アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様
2015年5月4日、秋田巡礼で、聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサでした小野田神父の説教をご紹介します。
聖ピオ十世会日本でなされた説教については、他にもたくさんここにあります。ご覧下さい。これらの説教を書き起こして下さった方々には心から感謝申し上げます。
http://fsspxjapan.fc2web.com/homilia/index.html
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年5月4日 秋田巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサ
小野田神父説教
Ovos omnes, qui transitis perviam ,attendite,
et videte,si est dolor sicut dolor meus.
「道を通り過ぎる人々よ、見よ、私ほどの苦しみがあるのかを。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
シュテーリン神父様、愛する巡礼者の皆さん、今日は、マリア様の七つの御悲しみの随意ミサを立てています。そこで、マリア様の御悲しみと、マリア様が流された涙の神秘を、一緒に黙想する事を提案します。
1975年の1月4日の初土曜日に、初めてマリア様は涙を流されました。その日には、三回の涙を一日に流されました。ヒビの入って、乾燥しきっている木造の御像から、人間の、あたかも人間が泣いているかのように、ポタリポタリと、この目から鼻を通って、頬を伝って、涙が流されました。それを見ていた方が皆、「本当に人間が涙を流して、悲しみの涙を流している様な、ただ水が湧き出ていたのではなくて、涙を流している。」と、証言しています。最後の涙は、1981年の9月15日、マリア様の七つの御悲しみの祝日に、最後の涙となりました。101回目でした。この最後の9月の15日には、私たちが今日行っている随意ミサを行う祝日でもあります。
では一体、マリア様の涙の意味とは何なのでしょうか?安田神父様によると、「これは、2000年前のカルワリオの涙の再現である」と、仰います。それをもう少し詳しくみてみましょう。
マリア様は、私たちの御母であり、私たちの元后であります、女王であります。これは、十字架の下で、それを完成させられました。天主様は私たちにイエズス様を送られる時に、マリア様を通して、イエズス様を送らせられる事を望みました。マリア様をなしに、マリア様を通さずに、私たちにイエズス様を下さろうとは、決して思われませんでした。
天主は、救霊の、私たちが天国に行く為に必要な事業を始めるのに、マリア様を通して始めましたけれども、それを完成させる為にも、マリア様を通して完成させようと思われました。十字架の下で、マリア様が佇む事を御望みになりました。
マリア様は、イエズス様の贖いの事業に同意して、イエズス様をすすんで、天主御父にお捧げしました。自分の胎内の実りを、十字架の木にあえて付けて、最初のアダムとエヴァの犯した罪を、贖おうとしました。そこで、マリア様は、イエズス様と全く同じ受難を感じておられたのでした。この事を日本語では、「同感受難」とか、「共同受難」とか、と言います。
マリア様は、イエズス様と共に、贖いの業を通して、共同の贖いの業を通して、新しいエヴァとなりました。ですからこそ、イエズス様は十字架の上で、「お母さん」とは言いませんでした。「婦人よ、女よ、」と、言ったのです。何故かというと、イエズス様はその時、新しいアダムとして、新しいエヴァに向かって、贖いを共に行った、新しい第二のエヴァに向かって言ったのでした、「婦人よ、私たちの共同の贖いの業は終わった。最初のアダムと最初のエヴァが共に犯した罪の償いの業を、私たちは共に果たした。」「婦人よ、第二のエヴァよ、見よ、これがお前の子である。」聖ヨハネを通して、全人類を、私たちを指し示したのでした。その時マリア様は、贖いを終えて、ちょうどお母さんが、産みの苦しみを終えて、涙を流して苦しみを終えて、新しい、超自然の命に、私たちを産み出したのでした。新しい命の、超自然の命の母となったのでした。
イエズス様をお産みになった時には、マリア様は苦しみを一つも感じられませんでした。イエズス様はあたかも、復活した時と同じように、マリア様のご胎内をスルリと抜けて、マリア様を傷付けることなく、お生まれになりました。神秘体の頭をお産みになる時には、全く苦痛がありませんでした。
しかし、私たち人類を、新しい超自然の命に産み出す時には、十字架の苦しみをイエズス・キリストと共に感じ、それを苦しまれました。これは、マリア様が御母である、私たちの御母であるという、私たちの贖いと共贖者である、イエズス様と共に私たちを贖った、贖いの主である。つまり、私たちを贖って、天の新しい王国の中に入れて下さった、という事は私たちのつまり、元后であり、女王である、という事の涙です。
みて下さい。この私たちの母であり、私たちの贖い主であり、共贖者であり、女王であり、元后であり、高貴な、最もいと高き御方が、私たちの為に、私たちの救霊の為に、このようにして苦しみの涙を流された、苦しまれた、という事を思って下さい。
そればかりではありません。この苦しみは、今でも、実は続いているのです。何故かというと、マリア様のその贖いは、ただその2000年前、それで終わった、その事業は終わったのではないのです。私たちを超自然の命に、絶えず産み続けていかなければなりません。私たちを、天の国までへと導いて行かなければなりません。産み出された超自然の命を、私たちがいつも保存して、それを天国まで大切に持って行かなければなりません。その贖いの業は、十字架の苦しみはあたかも、続いているかのようです。
こうやって、せっかく苦しみと苦痛を以って、私たちを超自然の命に産んで下さったお母さん、元后マリア様ですが、しかし、そのようなマリア様の苦しみに、耳を貸す者も、注意する者もいません。
ちょうど今日ミサで、その聖書の一節が使われたと同じ様です、「道行く人よ、そんなに無関心で通り過ぎないで下さい。あなたの為にこのように苦しみ、全てを失い、全ての苦しみを耐えた者がここにいます。道行く者よ、この世界の時、この歴史の中で過ぎ去っていく多くの人々よ、私はあなたの救霊の為にこれほど苦しんだのです。私ほどの苦しみが、一体あるでしょうか。」
しかし、多くの人々は、マリア様の涙に関心を持とうとも、慰めようとも、何とかしてこのマリア様の涙を止めようとも、思いません。イエズス・キリストを全く無視し、マリア様を無視して、せっかく勝ち取られた永遠の命をも無視して、地獄へ、或いは罪の道を、そのまま歩み続けているのではないでしょうか。
我が子が、それほど苦しみを以って産み出した、我が娘、我が息子が、自分を全く無視して、破滅の道へ行くのを見て、どれほど母の心は痛められているでしょうか。
今日ちょうど、聖モニカの祝日ですが、聖モニカは、自分の子供アウグスティヌスが、マニ教に走り、ある女性と同棲して、姿をくらました、家出をした、それを追って、ミラノまでやって来ました。祈りと、断食と、涙との日々に、15年明け暮れました。それを、そのような母モニカを見て、聖アンブロジウスは、「そのような母親を持つ子供は、決して失われない、決して滅亡しない。」と、言わしめしたほどでした。まさに、そのモニカの涙と祈りは、アウグスティヌスを大回心させて、聖なる司教とさえもなりました。
もしもモニカの涙がそうであるならば、マリア様の涙は、どれほどでしょうか。マリア様の涙こそ私たちに、もっと私たちを回心させ、聖化させる力があります。私たちの母であり、女王の涙であります。天主の御母の涙であります。私たちを、イエズス様と共に贖って下さった御母の、共贖者の涙です。
ですから、今日はこの御ミサを捧げて、このマリア様の涙を黙想する事にいたしましょう。マリア様を、私たちの母、女王であるマリア様を、お慰めする決心を立てましょう。私たちの祈りと犠牲を以って、マリア様をお慰め致しましょう。罪の生活から遠ざかる事によって、罪を忌み憎む事によって、マリア様の御望みを果たす事によって、マリア様をお慰め致しましょう。マリア様を悲しめた多くの罪の生活をしている、イエズス・キリストを知らない、マリア様を知らない、無関心でいる多くの人々が、世界中の人々が、イエズス・キリストを贖い主として、マリア様を共贖者として認める日が来ますように、マリア様にお祈り致しましょう。
「道を通り過ぎる人々よ、見て下さい、私ほどの苦しみがあるのか。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様
2015年5月4日、秋田巡礼で、聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサでした小野田神父の説教をご紹介します。
聖ピオ十世会日本でなされた説教については、他にもたくさんここにあります。ご覧下さい。これらの説教を書き起こして下さった方々には心から感謝申し上げます。
http://fsspxjapan.fc2web.com/homilia/index.html
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年5月4日 秋田巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサ
小野田神父説教
Ovos omnes, qui transitis perviam ,attendite,
et videte,si est dolor sicut dolor meus.
「道を通り過ぎる人々よ、見よ、私ほどの苦しみがあるのかを。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
シュテーリン神父様、愛する巡礼者の皆さん、今日は、マリア様の七つの御悲しみの随意ミサを立てています。そこで、マリア様の御悲しみと、マリア様が流された涙の神秘を、一緒に黙想する事を提案します。
1975年の1月4日の初土曜日に、初めてマリア様は涙を流されました。その日には、三回の涙を一日に流されました。ヒビの入って、乾燥しきっている木造の御像から、人間の、あたかも人間が泣いているかのように、ポタリポタリと、この目から鼻を通って、頬を伝って、涙が流されました。それを見ていた方が皆、「本当に人間が涙を流して、悲しみの涙を流している様な、ただ水が湧き出ていたのではなくて、涙を流している。」と、証言しています。最後の涙は、1981年の9月15日、マリア様の七つの御悲しみの祝日に、最後の涙となりました。101回目でした。この最後の9月の15日には、私たちが今日行っている随意ミサを行う祝日でもあります。
では一体、マリア様の涙の意味とは何なのでしょうか?安田神父様によると、「これは、2000年前のカルワリオの涙の再現である」と、仰います。それをもう少し詳しくみてみましょう。
マリア様は、私たちの御母であり、私たちの元后であります、女王であります。これは、十字架の下で、それを完成させられました。天主様は私たちにイエズス様を送られる時に、マリア様を通して、イエズス様を送らせられる事を望みました。マリア様をなしに、マリア様を通さずに、私たちにイエズス様を下さろうとは、決して思われませんでした。
天主は、救霊の、私たちが天国に行く為に必要な事業を始めるのに、マリア様を通して始めましたけれども、それを完成させる為にも、マリア様を通して完成させようと思われました。十字架の下で、マリア様が佇む事を御望みになりました。
マリア様は、イエズス様の贖いの事業に同意して、イエズス様をすすんで、天主御父にお捧げしました。自分の胎内の実りを、十字架の木にあえて付けて、最初のアダムとエヴァの犯した罪を、贖おうとしました。そこで、マリア様は、イエズス様と全く同じ受難を感じておられたのでした。この事を日本語では、「同感受難」とか、「共同受難」とか、と言います。
マリア様は、イエズス様と共に、贖いの業を通して、共同の贖いの業を通して、新しいエヴァとなりました。ですからこそ、イエズス様は十字架の上で、「お母さん」とは言いませんでした。「婦人よ、女よ、」と、言ったのです。何故かというと、イエズス様はその時、新しいアダムとして、新しいエヴァに向かって、贖いを共に行った、新しい第二のエヴァに向かって言ったのでした、「婦人よ、私たちの共同の贖いの業は終わった。最初のアダムと最初のエヴァが共に犯した罪の償いの業を、私たちは共に果たした。」「婦人よ、第二のエヴァよ、見よ、これがお前の子である。」聖ヨハネを通して、全人類を、私たちを指し示したのでした。その時マリア様は、贖いを終えて、ちょうどお母さんが、産みの苦しみを終えて、涙を流して苦しみを終えて、新しい、超自然の命に、私たちを産み出したのでした。新しい命の、超自然の命の母となったのでした。
イエズス様をお産みになった時には、マリア様は苦しみを一つも感じられませんでした。イエズス様はあたかも、復活した時と同じように、マリア様のご胎内をスルリと抜けて、マリア様を傷付けることなく、お生まれになりました。神秘体の頭をお産みになる時には、全く苦痛がありませんでした。
しかし、私たち人類を、新しい超自然の命に産み出す時には、十字架の苦しみをイエズス・キリストと共に感じ、それを苦しまれました。これは、マリア様が御母である、私たちの御母であるという、私たちの贖いと共贖者である、イエズス様と共に私たちを贖った、贖いの主である。つまり、私たちを贖って、天の新しい王国の中に入れて下さった、という事は私たちのつまり、元后であり、女王である、という事の涙です。
みて下さい。この私たちの母であり、私たちの贖い主であり、共贖者であり、女王であり、元后であり、高貴な、最もいと高き御方が、私たちの為に、私たちの救霊の為に、このようにして苦しみの涙を流された、苦しまれた、という事を思って下さい。
そればかりではありません。この苦しみは、今でも、実は続いているのです。何故かというと、マリア様のその贖いは、ただその2000年前、それで終わった、その事業は終わったのではないのです。私たちを超自然の命に、絶えず産み続けていかなければなりません。私たちを、天の国までへと導いて行かなければなりません。産み出された超自然の命を、私たちがいつも保存して、それを天国まで大切に持って行かなければなりません。その贖いの業は、十字架の苦しみはあたかも、続いているかのようです。
こうやって、せっかく苦しみと苦痛を以って、私たちを超自然の命に産んで下さったお母さん、元后マリア様ですが、しかし、そのようなマリア様の苦しみに、耳を貸す者も、注意する者もいません。
ちょうど今日ミサで、その聖書の一節が使われたと同じ様です、「道行く人よ、そんなに無関心で通り過ぎないで下さい。あなたの為にこのように苦しみ、全てを失い、全ての苦しみを耐えた者がここにいます。道行く者よ、この世界の時、この歴史の中で過ぎ去っていく多くの人々よ、私はあなたの救霊の為にこれほど苦しんだのです。私ほどの苦しみが、一体あるでしょうか。」
しかし、多くの人々は、マリア様の涙に関心を持とうとも、慰めようとも、何とかしてこのマリア様の涙を止めようとも、思いません。イエズス・キリストを全く無視し、マリア様を無視して、せっかく勝ち取られた永遠の命をも無視して、地獄へ、或いは罪の道を、そのまま歩み続けているのではないでしょうか。
我が子が、それほど苦しみを以って産み出した、我が娘、我が息子が、自分を全く無視して、破滅の道へ行くのを見て、どれほど母の心は痛められているでしょうか。
今日ちょうど、聖モニカの祝日ですが、聖モニカは、自分の子供アウグスティヌスが、マニ教に走り、ある女性と同棲して、姿をくらました、家出をした、それを追って、ミラノまでやって来ました。祈りと、断食と、涙との日々に、15年明け暮れました。それを、そのような母モニカを見て、聖アンブロジウスは、「そのような母親を持つ子供は、決して失われない、決して滅亡しない。」と、言わしめしたほどでした。まさに、そのモニカの涙と祈りは、アウグスティヌスを大回心させて、聖なる司教とさえもなりました。
もしもモニカの涙がそうであるならば、マリア様の涙は、どれほどでしょうか。マリア様の涙こそ私たちに、もっと私たちを回心させ、聖化させる力があります。私たちの母であり、女王の涙であります。天主の御母の涙であります。私たちを、イエズス様と共に贖って下さった御母の、共贖者の涙です。
ですから、今日はこの御ミサを捧げて、このマリア様の涙を黙想する事にいたしましょう。マリア様を、私たちの母、女王であるマリア様を、お慰めする決心を立てましょう。私たちの祈りと犠牲を以って、マリア様をお慰め致しましょう。罪の生活から遠ざかる事によって、罪を忌み憎む事によって、マリア様の御望みを果たす事によって、マリア様をお慰め致しましょう。マリア様を悲しめた多くの罪の生活をしている、イエズス・キリストを知らない、マリア様を知らない、無関心でいる多くの人々が、世界中の人々が、イエズス・キリストを贖い主として、マリア様を共贖者として認める日が来ますように、マリア様にお祈り致しましょう。
「道を通り過ぎる人々よ、見て下さい、私ほどの苦しみがあるのか。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。