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無原罪の聖母が、聖霊の浄配であるということ 【聖伝のミサ トリエント・ミサ】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年5月9日、教会博士証聖者司教ナジアンスの聖グレゴリオの祝日に大阪で捧げた聖伝のミサの、お説教をご紹介します。

 ここでは、聖母マリア様が、聖霊の浄配であるということの意味を黙想します。

 天主御子の御母であり、天主聖霊の浄配、という神秘を垣間見てみましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年5月9日、ナジアンスの聖グレゴリオのミサをしています。今日この御ミサの後に、特にフィリピンからの巡礼者の方もいらっしゃいますので、皆さんにも良く分かる、英語でもよく分かるように、特別のプログラムを準備しました。

「もしも私の言葉を聞かなければ、ロシアはその誤りを世界中に広げるでしょう。」と、ファチマのマリア様が仰って下さったのですけども、ではロシアはどのように誤謬を広めたのか、というのをスライドで少し皆さんにお話できればと思っています。こちらにプロジェクターも準備されていますので、時間があれば是非いらして下さい。入場は無料です(^^

次のミサは、5月17日主日、夕方の6時からここであります。レネー神父様がミサを捧げて下さいます。

この機会に、秋田の巡礼、今年は非常に皆さん大変に満足して、喜んで、57名の方が参加され、その内37名は「無原罪の聖母の騎士」となり登録する事ができ、聖伝に従った「無原罪の聖母の騎士」となり、多くの方が特別のお恵みを受けて、この巡礼に参加される事ができました。この準備の為に、色々準備の仕事をして下さった方、色々な影で働いて下さった多くの方々、聖歌隊の方々、物質的な準備をされた方々、経済的に助けて下さった方々、ミサの侍者をして下さった方々、全ての方々に深く感謝を申し上げます。どうぞたくさんの報いとお恵みがありますように。マリア様も、私たちの巡礼を見て非常にお喜びになられて、このこれを特に、準備された方々を特に祝福し愛して下さいますように、お祈り申し上げます。

来年は、2016年4月29日から5月5日までの予定です。どうぞ今から準備なさって、来年も是非いらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日ナジアンスの聖グレゴリオのミサの中で、書簡書で、「もしも主がお望みならば、主は彼に知恵の霊を充ち満たせるだろう。」とあります。また今日は土曜日でもあり、聖母マリア様の土曜日ですから、ナジアンスの聖グレゴリオの御取り次ぎにより、またマリア様の御取り次ぎにより、知恵に、知性の霊が満たされて、是非このマリア様の神秘について益々深めよう、という事を提案します。特に私たちは秋田の巡礼で、マリア様について黙想したので、その続きとして、マリア様が新しいエワとして造られた、特にマリア様が聖霊の潔き淨配である、という事を今日は黙想する事を提案します。

第1に、マリア様が第2のエワとして造られた、という事。その第2のエワとして造られた為に、どのように三位一体は、このマリア様に働きかけたのか。

マリア様が聖霊の淨配である、という事はつまりどういう事を意味しているのか。聖霊とは何か。マリア様とは何か、どなたなのか。最後に私たちは結論を何か具体的な決心を取る事に致しましょう。

マリア様は第2のエワとして造られた、という事はどういう事かと申しますと、天主様は、この人類を永遠の命を与える為に、永遠の救いの為に創造しました。この地上が造られたというのは、ただ単にこの地上に於いて、短い人生を終えた後に、永遠の命が、天主の命が与えられる為でした。その為に、アダムとエワを創りました。アダムとエワは成聖の恩寵に於いて、永遠の命を受けるべきものとして創られました。しかし残念ながら、アダムとエワは共に罪を犯して、その恵みを全て失ってしまいます。子孫、私たちの為にも失ってしまいます。それを回復させる為に、天主は、「第2のアダム、第2のエワを創ろう。」と、永遠の昔から計画されていました。第2のアダム、第2のエワは、聖寵を与える、天主の命に全人類を産み出すべきものとして、全く潔い汚れ無きものでなければなりませんでした。第2のアダムはつまり、人となった天主、イエズス・キリスト。第2のエワは、罪のない、無原罪の御孕りである事をお望みになりました。

第2のポイントですが、では「無原罪の御孕り」とはどのように準備されたのでしょうか。ピオ9世の「無原罪の御孕り」のドグマの決定の勅令によると、「三位一体は、既にイエズス・キリストの十字架の無限の功徳を先取りして、その十字架、時間を超える無限の御方である天主三位一体は、そのイエズス・キリストの功徳がある事を予見して、その功徳が起こる前に、マリア様に適用させて、マリア様が聖アンナ様の、マリア様のお母様の胎内に宿るその瞬間から、原罪の汚れが全く無き者として、受胎される事を望まれた。」

つまり「マリア様には、ほんの一瞬の瞬間にも、ほんの一秒も、ほんのひと時も、原罪に汚れた瞬間はなかった。」と、いう事です。それと同様にマリア様も、イエズス・キリストの贖いの業を受けた者として、特別の贖いの業を受けた者として例外の無き者ですが、しかしマリア様の特別さは、その適用が、既にその受胎のその瞬間から適用されていた、というところにあります。原罪の汚れは一つも全く無かった、というところにマリア様の特別の存在があります。

では、イエズス様のその無限の功徳は、どのようにして十字架の下でなされていたのでしょうか。これは、十字架の下で、イエズス・キリストは、御父の命を死に至るまで、十字架の死に至るまで果たそうとして、御父に対する愛の、愛のゆえに、私たち人類を愛するがゆえに、私たちを救う為に、永遠の命を与えるが為に、十字架の上で、御自らを天主にお捧げになったのでした。

天主は、天主御父は、その御子をひたすら愛しておられました。天主御子は唯一の一人子、天主御父は唯一の一人子を、天主の御言葉を、人類を救う為に、この世に与えるほど、この世を愛して下さいました。

アブラハムも、御子を、自分の一人息子イサアクを、生贄に屠(ほふ)る為に、捧げようとされました。イサアクも、そのアブラハムの、お父さんアブラハムの命に従って木を担ぎ、屠りの場まで行きました。屠りのその瞬間、アブラハムもイサアクも、それを免れました。「その代わりに、藪に羊がかかっていて、頭が角が藪につながれていて、動けなくなっているのを、その代わりに屠れば良い。」と、天主から命があったからです。

しかし、十字架の聖金曜日では、天主御父は、まさにこのアブラハムとイサアク、この生贄の影が、現実のものとなる事をお望みになりました。もはや、その動物の代理ではなく、天主の子羊が、ちょうど頭に茨の冠を冠されて、最後まで、御父を愛するが為に、命を捧げました。御父も御子を愛し、この世を愛するが為に、御子をこの世に生贄として与えられました。

この天主御父と御子の愛の交流は聖霊となって、その聖霊として、愛自身として、あたかも、イエズス様の最後の息が引き取られた時に、「全ては成し遂げられた。」イエズス様は霊を出し、息を引き取られました。その霊が出ると同時に、聖心は開き、血と水が脇から流れ出ました。この霊と血と水は、聖ヨハネの証言によれば一つであり、これは聖父と聖子と聖霊が一つであると同じである、と言います。つまり、イエズス様の聖心から、イエズス様の聖心というのは、天主の愛の目に見えるシンボルですけれども、そこから私たちに対する愛が注ぎ出て、それが全て、その十字架の下に立っておられたマリア様に与えられます。

その同じ、このイエズス様の功徳が、時を超えて、マリア様の御受胎の時に、「無原罪の御孕り」として適用され、その同じ無限の天主の愛の激流が、十字架の下に立っていたマリア様にも与えられます。マリア様はその時、第2のエワとして完成されます。

ちょうど、第1のアダムの脇腹からエワが造られたように、第2のエワも、イエズス様の脇腹の脇から出る、血と水と霊を受けて、完成されなければなりませんでした。

新しいエワはつまり、イエズス様の受難をまさに同感した、全く同じ受難を心で、その汚れ無き御心で感じ取った。共同の苦しみを、イエズス・キリスト様と共に捧げた。もしもイエズス・キリスト様が、その御苦しみを、受難を御受難を、世の贖いの為に捧げたとしたら、マリア様は、イエズス様の御苦しみを共に、一緒になって苦しみ、受難を受けた方でありました。

ラテン語でイエズス様の受難は「Passio」と、言いますが、マリア様の共通の苦しみの事は、「Compassio“共に苦しむ”」と、言います。イエズス様はこの「贖い主」として、それと同時にマリア様は「共同の贖い主」としてなります。

イエズス様はこれを愛をもって、この贖いをなされました。聖心から出る御血と水は、まさにこの愛の実りを表しています。その愛の実りを受けたマリア様も、やはり愛をもってこれを捧げました。

ところで聖霊とはつまり、愛ご自身ではないでしょうか。天主御父と天主御子との愛の交流、天主御父と御子から発する、愛の実体なる愛なのではないでしょうか。

マリア様は、その聖霊の、愛である天主聖霊の、全ての愛を、全ての恵みを、全ての息吹を、決して拒んだ事がありませんでした。マリア様は聖霊に対して全て御心を開き、聖霊の恵みと愛を全て受けて、聖霊の為に、聖霊の天主の為にのみ、生きた方でありました。マリア様の御生涯は、全て愛の生涯でした。そのマリア様の生き様は、まさに聖霊が人となって歩いているかのように見えるほど、聖霊と一致されていたからです。

ですから、マリア様はまさに、私たちに対する、天主に対する愛、私たちに対する愛そのものを体現していたのでした。

マリア様は、聖霊の潔き淨配として、憐れみと愛の名前を持つにふさわしい御方であります。私たちの母となり、第2のエワとなり、私たち贖われた者の、全ての贖われた者の母となるマリア様はつまり、愛の母でもあります。聖霊と同じ名前を持つべき御方でもあります。

「聖霊の淨配」というこの言い方は、非常に私たち人間の言葉で限度があって、これでは十分ではないのですけれども、私たちの限りのある表現に於いては、聖霊とマリア様の一致を表すに、能う限りの言い方であって、つまり一体と、ほぼ、聖霊とマリア様はもちろん2つ別個の存在ですが、しかし、あたかも一体であるかのように、あたかも1つであるかのように、婚姻されているかのように、それよりももっと深く霊的に一致していた、という事を表しています。マリア様は、聖霊の愛を、三位一体の愛を全て受けた方であるからです。

では最後に、私たちは、どのような今日決心をとったら良いでしょうか。天主は私たちに、「全ての心、全ての力、全ての精神を尽くして、主なる天主を愛せ。隣人を己の如く愛せ。」と、愛の掟を下さいました。この愛の掟を私たちが果たす為に、どうしても私たちはマリア様の助けが必要です、マリア様のお手本と、マリア様の愛が必要です。マリア様に、ぜひこの特に聖母の月に、お祈り致しましょう。私たちがマリア様の御助けを以って、隣人を、天主を、愛する事ができますように。

マリア様の御助けを以って、第2に、全て私たちも益々、聖霊と一致する事ができますように。聖霊を悲しませる事がないように、誘惑や危険な場所を避ける事ができますように。いつも聖霊の導きのままに、聖霊をいつも喜ばし、マリア様をお喜ばせすることができますように、救霊の道を歩む事ができますように。

最後に第3に、この聖母の月には、マリア様の御助けと、聖霊の導きによって、益々マリア様の事を深く知る事ができますように、マリア様をお愛しする事ができますように、マリア様の神秘に深く入っていく事ができますように、特別のお恵みを求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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