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ドモルネ神父 霊的講話3「聖母はどのようにして朱の血に染まった十字架像を私たちにお見せになったのか?憐れみの聖母」

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2021年5月5日(初水)秋田巡礼
聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父 霊的講話3

「聖母はどのようにして朱の血に染まった十字架像を私たちにお見せになったのか?憐れみの聖母」
同時通訳:小野田圭志神父

1871年のポンマンの聖母の御出現について話を続けましょう。

まずマリア様は、御自分が持っておられる「尊厳」と、その「力」についてお示しになりました。マリア様は力強い軍隊のように現れたのですけれども、まだ行動は開始しておられませんでした。

第2では、マリア様は希望のメッセージを下さいました。
『しかし、私の子供たちよ、お祈りしなさい。私の御子は、感動させられるがままに、動かされるがままになるでしょう。』

このメッセージを与える前に、マリア様は人々の祈りを待っておられました。そしてお祈りが多くなれば多くなるほど、それに従ってメッセージが与えられたので、これによって、「マリア様は私たちの祈りをいつも聞かれている」という事、そして「そのお祈りにマリア様は応えようとしておられる」事を示しています。

ここで第2のステージでは、マリア様は行動を開始した軍隊のように例える事ができます。

第3の段階では、マリア様は軍隊を展開して、そして敵に対して戦い、敵に敗北を与えるものとしていらっしゃいます。

メッセージはマリア様の足元に、ちょうど垂れ幕のように幕のように書かれていたのですけれども、それは取り払われたのではなくて、隠された、という事を申し上げました。

ゲラン神父様の指導の下で、“Parce Domine”『主よ、私たちを容赦して下さい』という祈りを歌い始めたのです。

すると、ちょうどマリア様の前に赤い十字架像が現れました。この十字架をよく見ると、2つの種類の赤の色がありました。御体については少し黒ずんだ赤で、そして十字架の木については明るい赤でした。そして捨て札には、「イエズス・キリスト」と書かれていました。

この私は医者ではないのですけれども、少し医学的な話をすると、この赤は「血」の赤だと言われています。私たちの動脈を流れる血液は明るく、酸素が入っているので明るい色をしています。これは動脈の血です。その血がもう一度心臓の方に戻ってくる時には、それは静脈を通って来るのですけれども、それはちょっと色が黒ずんでいて、酸素を使って二酸化炭素が入っているので、黒ずんできます。ですからここでは、その静脈では黒ずんだ暗い赤の色をしています。

そこでもう一度申し上げますと、イエズス様の御肉体は黒ずんだ赤で、そして十字架像は明るい赤でした。これを解釈すると、イエズス様は、私たちの全ての汚い罪を、御自分の方で取って、それを体に受け止めた、という事です。そして御受難によって、私たちの罪の赦しの功徳を得ました。そしてこの功徳によって、救いを人々に与えます。このイエズス様と一致している霊魂たちは、綺麗になります。

「イエズス・キリスト」という名前が書かれているのは、まず、「イエズス様が、私たちを救う、救い主だ」という事を意味します。『イエズス』というのは、『主は救う』という意味ですから。罪からの救い、それからその他の悪からの救いは、イエズス様のみ与えられます。
『キリスト』というのは、『油を注がれた者』という意味です。イエズスは私たちの罪の償いの為に、完全ないけにえを捧げる為に、油を注がれた者です。またイエズス様は、私たちを裁く為に、統治する為に、油を注がれた王でもあります。
またイエズス様は、私たちに教える語りかける方であるので、預言者とも言えます。

イエズス様は十字架に付けられる事によって、無限の栄光を天主に与えます。
十字架に付けられたイエズス様こそが、死と地獄に対する勝利者です。
十字架に付けられたイエズス様は、私たちの全ての罪の赦しを勝ち取る方です。罪によって引き起こされた霊的な、あるいは心理的な、あるいは社会的な、あるいは肉体的な傷を、イエズス様は癒して下さいます。
十字架に付けられたイエズス様は、私たちに必要な全ての御恵みを豊かに与えて下さる方です。

マリア様は御出現で、この「十字架」を、両の手で持たれました。そしてこの十字架を、お祈りをしている方に傾けました。そしてマリア様は、十字架と同時に、人々をご覧になっていました。

10歳になるヨゼフ君は、その時のマリア様の御顔の表情を忘れる事はできませんでした。マリア様の御顔は、言う事ができないほどの悲しみに満ちておられました。マリア様の口元が震えておられるのは、マリア様が非常に感情に高ぶっておられるという事を示していました。涙はありませんでした。しかしそのマリア様の御悲しみは、想像を超えるものだという事が誰にも分かりました。

ヨゼフ君は言います。「私の父が亡くなった時に、母がどれほど悲しみに沈んでいたのかを覚えています。このような母を見る事は、子供の心にどんな事を意味するかという事は、皆さんご存知です。しかし私の母のその時の悲しみは、マリア様の悲しみと比べれば何でもなかったと言えます。」

まさにこの悲しみは、イエズス様の十字架の足下に佇む御母の悲しみそのものでした。

するとその時に、マリア様の足元に並んでいた星々の内の一つが、マリア様を囲んでいたマンドーラの中に入って、そしてローソクに火を灯します。まずマリア様の左側の下から火を点けて、左上に火を点ける、次に足元に戻って右に火を点けて、また右上に火を点けて、そしてマリア様の上に行って、留まりました。マリア様の力が今、点けられた、点火したかのようでした。

このローソクの火の点け方は、ゲラン神父様がその神父様の御聖堂でいつも、祭壇のローソクを点けるやり方そのものでした。ですからマリア様は、ゲラン神父様の事を言及していたのです。

これを見ると、司祭、特に「ミサを捧げる司祭は、救いの力を、またマリア様のその力を点火させる、起動させるそのスイッチを入れる事ができる」という事が分かります。

先ほど申し上げた事を繰り返しますと、マリア様は最初には、戦闘を整えた軍隊のようにしていますけれども、まだ行動は開始していませんでした。第2のステージでは、マリア様は希望のメッセージを与えて、それから軍隊は行動を開始した、という事を意味しました。第3では、マリア様は敵に対して戦って、敵を敗北させる行動を開始しました。

マリア様の武器は、「十字架に付けられたイエズス・キリスト」でした。両手で十字架像を取りました。あたかもこう刀を両の手で持って、重い刀を持っているかのようでした。この重い刀は、十字架という刀は、これで敵を撃てば、敵に大きな損害を与える事ができます。

またマリア様は、胸にも小さな十字架を持っていました。「マリア様はいつも心において、イエズス様と一致していた」という事を表しました。つまり、「イエズス様が肉体において十字架に付けられた時に、マリア様は霊的に十字架に付けられた」という事です。

また十字架像を両手で持っていたという事は、イエズス様が与える苦しみを全て、勇敢に、男らしく受け止めたという事です。嫌々ながら仕方なく持っていたのではなくて、それをしっかりと両の手で持っていました。ちょうど御告げの時に、「フィアット」と仰ったその同じ心で、十字架の下にしっかりと立っていました。

マリア様の悲しみの御眼差し、その御顔は、十字架の下でどれほど悲しまれた、という事を子供たちに、私たちに示していました。

マリア様は十字架像を人々の方に傾けていました。マリア様はイエズス様の十字架の受難の癒しの力を、その力を人々に適用させようとしていたのです。そしてあたかも、「皆さんの苦しみの特効薬は、薬は、解決策は、十字架に付けられたイエズス様だけですよ」と仰っているかのようでした。

この“Parce Domine”を歌い終わった後に、人々は“Ave Maris stella”を歌い始めました。するとその時に、十字架の像は消えて、マリア様は両の手を人々に広げて、最初のように、人々を迎え入れるかのような姿勢を取りました。

すると、マリア様の肩に、白い十字架が植えられたかのように現れたのが見えました。そしてマリア様はまた再び笑まれました。

すると、この肩の2つの十字架の意味は何でしょうか?よく分かりません。このマリア様を見たユージンがちょっと成長して、「この十字架の意味は何だと思うか?」と聞かれたら、「分からない」と答えました。「まだ分からない」と答える子供もいました。あたかも、この御出現の意味は全て明らかにされていないかのようです。

その頃、20時半に時計はなっていました。そこでゲラン神父様は村の人々に、「では夕の祈りを唱えよう」と祈りに誘いました。

すると、今まで下にあったベールのようなものが、少しずつマリア様を隠して、マリア様が少しずつ見えなくなっていきました。そしてまず最初にこのベールは、マリア様の腰辺りで一旦止まったのですけれども、更にもっと上がって、冠だけを残して一旦止まって、更に冠も見えなくなりました。

これは、マリア様が母親らしく、非常に親切に、優しく、子供たちに「さようなら」を言うやり方でした。その御自分の王冠が最後残るように留めておいたのも、希望のメッセージで、「最後の勝利は、マリア様のものだ」という事を伝えるかのようでした。

マリア様は消えてしまったのではなくて、少しずつ、少しずつ、隠されてきました。子供たちはマリア様を見る事ができなかったのですけれども、隠されているのですけれども、しかし「マリア様がそこにいらっしゃる」という事は確実でした。

この御出現の効果の結果、何が起こったでしょうか?

まず国は、プロシア、プロイセンと戦っていました。実はプロイセンの軍隊は、フランスの色んな所に占領していて侵略していて、そしてそのポンマンの周りをも既に侵攻していたのです。そしてその夜は既にポンマンにも到達する計画がありました。

フランス側では、そのような敵に対して抵抗を試みるものも全くなく、そのまま進むがままにさせていました。ところがその夜、何の理由もなく、説明もなく、プロイセンの軍隊は、そこから撤退していきました。

そのプロイセンの軍隊の将軍が後に、記録を残して日誌を残しているのですけれども、それによると、「その夜、とても美しい夫人が、ポンマンとその隣の都市であるラヴァル(Laval)という所に行く道を通せんぼしたので、行く事ができなかった」と書いています。

そしてとても人々が驚いた事には、その11日後には、プロイセンとフランスの間には平和協定が結ばれました。そしてポンマンのその御出現があったその夜から、村の住民たちは安心して眠りにつく事ができるようになっていました。

そこから徴収された38名の若いポンマン出身の青年たちも皆、無傷で故郷に戻ってきました。

これが歴史的な効果です。これは歴史的なものですけれども、しかしその背後に霊的な意味があって、「霊的な敵が、私たちを攻撃している」という意味があります。「しかし、マリア様と十字架に付けられたイエズス様の御受難によって、全ての悪を、霊的な悪に対して戦って、それを追い払う事ができる」事です。

ちょうどポンマンの人々が絶望していて、もう全てが失われたと思っていたにもかかわらず、その希望を取り戻したように、私たちも「どうしてもダメだ」と思っていても、希望を取り戻す事ができます。

38名の青年たちが無傷で故郷に帰ってきたという事も、私たちもこの世の戦いを果敢に終えて、そして無傷で天国の故郷に辿り着く事ができる、という事を意味しています。

では、日本26聖人のチャプレット、コンタツについて。

この26聖人のコンタツは、御出現の最初の方に唱えられていました。フランスの片田舎でのマリア様の御出現の時に、「26聖人のチャプレットをお祈りしていた」というのは、普通ではあり得ない、普通の話ではない、という事に多くの人が気が付きます。

ピオ九世教皇様が26聖人を1862年に列聖しました。この列聖式の後に、このチャプレットは広まっていきました。ところでこの26聖人のチャプレットですけれども、26聖人に直接お祈りをするというよりは、罪の償いの為のお祈りを唱えるので、一見すると26聖殉教者には直接は関わりがないように思われます。

その最初の大きな数珠では、「聖母の優しい御心よ、私の救いとなり給え。我が優しいイエズスよ、御憐れみを乞い願い奉る。」

そして小さな数珠では、「永遠の聖父よ、私はイエズス・キリストのいとも尊き御血を、私の罪の償いとして御捧げ致します。また聖なる教会の必要の為に御捧げ致します」と祈ります。

26聖人についての言及はないのですけれども、イエズス様の流された御血、償いの為の御血については言及がありました。そしてこの数珠の色も赤です。ですからこの御出現の十字架像も赤でした。

私の思うには、この26聖人のチャプレットは、26聖人というよりも、「日本」に関係するものであると思います。「日本」と、そして「償い」という事が言及されていると思われます。

秋田の聖母の第2のメッセージには、こうあります。
「天の御父のお怒りをやわらげるために、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、御子と共に望んでおります。御父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、御父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。御子と共に、何度もそのお怒りを和らげるように努めました。御子の十字架の苦しみ、御血を示して、御父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりを捧げて、お引止めしてきました。」

そこで私の思うには、天主の御摂理によって、「ポンマンのマリア様」と「秋田のマリア様」は結び付きがあると思います。そこで、ポンマンのマリア様は秋田のマリア様を、秋田のマリア様はポンマンのマリア様を、相互によく理解する為に、相互に照らし合っていると思います。皆さんの黙想に委ねます。

そこでポンマンのマリア様は私たちに、「罪の償い」について教えて、私たちを償いをするように招いています。

罪の「赦し」というのと、「償い」というのは、2つの別の事です。例えば告解をして、罪は赦されます。罪の赦しを求めると、天主は私たちを赦して下さいます。しかし償いは残ります。

例えば子供が、お母さんに「してはいけない」と言われている台所で遊んだ為に、大切なお皿をみんな割ってしまった。そこで私は、「すいません、お母さん、ごめんなさい。もうしません、ごめんなさい」と言います。お母さんはとても優しいので許してもらいます。でもお皿は割れたままでした。「罪の許し」というのと、「壊れたお皿を、それを元に戻す」という事は別の話です。

私たちが罪を犯すと、天主に不敬を与えます。天主にあるべき栄光を与えない事ですが、罪を犯す事によって、確かに自分の霊魂を傷付けますけれども、しかし何よりも、天主の御稜威を傷付け、そしてまた私たちの周りの人をも、また社会にも悪い影響を与えます。「罪の赦し」は、「私」に関する事ですけれども、しかし「罪の償い」は、「それ以外」の事に関わります。「赦し」と「償い」は違います。別の事です。この2つが必要です。

唯一、その傷付けられた天主の名誉を全て回復させる事ができるものは、「イエズス様のなさった十字架のいけにえ」だけです。ですから、「罪の償い」というのは基本的には、本質的には、「イエズス様のなされた償いを、天主に捧げる」という事です。

皆さんはファチマの天使の祈りを覚えていらっしゃると思います。
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」
というお祈りはまさに、この最も大切な償いのお祈りでした。

では、私は一体どのようにしたら良いでしょうか?もっとたくさんお祈りを増やすべきでしょうか?

いえ、私たちが何をするにつけても、それを「罪の償いの為にする」という意向を付ける、という事をお願いしたいと思います。また短い射祷、例えば26聖人のチャプレットにあるような射祷、短い祈りを何度も繰り返して御捧げする事を提案します。「罪の償いをする」というその意向を持つ事によって、私たちの熱心をますます高める、強める事ができますし、もう1つ、私たちの身に降りかかる十字架や苦難を、忍耐をもって耐え忍ぶ事ができるようにさせてくれます。これは、私たち皆がしなければなりません。

更にもっと寛大な霊魂には、「いけにえの霊魂」となる事も呼ばれています。それが秋田のメッセージです。そのいけにえの霊魂は、その霊魂に起こる肉体的な、あるいは霊的な苦しみや困難を、「この世に起こる天主に対する冒瀆や、罪に対する償いとして、全て捧げる」という事を寛大に捧げます。

犠牲の霊魂とは、いけにえの霊魂とは、「イエズス様と一緒に、イエズス様の十字架に合わせて、この世の罪の償いの全ての結果を、自分の身に受け入れる事を望む霊魂」です。


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