天主の御あわれみについての説教
ドモルネ神父
はじめに
この前の金曜日には、イエズスの聖心をお祝いしました。今日は天主の御あわれみの信心について少しお話ししたいと思います。この信心は、イエズスの聖心の信心と関係があります。
a)あわれみという概念
あわれみとは、私たちが他の人の苦しみを見たために感じる同情や悲しみのことです。その人をできるだけ助けたいと、私たちに思わせる同情です。ですから、あわれみには二つの要素があります。私たちが感じる同情や悲しみと、私たちが苦しんでいる人に与える助けです。
b)御あわれみは天主の属性である
聖書の中で、天主は何百回も、ご自分があわれみ深いお方であると宣言されています。例えば、次のように。「主の栄光をたたえよ。主は善きお方である。主のあわれみは永遠に続く」(歴代の書上16章34節)、「主よ、あなたは正しい。あなたの裁きは、すべて正しい。あなたの道はすべて、あわれみ、真理、裁きである」(トビア3章2節)、「その契約を守る人にとって、主の小道は御あわれみと真理である」(詩篇24篇10節)。
また聖パウロは、天主の御あわれみがすべての人に及ぶことを、こう述べています。「天主は、すべての人にあわれみを現すために、すべての人を不従順に閉じ込められた」(ローマ11章32節)。天主は、私たちに対してあわれみ深いお方です。天主の永遠の幸福に影響を与えるものは何もありませんから、もちろん、私たちのみじめさによって天主がお悲しみになることはありませんが、私たちのことを気にかけてくださり、私たちが霊的なみじめさから抜け出すのを助けてくださいます。天主は預言者エゼキエルを通してこう言われました。「罪人は死すべきだというのが私の望みだろうか。むしろ、彼がその生き方をかえて生きることが私の望みである」(エゼキエル18章23節)。
c)天主の御あわれみを求めることは、天主の栄光をたたえること
天主が聖書の中で、ご自分があわれみ深いことをこれほど強調しておられるのはなぜなのか、不思議に思うかもしれません。それは、このあわれみという属性が、特別な形で天主の栄光をたたえることになるからです。私たちが天主の御あわれみを求めるとき、私たちは、自分自身の弱さと天主の御力を同時に認めているのです。私たちは、天主の超越性と私たちの天主への依存性を同時に認めます。私たちは、罪人であるという自分の状態と、天主の正義と聖性を同時に認めます。私たちは、天主が善きお方であることと、天主の御助けを私たちが望むことを同時に宣言します。ですから、天主の御あわれみを求めるということは、一方では天主の超越性、完全性、御力、善性を認め、他方では私たちの天主への依存と霊的なみじめさを告白するということを意味します。私たちの霊魂のこの二重の働きが、天主の栄光をたたえるのです。
d)天主の御あわれみを求めることは、人に希望をもたらす
天主の御あわれみを求めることは、私たちにとっての希望と霊的な慰めの源です。天主は私たちが永遠の幸福に達するのを助けることがおできになり、また助けたいと思っておられます。聖書にはこう書かれています。「私はあなたのあわれみを信頼し、私の心はあなたの救いに喜ぶ」(詩篇12篇6節)、「主を恐れるものは、主に希望を置け。あわれみはあなたのもとに来て喜びとなる」(集会書2章9節)、「天よ、喜びうたえ、地よ、喜べ、山々よ、歓呼を上げよ。主が民を慰め、みじめな人々をあわれまれたからである」(イザヤ49章13節)。
e)私たちの主イエズスは、御托身になった天主の御あわれみである
天主の御あわれみは、私たちの主イエズス・キリストにおいて明らかにされました。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。人間は自分の過ちによって罪を犯し、霊的にも肉体的にも最も深刻な不幸に陥ってしまったため、自分自身の力ではそこから抜け出すことができませんでした。しかし、天主は私たちの主イエズス・キリストを通して、最も優れた御あわれみのみわざである人類の贖いを計画されました。そのため、イエズスを「御托身になった天主の御あわれみ」とお呼びすることがあるのです。
f)天主の御あわれみとイエズスの聖心
天主の御あわれみは、イエズスの聖心と関係があります。福音書の中では、貧しい者、病人、困窮者、罪人が主に呼びかけます。「私をあわれんでください」「私たちをあわれんでください」…それによって自分のみじめさと、助けを得られるという望みを告白しているのです。そして実際、私たちの主イエズスはこのような呼びかけに心を閉ざすことができず、そのたびに彼らの願いにお応えになり、彼らのために奇跡を起こされたのです。贖いという私たちの主イエズスの御あわれみのみわざのうちでも究極の行いは、ご自分の心臓を槍で貫かれることでした。イエズスは、私たちをお救いになるために、ご自身の尊い御血を最後の一滴まで捧げ尽くされたのです。
g)聖心の聖画と天主の御あわれみの聖画
天主の御あわれみの信心は、聖心の信心と関係があります。聖心の聖画と天主の御あわれみの聖画はよく似ていますが、少し違います。イエズスの聖心の聖画については、私たちは特に、イエズスが聖マルガリタ・マリアに言われた言葉を連想します。「見よ、人々を愛するがあまり、その愛を証明するために自らを捧げ尽くすまで、ありとあらゆる苦しみを耐え忍んだこの心を。その報いに私が大半の人々から受けるのは、ただ忘恩ばかりであり、不敬と冒涜、この愛の秘跡のうちにいる私に対する冷淡と軽蔑である」。イエズスの聖心の聖画は、特に愛と償いを求めるものです。天主の御あわれみの聖画が表しているのは、むしろ、私たちが謙遜と信頼を持って主に近づくならば私たちをお助けくださるという聖心の約束です。
h)近代主義者による天主の御あわれみの歪曲
近代主義者は、あわれみという概念と天主の御あわれみの信心を貶めてしまいました。彼らは、普遍的な救いに関する偽りの教え、つまりすべての人が天国に行くという教えを広めるために、「天主の御あわれみ」を利用しています。彼らは、同性愛のような道徳的な混乱を断罪するのを避けるために、「天主の御あわれみ」を利用しています。彼らは、霊魂を養うことのできない、感傷的でカリスマ運動的な欺瞞の霊性を発展させるために、「天主の御あわれみ」を利用しています。こういうことに天主の御あわれみを利用することは、聖霊に対する罪、すなわち、思い上がったり、悔い改めなかったり、執拗に悪にこだわったりする罪です。
結論
天主の御あわれみの信心、つまり、私たちを助けてくださるイエズスの聖心の信心は、特に私たちの時代に適していると思われます。私たちの世界には、特に超自然的な希望が欠けています。一方で、天主を必要としないと主張する愚かな思い上がりでいっぱいの人々がいて、自分の気まぐれによってこの世の形を決めたり、この世の物事の中に幸せを見いだしたりするふりをしています。また他方では、自分の人生には意味がないと考え、悲しみ、うつ、恐怖に沈んでしまって、自殺するような人も多く見られます。
天主の御あわれみの信心は、天主の超越性と、天主の私たちへの、愛に満ちた気遣いへの、私たちの信頼とを、同時に宣言します。そして、それは闇の中の光となり、思い上がっている人を謙虚にし、落胆している人を元気づける力となるのです。
聖なる希望の聖母、われらのために祈り給え!