アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、私たちの主イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日です。
今月の初金曜日に大阪でいたしました説教をご紹介します。
イエズスの聖心の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年6月5日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年6月5日、初金曜日です。イエズス様の聖心の随意ミサを歌ミサでしています。
今日、初金のイエズス様の聖心のミサを捧げていますが、イエズス様が、私たちの事をどれだけ愛されているか、特に昨日は御聖体の大祝日でしたから、イエズス様が私たちに対して、御聖体に於いて、どれほど愛しておられるか、という事を黙想し、私たちはそれに対してどのように応えるべきか、或いは人類はどのように応えているのかを垣間見て、私たちは、イエズス様に対してどのようにしていかなければならないか、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。
イエズス様は、聖木曜日に十字架に付けられるその直前の晩に、「御自分の時が来られた事を知り、この世から聖父の元に行く時が来た、と知り、御自分のものを、この世にいる自分の弟子たちを愛し、極みまで愛された。」と、聖ヨハネは言っています。そこで、イエズス様が私たちをどれほど愛されていたのか、というのは、まずイエズス様が、この御聖体を制定したその「時」と、その「やり方」、その「御聖体の制定について」、それ自体について考察してみる事にします。
まずイエズス様は、御自分の死の直前に、御聖体を制定しました。人は、よく死の直前に、愛する者たちに、自分の形見を残そうとします。これを愛のしるしとして与えようとします。ある人は、自分の着ていた特別の着物を、或いは指輪を、或いは時計を、自分の愛着していた物を、子供に、或いは愛する者に与えます。これは、愛情の表現としてです。
ところで、イエズス様は死の直前に、御自分の愛の表現として、愛の極みとして、御自分、それ御自分自身を私たちに残そうとされました。イエズス様の御聖体の制定は、死の直前でありました。
第2に、ちょうどそのイエズス様が御聖体を制定されようとした時には、人類は、ユダヤ人たちは、イエズス様を死に渡そうと準備していた、その真最中でした。イエズス様は自分が裏切られ、自分が死に渡されるという事をよく知りながらも、却ってそのような人類を愛そうと、そのような私たちの為に、御自分を全て与えようとされました。
しかも御自分を、十字架の上で、自分の命を与え尽くそうとするのみならず、御自分の御体を、私たちの霊的糧として、与えようと思われました。イエズス様の私たちに対する愛は、御聖体の秘跡を生み出しました。イエズス様は、パンをお取りになってこう仰います、「これは私の体である。」と。
第3に、イエズス様のその「天主である」という身分を考えてみなければなりません。
皆さん、もしもある日、家に郵便物が届いて、宮内庁から特別の菊の紋章の入った招待状が来て、「親愛なる何とかさん、天皇陛下が、皇后陛下が、皇太子殿下と皇室全てが揃って、『皆さんを非常に深く敬愛して、皆さんをぜひ皇居に招待して、天皇陛下と一緒にお食事をされたい。』と、陛下が申しておられる。是非、お忙しいとは思うけれども、何月何日の何時に、宮中でその晩餐会にぜひ御招待、与って戴きたい。」そうしたら私たちは、「どれほど何と名誉な事であるか。」と思って、その日をきっと待ち遠しく思って、その日の為に綺麗な服を着て、皇居に赴く。入口の警備員にその招待状を見せて、「さあ、これで招待されたから。」私たちは皇居に行くのではないでしょうか。
もしも、もしもその招待状が、その晩餐会のみならず、天皇陛下が非常に私たちの事を愛されて、天皇陛下は食事をするのみならず、御自分を、「私たちの友として、常にいつもいたい。」と思っている、天皇陛下は、「御自分を全て私たちに与え尽くしたい。」と思っている、と思ったら、私たちは、「とんでもない何という事を仰るのだろう。」と、思うかもしれません。
しかし、日本を創り、全世界を創り、宇宙の全ての美しさと、鳥と花と太陽と銀河を創り、海の魚と、全ての宝石金銀を創った大宇宙の創造主、三位一体の生ける御一人子が、私たちに、単にその被造物である私たちに、食べ物を下さるのみならず、その御自分を全て与え尽くして、天主の御子の御自身を、私たちの日常の糧として、全てを与え尽くす。天主御子の持てる全てを、天主御子それ自身を、私たちへの贈り物として、全てを与え尽くしたい。御自身には何も残さずに、全てを与えたいと思っている、という手紙が、私たちの元に手紙が来たら、一体私たちは、どれほど感謝すべきでしょうか。
実際、この至聖なる、いと貴き、全知全能の愛である天主が、その愛である天主の御一人子が、私たちを愛するあまり、その事をなさったのです。
聖人たちは、その御聖体の事をみて、「愛の秘跡だ。」「愛の約束だ。」「愛の愛だ。」「全人類一般のみならず、私たち各個人、一人一人に対する、極みの無い、極限の愛がここにある!」と叫びました。
イエズス様は、御聖体を制定する時に、「この過ぎ越しを、私は極めて大きな望みをもって願っていた、お前たちと共に食べるのを望んでいた。」私たちに御自分を全て与え尽くしたい、という燃えるような愛の望みをもって、この御聖体を制定しました。
イエズス様は与えない事もできました。しかし敢えて、御自分を全て与える事を選び、それを望み、その事を極めて強く望みました。
「もしも人の子の肉を食べるならば、お前たちには永遠の命があるだろう、もしもそれが無いならば、お前たちには永遠の命が無い。地獄に永遠の命が奪われる。」という脅しさえもして、イエズス様はそう懸けても、私たちに与えたい、と思っていました。イエズス様は、それほどまでして、私たちの元に来たい、と思っていました。イエズス様の愛は、私たちと共に一致していたい、という極みの愛でした。
イエズス様は、このようにさえ仰います、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に於いて在り、私は彼の内に居る。」と。イエズス様は、御聖体拝領によって、私たちと、霊魂も肉体も共に一致したい、と思っています。
愛というのは、その効果は、愛する両者を1つにまとめる事です。愛すれば愛するほど、その愛する者たちは1つに、心も1つになります。イエズス様は、愛するがあまりに、御聖体拝領によって、私たちと1つ、いつも一致していたい、と思っていました。
サレジオの聖フランシスコは、「御聖体を制定されたほどイエズス様は、御聖体を制定されたほど、より私たちを愛し、これよりもより優しい愛が一体どこにあるだろうか。」と、言っています。
まさに、私たちは天主様の愛を、信じたのであります。イエズス様は、私たちに全てを与えようとされている、その事を信じたのであります。
では一体何で、イエズス様はそこまで私たちの事を愛され、そこまでして御自分を全て与えようと思ったのでしょうか。ただ、人間に、天主様が人間になる、それでも物凄い人間にとっての栄光であり、人間にとってのとてつもないお恵みでしたけれども、何故イエズス様は、私たちの霊的な糧となり、パンとなるほどまで、私たちにとっての糧となるほどまで、私たちを愛するのでしょうか。
イエズス様の愛は、イエズス様をあたかも全てを忘れさせて、正気を失わさせたかのようにさえ思えます。イエズス様は、人間を天主のようにしたかったのであります。イエズス様は私たちを愛するがあまり、人となり、天主が人となり、私たちを天主のようにさせたかったのです。イエズス様は私たちの糧となり、天主御自身が私たちの糧となる事によって、私たちがまさに、天主化し、天主の命を生きる事を望んだのでした。
この地上に於いて既に、天主の愛に、天主の命に生き、イエズス・キリスト、真の天主と一致し、永遠に天国で、天主の命を、無限の幸せを、味わい楽しむ事を、私たちが天主を愛し、天主から愛され、無限に幸せである事を望まれたのでした。既にこの地上でから、その事を望まれたのでした。
まさに、ここに天主様の愛の極みがあります。まずここにこそ、天主様の望んだ真の秩序があります、天主様の望んだ真の平和があります。
ですから、私たちはこのイエズス様の愛の計画に従わせ、イエズス様を愛をもって礼拝し、御聖体を愛をもって拝領する事に致しましょう。
ところで、このような愛の極み、イエズス・キリストの愛をみて、人類はどのように応えたでしょうか。
人類は、この愛の招きを無視して、無関心、冷淡、冒涜、罪に罪を重ねてそれに応えたのでした。イエズス様がせっかく、天主がせっかく人となり、私たちの糧となり、愛の極みを尽くして下さったにもかかわらず、このイエズス様の御聖体は、無視されています。冷淡に拝領されています。無関心に取り扱われています。信じられてさえもいません。そうでなく、イエズス・キリストのない人間の栄光化を、人間が偶像化されて、人間を、人間の理性を、人間の尊厳を礼拝したり、人間の尊厳をのみ語るようになっています。イエズス・キリストのない人間の偶像化が、人間中心主義が、はびこってしまっています。
これは、イエズス様の望む秩序ではありません。イエズス様は、私たちがイエズス・キリスト、御聖体に於いて一致する事によって初めて、天主の命を与えようと思っています。それ以外には、私たちが天主のようになる事はできません。
しかし、イエズス・キリストの無い、してはいけないやり方をもって、私たちを天主であるかのように偶像化させる無秩序、創造の秩序の崩壊が、破壊がなされようとしています。
では、最後に私たちは、今日初金曜日に、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか。
私は、ちょうどファチマの天使が子供たちに教えたように、イエズス様の、天主の立てた秩序に従う事を提案します。3回目の御出現で、ポルトガルの天使、ポルトガルの守護の天使は、平和の天使は、子供たちにこう現れました。御聖体を持ち、カリスを持ち、その子供たちにそれを見せると、御聖体からは御血が滴り、カリスの中にポタリポタリと落ちていました。それを見せた後に、天使はそれを空中にそのまま置いて、地面に平伏し、跪きぬかずいて、深く頭を地面に付ける様に礼拝して、「いとも至聖なる三位一体よ、聖父と聖子と聖霊を、御身を深く礼拝し奉る。我は、この同じ御子イエズス・キリストの、いとも貴き御聖体、御体、御血、御霊魂、神性を、全世界の御聖櫃の中に在し給うイエズス・キリストの御体、御血、御霊魂、ご神性を、イエズス・キリストが受けておられる全ての冒涜、瀆聖、無関心を償う為に、お捧げ致します。」さらに続けて、「イエズス・キリストのいとも至聖なる聖心の功徳によりて、また聖母マリアの汚れ無き御心の御取次ぎを通して、私は罪人たちの回心を御身に乞い求めます。」と。
私たちも今日、イエズス様の聖心の無限の功徳によって、マリア様の汚れ無き御心の御取次ぎを通して、御聖体拝領しながら、深く礼拝し、感謝し、私たちに対するその愛の極みを感謝し、イエズス様が受けておられる冒涜と無関心、冷淡、瀆聖、全ての罪を償う事に致しましょう。私たちの拙い祈りも、マリア様の心を通して、それをお捧げする事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、私たちの主イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日です。
今月の初金曜日に大阪でいたしました説教をご紹介します。
イエズスの聖心の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年6月5日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年6月5日、初金曜日です。イエズス様の聖心の随意ミサを歌ミサでしています。
今日、初金のイエズス様の聖心のミサを捧げていますが、イエズス様が、私たちの事をどれだけ愛されているか、特に昨日は御聖体の大祝日でしたから、イエズス様が私たちに対して、御聖体に於いて、どれほど愛しておられるか、という事を黙想し、私たちはそれに対してどのように応えるべきか、或いは人類はどのように応えているのかを垣間見て、私たちは、イエズス様に対してどのようにしていかなければならないか、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。
イエズス様は、聖木曜日に十字架に付けられるその直前の晩に、「御自分の時が来られた事を知り、この世から聖父の元に行く時が来た、と知り、御自分のものを、この世にいる自分の弟子たちを愛し、極みまで愛された。」と、聖ヨハネは言っています。そこで、イエズス様が私たちをどれほど愛されていたのか、というのは、まずイエズス様が、この御聖体を制定したその「時」と、その「やり方」、その「御聖体の制定について」、それ自体について考察してみる事にします。
まずイエズス様は、御自分の死の直前に、御聖体を制定しました。人は、よく死の直前に、愛する者たちに、自分の形見を残そうとします。これを愛のしるしとして与えようとします。ある人は、自分の着ていた特別の着物を、或いは指輪を、或いは時計を、自分の愛着していた物を、子供に、或いは愛する者に与えます。これは、愛情の表現としてです。
ところで、イエズス様は死の直前に、御自分の愛の表現として、愛の極みとして、御自分、それ御自分自身を私たちに残そうとされました。イエズス様の御聖体の制定は、死の直前でありました。
第2に、ちょうどそのイエズス様が御聖体を制定されようとした時には、人類は、ユダヤ人たちは、イエズス様を死に渡そうと準備していた、その真最中でした。イエズス様は自分が裏切られ、自分が死に渡されるという事をよく知りながらも、却ってそのような人類を愛そうと、そのような私たちの為に、御自分を全て与えようとされました。
しかも御自分を、十字架の上で、自分の命を与え尽くそうとするのみならず、御自分の御体を、私たちの霊的糧として、与えようと思われました。イエズス様の私たちに対する愛は、御聖体の秘跡を生み出しました。イエズス様は、パンをお取りになってこう仰います、「これは私の体である。」と。
第3に、イエズス様のその「天主である」という身分を考えてみなければなりません。
皆さん、もしもある日、家に郵便物が届いて、宮内庁から特別の菊の紋章の入った招待状が来て、「親愛なる何とかさん、天皇陛下が、皇后陛下が、皇太子殿下と皇室全てが揃って、『皆さんを非常に深く敬愛して、皆さんをぜひ皇居に招待して、天皇陛下と一緒にお食事をされたい。』と、陛下が申しておられる。是非、お忙しいとは思うけれども、何月何日の何時に、宮中でその晩餐会にぜひ御招待、与って戴きたい。」そうしたら私たちは、「どれほど何と名誉な事であるか。」と思って、その日をきっと待ち遠しく思って、その日の為に綺麗な服を着て、皇居に赴く。入口の警備員にその招待状を見せて、「さあ、これで招待されたから。」私たちは皇居に行くのではないでしょうか。
もしも、もしもその招待状が、その晩餐会のみならず、天皇陛下が非常に私たちの事を愛されて、天皇陛下は食事をするのみならず、御自分を、「私たちの友として、常にいつもいたい。」と思っている、天皇陛下は、「御自分を全て私たちに与え尽くしたい。」と思っている、と思ったら、私たちは、「とんでもない何という事を仰るのだろう。」と、思うかもしれません。
しかし、日本を創り、全世界を創り、宇宙の全ての美しさと、鳥と花と太陽と銀河を創り、海の魚と、全ての宝石金銀を創った大宇宙の創造主、三位一体の生ける御一人子が、私たちに、単にその被造物である私たちに、食べ物を下さるのみならず、その御自分を全て与え尽くして、天主の御子の御自身を、私たちの日常の糧として、全てを与え尽くす。天主御子の持てる全てを、天主御子それ自身を、私たちへの贈り物として、全てを与え尽くしたい。御自身には何も残さずに、全てを与えたいと思っている、という手紙が、私たちの元に手紙が来たら、一体私たちは、どれほど感謝すべきでしょうか。
実際、この至聖なる、いと貴き、全知全能の愛である天主が、その愛である天主の御一人子が、私たちを愛するあまり、その事をなさったのです。
聖人たちは、その御聖体の事をみて、「愛の秘跡だ。」「愛の約束だ。」「愛の愛だ。」「全人類一般のみならず、私たち各個人、一人一人に対する、極みの無い、極限の愛がここにある!」と叫びました。
イエズス様は、御聖体を制定する時に、「この過ぎ越しを、私は極めて大きな望みをもって願っていた、お前たちと共に食べるのを望んでいた。」私たちに御自分を全て与え尽くしたい、という燃えるような愛の望みをもって、この御聖体を制定しました。
イエズス様は与えない事もできました。しかし敢えて、御自分を全て与える事を選び、それを望み、その事を極めて強く望みました。
「もしも人の子の肉を食べるならば、お前たちには永遠の命があるだろう、もしもそれが無いならば、お前たちには永遠の命が無い。地獄に永遠の命が奪われる。」という脅しさえもして、イエズス様はそう懸けても、私たちに与えたい、と思っていました。イエズス様は、それほどまでして、私たちの元に来たい、と思っていました。イエズス様の愛は、私たちと共に一致していたい、という極みの愛でした。
イエズス様は、このようにさえ仰います、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に於いて在り、私は彼の内に居る。」と。イエズス様は、御聖体拝領によって、私たちと、霊魂も肉体も共に一致したい、と思っています。
愛というのは、その効果は、愛する両者を1つにまとめる事です。愛すれば愛するほど、その愛する者たちは1つに、心も1つになります。イエズス様は、愛するがあまりに、御聖体拝領によって、私たちと1つ、いつも一致していたい、と思っていました。
サレジオの聖フランシスコは、「御聖体を制定されたほどイエズス様は、御聖体を制定されたほど、より私たちを愛し、これよりもより優しい愛が一体どこにあるだろうか。」と、言っています。
まさに、私たちは天主様の愛を、信じたのであります。イエズス様は、私たちに全てを与えようとされている、その事を信じたのであります。
では一体何で、イエズス様はそこまで私たちの事を愛され、そこまでして御自分を全て与えようと思ったのでしょうか。ただ、人間に、天主様が人間になる、それでも物凄い人間にとっての栄光であり、人間にとってのとてつもないお恵みでしたけれども、何故イエズス様は、私たちの霊的な糧となり、パンとなるほどまで、私たちにとっての糧となるほどまで、私たちを愛するのでしょうか。
イエズス様の愛は、イエズス様をあたかも全てを忘れさせて、正気を失わさせたかのようにさえ思えます。イエズス様は、人間を天主のようにしたかったのであります。イエズス様は私たちを愛するがあまり、人となり、天主が人となり、私たちを天主のようにさせたかったのです。イエズス様は私たちの糧となり、天主御自身が私たちの糧となる事によって、私たちがまさに、天主化し、天主の命を生きる事を望んだのでした。
この地上に於いて既に、天主の愛に、天主の命に生き、イエズス・キリスト、真の天主と一致し、永遠に天国で、天主の命を、無限の幸せを、味わい楽しむ事を、私たちが天主を愛し、天主から愛され、無限に幸せである事を望まれたのでした。既にこの地上でから、その事を望まれたのでした。
まさに、ここに天主様の愛の極みがあります。まずここにこそ、天主様の望んだ真の秩序があります、天主様の望んだ真の平和があります。
ですから、私たちはこのイエズス様の愛の計画に従わせ、イエズス様を愛をもって礼拝し、御聖体を愛をもって拝領する事に致しましょう。
ところで、このような愛の極み、イエズス・キリストの愛をみて、人類はどのように応えたでしょうか。
人類は、この愛の招きを無視して、無関心、冷淡、冒涜、罪に罪を重ねてそれに応えたのでした。イエズス様がせっかく、天主がせっかく人となり、私たちの糧となり、愛の極みを尽くして下さったにもかかわらず、このイエズス様の御聖体は、無視されています。冷淡に拝領されています。無関心に取り扱われています。信じられてさえもいません。そうでなく、イエズス・キリストのない人間の栄光化を、人間が偶像化されて、人間を、人間の理性を、人間の尊厳を礼拝したり、人間の尊厳をのみ語るようになっています。イエズス・キリストのない人間の偶像化が、人間中心主義が、はびこってしまっています。
これは、イエズス様の望む秩序ではありません。イエズス様は、私たちがイエズス・キリスト、御聖体に於いて一致する事によって初めて、天主の命を与えようと思っています。それ以外には、私たちが天主のようになる事はできません。
しかし、イエズス・キリストの無い、してはいけないやり方をもって、私たちを天主であるかのように偶像化させる無秩序、創造の秩序の崩壊が、破壊がなされようとしています。
では、最後に私たちは、今日初金曜日に、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか。
私は、ちょうどファチマの天使が子供たちに教えたように、イエズス様の、天主の立てた秩序に従う事を提案します。3回目の御出現で、ポルトガルの天使、ポルトガルの守護の天使は、平和の天使は、子供たちにこう現れました。御聖体を持ち、カリスを持ち、その子供たちにそれを見せると、御聖体からは御血が滴り、カリスの中にポタリポタリと落ちていました。それを見せた後に、天使はそれを空中にそのまま置いて、地面に平伏し、跪きぬかずいて、深く頭を地面に付ける様に礼拝して、「いとも至聖なる三位一体よ、聖父と聖子と聖霊を、御身を深く礼拝し奉る。我は、この同じ御子イエズス・キリストの、いとも貴き御聖体、御体、御血、御霊魂、神性を、全世界の御聖櫃の中に在し給うイエズス・キリストの御体、御血、御霊魂、ご神性を、イエズス・キリストが受けておられる全ての冒涜、瀆聖、無関心を償う為に、お捧げ致します。」さらに続けて、「イエズス・キリストのいとも至聖なる聖心の功徳によりて、また聖母マリアの汚れ無き御心の御取次ぎを通して、私は罪人たちの回心を御身に乞い求めます。」と。
私たちも今日、イエズス様の聖心の無限の功徳によって、マリア様の汚れ無き御心の御取次ぎを通して、御聖体拝領しながら、深く礼拝し、感謝し、私たちに対するその愛の極みを感謝し、イエズス様が受けておられる冒涜と無関心、冷淡、瀆聖、全ての罪を償う事に致しましょう。私たちの拙い祈りも、マリア様の心を通して、それをお捧げする事に致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。