2021年5月4日(火)秋田巡礼
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父霊的講話2
「マリア様が私たちの母であるといはどういうことか?マリア様が母であるという事は、一体なぜそれほど重要なのか?」
では、シャミナード神父様による、「聖母が私たちの本当の母である」という事についてのお話の続きをします。
昨日の話は、シャミナード神父様とはどういう方だったのか?そのシャミナード神父様と日本との関わりについて見て、そしてシャミナード神父様が、「マリア様が私たちの母親であるという事は、単なる付録とか付け足しのようなものではなくて、最も大切な、非常に重要なものである。特に『天主の御母である』というその次に来るべきものである。最後ではない」という事を見ました。
「では、『マリア様が母である』という事はどういう事でしょうか?子供を産んでそれを終わりなのか?」
「いや、それは母親になる始めであって、さらにこの産んだ子供を立派に育て上げる。これこそが母親の義務だ。栄養を与えて、子供を愛して、完全な人間に達するまで、服を着せ、世話をする。病気の時には看病したり、苦しむ時には慰めたり、色々な事をする。それと同じような事を、マリア様も母としてしているはずだ。それで、その私たちの霊的な母としてマリア様は、その義務を果たす事をもなさっておられる。」
これは、どのような子供に対しても、母親はしなければならない事です。
つまり、もしも子供が良い優等生で、親孝行で、もう文句の付けようがない素晴らしい子供だったとしても、あるいは病気がちで、弱くて、あまり何か自信がないような子供だったとしても、
あるいは子供が辛い事にあってがっかりしている時も、あるいはもしかしたら子供が怪我をして、もう命に関わる危険があったとしても、母親は子供の世話をします。
それと同じようにマリア様も、聖人のような立派な子供たちに対しても、そして罪を犯してしまった子供たちに対しても、天主の正義の罰や、あるいは鞭からこのような子供たちを守ったり、あるいは聖徳へと引き出すように、病を癒すように、罪から死から命へと導くように、マリア様を働いておられる、超自然の命による母。
マリア様は超自然の母ですけれども、シャミナード神父様は、「3つの点によって、それが最高の母だ」と言います。「どの母親よりも優れている」と言います。
それはまず、「マリア様の持っている大きな愛」によって。
なぜかというと、マリア様が私たちの超自然の命の為に耐え忍んだ犠牲、苦しみというのは、誰にもそのような苦しみを受くる事ができないほど大きなものだったからです。
まず、御子を失った、最高の御方が、最高の御子を失なってしまった。
しかも誰の為にやったかというと、恩知らずの罪人たちの為に、それを捧げておられた。
しかも、そのような多くの人々にとっては、その苦しみも無駄になってしまう苦しみだったにも関わらず、それを喜んで捧げられた。
マリア様のその受けた苦しみは、ある聖人によると、「この地上で最も苦しんだ人がいたとしても、その苦しんだ人がマリア様の苦しみのほんのちょっとでも理解するには、想像さえも及ばない。」
「しかもそれを嫌々ながらではなくて、喜んで、私たちの為に受けられた、というその比類のない愛の為にこそ、マリア様は素晴らしい母である」と言います。
第2の理由は、「このマリア様がなさった事が、ただ一時的な、一人の子供の為だけ、一時的な為ではなくて、全ての、私たち全ての超自然の命を、いつでも私たちが求める時に、必要な時に、いつでも、何度でも、与える事ができるほどの普遍性を持っているから。」
子供がたくさんいるお母さんは、その世話をするのは非常に大変ですけれども、マリア様がお持ちになる子供は、その数も、そしてその与える御恵みの回数も、はるかにそれを上回っているからです。
第3番目の理由は、シャミナード神父様によると、「マリア様が私たちに与える命は、ただの自然の命ではなくて、超自然の命であって、永遠の命であって、天主の命であるから。『成聖の状態に入る』という事を与えて下さるから。
その命を与えて下さるのは、世の中にはたったイエズス様とマリア様しかいない。イエズス様はマリア様を通してのみ、これを私たちに与えるので、その私たちに与えて下さるものの素晴らしさの為に、最高の母と言える」と言っています。
では、マリア様が母であるという事は、一体なぜそれほど重要なのでしょうか?その神学的な理由とは何でしょうか?そしてその結果何が導き出せるのでしょうか?
今日それも話させて下さい。
「イエズス様の神秘」というのは、「天主の御言葉が、私たちを救う為に人間となって、そして罪の償いを果たして、贖いを果たして、そして私たちに超自然の命を与える」という事です。
「イエズス様が、私たちを救う為に、天主の御言葉が人間となった、御托身が必要だった。そしてその御托身というのは何の為だったかというと、私たちの罪を贖う為であった、償う為であったから。」
そこで、「御托身、天主の御言葉が人間となる」という事と、「その肉を御体を以って苦しまれて罪を償った、贖った」という2つの神秘があります。それがイエズス様の神秘です。
この「御托身」も「贖い」も、イエズス様は一人でしたのではなくて、「マリア様と共にしよう」という事を、永遠の昔から望まれました。
それで御托身には、イエズス様が人間となる時には、マリア様の同意を以って人間となって、そしてマリア様は天主の御母となられました。イエズス様が人間となったという事は、その結果、「マリア様が天主の母となった」という事です。
シャミナード神父様は更に話を続けます。
「イエズス様、その天主の御言葉が人となったという事の目的は、贖いだから、十字架による贖いだから、そしてこの贖いを、マリア様と共にする事を望んだので、『贖い主』となるという事は同時に、マリア様は、共に贖った『共贖者』となる、という事を意味する。」
「マリア様が天主の御母となった」という事は、イエズス・キリストは神秘体の頭であるので、それと同時に私たちの、「選ばれた者の母ともなった」という事になります。
ですから、「御托身」という事と、「天主の御言葉が人間となった」という事と、「マリア様が私たちの母となった」という事は繋がります。
これがちょうど、「キリストがマリア様の胎内に宿らされた」という事から、「イエズス・キリストが贖い主となった、そしてマリア様は共贖者となった」という事から、「私たちがマリア様の苦しみを以って、超自然の命に生み出された」という事に繋がります。
これは何故かというと、私たちはキリストの神秘体の一部であるからです。それなので、私たちがイエズス様と一致している限り、イエズス様の内にいる限り、イエズス様が私たちの内におられて、私たちはイエズス様の中にいるように、私たちとイエズス・キリストは一人の人間であって、一つのキリストであって、一つの神秘体なので、イエズス・キリストと共に私たちは、マリア様の子となって、天主の子となるという事です。
「もしも私たちが、イエズス様と一致している事によって命に産み出されるのであれば、イエズス様がマリア様にとった孝行を、マリア様に対する信心を、私たちもする事こそが最高の信心だ」とシャミナード神父様は言います。
そこで例えば、『マリア会』というものを創ったのですけれども、マリア会のブラザーは修道士は、「ブラザーというよりは、マリアの子供だ。マリアの息子だ」という名前で呼ぼうとします。あるいは女子修道会もあるのです、『汚れなきマリアの娘たちの会』、それも、修道女の事をシスター Soeur と呼ばずに、「娘」fille と呼ぶようにしました。なぜかというと、修道者たちにとっての理想は、マリア様の子供であるという事であるからです。
「マリア会」というのも実は、その「会」というのはフランス語で“société”ですけれども、本当は「マリア様の家族」と呼びたかったのだそうです。そしていつもその修道会の人々は、マリア様の子供であるという事を非常に意識して、そしてイエズス様の真似をする事を目的としました。
イエズス様がマリア様から生まれて、マリア様によって養われて、育てられて、そしてマリア様から決して離れる事がなかったように、私たちも同じようにする事を理想としました。
聖パウロは、「イエズス・キリストの心を心とせよ」と言ったのですけれども、シャミナード神父様は、「マリア様に対するイエズス・キリストの心を心とせよ」という事をモットーとしました。
この『マリア会』というこの名前について、シャミナード神父様の考えを読んだ時に、実は『イエズス会』というのも同じような考えだったのだ、という事を思い出しました。
『イエズス会』というのは元々、聖イグナチオは“Compañía de Jesús”と言って、それでこの「イエズス様の同伴者」「イエズス様と共に居る者たち」という意味だったのです。日本語で訳された書いたものは言ってみれば、“societas”とか“société”というのは、「団居」とか「団らん」とか、そういう意味での言葉なのです。
ではこの最後に、「マリア様が私たちの母となる」というその2つの要素を見ましたけれども、「天主の御母」であって、「共贖者」でありますけれども、ではマリア様は、この地上を離れて、天国に行かれて、それでもうその仕事が終わったのでしょうか?
そうではなくて、マリア様はいつでも、世の終わりまで、私たちの母であるので、天国においても、母としての仕事を続けられる、という事です。
十字架での無限の功徳を、イエズス様と共に勝ち取ったのですけれども、その功徳を、天国において、母として、私たちに分配し続ける、という事です。
特に共贖者、イエズス様と一緒に贖いの業を果たされたマリア様ですけれども、その贖いの業を果たされて、その宝は、私たちに一人一人に適用されなければなりません。
どうやって適用するかというと、私たちを罪から、罪の罠から取って、悪魔の罠から引き抜いて、そして私たち一人一人に命を預ける、という事です。この使命を世の終わりまで、マリア様が続けておられるという事です。
これは、「共贖者としての功徳を、私たちに伝えている」という事ですけれども、「マリア様がこれを分配する」という事を、イエズス様から委ねられました。
なぜかというと、イエズス・キリストが聖母を通って来られたように、マリア様を通してこれを与える事を御望みになるからです。
そこで、「私たちを回心させて聖化する」というこの職務を役割を、マリア様はイエズス様から受け継いだのです。
「恵みを分配する」というのは、「恵みの分配者として、マリア様が立てられた」という事です。
しかも、イエズス様と共に十字架の上で苦しんだ「共贖者」となったので、この功徳の権利は、マリア様がイエズス様と共にお持ちになっています。
そこで聖母には、「私たちの母である」という事から、結果として、「私たちに全ての恵みを、どこにでも、いつでも、分配する事ができる力が与えられた、『全ての恵みの仲介者である』」という教えに導かれます。
では、今日の話はこれで終わりにします。
明日歌ミサの直後に、コルベ神父様の無原罪の騎士の会員の入会式があります。日本でよく知られているマリア信心の最も代表なのは、コルベ神父様の聖母の騎士と、あと聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールです。
シャミナード神父様がこのグリニョン・ド・モンフォール(聖母マリアへのまことの信心)を読んだのかどうかよく分かりません。おそらく読んでなかったと思います。
まさにこのシャミナード神父様の仰っている事は、聖モンフォールと本当に瓜二つで、全く同じ事を仰っていて、そしてこの「マリア様の子供である」という事をちょっと発展させて、「マリア様に私たちを奉献する」という必要性が語られます。
それについて少し、今晩お話をしたいと思います。
明日歌ミサの直後に、『無原罪の聖母の騎士』の入会式があります。まだ入会されていない方は、是非この機会に入会なさるようになさって下さい。それについてのお話を今晩しようと思っています。