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2015年6月14日 聖ピオ十世会 聖伝のミサ レネー神父様 SSPX Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日と今朝、レネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。天主様に感謝!

 次のようなご報告を頂きましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

 兄弟姉妹の皆様のしもべは、昨日は香港にミッションに参りました。31名の方々が聖伝のミサに与りました。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪での主日の御ミサの報告をお送りいたします。

6月14日 聖霊降臨後第三主日 の歌ミサには、17人の方が、
6月15日(月) 御聖体の聖心の随意ミサの歌ミサには、11人の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!!

14日のお説教では、御聖体について黙想いたしました。
この日のお説教で触れた「御聖体の聖心のミサ」を月曜日に歌ミサで捧げて下さったことは、大変貴重な経験でした。日本語のミサ典書にはのっていないので、このような御ミサがあることを初めて知りました。ここ何十年間、日本では捧げられたことがなかったかもしれない御ミサに与ることが出来て、とても幸福でした。

レネー神父様のお説教をお聞きすると、私はしばらく大変深く黙想をする事ができます。お説教をこのブログでもう一度復習すると、新たにわかる事が増えます。聞き落としていた事も再確認できますし、さらにもう一度復習すると、少しばかりは人にも説明してあげれるようになります。(一度で深く理解される方もおられると思いますが・・・(;´∀`)

ぜひ沢山の方にこの素晴らしいお説教を読んで、聞いて頂きたいと心から願っています。

日本の為にミッションに来て下さるレネー神父様に心から感謝いたします。レネー神父様の上に天主様の特別の御恵みが ありますように!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様

昨日、今日と、大阪にてごミサにあずかって参りました。
レネー神父様のお説教、とても素晴らしかったです。
特に生涯をイエズス様に お捧げする奉献生活をお勧めする言葉に励まされました。

ミサ後の講話は、フェレー司教様の最新のお手紙の内容と関連したもので、あわれみの聖年を開始することを教皇様が発表されたことにちなんで、公会議の精神による「あわれみ」と聖伝によるまことのあわれみとの違い、つまり、天主様からのまことのあわれみを得るためには、常に回心と償いが伴うというものでした。

翌月曜日のごミサは「ご聖体のうちにましますイエズスの聖心 the Eucharistic heart of Jesus」のごミサをして下さいました!
これは比較的新しい祝日で、ベネディクト15世教皇様がお定めになったそうです。
秋田の聖体奉仕会の祈り「ご聖体のうちにまことにましますイエズスの聖心よ」を思い出し、秋田のマリア様への信心をさらに深めようと思いました。

いつも少ない信者のためにはるばる飛行機でいらしてくださるレネー神父様に感謝致します。
小野田神父様もお体ご自愛くださいませ。


【お説教】
お説教は以下のとおりです。

親愛なる兄弟の皆さん、

イエズスの聖心の驚くべきものは、いとも聖なるご聖体です。「イエズスのご聖体の聖心」をたたえる随意ミサさえもあります。これは、(カトリックという)まことの宗教だけにあるものです。異邦人の宗教にはなく、イスラムにも仏教やヒンズー教にも、またほかのどんな宗教にも似たものはありません。さらに言えば、たいていの異端、特にプロテスタントは、ご聖体について(の教えを)ゆがめてしまうか、信じていないかのどちらかです。ご聖体は、まことにカトリックという宗教だけにあるものであり、天主がご制定になったしるしです。天主のみが、このような驚くべきものを考え、つくることがおできになったのです。

神学大全において、聖トマス・アクィナスは問いかけます。天主はもっとよい世界を造ることができただろうか、と。聖トマスは答えます。天主は全能であり、すべての被造物は有限であるから、天主が造るものがどんなによいものだとしても、天主はさらによりよい世界を造ることができた、と。しかしながら、と聖トマスは説明します。天主でもそれ以上よりよいことをすることができないようなことが存在する、と。つまり、それらのことが天主的であるかぎり【それ以上よいことは出来ない】と。ですから、天主はご托身以上によいことを行うことはできませんでした。(ご托身になった)イエズス・キリストはまことの天主であり、かつまことの人間であったからです。天主以上に偉大なもの はないからです。位格的に結合すること、つまり人間の本性が天主のみ言葉ご自身と完全に結合すること以上に、天主とのより偉大な結合はありえないのです。同様に、「天主の御母であること」以上に、より偉大な「母であること」はありえませんでした。聖母マリアは「天主の御母」です。一人の母親が、私たちの主イエズス・キリスト以上に偉大な子を持つことはありえませんでした。同じように、私たちにとって、ご聖体以上に素晴らしい天主の賜物はありえません。なぜなら、ご聖体はまさに「私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、そして天主性」であるからです。

ご聖体の祝日の朝課の中で、聖トマスは旧約のモイゼを引用して言います。「われわれがこいねがうとき天主なる主はわれわれの身近においでになるが、それと同じほど神々を身近に持つ偉大な民がほかにあるだろうか」(第二法4章7節)。天主が民にマンナをお与えになっていた旧約の時代において、天主が身近におられることがすでに真実であったのなら、新約の時代においてはどれほど高いレベルの真実であるでしょうか。人はこう言うかもしれません。天主はどこにでもおられるのだから、どうすればそれが可能だろうか、と。霊は天主が働くところにあります。天主がどこでもすべてのものの存在を維持するために働いているのですから、天主は実際にどこにでもおられます。天主が創造し、その存在を維持していないのなら、何も存在できません。ですから天主は地獄にさえも存在し、悪魔の存在を維持し、悪魔を変わることのない正義に服従させておられます。すべての天主のみわざに天主が現存することは、「計り知 れないものの現存」です。しかし、天主の現存の度合いが大きければ大きいほど、そこでは天主の働きが大きくなり、天主のみわざはさらに素晴らしくなります。ですから、愛徳によって天主を愛する人々の霊魂には、天主が特別な方法で現存されます。実際、天主はこれらの霊魂たちを驚くべき方法で聖化し、彼らを天主の子、天主の友とされます。これらの霊魂を聖化する成聖の恩寵は、天地創造以上のみわざなのだ、と聖トマスは説明します。こうして、聖三位一体がこれらの霊魂に働かれれば働かれるほど、聖三位一体の彼らへの現存はさらにその度合いを増します。これは「恩寵の現存」です。しかしさらにその上に、天主の唯一の現存、いとも聖なる三位一体の第二のペルソナである天主のみ言葉の現存 があります。この現存は、天主なる御子と位格的に結合した、私たちの主イエズス・キリストの人間の本性によるのです。この位格的結合は、聖三位一体の最も高いみわざであり、このため、唯一かつ至高の天主の存在と一致するのです。「天主の御子の位格的現存」。私たちがご聖体に見る現存は、これなのです。

私たちは、そんなことをどのようにしたら分かるのでしょうか? それは、イエズスがそう言われたからです。ただそれだけのことです。イエズスは言われました。「これは私の体である。…これは私の血の杯である」。ですから、聖別ののち、誰であれ「それは何ですか?」と質問をするなら、私たちの主イエズス・キリストご自身が言われたこと以外の正しい答えはありません。つまり「これは主の体。これは主の血である」と。教会は、私たちの主イエズス・キリストの言葉が真実であることを常に信じ、擁護してきました。プロテスタントはイエズスの言葉をむなしいものにします。イエズスは「私の体である」と言われましたが、彼らは「主の体のしるしにすぎない」と言います。これは、私たちの主イ エズス・キリストが言われたことではありません。主はその前に、カファルナウムの衆議所ですでに告知されました。「私は天から下った生きるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは、世の命のために渡される私の肉である」(ヨハネ6章51)。プロテスタントの反応は、ユダヤ人の反応と全く同じです。ユダヤ人は「『この人はどのようにして自分の肉を私たちに食べさせるのだろう』と互いに議論し合った。イエズスは、『まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中に命がない』」(ヨハネ6章52-53)肉を食べるだけでなく血も飲むこと、これはユダヤ人やプロテスタントにとって行き過ぎだと思えるのです。しかし、イエズスは続けて強く言われました。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)。これらの言葉によって、イエズスはその申し出を受け入れるよう、私たちの気を引き、私たちをひきつけるのです。驚くべき報い、霊魂だけでなく体に対しても永遠の命が待っているのです。これらの言葉によって、イエズスはまことに天主として話すのです。天主だけが永遠の命を与えることができるのですから。そしてイエズスは続けます。「私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章55-56節)。イエズスのこれら全ての言葉は大変はっきりしています。イエズスが私たちにお与えになる食べ物は、まことに「この肉と血」であり、霊魂と分離することはできず(主の生きる肉と血であるため、その霊魂によって命が吹き込まれます)、天主の本性とも分離することはできません。なぜなら「み言葉は肉体となった」(ヨハネ1章14節)のですから。

「そのときから、弟子の多くは退いてイエズスについて来なくなった。イエズスは十二人に向かい、『あなたたちも去っていきたいか。』と言われた。シモン・ペトロは、『主よ、誰のところに行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を有しておられます。また私たちは、あなたが天主の聖なるお方であることを知っていますし、信じています』」(ヨハネ6章66-69節)。私たちの主イエズス・キリストは、そのちょうど前に起きた奇蹟によって、それを証明されました。パンを増やしたことです。そして主の奇蹟はすべて、主が言ったことを行う力をお持ちであることを証明するためでした。「イエズスは手を伸ばして触れ、『私は望む。治れ』と言われた。するとすぐ、らい病は治った」(マテオ8章3節)。あるいは、「イエズスは、『起きて、床を取り上げて歩け』と言われた。その男はすぐ治り、床を取り上げて歩きだした」(ヨハネ5章8-9節)。あるいは、「イエズスが『見えよ。あなたの信仰があなたを救った』と言われると、盲人はたちまち見えるようになり、天主をたたえながらイエズスについていった」(ルカ42-43節)。私たちの主イエズス・キリストは天主のみ言葉であり、このみ言葉によってすべてのものは造られました。イエズスは、言ったことを行う力をお持ちなのです。ですから、イエズスが「これは私の体である」と言われたとき、その前にパンであったものはイエズスの御体に変わり、「これは私の血の杯である」と言われたとき、その前に杯にあったぶどう酒はイエズスの御血に変わるのです。イエズスの御体は生きているのですから、御体も御血もイエズスの霊魂から、イエズスの天主の本性から分離することはできません。

この偉大な神秘に目の前にして、私たちは何をすべきなのでしょうか。主のおかげで私たちはまず、信仰を告白し、使徒トマスと共に「わが主よ、わが天主よ」(ヨハネ20章28節)と言うことができます。これは初代教会の信仰であり、聖ユスティヌスは使徒たちの死から100年以内にこう書きました。「主の言葉の祈りによって祝福されたその食べ物、変質することによって私たちの血と肉を養うその食べ物は、人となったイエズスの肉と血であると、私たちは教えられてきた」。この信仰は、非常に早い時代に教会をご聖体の礼拝を行うように導きました。ですから聖アウグスティヌスは1600年前にこう書くことができました。「最初に礼拝しない限り、誰もこの肉を食べてはならない。また、礼拝するなら罪を犯さないというだけではなく、礼拝しないなら罪を犯すことになるのである」。私たちの主イエズス・キリスト、特にご聖体の主のおかげで、私たちは礼拝、讃美をすることができるのです。礼拝すべきときがあるならば、それは私たちが主を受けるために集うときです。聖アウグスティヌスははっきりと言います。最初に礼拝しない限り、誰もこの肉を食べてはならない、と。

さて次に、手による聖体拝領がいかに悪いことなのかを見てみましょう。教会の始まりにおいては、(ご聖体における)主の現存への素晴らしい信仰がありました。正確に言えば、聖霊に導かれ、その信仰によって、ひざまずいて舌で聖体拝領するという習慣を導入しました。のちに、現存を信じるのを拒絶した異端者たちが、立ったまま手にご聖体を受ける習慣を取り入れました。1960年代に、6人のプロテスタントが、新ミサを準備する委員会で協力しました。手による聖体拝領を導入するという実験が行われました。プロテスタントをまねるためにです。司教たちやパウロ六世の弱さと共謀によって、この大変悪い実践が全世界に広がりました。この悪い実践によって、主の現存という信仰を失った何十万、何百万という信者がおり、同じ理由で主の現存という信仰を失った司祭たちもいます。よき司教であるカザフスタンのアスタナのアタナシウス・シュナイダー司教がよき本を書きました。その中に、(手による聖体拝領という)この乱用が正されないうちは、教会の信仰の危機は続くだろう、とあります。この悪い実践は、初期の教会の信仰の精神に反し、私たちの主イエズス・キリス トの愛の秘蹟そのものにおられる主に対する敬意を大きく減らすことになり、恩寵を得るための障害物であるのです。実際「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)。ですから、私たちの主の前で主を受けるために敬意をもってひざまずくことは、イエズスが豊かにお与えくださる恩寵を受けるよう霊魂と心を開くことなのです。しかし、敬意のしるしもなしで立ったままでいることは、霊魂を閉じてしまい、熱意を小さくさせ、受けられる恩寵はあってもほんの少しだけか、全くないかのどちらかです。なぜなら、礼拝をしていないため、(そこには)恩寵を受けるための障害物があるからなのです。

聖トマス・アクィナスの教えによると、ご聖体はすべての秘蹟のうちで最も偉大なものであり、ほかのすべての秘蹟は秘蹟の頂点であるご聖体に対して方向づけられています。実際、ほかの秘蹟は恩寵を与えますが、ご聖体の秘蹟には恩寵を与えるまさにその方がおられ、そのため尽きることのない方法で恩寵をその源泉そのもので飲むのです。洗礼はご聖体の扉のようです。それは、まず洗礼を受けない限り、ご聖体を受けることが許されないからです。堅振は霊魂を強め、主を受けるのにさらにふさわしくしてくれます。告解は霊魂を回復させ、主を受けるのを許されるように霊魂を清めてくれます。終油は聖なる旅路への準備をさせます。これは最後の聖体拝領のようです。叙 階は、明らかにご聖体のためのものです。司祭はご聖体の人です。信者は、司祭がいなければご聖体のイエズスを得ることはありません。このことから、多くの聖なる良き召命のために祈ることは義務になります。最後に、結婚さえもが、ご聖体と関係があります。

実際、私たちの主イエズス・キリストはカナの奇蹟を行うことによって、結婚を秘蹟にまで高められました。この奇蹟は最初の全実体変化でした。イエズスの公生活の初めに、水をぶどう酒に変化させたことは、公生活の終わりに、ぶどう酒をいとも聖なる御血に変化させたことの前じるしでした。また実際、ご聖体はキリストと教会の神秘的結婚の秘蹟であります。アヴィラの聖テレジアによれば、これは霊的生活の最高の段階です。結婚は良いものですが奉献生活はさらに良いものだ、と教会は教えます。奉献生活はまさにより良いものです。それは、奉献生活がより高い結婚、ご聖体がその秘蹟であるキリストとの神秘的結婚を目的とするからです。

ご聖体は一致の秘蹟です。「私たちが祝する祝聖の杯は、キリストの御血にあずかることではないか。私たちが裂くパンはキリストの御体にあずかることではないかパンは一つであるから私たちは多数であっても一体である。みな一つのパンにあずかるからである」(コリント第一10章16-17節)。私たちの主イエズス・キリストと一致しているのですから、私たちは主の御体、教会に組み込まれているのです。聖アウグスティヌスは言います。ご聖体を自分の体に変えると思うな。ご聖体があなたがたを主の御体に変えるのだ、と。主は私たちを吸収し、私たちをもっともっと主ご自身に一致させるのです。主はかなめ、絆を強めます。すなわち「愛、それは完徳のかなめである」(コロサイ3章14節)。ここから、聖トマス・アクィナスは、カトリック教会の外(たとえば離教の東方正教会)でご聖体を受ける者は、一致の秘蹟を受けながらも教会の一致を拒絶していることで、ご聖体の秘蹟に偽りをもたらす、と教えます。同じことが、教皇との対話を拒絶するすべての人々にも適用されます。私たちは教会を愛さなければなりません。そして、私たちの主イエズス・キリストにふさわしく生きていない教会の多くの霊魂の癒やしのために祈らなければなりません。

親愛なる兄弟の皆さん、実際、ご聖体の法というものがあります。大変単純です。私たちの主イエズス・キリストはご自身をすべて私たちにお与えになります。今度は私たちが、主にすべてを捧げなければなりません。私たちは、洗礼を受けたのですから、すでに聖性へ向かう義務があります。しかし私たちは、ご聖体を受けたのですから、聖となるべき義務がどれほどたくさんあるでしょうか。私たちは、もはや自分のために生きてはならず、「自分のために死んでよみがえったお方のために」(コリント第二5章15節)生きるのです。いやむしろ、主は聖パウロのうちに生きておられたように、私たちのうちに必ず生きておられます。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである」(ガラツィア2章20節)。私たちは、現代世界の異邦人のように生きることは許されません。私たちは、この時代の不道徳に従って生きることは許されません。私たちは、悪い模範に従うことは許されません。それが教会のメンバーや聖職者の模範であったとしてもです。私たちには聖性へ向かう義務があります。「私が聖なるものであるのだから、おまえたちも聖なるものとなれ」(レビ11章44節)。「天の父が完全であるようにあなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。「あなたたちの体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント第一6章20節)。

特に、ご聖体と貞潔の徳の間には特別なつながりがあります。実際、ご聖体は「天使たちのパン」(詩篇77章25節)と呼ばれます。「若者たちを小麦のように伸ばし、乙女たちを、甘いぶどう酒のように栄えさせる」(ザカリア9章17節)。一方で、ご聖体を受けるのを許されるために必要とされる貞潔があり、成聖の恩寵の状態にあり、大罪から清められていなければなりません。他方で、ご聖体は犠牲としてまた一致として、私たちに天の喜びをあらかじめ味わわせることによって、私たちの愛着を地上の楽しみから引き離すのです。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章56節)。御父、御子、聖霊と永遠に一致し、天主の完全な似姿に変わることがないのならば、天国とは何でしょうか。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント第二3章18節)。正しい心構えで受けるご聖体において、貞潔の人生を生きるため、特に生涯独身であることを奉献した人生を生きるための恩寵を得るのであります。

反対に、成聖の恩寵の状態でないままご聖体を受けるなら、聖パウロが警告するように「主の御体をわきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばきを飲食することである(すなわち地獄の宣言をすること)」(コリント第一11章29節)。聖職者、そして枢機卿さえもが、同性愛や姦淫といった重い罪の状態で生きている人々が、ご聖体を受けることができるかもしれないとほのめかすとき、事態はまことに嘆かわしいものです。これは本当のスキャンダルです。このあわれな罪びとたちは、まず罪をやめて告解するように招かれなければなりません。ご聖体を受けることができるよう罪から離れ、そのあとでご聖体におられる私たちの主イエズス・キリストを受けるのです。私たちの主は聖福音の中で言われます。「聖なるものを犬にやってはならぬ。真珠を豚に投げ与えてはならぬ」(マテオ7章6節)。ご聖体以上に聖なるものがあるでしょうか? もしご聖体でないとすれば、私たち最も大切な真珠とは何でしょうか? 聖書の中では、同性愛者は時々犬に例えられます(黙示録22章15節)。また不浄な人々は豚に例えられます(ペトロ第二2章22節)。大罪の状態のまま、ご聖体におられる私たちの主イエズス・キリストを受けるのは、汚聖という重大な罪です。もし大罪を犯したのなら、ご聖体拝領の前に告解が必要です。「天主の仁慈があなたを悔い改めに導くことを知らないのか」(ローマ2章4節)。そうです、天主は罪びとに対して慈悲深い方ですが、その慈悲は告解を通さずに来ることはありません。それどころか、天主の慈悲によって罪びとは力を与えられ、告解をすることができ、そのあとでご聖体を受けることができるのです。

ご聖体と貞潔の関係で最もすぐれた模範は童貞聖マリアです。み言葉が人となったのは、そのいとも清らかなご胎内でした。親密な一致の状態だった九カ月の間、聖母には、私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、そして天主の本性がご自分の中に現存するという喜びがありました。ご降誕のあとでも、霊的な絆は弱まることはありませんでした。それどころか、より強く、より深くなっていく一方だったのです。私たちが受けるご聖体は、聖母がそのいとも清らかなご胎内に宿しておられた同じ肉と血であるのです。ですから、私たちは聖母がなさったように「その体をもって天主に栄光を帰」(コリント第一6章20節)すべきです。ご聖体によって私たちが受けるイエズス、その肉と血を与えてくださった聖母に、私たちはいつも感謝すべきです。

聖母が聖ヨハネのミサにあずかられるたびに、十字架の聖なる犠牲のことを思い出しながら、その犠牲の再現にあずかっておられたのですが、その思い出はどれほどのものだったでしょう。これは「キリストの御体と御血の犠牲」を捧げることで、聖チプリアヌスがミサと呼ぶものでした。聖母がご聖体拝領において御体と御血を再びお受けになるとき、どれほどの信心があったことでしょう。聖母に私たちをお助けくださるよう願いましょう。ご聖体拝領のたびに、聖母と同じ信心をもって私たちの聖なる主を受けることができますように。また、十字架の下で主と共に聖母がご自分をお捧げになったように私たちも主と共に自分を捧げることができますように。そうして最後に、 熱心なご聖体拝領(コムニオ)によって、私たちが、ご聖体が美しい約束の手形(手付)である永遠の一致(コムニオ)、永遠の命を得ることができますように。

アーメン。



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