アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ヴィガノ大司教の最近の発言を参考情報としてお知らせいたします。
この発言の背景に、教皇フランシスコが、ジェームズ・マーティン神父に賛同の手紙を送ったことがあります。
教皇フランシスコは、イエズス会のジェームズ・マーティン神父に個人的にスペイン語で手書きの手紙を2021年6月21日付きで書き、彼の問題ある活動(LGBTQ活動)を続けるように励ましました。
最初にこれはラジオ・バチカン(バチカンニュース)でイタリア語で報道されました。Papa Francesco: Dio si fa vicino a tutti con cuore di Padre.
次にこの手紙がマルティン神父のツイッターで公開されました。
このような手紙に対し、ヴィガノ大司教はこう言います。
「ローマに座している者を取り巻いているのは、LGBTQ+の運動に好意を示す不道徳な人々で、彼らは歓迎と包括性を偽善的に装っています。このことは、彼らの分野の選択と罪深い傾向を如実に示しています。もはや勇気はなく、もはやキリストへの忠実はありません」。
「牧者たちの背教につまずき、当惑している多くの信徒の皆さんに、主がありがたくも傭い人たちを回心させてくださり、彼らをご自身へと、天主の教えへの忠実さへと導いてくださるよう、祈りと償いの精神をもって祈りを増やすように強く勧めます。」
ヴィガノ大司教、ジェームズ・マーティン神父を支持した教皇フランシスコに「厳しい警告」を発する
2021年6月29日(火)
この世、肉、悪魔【人間の救いの三つの敵】
Scitote quoniam Dominus ipse est Deus:
Ipse fecit nos, et non ipsi nos.
主こそが天主であると知れ。
主こそがわれらをつくられた、われらがそうしたのではない。
詩篇99篇3節
私たちの霊魂の敵はいつも同じで、私たちに仕掛けてくる罠もいつも同じです。誘惑のあるこの世、原罪によって堕落し悪に傾いている肉、そして肉を使って私たちを追い詰める私たちの救いの永遠の敵である悪魔。外部の二つの敵と内部の一つの敵は、私たちが気を取られたり、弱気になったりしたときに、常に私たちを破滅させようとします。これらの霊的な敵は、私たち一人一人が幼少期から老年期まで、そして全人類が世代や時代を超えて付きまとっているのです。
この世、肉、そして悪魔に打ち勝つために頼れる味方は、天主の恩寵、頻繁に秘蹟を受けること、美徳の実践、祈り、償い、最後のこと【四終=死、審判、天国、地獄】を考えること、主のご受難の黙想、そして主の現存のうちに生きることです。
社会が、私たちが究極の目標を追求するのを助けないばかりか、実際には私たちをその目標から遠ざけるためにあらゆることを行っている、この反抗的で脱キリスト教的な時代において、世俗の権威は、私たちをこの世に従わせ、肉の欲望を満足させ、人類の敵【悪魔】に仕えさせます。その権威は、個人を永遠の救いに導くために社会の体を支配し統治するという義務を怠った、倒錯した変質的な権威です。それどころか、永遠の救いを否定し、天主なる創造者を拒絶し、敵対者【悪魔】を礼拝しているのです。
それゆえ、不法な行為が規範となり、悪徳が模倣すべき手本として提示される背教的な近代性が、社会や個人のうちにある天主や善の痕跡をすべて消し去り、この世、肉、そして悪魔との地獄の契約を結ぼうとするのも不思議ではありません。同性愛を堂々と推進することや、最も忌まわしい形態のすべての悪徳を曲げること、そして純粋さや正義、聖徳を軽蔑し、委縮させ、非難することで起こっているのを私たちが目にしているのは、これなのです。
しかし、今日、私たちの敵との日々の戦いには、私たちが友人と考えるべきであるにもかかわらず、代わりに幼いころから私たちを堕落させるよう働きかける国家との戦いも含まれなければならないとすれば、他の裏切り者や傭い人がこの包囲網に加わるのを見るのは苦痛であり悲劇的です。邪悪な牧者たちは、主から受けた神聖な権威を濫用して、私たちを破滅に向かわせ、昨日まで罪深く、キリストの血によって贖われた者にはふさわしくないと考えられていたことが、今では合法的で良いことであると信じ込ませようとしています。
この世の精神、情欲への奴隷化、そしてさらに深刻なことには、邪悪なる者【悪魔】との戦いを拒否することが、カトリック教会の位階階級の大部分に広がっており、それが天主とその法および私たちの霊魂の敵となっています。世俗の権威に起こったように、宗教の権威もまた、その本来の役割を放棄し、天主の御摂理によって意図された目的そのものを放棄しているのです。
終末の時代の記念碑的な衝突の到来を告げる、この権威の倒錯という新奇なるものは、まさに牧者の腐敗にあるのであり、また指導者のいない群れとしての信徒一人一人が、いくつかの面で砦への攻撃に英雄的に抵抗しなければならないことに気づくという事実にあるのです。つまり、信徒は指導者たちに見捨てられ、指導者たちは私たちを絶滅させるために門を開き、敵の大群の侵入を許しているのです。
イタリアにおいて、提案されたザン法案【ホモフォビア(同性愛嫌悪)を処罰する法案】、LGBTQ+イデオロギーの押し付け、ジェンダー理論の植え付けに関する議論は、世界レベルで組織された目標となる計画に沿ったものであり、多くの国々ではすでに完了しています。2世紀にわたる革命の後も、社会構造の中にカトリックの刻印が残っていた国々は、今や完全に異教化されています。公共機関の正面だけでなく、大聖堂のファサード、司教館のバルコニー、教会の内部にまで虹色の旗が掲げられているのです。
最近では、わずか30年前にも、悪徳に惑わされた少数の人々を支援し、彼らを差別から守るために、国家が彼らの自由を保護し保証するという形で介入しなければならないと言う人々がいました。後から振り返れば、これは不合理で非論理的な主張でした。なぜなら、人間の自由とは、意志が善(人間の本性がそれに秩序づけられた善)を追求すること、また、人間の物質的・超自然的な目的を追求することにあるからです。しかし、悪魔が常に人間を誘惑しようとしてきた大きな欺瞞の中で、その明白な口実は、多くの人を誘惑してきました。宗教の戒律にいまだに縛られてた「尊敬すべき多数派」の残酷な厳しさに対して、悪徳や罪を犯す権利を主張するには勇気が必要だと思われました。平等な世界の中で多様であることの「誇り」が主張され、「高潔な世界」の中で悪徳のための場所を確保する権利があるとされたのです。
そのころ、教会は、自らの天主の使命に忠実であり、本質的にゆがめられた行為を正当化することを非難するために、不変の教導権による声を上げていました。霊魂の永遠の救いに配慮して、教会は、自然法や掟、福音に全く反した生活スタイルを承認することで、社会にどのような災いが起こるかを見抜いていました。牧者たちは勇敢な善の擁護者たる方法を知っていたのであり、教皇たちは、自分たちを、この世の決定的な腐敗と反キリストの支配の確立を防ぐ「カテコン」(katechon)と見る人々からの品位のない攻撃の対象となることを恐れませんでした。
今日、この英雄的な戦いは、司教たちや司祭たちの広範囲にわたる内部の腐敗によってすでに弱体化していることを私たちは知っており、聖書や教父、ローマ教皇たちの教えがもはや意味をなさないように思えます。ローマに座している者を取り巻いているのは、LGBTQ+の運動に好意を示す不道徳な人々で、彼らは歓迎と包括性を偽善的に装っています。このことは、彼らの分野の選択と罪深い傾向を如実に示しています。もはや勇気はなく、もはやキリストへの忠実はありません。ベルゴリオが死刑についての教理を変えることができたとすれば、それは前代未聞で絶対に不可能なことですが、ベルゴリオはきっと、カトリック的なものが何もない、天主の啓示に反した愛徳の名の下に、同性愛を合法化することもできるだろうとほのめかすところまで来ているのです。
世界中の首都の通りを練り歩き、使徒ペトロとパウロの血によって聖別された聖なる都での主の犠牲を冒涜して邪悪にあざ笑うところまで来ている冒涜的な【同性愛の】行列は、公会議セクトの雇い人たちに迎えられます。この雇い人たちは、同性愛カップルの冒涜的な祝福の前には沈黙し、救い主の教えに忠実であり続けたいと望む人々を「硬直している」と非難しているのです。また、良き司教たちや司祭たちが日々、上からやって来る破壊に直面している一方で、私たちが目にするのは、天主の御稜威を侮辱し、教会の使命とキリストの代理者の神聖なる権威を辱めるような、倒錯した変態的なイデオロギーを支持するために、ベルゴリオがジェームズ・マーティン神父(イエズス会)に宛てて書いた魅惑的で誘惑的な言葉が公表されていることです。
使徒の後継者として、また信仰の教師として、いとも祝されしペトロの座と天主の聖なる教会との真の交わりの精神をもって、私は彼らに厳しい警告を発します。彼らの権威はイエズス・キリストに由来するものであり、イエズス・キリストがその権威を制定された目的に向けられ続ける場合にのみ、力と価値を持つことを、私は思い起こさせます。これらの牧者たちに、彼らが信徒や素朴な人々に引き起こすつまずきや、苦悩する教会の体に与える傷を考えてもらいましょう。これらのつまずきや傷に対して、彼らは自分たちの私審判の日に天主の正義に対して、また、公審判の日には全人類の前で答えなければならないということを。
牧者たちの背教につまずき、当惑している多くの信徒の皆さんに、主がありがたくも傭い人たちを回心させてくださり、彼らをご自身へと、天主の教えへの忠実さへと導いてくださるよう、祈りと償いの精神をもって祈りを増やすように強く勧めます。罪と不潔で腐敗した役務者たちに悔い改めの気持ちを起こさせ、自分たちの罪の恐ろしさと待ち受けている恐ろしい苦痛のことを考えることができるように、童貞の中の童貞である、いと潔き御母に祈りましょう。彼らがキリストの至聖なる御傷のうちに避難し、小羊の御血の洗盤によって清められますように。
この世、肉、そして悪魔に誘惑されている私たちの兄弟たちに、私は心から訴えます。天主を侮辱したり、承知のうえで天主のご受難の御苦しみを加えたり、自分の本性を変質させたり、天主が十字架の木の上での死を通して御父から勝ち取られた救いを悪い態度で拒んだりすることには、何も誇らしいものがないことを理解するようにと。
自分の弱さを聖性の機会、回心の理由、天主の偉大さを自分の人生に輝かせる好機にしてください。今日、皆さんの霊魂を奪い、皆さんを永遠に滅ぼすことを唯一の目的として、皆さんを悪徳におぼれさせているように見える敵に惑わされないでください。罪や倒錯の奴隷になるのではなく、イエズス・キリストを愛するために肉の誘惑に抵抗する方法を知っていることを、誇りにしてください。本当の誇りにしてください。
皆さんの不滅の霊魂のことを考えてください。主が苦しみ、死ぬことをためらわれなかった、その霊魂のことを。祈ってください。至聖なるマリアに祈ってください。マリアが天主である御子に執り成してくださり、抵抗し、戦い、征服する恩寵を皆さんに与えてくださるように。誘惑者【悪魔】が欺瞞によって皆さんから奪おうと望む悪からの自由を得るために、皆さんの苦しみ、犠牲、断食を主に捧げてください。これこそが皆さんの真の誇りとなり、私たちの誇りともなるのです。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2021年6月29日
使徒聖ペトロと聖パウロの祝日