晴らしい贈り物を得て、つまり、最高の本当の幸せを得て、永遠に幸せであって、永遠に天主の命を生きる、救霊を全うする、という事の為に、働かなければなりません。
皆さんの知っているように、二つしか道がありません。天国か地獄です。ですから第二の掟は、人々を天国に連れて行きなさい、という事です。これが隣人愛です。ところでイエズス様はこの第二の掟に、もっと正確に掟を設定します、『お前たちは互いに愛し合いなさい。“私がお前たちを愛したように、愛し合いなさい。” 』
イエズス様は、私たち一人一人の為に、御自身の命さえも与えてしまいました。イエズス様は私たちの霊魂を救う為に、全て命を、御血を流して捧げました。もしも私たちが、イエズス様が愛したと同じように隣人を愛するのならば、隣人の救霊の為に、愛に燃えなければなりません。第一に隣人の救霊を求めて、求めて求め尽くさなければなりません
この今日の午後、またマリア様の元に行って膝をかがめます。この霊的に心の中で、マリア様が涙を流されるのを考えます。そしてマリア様は私たちの心の中に、こう語りかける事でしょう、「私が今泣いているのは、涙を流しているのは、私の子らが皆、地獄に突き進んでいるからです。私が今涙を流しているのは、彼らが今滅亡の道を辿っているからです。」
しおりの7ページと8ページを見て下さい、マリア様のメッセージが書かれています。マリア様は恐れおののいています。人々が天主を全く忘れて打ち捨てて、そして地獄へと突き進んで走って、滅亡へとなだれ込んでいるからです。マリア様は、このような人々を彼らを愛しています。何故ならば、彼らの母でもあるからです。マリア様が十字架の下に佇んだ時に、この悪人、罪人、そしてフリーメイソン、そして全ての人々の母となりました。そして、イエズス様が愛すると同じ様に、マリア様も彼らを愛しています。
しかも、マリア様はただ御像で涙を流すのみならず、その彼らを回心させる事のできる全てのお恵みを手に持って、そして待っているのです。そして、「よく聞いて下さい。お願いだから助けてください。私には道具が必要です。私は画家です、絵を描く事ができます。私は多くの霊魂を回心させる事を望んでいます。彼らの為に、ものすごい御恵みが私の汚れ無き御心の中に蓄えられています。誰かがそれを使って、それを届けなければなりません。誰か、この私の御心から彼らの心まで届ける、導管とならなければなりません。そのような導く導管となるあなたが必要です。もちろん、あなたがもうどうしようもない罪人であるという事は知っています。あなたよりも私の方が、あなたがどれほど下らない罪人か知っています。でも、私があなたを必要としている、と言った時に、自分の意味している事が何か知っています。もしも私の元にやって来て、私を助けてくれるならば、隣人愛の掟を果たす事ができます。私の汚れ無き御心の道具となればなるほど、良き道具となればなるほど、隣人愛をより良く果たす事ができます。そうすれば私はあなたを、天国に行く為により良く助ける事ができます。」
そしてマリア様はこの事を、この神秘を、マキシミリアノ・コルベ神父様に教えてくれました。コルベ神父様は、汚れ無き聖母の騎士となる事はつまり、マリア様の道具なって、このマリア様を助ける、という事であるという事を深く理解しました。このコルベ神父様が理解した、このマリア様の道具となる、という事については、今日、そして明日話します。そしてそれは水曜日の朝、マリア様の良き道具となって、隣人愛を果たす事ができるように準備する為です。ですから今、二つの事だけ考察してみます。
天主様はこの事を定めました、これは天主様の御旨で、それを望んでいます。私たちの隣人が救われるか救われないかは、私たちがそれに同意するかしないかに懸っている、という事です。私たちの隣人が救われる為に、天主様は私たちに才能を与えます。この隣人が救われる為に、私たちは昔ではなく、未来ではなく、今この時、この状況で、この国に、こうやって生まれています。そしてこの隣人たちを救う為に、敢えて御摂理によって、皆さんをそこの家族で、そこの場所で、そこの状況で生活する事を定めました。
そして天主様は言います、「あなたは自分の霊魂の救いを望みますか?私を愛しなさい。私の御旨を果たしなさい。そして彼らを愛しなさい。彼らの救霊の為に何かをしなさい。彼らの永遠の事を考えなさい。もしも、かれらの救霊の事を考えないならば、彼らを愛してはいないことになります。」
では、今から良心の糾明をなさって下さい。彼らの、私の隣人の救霊の為に、私たちは今まで何をしてきたかという事を。イエズス・キリスト様が愛したそれと同じ様に、私たちは今まで隣人を愛してきたでしょうか?この私たちの周りにいる人々を見て下さい、この周囲にいる人々を見て下さい、隣人を見て下さい。彼らの救霊の事を考えてきたでしょうか?
多くの人々が今います。ところで、この多くの人々の救霊というよりは、何人いるかとか、救霊以外のことにしか、私たちには興味が無かったかもしれません。もしかしたら、何百万人という人々が、東京の大都会に住んでいるのですけれども、地獄に行こうが天国に行こうが、全く私は自分の仕事でいっぱいだ!と、思っているかもしれません。私にとっては無関係で、関心も無かったかもしれません。つまり、隣人愛がなかったという事です。もしかしたら、私が会った事がある、知っている人はそう思ったかもしれません、救霊の事を思ったかもしれません。もちろん、私の知っている人々の救霊を考えたかもしれませんけれども、非常にしばしば、彼らは私の邪魔であって、私に迷惑ばっかりかけていて、本当にこういう人がいなかったら良いなあ、と思ってそれしか思っていなかったかもしれません。私の愛すべき人々、私の同情とか好感を与えるべき人については、別の事は、この地上の事は何か思ったかもしれませんけれども、最も大切な、唯一の救霊の事については、考えも及ばなかったかもしれません。私の子供や、兄弟たちに対しては、「あぁ、お金が儲かりますように。」とか、「健康でありますように。」とか、「仕事が成功しますように。試験が合格するように。」と、思ったかもしれませんけれども、霊魂の救いについては考えた事が無かったかもしれません。
ポーランドで、すごい熱心な信者さん達が、「あぁ神父様!神父様が健康である事をお祈りします。健康がやっぱり第一!やっぱり体の健康が、健康が、健康が…。」ですから、私はそういう話をたくさん聞くと、「ありがとうございます。はい、健康が大切だとは知っていますけれども、それが一番ではありません。」と、答えています。
私たちの隣人にとって、一番大切なものは何だと考えているでしょうか?健康ですか?それとも救霊でしょうか。もしも私たちが、隣人の救霊の事を考えずにいたのだとしたら、私たちはつまり、隣人愛の掟を守っていない事になります。つまり、天主の私たちに与えた任務を果たしていない事に、天主の御旨を果たしていない事になります。今までは時間を無駄に使ってきた事になります。私に与えられたこの時間、更には、才能は、この隣人の救霊の為です、無駄に使ってはいけません。天主様は御摂理により、私たちはこの人と知り合いになり、この人と近付きになった。そしてこの世の人々をよく見て下さい。天主様から頂いた時とか時間とか才能をどうやって使っているでしょうか?自分の利己主義とか、自分の傲慢の為とか、自分の名誉とか野心の為にやって、それは私と同じです。
イエズス様は言います、「私は、お前たちが行って実を結ぶ事を望む。そして実を見て木がどのようなものであるかを判断する。永遠の実りをもたらせ。」
幼きイエズスの聖テレジアは、「この世の終わりには、愛によって裁きを受けるでしょう。」
人生の終わりに、皆さんの肉体が虫とか蛆の餌となります。私の人生で一体何が残るでしょうか?その時に私たちに残っているものは、天主に対してなされた愛と隣人愛、それしかありません。ですから、真剣に一生懸命真面目に考えなければなりません。今まで、隣人の救霊の為に、霊魂の救いの為に、今まで何をしてきただろうか?それの為にもマリア様の助けが必要です。天主を愛する、という為にはマリア様が必要だったように、隣人を愛する、という掟の為にマリア様が必要です。
「我が母にして元后なるマリア様、私の目を覚まさして下さい!ちょうどこの野良犬がこう駆け回っているかのように、何も思わず、何の考えもなく、この世をグルグルグルグルと回ってきたかのようです。私の友人、私の隣人たちに対する、あなたの愛を、私の心にも分けて下さい。もしも、私が一人でいるのであれば、私の手を取って、私が御身の良き道具としてあるように導いて下さい。そして、私をあなたの騎士として使って下さい。道具として使って下さい。」
では、今日今から、明日の私の話の時まで、この本を是非読んで下さい。英語版も持ってきました。
では、お祈りします。
天の元后喜び給え。アレルヤ。▲御身に宿り給いし者は。アレルヤ。
のたまえる如くよみがえり給えり。アレルヤ。▲われらの為に天主に祈り給え。アレルヤ。
童貞マリア喜び給え。アレルヤ。▲主まことによみがえり給いたればなり、アレルヤ。
祈願、御子イエズス・キリストの御復活を以って世界を喜ばしめ給いし天主、願わくは、その御母童貞聖マリアによりて、終わりなき命の喜びをわれらに得しめ給え。この我らの主、イエズス・キリストによりて願いたてまつる。▲アーメン。