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御復活の主日の 公教要理 教会のなかに良い麦の中に毒麦がある神秘(レネー神父様)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が、大阪で、復活祭のミサの後に次のような公教要理のお話をして下さいました。元々はソウルで聖木曜日になさったミサ聖祭でのお説教です。

 まず神父様は、聖木曜日になされたユダの裏切りについて考察します。主から特別に選ばれ、愛され、恵みを受けてきた使徒でさえ、裏切りを働いたというのは、驚くことですが、私たちの主はそれが起こることを許しました。

 次に、裏切るものに対して私たちがどのような態度を取るべきかを考察します。教会の中の悪しきメンバーに対して、どのような態度を取るべきでしょうか。悪しき指導者たちに対してどう言う態度を取るべきでしょうか。

 悪しき者たちとの交わりは、絶対的に断固として拒絶するべきでしょうか。ちょうどノヴァティアヌス派、ドナトゥス派、カタリ派、がそうしたように。

 レネー神父様は、聖アウグスティヌスに従って、教会のメンバーたちに対する愛の結びつきについて語ります。

「教会の中では、悪しき者と交わることは、その悪に同意しない限り、良い者を傷つけない。教会の中での交わりは本質的に私たちの主イエズス・キリストとの交わりであるから。」

 カトリック教会との結びつきは、ただ単に教皇を理論的に認めることではなく、まさに実際の結びつきのことである、と。教皇や教会のメンバーとの交わりを実際に拒絶することは重い罪であり、教会の最初から重い罪として常に非難されてきた、と。

 「カトリック教会において、教皇との交わりは、キリストの代理者としての教皇との交わり」であることをレネー神父様は確認します。だから、「教皇が現代主義者であるという口実のもと、教皇に対して実際に教会法上の従順を拒絶するならば、教皇を理論的にだけ認めているとしても、事実上キリストとの結びつきを断ち切ることになるのです。」

 聖ピオ十世会は、聖アウグスティヌスの教えに従い、もっともカトリック的な立場を取っています。

 何故なら、聖ピオ十世会は、修道会として当然もっているべき正当な教会法上の立場をローマに求めているからです。しかし、聖ピオ十世会は、教理的には、妥協することはありません。

 聖ピオ十世会は、たとえ教皇が現代主義者であったとしても、正当な教会法上の立場を求めることそれ自体は妥協ではないと認めています。これは正義にかなっていることだからです。

 しかし、現代主義者がいる限りローマとのいかなる接触も拒絶する人々の態度は、カトリック教会について間違った概念を抱いている人々の態度です。

 つまり、カトリック教会は健全な部分のみから成りたっているはずだ、というドナトゥス派かカタリ派のような態度です。

 つまり「眼に見える(visible)教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリック(普遍)の、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです」(That part alone of the visible Church is Catholic which is one, holy, universal and apostolic. The rest is various sorts of rot.)という態度です。

 また言い換えると「 "公式の教会" は、四つの印に従えば、大部分が "公会議の教会" であってカトリックではない」(Since these today are largely Conciliar, so the “official Church” is largely Conciliar and not Catholic, according to the four Marks.)という態度です。

 更に言い換えると「麦ともみがらが混ざり合っているような状況で、私たちは何をすればよいのでしょうか? 畑に赴き続けるのでしょうか? いいえ!」(In case of such entanglement, as for the wheat and the chaff, what do we do? Do we go on the field? No!”)という態度です。

 もしも "公式の教会" がカトリック教会ではないならば、もしも、今のローマが現代主義者に占領されている限りカトリックではないのならば、そのような態度を持つ人々は、ローマとは一切関係を持つべきではないと、ローマを破門する態度を示します。

 たしかに "公会議の教会" (今は癌のように成長し、ますます自己形成しつつあります)が、将来、カトリック教会とは全く別の独立的な自立的な存在として、決定的に生まれ出る可能性があります。しかし、間違った態度は、すでに、今のローマのもとにあるカトリック教会が、可能性(in potentia)としてでは無く完成された存在(in actu)として、イエズス・キリストの建てた教会ではない新しい公会議の教会として、一切の関係を絶つ態度です。

 これは聖ピオ十世会の創立者の態度ではありません。聖ピオ十世会の態度でもありません。

 ルフェーブル大司教は、聖ピオ十世会の正当な教会法上の立場を求めていました。聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教の行なわれた努力をそのまま続けるだけです。

 レネー神父様は、ここでカトリック信仰のドグマを強調します。つまり「教会の中には善い人々と悪しき人々がいる」こと、「教会の外に救いなし(EXTRA Ecclesiam nulla salus)」ということ、「教会に悪しき人がいるという口実で、教会から離れてはいけないこと」です。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


大阪での御復活の主日(2015年4月5日)の
ミサの後になされた公教要理(レネー神父様)

 親愛なる兄弟の皆さん、

 「パンを取り、感謝して裂き、弟子たちに与え、『これはあなたたちのために与えられる私の体である。私の記念としてこれを行え』と言われた。食事ののち、杯も同じようにし、『この杯は、あなたたちのために流される私の血による新しい契約である。私を裏切る者は、私とともに手を食卓に置いている。人の子は定められたとおりに去る。だがそれを裏切る者は災いである』と言われた」(ルカ22章19-22節)

 この聖ルカ福音書の一節から、私たちの主イエズス・キリストがご聖体を制定なさったとき、ユダが食卓に就いていたのは明らかです。そして、ユダは汚聖の聖体拝領を行いました。聖マテオ福音書、そして聖マルコ福音書は、ご聖体制定の前に、このユダの裏切りの告知を述べています。しかし、この違いは簡単に説明できます。聖マテオはしばしば、時系列よりも主題によって出来事を要約し、まとめているからです。私たちの主イエズス・キリストは、天主としてすべてをご存じでしたから、教会の中で、悲しいことですが、汚聖の聖体拝領がたくさん起こること、またたくさんのふさわしくない司祭や司教(そして、ふさわしくない教皇)さえもが現れることをご存じでした。ですから、主は使徒の一人がご自分を裏切るのを防ぐことはなさいませんでした。

 ユダは将来起こるすべての裏切りの型であり、そのような裏切りへの強い警告だったのです。「それを裏切る者は災いである」(ルカ22章22節)。救い主である天主が、私たちが天主を裏切ることのないようお助けくださいますように。いとも忠実なる童貞が、私たちをお守りくださいますように。裏切りをしない恩寵を得る条件は謙遜です。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。

 良きメンバーは、これらの裏切り者に対してどういう態度を取るべきでしょうか。狼が何頭か中に入って来たからといって、羊は主の囲いから逃げ出すべきでしょうか。(マテオ7章15節)もみ殻のせいで、良い麦は麦打ち場から逃げ出すべきでしょうか。(マテオ3章12節)良い麦の中に毒麦があるからといって、良い麦は畑から逃げ出すべきでしょうか。(マテオ13章26節以下)もし逃げ出してしまうなら、主の納屋に集められることは決してないでしょう。それどころか、去っていく者は、まさにその去っていくという事実によって、風で運ばれていってしまうもみ殻だとされます。悪い魚がいるからといって、良い魚は主の網から逃げ出すべきでしょうか。(マテオ13章47-48節)。逃げ出す魚は、主の器に集められることは決してありません。

 親愛なる兄弟の皆さん、教会の歴史を通じて、主の網には悪い魚がおり、主の麦打ち場には良い麦と共にもみ殻があり、主の畑には良い麦と共に毒麦がありましたが、そのこと自体が多くの人々にとって大きな試みとなってきました。悪しき者たちとの交わりを拒絶する人々が繰り返し現れました。ノヴァティアヌス派、ドナトゥス派、カタリ派がそのような人々であり、のちにはプロテスタントでさえこの点で教会を攻撃しました。しかし教会はいつもこのような態度を拒絶してきました。ですがそんな彼らは忍耐することを拒絶し、周りの人々を高慢に非難することで、事実上自らを教会の外に放り出すのです。そうなれば、「教会の外に救いなし」です。

 これは大変重要なことです。キリストの教会、つまりカトリック教会の中以外では、誰もキリストの命を生きることができないのです。キリストの体、つまりカトリック教会の中以外では、誰もキリストの霊によって命を与えられることができないのです。愛がなければ、つまり教会の愛と「完徳のかなめ」がなければ、誰も救われることができないのです。この教会との結びつきは、ただ単に教皇を理論的に認めることではなく、まさに実際の結びつきです。教皇との交わりを拒絶し、教皇に対して教会法上の正常な状況に自らを置こうとするのを拒絶するならば、教皇を認めると主張することは何の役にも立ちません。私たちが「一、聖、公、使徒継承の教会を信じ奉る」というのはカトリック信仰の一部であり、その教会が、教会の外に救いなしというローマ・カトリック教会なのです。教皇や教会のメンバーとの交わりを実際に拒絶することは重い罪であり、教会の最初から重い罪として常に非難されてきました。

 正しい態度は聖アウグスティヌスの教えた態度です。教会の中では、悪しき者と交わることは、その悪に同意しない限り、良い者を傷つけません。その理由は、教会の中での交わりは本質的に私たちの主イエズス・キリストとの交わりであるからです。ですから、教皇との交わりは、たとえその教皇がアレキサンデル六世であったとしても、あるいはほかのスキャンダルのある教皇であったとしても、(更には信仰の内容に問題のあったホノリウス、世の終わり以前の至福直観を否定したヨハネ二十二世であったとしても、)教皇の誤りとの交わりではなく、キリストの代理者としての教皇との交わりなのです。これが本質的な要素です。ですから、どんなに悪しき教皇であろうとも、合法的な教皇である限り、教皇との交わりは教皇の現代主義との交わりではなく、キリストとの交わりなのです。教皇が現代主義者であるという口実のもと、教皇に対して実際に教会法上の従順を拒絶するならば、教皇を理論的にだけ認めているとしても、事実上キリストとの結びつきを断ち切ることになるのです。

 私たちは聖木曜日の本日、聖アウグスティヌスの原則を非常にはっきりと見ます。私たちの主イエズス・キリストはユダの接吻を拒絶なさいませんでした。教会はこれを、聖週間の朝課の答唱で歌います。これが、教会の悪しきメンバーに対してどれだけ我慢強くあるべきかを示しています。同時に、私たちの主イエズス・キリストがユダの邪悪に少しも同意なさらなかったのは明らかです。もし使徒のだれかが、ユダがいるからという理由で使徒の集まりから逃げ出したとしたら、その使徒は私たちの主イエズス・キリストから逃げ出していたことになったでしょう。

 ですから、聖ピオ十世会の立場は正しい立場なのです。私たちは、正当な教会法上の立場を求めますが、教理的に妥協することはありません。私たちは、教皇が現代主義者であったとしても、正当な教会法上の立場(を求めること)それ自体は妥協ではないことを認めます。これは聖アウグスティヌスの教理です。これは教会の教理を正しく実践に移したものです。しかし、ローマに現代主義者がいる限りローマとのいかなる接触も拒絶する人々の態度は、カトリックの態度ではありません。ドナトゥス派かカタリ派の態度と同類です。それは信仰の問題における誤りに至る態度です。そのような態度は、教会についての偽った考え、つまり、カトリック教会は目に見える教会の健全な部分のみからなると主張するカタリ派の考えにつながるものです。そのため、そのような偽りの原理に基づいて行動し、そのような偽りの原理に基づく司教聖別を始めるとき、これは非常に深刻なものになります。

 先々週の司教聖別について、ウィリアムソン司教やフォール司教が示した理由がどんなものかを調べると、彼らが拡大鏡で見ている小さなことを無視するならば、彼らの挙げる基本的理由は「(聖ピオ十世会本部である)メンツィンゲンはもはや真理の中にはいない」という告発にあることがわかります。では、メンツィンゲンがもはや真理の中にはいない、と彼らが言っているのはなぜでしょうか。その理由は、彼らが、ローマが現代主義者に占領されている限りローマとは一切関係を持つべきではないと主張し、そのためローマに現代主義がある限り教会法上のいかなる正常化も拒絶するとしているのに対して、私たちが正当な教会法上の立場を求めるルフェーブル大司教の行なわれた努力を続けているからです。

 ルフェーブル大司教が教会法上の実際的な正常化を求めることについてローマと議論するのに、ローマが現代主義でなくなるまで待ちはしなかったことは明らかです。丸一年の間、ルフェーブル大司教は実際的な正常化を実現するためにローマ当局と議論しました。またそれは非常に大きな醜聞(スキャンダル)だったアッシジの宗教間対話のすぐあとでした。ルフェーブル大司教は、一九八八年五月五日の議定書に署名したことを少し行き過ぎたとは言いましたが、教会法上の実際的な正常化を求めたことが間違っていたとは決して言いませんでした。そのようなことは決してありません。聖ピオ十世会の歴史を通して、この目的のためにルフェーブル大司教が繰り返し努力したことはよく知られていますし、記録もされています。またルフェーブル大司教は、司教聖別のあと、同じ議論がローマとの間で数年の内にも再開されることを期待するとさえ言っていました。フェレー司教が速く進み過ぎたと非難することはできません。ローマ当局から最初に提案があったのは二〇〇〇年でした。それから十四年以上たちますが、聖ピオ十世会はいまだ正当に正常化されていません。このように遅れているのは、聖ピオ十世会が教理上の妥協を拒絶しているからです。これこそ私たちが妥協していないという最も良い証明です。

 ウィリアムソン司教が先々週行った司教聖別の基本的理由が誤っているので、そのような空しい土台に基礎を置く行為は合法性を持たず、そのため、教会法がその行為に対して正しく適用する制裁に十分値します。なぜなら、教会においては、司教聖別は些細なことではないからです。司教聖別は教会の一致にとって本質的なものです。ルフェーブル大司教が司教聖別を行ったときには現実的な理由、司教聖別という行いにつり合った理由、正当な理由がありました。ですからルフェーブル大司教は、十分に、また行いによって教皇を教皇と認めつつ、司教聖別を行ったのです。ところがウィリアムソン司教が司教聖別を行ったときには、現実的な理由はなく、司教聖別という行いにつり合った理由もなく、教皇を完全に無視して行なったのです。

 これら両方の司教聖別には他にもいろいろな背景があり、私はこれを「著しい対照」という文章の中で詳しく述べましたが、恐らく皆さんもお読みになったでしょう。しかし、私が(今)ここで言いたいのは、この問題の中核です。それは信仰の教義(ドグマ)であって、教会の中には善い人々と悪しき人々がいるということ、また教会のメンバー一人一人、私たち一人一人のうちにもしばしば善と悪が入り交じっているということなのです。善と悪の区別は決していつも目に見えるものではありません。同時に、「教会の外に救いなし」は信仰の教義(ドグマ)です。ですから私たちは、教会に悪しき人がいるという口実で、教会から離れてはいけません。

 さて、兄弟の皆さん、これは皆さんに関係のあることです。皆さんの中には、最近までレジスタンスのミサに行っていた方々がいるのを私は知っています。司祭たちの罪のなかには、信者がそれを耐え忍ぶことができ、信者に影響を与えないものがあります。それは司祭たちの私的な罪です。(でももちろん、そんな司祭は避けるよう忠告します。)

 しかし、司祭たちの罪のなかには、それによって信者が彼らのミサに参加するのが禁じられるものがあります。それは教会の一致に反する罪です。その理由は、ご聖体の秘蹟(ミサ)はまさに教会の一致の秘蹟であるからです。教会をみずから離れた司教に付き従い、事実上教会から離れた司祭によって捧げられるご聖体の秘蹟(ミサ)は、まやかし(lie)になってしまうからです。教会の一致の秘蹟であるべきものが、教会の一致の外で行われるのです。これが聖トマス・アクィナスの教えです。ですから、信者がそのミサと少しでも関わるのは合法的ではありません。彼らと一緒に、皆さんの救いを危険にさらさないでください。この教義(ドグマ)を覚えていてください。教会の外に救いなしです。カトリック教会はカタリ派の教会つまり清い人々だけの教会ではないという教義(ドグマ)です。主の畑には良い麦の中に毒麦があり、良い麦と共にもみ殻があり、主の網には良い魚と悪い魚がいるのです。

 聖ピオ十世会に対する彼らの反乱は十分悪いものでしたが、それに対しては忍耐することもできるかもしれません。しかし彼らの教会に対する反乱、教皇その人との交わりに対する反乱は行き過ぎです。もう彼らとかかわることはできません。キリストの群れから去っていった人々を支持すると、教会の頭(かしら)であるキリストを攻撃することになってしまいます。二股をかけることはできません。彼らは今や、遠くに行き過ぎてしまったのです。

 親愛なる兄弟の皆さん、私たちの兄弟であり、友人であった司祭たちが、これほど遠くに行ってしまったのを見るのは本当に大変悲しいことです。私たちが神学校でルフェーブル大司教から教えられたことは、決してこういうことではありません。彼らが戻って来るように、彼らのために祈るべきです。聖パウロが言うように、「彼らは天主のために熱心であるが、その熱心は深い知識の上に立っていない」(ローマ10章2節)、「彼らは躓きの石に躓いた」(ローマ9章32節)のです。悪しき教皇たちが、彼らには本当に躓きの石になったのです。

 彼らが戻って来る恩寵を、童貞聖マリアが取り成してくださいますように、また私たち皆が忠実を守り、彼らに騙されないようお助けくださる恩寵を取り成してくださいますように。

 アーメン。
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 Those Who Reject the Popes and are out of The Church - The Holy Thursday(2015-04-02)

 My dear brethren,

 “Taking bread, he gave thanks, and brake; and gave to them, saying: This is my body, which is given for you. Do this for a commemoration of me. In like manner the chalice also, after he had supped, saying: This is the chalice, the New Testament in my blood, which shall be shed for you. But yet behold, the hand of him that betrayeth me is with me on the table. And the Son of man indeed goeth, according to that which is determined: but yet, woe to that man by whom he shall be betrayed” (Lk. 22:19-22).

 From this passage of St Luke, it is clear that Judas was still at table when our Lord Jesus Christ instituted the most Holy Eucharist… and he made a sacrilegious communion. St Matthew, followed by St Mark, mentions the announcement of Judas’ betrayal before the Institution of the Holy Eucharist; but this is easily explained by the fact that he often summarizes and groups together events by themes rather than chronologically. Our Lord Jesus Christ, who knew all things as God, knew that there would be – sadly – many sacrilegious communions in the Church, even many unworthy priests and bishops (and some unworthy Popes).

 Thus He did not prevent one of the Apostles to betray Him, as a type of all those future betrayals, and as a strong warning to them: “woe to that man by whom he shall be betrayed” (Lk. 22:22). May our Divine Saviour always help us not to betray Him! May the Virgin most faithful protect us! And the condition to obtain the grace of not betraying is humility, because “God resisteth the proud, and giveth grace to the humble” (Jac. 4:6).

 What should be the attitude of the good members towards those traitors? Should the sheep leave the fold of the Lord because some wolves are infiltrated inside? (Mt. 7:15) Should the good grain leave the threshing floor because of the chaff? (Mt. 3:12) Should the good wheat leave the field because of the cockle in the midst of them? (Mt. 13:26 ) If it would, it would never be gathered in the barn of the Lord! On the contrary, he who leaves is by that very fact reckoned as chaff carried away by the wind! Should the good fish leave the net of the Lord because of the bad ones? (Mt. 13:47-48) It would never be gathered in the vessels of the Lord!

 My dear brethren, throughout the history of the Church, the very presence of bad fish in the nets of the Lord, of chaff together with the good grain on the threshing-floor of the Lord, of cockle together with good grain in the field of the Lord, has been a great trial for many. And there were repeatedly found some people who refused communion with the wicked: they were Novatians, Donatists, Cathars, and later even Protestants attacked the Church on this point. But the Church always rejected this attitude, and they, by their refusal of patience, by their proud condemnation of those around them, practically casts themselves outside of the Church. And “outside the Church there is NO SALVATION.”

 This is very important: no one can live of the Life of Christ except in the Church of Christ, which is the Catholic Church! No one can be animated by the Spirit of Christ except in the Body of Christ which is the Catholic Church! No one can be saved without charity, and therefore without the love of the Church and “bond of perfection”.

 That bond with the Church is not a mere theoretical acknowledgement of the Pope, it is a very practical bond – it serves to nothing to claim to acknowledge a Pope if one refuses to communicate with Him, to be in a regular canonical situation with him. It belongs to the Catholic Faith that we “believe in the One Holy Catholic and Apostolic Church” which is the Roman Catholic Church, outside of which there is no salvation. PRACTICAL refusal of communion with the Pope and the members of the Church is a grave sin, and has always been denounced as a grave sin since the very beginning of the Church.

 The right attitude is that taught by St Augustine: IN THE CHURCH Communion with the wicked does not harm the good so long as they do not consent with their wickedness. The reason is because in the Church communion is essentially communion with our Lord Jesus Christ: thus communion with the Pope, even if he is Alexander VI, or another scandalous one (even on matters of Faith as Honorius, or John XXII who denied beatific vision before the end of the world), such communion is not communion with his errors, but communion with him as Vicar of Christ: this is the essential element. So no matter how bad a Pope is, so long as he is the legitimate Pope, communion with him is not a communion with his modernism, but communion with Christ. If one rejects any practical canonical submission to the Pope under the pretext that the Pope is modernist, one practically severs the bond with Christ – in spite of a mere theoretical recognition of him.

 We see the principle of St Augustine in a very vivid way today, on Holy Thursday: our Lord Jesus Christ did not refuse the kiss of Judas! The church sings this in the responses of matins of these holy days. This is how patient one ought to be with an evil member of the Church! It is at the same time evident that our Lord Jesus Christ did not consent in the least to the wickedness of Judas. If an apostle would have left the college of the apostles because of the presence of Judas, he would have left our Lord Jesus Christ!

 Therefore the position of the Society of St Pius X is the right one: we want proper canonical situation without doctrinal compromise – and we affirm that a proper canonical situation is NOT IN ITSELF a compromise, even if the Pope is modernist. This is the Doctrine of St Augustine; this is the doctrine of the Church, doctrine rightly put in practice.

 But the attitude of those who refuse any contact with Rome as long as there are some modernists in Rome is not a Catholic attitude: it is a variation of the Donatists’ or Cathars’ attitude. This is an attitude that leads to errors on matters of Faith: it leads to a false notion of the Church, a Cathar notion of the Church, claiming that the Catholic Church is ONLY that healthy part of the visible Church. And this becomes very grievous when one acts upon such false principle, and starts consecrating bishops based on such false principle.

 If one searches what reason is given by Bishop Williamson or Bishop Faure for last week’s consecration, disregarding the small things that they look at with a magnifying glass, one finds that their basic reason is in the accusation “that Menzingen is no longer in the truth” , and why is Menzingen no longer in the truth? Because we continue the efforts of Archbishop Lefebvre for a proper canonical situation while they claim that one should not nothing to do with Rome so long as it is occupied by modernists, and they refuse any such canonical regularisation so long as there is still modernism in Rome.

  It is very clear that Archbishop Lefebvre did not wait for Rome to be free of modernism for discussing with them a practical canonical regularisation: for a whole year he discussed with the Roman authorities in order to obtain it, and he did so just after Assisi, which was a very big scandal. He said that he had gone somehow too far by signing the protocol of May 5th 1988, but he NEVER SAID that he was wrong to search for a practical canonical regularisation, never!

 His repeated efforts throughout the history of the SSPX for this end are well known and documented. And he even said, after the Consecration, that he expected within a few years that such discussions would start again. Bishop Fellay cannot be accused of having gone too fast: the first offers were made in 2000; more than 14 years later, the SSPX has not yet received a proper regularisation. This delay is because we refuse any doctrinal compromise; it is the best proof that we have not compromised!

 Given that the basic reason for last week’s episcopal consecration by bishop Williamson is false, then the act based on such empty foundation has no legitimacy, and therefore fully deserves the sanctions which the Canon Law rightly apply to such action. Because in the Church, episcopal consecrations are not a little thing! There are essential to the unity of the church. When Archbishop Lefebvre did it, he had a real cause, a proportionate cause, a just cause – and he did so while fully and practically recognising the Pope; when Bishop Williamson did not, he did not have a real cause, he did not have a proportionate cause, and did it with complete disregard for the Pope.

 There are many other circumstances about these consecrations which I have developed in the “striking contrast” which you have probably read. But I wanted to treat here of the core of the problem. It is a dogma of faith that in the Church there is a mixture of good and evil people – and often within each member, each one of us, there is a mixture of good and evil. The separation of the one and the other is far from being always visible. It is at the same time a dogma of faith that there is no salvation outside of the Church. So we may not cut ourselves from the Church on the pretext of the evil ones in the Church.

 Now this has consequences for you, my dear brethren. I know that some of you were still going to the resistance Mass until recently. There are some sins of the priests which one may be patient with, and which do not infect the faithful – private sins (though one is of course advised to avoid such priest!) But there are sins of the priests which forbid the faithful to participate with them: and such are the sins against the unity of the Church.

 The reason is because the Sacrament of the Holy Eucharist is the very sacrament of the unity of the Church. Celebrated by a priest who practically cut himself off the Church by joining a bishop who cut himself, the Holy Eucharist becomes a lie: it should be the sacrament of unity while it is done outside of that unity.

 This is the teaching of St Thomas Aquinas. And therefore it is not lawful to the faithful to have any part with it. Don’t risk your salvation with them! Remember the Dogma: outside the Church there is no salvation! And the Dogma that the Church is not a church of cathars, of pure ones: it is the field of the Lord with cockle in the midst of the good wheat, with chaff with the good grain, it is the net of the Lord with good and bad fishes in it.

 Their rebellion against the Society of St Pius X was bad enough – but one could be patient with that. But their rebellion against the Church, against the Communion with the Pope himself, is too much: one may no longer communicate with them. One would offend Christ, the Head of the Church, by supporting those who have left his fold. One may not have a foot in both camps: they are too far apart now.

 My dear brethren, it is indeed a very sad thing to see priests who used to be our brothers, our friends, and who have gone so far. This is NOT what we were taught at the seminary with Archbishop Lefebvre. We ought to pray for them, that they may return. As St Paul says, “they have a zeal of God, but not according to knowledge” (Rom. 10:2), “for they stumbled at the stumbling-stone” (Rom. 9:32). Bad popes have really been for them a stumbling stone.

 May the Blessed Virgin Mary obtain for them the grace to return, and for all of us the grace to remain faithful and to help us not to be deceived by them. Amen.

 Fr. Laisney (FSSPX)



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