2021年5月4日(火)秋田巡礼
聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父様霊的講話2
「聖母御出現の時の間、人々の祈りに対して、聖母はどのような反応をされたのか?希望の聖母」
昨日は、ポンマンで1871年1月17日火曜日の17時半に、マリア様がどうやってこの小さな村にお現れになったか?という話をしました。
マリア様は、三角形を形作る3つの星の中に現れました。星の付いている青いガウンを着ておられました。黒いベールを被って、冠も被っておられました。
その3つの星の位置は、「マリア様が、三位一体のそれぞれのペルソナに関係がある」という事を意味しました。
そしてマリア様の来ておられた服は、天主様によって上げられた、「マリア様の最も高い聖徳や特権、その地位」を表していました。マリア様のその持たれている全ての要素は、「聖母が最も高い地位に立っておられて、天のその最高の所におられる」というところまでを意味していました。
マリア様は最初は微笑まれて、両手を広げておられて、子供たちや人々を招いておられました。特に、ミシェル・ゲラン神父様が来られるのを待っておられたのです。主任司祭が到着するや否や、御出現は変化して、そしてマリア様は御姿を変えます。
まずマリア様の周りに、楕円形のマンドーラが現れました。このマンドーラは、マリア様の力と栄光を表しています。そして4本のまだ点いていないローソクが、そのマンドーラの中に現れました。この「ローソクが点いていない」という事は、あたかも「マリア様の力がまだ点いていない、点けられて点灯していない」という事を意味していました。
それから小さな十字架がマリア様の胸に付いていました。胸の赤い十字架は、マリア様の持っている力の理由を、原因を表していました。それは、マリア様が「共に苦しむ方」であるからです、「同情する方」であるからです。マリア様は、イエズス様の十字架の足下で共に苦しむ事によって、「共贖者」となられました。
マリア様はどんなところであっても、蛇の頭を踏み砕く力を持っています。そしてそういう力を持ちつつ、お待ちになっておられます。あたかも、体勢を整えた軍隊のように、指令があるのを待っておられたかのようです。
ちょうどこのマリア様の御現れは、ポンマンの御聖堂の様子に似ていました。人々は特に、昨日も申し上げましたように、戦争中多く御聖堂でお祈りするのですけれども、しかし人々は希望を失っていました。
しかし、子供たちを通してマリア様は、「ご自分がいらっしゃる」という事をお見せになって、そして自分が持っている力をもお見せになります。人々が笑い始めたり冗談を言うと、マリア様は悲しくなります。マリア様は助けを与える為にこう待っていたのですけれども、しかし人々がマリア様に注意を払わずに、マリア様が与えようとしているものに関心を持たなかったので、悲しまれました。そこでゲラン神父様は、人々に沈黙を守るようにして、祈らせました。
これをマリア様は待っていました。これによってマリア様は、「希望の聖母」と変わって、そして御自分の事を現すようになりました。
そしてロザリオを唱えるに従って、御出現はますます変わっていきます。お祈りをすればするほど、マリア様の大きさが、その比率は変わらないのですけれども、ますます大きくなっていきました。マリア様の御姿も、マンドーラという楕円形もますます大きくなります。3つの星も大きくなり、離れていきます。
ロザリオが終わると、その大きさは2倍になっていました。そしてお祈りをすればするほど、マリア様の力がますます大きくなっているように見えます。
お祈りによってマリア様は、ますます力強くなる事ができたという事で、そしてお祈りをする事によってマリア様は、子供たちに対する御恵みをたくさん与える事ができるようになった、という事を意味します。
このマンドーラの外側に40の星々があったのですけれども、それはお祈りをするに従って、自然にマンドーラの下の方に2つずつ並んで動いてきました。それからお祈りが進むにしたがって、大きな星が、ちょうど磁石に引き寄せられてくるかのように現れてきました。そしてこのマリア様の服にぴったりとくっ付くようになりました。そこでマリア様はますます輝いていきます。そこでお祈りによってマリア様にはますます栄光が与えられました。
もちろんマリア様には幸せの充満、至福直感がありました。ですからもう栄光の本質的な部分については持っておられました。しかし人々がお祈りをすればするほど、マリア様におまけの栄光というか、神学では「付随的な栄光」と言いますけれども、それを与える事ができます。そこでお祈りをする事によって、付随的な栄光をますますマリア様に与える事になりました。
40の星について正確な意味は私には分かりません。しかし「40」というのは、聖書によると「完全」という意味があります。「40に達する」という事は、「完成に達する」という事です。
例えば、四旬節の40日が終わると、復活祭になってきます。復活の後40日後に、主は昇天されました。モーゼは40日間シナイに留まった後に、律法を受け取りました。エリアは40日間、ホレブの山まで歩きました。
ですから、40の星がマンドーラの下に来たという事は、マリア様の力の完成が出来た、という事を意味しているのかもしれません。
マリア様は私たちを助けたいと思っているのですけれども、もしも聖母にお祈りをしなければ、助ける事ができません。これが天主が定めた法則であって、もしも私たちが望まなければ、天主は私たちを救う事ができません。「天主の恵みを受ける為に、私たちが祈る」という事を欲しておられます。
お祈りについて少し申し上げます。
(直訳すると)天主の知らない事を、私たちはお祈りしません。天主は全てを知っています。私たちは主の考えを変えさせようとしてお祈りするのではありません。なぜかというと、天主は完璧なので変わる事はありません。祈る事によって私たちは、心の状態を準備して、天主がお与えになる事を受ける事ができるようにさせます。お祈りによって、天主が私たちに与えようと既に決定した事を受けようとします。
私たちは祈る事によって、「信仰」の業を行ないます。見る事のない天主に祈っているからです。
祈る事によって私たちは、「謙遜」の業を行ないます。私たちが天主より劣っている、そして天主の助けを必要としている事を認めるからです。そしてまた天主の良さを、御親切を信じているからです。
また祈る事によって、「希望」の徳を実践します。なぜかというと、天主が私たちに援助して下さる、という事を希望するからです、確信するからです。
祈る事によって私たちは、「愛徳」を実践します。なぜかというと、私たちに善をする方を自然と愛するようになるからです。
ですから祈る事によって、「信仰」と「謙遜」と「希望」と「愛徳」の業を行ないます。そしてそのこれらの徳は、私たちをより良くしてくれます。祈る事によって、私たちと天主の間の関係を、諸聖人たちの関係を、良くさせてくれます。
天主様もマリア様も諸聖人も、本当の現実の方だからです。そして私たちとの個人的な関係を求めておられます。見る事はできませんけれども、話しかける事はできます。私たちに直接語りかける事はできませんけれども、私たちを見る事ができて、そして私たちのやっている事を、呼びかけを聞く事ができます。
ポンマンの御出現に戻りますと、祈りによって子供たちは良い心の準備ができました。そしてお祈りする事によって、マリア様がそれを望んでいた、「助ける事」ができるようになりました。
私たちが求めるべきものはまさに、この「熱心な祈り」であって、そのそれが欠如している事が、私たちにとっての問題でした。そこでお祈りをしたので、希望のメッセージが伝えられる事ができるようになりました。
ロザリアの後に、マニフィカトを人々は祈りました。マリア様の足元に、垂れ幕のような帯が長くなるのが見えました。そして目に見えない手が文字を書き込みました。
祈りが進むに従ってそれだけ、文字が一字一字書かれていきました。そして文字が出ると、「あ!何とかの文字が出た!」と子供が言います。
最初の言葉は、『しかし』。それから10分間は何も起こりませんでした。あたかも、この『しかし、』という事の意味を、人々に考えさせるように待たせていたかのようです。
マニフィカトの祈りが終わると全ての文字が出て、『しかし、子供たちよ、祈りなさい。』と文章が出ました。
では、なぜ『しかし』というものが長い間それだけ出たのでしょうか?
あたかもマリア様は、「私はこれほど力があって、私はあなたを助けたいのですけれども、しかし、あなたたちはお祈りしてくれません」と言っているかのようです。「私はこんなにも助けたいと思っているのですけれども、しかし、あなたはお祈りをしてくれません。」「私はラサレットでも、ルルドでも、何度もあなたたちに言ったのに、しかし、あなたたちは私の言う事を聞いてくれませんでした。」
マリア様が少し、私たちの態度についてご不満がある、という事を示そうとする優しいやり方であったかのようです。
ゲラン神父様の指導の下で、聖母の連祷を唱え始めました。すると、また目に見えない手が文字を書き始めました。
それによると、『天主は、すぐにしばらく後に、あなたたちの祈りを聞き入れるだろう』とありました。それから最後に大きな丸、点が、文字と同じほど大きな点が現れました。何でこの丸が、最後の点がこんなにも大きかったのか、という事は私にはよく分かりません。
すると子供たちは、「マリア様が今、微笑んでおられる」と言いました。
ところで、そこの近くにいた一人の婦人が、その間何も見えなかったのですけれども、「あぁ、これは冗談だ!馬鹿馬鹿しい」と言って、その途中で家に帰ろうとしたのですけれども、ところがこの帰る途中、この方は倒れてしまって、突然倒れて動く事ができなくなりました。この婦人は倒れたその瞬間、「自分は信じなかったので、罰を受けたのだ」と理解しました。そしてそれをその事を痛悔した途端に、足に力が出て立ち上がる事ができて、そして子供たちの所に戻って、終わりまで祈りをしました。
それから子供たちは祈りを続けて、インヴィオラータも歌いました。そうすると2行目も書かれ始めました。そして人々が、“O Mater alma Christi carissima“「おぉ、キリストを養い給うたいとも愛すべき母よ」という言葉を歌っている時に、『私の御子は、』という文字が現れました。
この言葉が出た時に、「あぁ、そういう事を仰るのは、これはマリア様に違いない」という事で、非常に村の人々は喜びました。
この簡単な言葉でマリア様は、「なぜ、ご自分が力を持っているか」という事を表そうとしました。なぜかというと、「イエズス様が、マリア様の子供であるから」です。イエズス様こそは全ての救い主であるので、マリア様がお望みになる事は、イエズス様は決して拒否する事はできません。
次に、サルヴェ・レジナを歌います。それが終わると、この文章が終わって、『私の御子は、感動させられるがままになるでしょう。』この言葉は下線が付いていて、金色の下線が付いていました。
これが祈りの力の強さです。そして沈黙の間、人々はこの言葉を、マリア様の言葉を黙想していました。
人々はお祈りをする事によって、マリア様に力を与えて、マリア様がお祈りをする事を、イエズス様はそれを与える、という事です。ちょうどこの連鎖反応のようで、そのスタートのボタンは、「私たちの祈りによって始まる」という事です。
そこでゲラン神父様は、希望の聖歌を歌い始めました。そのメッセージを聞いた後に人々は、希望と喜びを感じ始めました。その時にはあまりにも喜んでいたので、たとえプロシアの軍がその村に攻め込んできたとしても、何も恐れる事はなかっただろう、と。
そしてこの希望の聖母の歌を歌っている間、マリア様は手をこの肩の高さまで上げられて、あたかもそのメロディーに合わせて、楽器を弾いておられるかのように指を動かされました。あたかも、子供たちと一緒に喜んでいる母親のようでした。
そしてこの祈りが進むほど、マリア様がますますお喜びになって、ますます微笑まれて、それが非常に美しい微笑みだったので、子供たちは、「あぁ、とても綺麗だ」と、何度も、何度も、何度も、繰り返していました。
マリア様は、私たちを助ける事によって、お喜びになります。祈りによって人々は、マリア様が私たちを助ける事ができるようにしたので、マリア様はますます喜ばれました。
ちょうど戦いの準備ができた軍隊のように、戦闘の準備ができたのですけれども、まだその戦闘開始の合図を待っているかのようで、そしてその戦闘開始の合図があった時に、初めて前進して攻撃ができるかのようです。しかも必ず勝利を収める事ができる軍隊が進むかのように、進んで行きます。
そのしばらく後に、空と同じ色のベールが被せられて、それでももう文字も、その幕も、帯も、見えなくなりました。この文字が取られてしまったというわけではなくて、それはそこにあるのだけれども、ただ被されてしまって見えないだけであって、そこにちゃんとある、というように見えなくなりました。
ではこれから明日は、この「マリア様がどうやって敵を倒すか?」という事についてお話を致しましょう。
結論として、イエズス様の言葉を思い出しましょう、「求めよ、さらば与えられん。」祈るならば、希望がある。祈らないなら、希望はない。
「祈る」というのは、私たちがどれだけ口祷を唱えるか祈りを唱えるか、その数ではない、という事です。ある一つの危険は、私たちがお祈りの数をたくさんする事によって、もしかしたら機械のようになってしまう、という危険です、「私はもう決まったお祈りがあって、それが終わった。それでもう仕事は終わった。」
この「口祷」は口で唱える祈りは、私と天主の間の関係を、個人的な関係を助ける為にあります。私たちの心の中にある愛は、必ずしも全て言葉によって言い表す必要はありません。私たちの心の動きや、その相手に対する、対象に対する注目などは、既に良い祈りです。
この御出現を見ると、その祈られた数については、それほど多くではありません。しかし心の底からのなされた祈りでした。深い信仰を以ってなされました。これでそのような祈りは、マリア様を動かして、大きな行動を起こさせるに十分でした。
では、そのような信仰と、希望と、愛に満ちた信仰生活を、祈りの生活をお送り致しましょう。